Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2024年2月17日『孤独の発明』ポール・オースター著 柴田元幸訳 於オンライン

・まったく様相の異なる第一部「見えない人間の肖像」と第二部「記憶の書」

・個と普遍を往還しつつ深まり展開していく思索

・創作論であり芸術論であり「宣言の書」であるかもしれない

・知の巨人の思考過程を垣間見せてくれる

 

 

下僕:閣下ぁ、閣下ぁ~

まめ閣下:(カッコウカッコウ

下僕:ん? 郭公が鳴いている? いやこだまでしょうか?

まめ閣下:なにをぼけておる、余がせっかくつきあってやっておるのに。

下僕:あ、出た。

まめ閣下:出た、じゃない。余はイデアであるから常に存在しておるって、いったい何度言ったらわかるのかにゃ。

下僕:はい、設定はそうですが。でも久しぶりにこの場に現れてくれると、やっぱりうれしいもんで。

まめ閣下:つーか、もう最近は読書会のまとめしかお呼びがかからんではないか。他の講座とかイベントとか行ってないのかね。

下僕:いや、そういうわけでもないんですが。やっぱりオンラインでアーカイブがあったりするとなかなか難しいんですよ。どの程度のことまで書いていいのかなって判断が。さわりだけっていうのもねぇ。このブログはもともと自分のための備忘録みたいなもんですから、きちんと内容について残しておかなかったら意味ないですし。

まめ閣下:だがしかしそれではすぐに忘却の彼方に流れていってしまうではないか。なんといっても貴君のこんにゃく頭では。もったいないのぅ。

下僕:おっしゃるとおりなんですが。ま、とりあえず今は昨夜の読書会のまとめやりましょう。また今回もなかなかの難敵でしたよ。

まめ閣下:ポール・オースター『孤独の発明』だな。1982年に出ている。訳者あとがきには、それまで詩人・翻訳者として活動していた著者が散文作家として出発した一冊と紹介されておる。この後に発表した小説三作品がオースターの名を世界に知らしめることになる・・・

下僕:そうなんです、それは押さえておくべき点だと思います。冒頭にも書いたんですが、第一部と第二部の様相がまったく変わっていて、最初読んだときにはこれは別の作品が一緒に収められているだけなのではないかと思ってしまいました。どう繋がるのかわからなった。第一部は散文、自分の家族を書いた私小説みたいな書き方をしているのでわかりやすい小説です。書かれている内容も、突然死んだ父について遺品を整理しつつ理解をしようとする話ですから、小説としてもよくある題材ともいえます。この父は生きているときから「非在の人間」で、著者はある意味ずっと父を探し続けていた。だから今こそ父について書かなければ、という強いモチベーションに駆られてこの第一部「見えない人間の肖像」を書き始めるわけです。でもなかなか書けない。考えることと書くことのあいだに裂け目があると痛感するんです。書くことで癒やされるかと思ったのに、傷口はどんどん開いていく。父を埋葬するために書き始めたのに、言葉にすることで父は生きていたとき以上に「ますます生かされて」いく。父を理解するには、自分自身が土のなかの絶対的な暗闇に入っていかねばならないのだ、と思うわけです。

まめ閣下:村上春樹の「井戸に潜る」的な。

下僕:まあそういうことでしょう。で、第一部で語られるファミリーヒストリーは、物語としても波瀾万丈で野次馬的にもおもしろく読める。記憶の中の父親の人物像がすごくよく描けている、まさに「非在の人」。あまりにうまく描写されているせいか、読むのがつらいエピソード満載とおっしゃる方もいました。機能不全の家族を見事に描いていてそれを読むうちに作者に対する信頼が生まれてきて、ちょっと難解な第二部も「まあポールが言うなら聴くよ」という気持ちで臨めたという方もいました。

まめ閣下:そんなに第二部は難物なのかね。

下僕:えっと、書かれていることが断片的なんです。第二章全体がその一からその十三まである構成ですし、そのなかも断片的記憶や引用、そこから紡がれていく思索が一見ぶつ切りみたいに入ってくる。第一部がごく普通の散文形式で綴られていたので、え、これはいったい何だってわたしなぞは驚いちゃいました。哲学的といいますか。「物語の効能を語っているのにいっこうに物語にする気がない」と言う方もいて、共感、笑いました。実験的アプローチで非常に楽しく読んだという方もいらっしゃいましたし、文化的・思想的・民族的背景(オースターはユダヤ系)まで読み取って深く楽しまれた方もいらっしゃいました。わたしも最初はとまどいましたが、わかろうとするんじゃなくてとりあえず作者の思考の流れに乗っていけばいいんだとなりまして。保坂和志の小説的思考塾じゃないですが、小説は説明じゃない、思考の流れだって。それにのって自分もまた考えること、読書の醍醐味ってこれだよねと思いました。

 ただ、第一章とどう繋がっていくか、一見バラバラに見える第二章全体が全体としてどこを見据えているのか、これはメモをとりながらでないと理解できないなと気づいて二読目はメモとりつつ読み進めました。これでようやく作品のぼんやりした輪郭が見えたというか。とりあえず気になったところを全部書き写していったら、ノート8ページ超えてしまって。どうせ話はまとめられないから、昨日の読書会では第二部についてはノートの抜粋を読ませていただきました。(写真:ノートの一部)

 

まめ閣下:そりゃあ聞かされたほうも気の毒にゃ。

下僕:ええ、そう思いましたが、まとめようとして見失ってしまうもののほうが多いような気がして。正直、考えをまとめることは無理と思ったのもあり。

まめ閣下:ま、貴君のはんぺん頭にはみなあまり期待はしておらないだろう。

下僕:はぁ、でもメモ作ってようやくわかったのが、第一部を書き終えたところに(1979年)と書かれていて、このときはまだ妻と息子と郊外の自宅で書いていたというのがそれまでの状況からわかる。第二部の最初に、1979年のクリスマスイブという記載が出てきて、それはニューヨーク、ヴァリック・ストリート6番地の狭い自室(元の仕事部屋)で、そこで過ごした九ヶ月の間に第二部が書かれたということがわかる。で、このときにはもう妻とは離婚して一人暮らしになっている。第一部でもその構造はあったのですが、第二部はけっこうメタな構造になっていて、書いている自分について、書けないで苦しんでいる自分について、これから何をどう書いていくかのメモ的なものなど、何カ所もでてくる。でも全体としては、第一章で語られた父と自分のファミリーヒストリー、ずっと探し続けてきた父親を理解するために父の遺品から喚起されたことを書き始めたが、なかなか書きあぐねている、第二部では苦しみつつも深い孤独の闇のなかで、記憶とはなにか、書くとはなにか、創造とはなにか、考えを深めていく、その過程が書かれている。巻末に膨大な引用文献のリストがあり断片的記憶に登場するのも詩人や芸術家、思想家、哲学者などで、わたくしのごとき浅学なものにはすぐに飲み込むことは難しいところも多かったのですが、メモに残したところを読み続けていくとなんとなくなぜその話がそこで出てきたのかはわかるような気がしてくる。作品全体に「個別なことと普遍的なことを行ったり来たりしている」とおっしゃった方がいて、なるほどそうだと思いました。

 で、第二章理解のきっかけになったのが、前段で書かれている、その先の記述の方法論的なもの。ひとつは「古典的な記憶法の詳述」ーあらゆるものは何らかの意味においてほかのあらゆるものとつながっているという見地。もうひとつは、それとパラレルをなすかたちで語られる「部屋をめぐる短い省察」。その十三まで何度もいろいろな部屋の話が出てきて、これも部屋というか切り離された空間(孤独)が思索を深めるためには重要なキーなんだな、と思って押さえていくことができました。

まめ閣下:うーん、ここまで聞いてもなんだか茫洋としておるな。要点をまとめて、というのが意味をもたない作品であるとは思うが、貴君の感じたこと、受け取ったものを書き記しておくのは必要ではないのか。

下僕:はぁ、そうですね。ひとことでいうなら、書くというのはどういう行為かをつきつめていく作品と言えばいいかも。重要なモチーフとしてコローディの『ピノッキオ』について何度か語られているんですが、ディズニー版との相違なんかに真の芸術表現についての考え方も出てるかなと思いました。「祖父ー父ー自分ー息子」という血のつながりが作品の背骨みたいにあって、形としては第一部などは私小説と呼ばれることもあるでしょうけれど、オースターは「自分の物語を語るために自分を他者として語る」ことの重要性を書いています。「記憶の物語とは見ることの物語だから」と。見るという行為は対象が自分の外にある必要がある。また、孤独についての考察も作品の中核です。「もっとも大切な創造行為が行われるのは孤独の暗闇において」という記述もある。「あらゆる書物は孤独の象徴」であり、翻訳という行為は「他人の孤独に入り込み、それを自分のものにしようとするよう」とも書いている。一人の時にしか人はものを考えたり書いたりはできないけれど、その孤独は他者とわかちあうことができるものである。「本書のタイトル『孤独の発明』というのは小説のこと、小説は欠落感を埋めるものでもあり孤独によって作り出されるものだから」と指摘された方がいて、なるほどと思いました。第二部で書かれていることは、引用された文章の原典に当たったり出てくる人の作品をちゃんと読んだりすることでようやく理解できるのだろうとは思うのですが、わからないなりにその大いなる知の巨人たち(オースターも含む)の思考に触れることで触発され喚起されるものがある。その感覚は、大江健三郎の『レインツリー』などにも通じると指摘される方がいて、おおそうだ! と思いました。

 そしてそうやって断片的に見える記憶や思索を続けていく先に、その十三で、自分が死ぬ夢を見たことが書かれています。全三回、続き物の夢。死んで夢は終わる。これはすごく暗示的だと思いました。いったんすべての記憶を出し尽くして、死んで、新しく生まれる、みたいな。その後に続く結びの文章は素晴らしい。「何も書かれていない一枚の紙をテーブルに広げて、彼はこれらの言葉をペンで書く」で始まって、「それはあった。それは二度とないだろう」と、第二章前段でも出てきた言葉が繰り返されるのですが、最後に「思い出せ。」がつく。それが作品の終わりです。震えますね。これをとりあげて、「この作品は、この先自分はこうやって書いていく『宣言の書』だと思った」とおっしゃった方がいました。実際にこの作品の後、オースターは世界的に名をはせる作品を続けて書きました。

まめ閣下:にゃるほど。やっぱりみんなしっかり読んでいてすごいにゃ。毎度のことながら貴君ひとりでは決してそんなふうな理解にはたどり着けまい。

下僕:まったくでございます。

まめ閣下:あー、ところでそういえば昨夜は見知らぬもふもふなやつが参加しておったようではないか。

下僕:はは、気になりましたか。あれは読書会メンバー、閣下の大好きなSさん宅のお姫様でして。Sさんが旅行に行かれるというので、週末だけうちにいらっしゃっていたんですよ。なかなかのべっぴんさんでしょ。

まめ閣下:ふん。余は猫は好かん。どうせならSが泊まりに来ればよかったのに。

下僕:来ません!

 (お泊まりあそばしたやんちゃ姫)

【読書会】2023年10月22日村上春樹訳でカポーティを読む『遠い声、遠い部屋』『ティファニーで朝食を』 於オンライン

カポーティのふたつの時代

・早熟の天才・恐るべき子どもと呼ばれた作家のイノセンス

・「気高い、しかし情けを知らぬ主人」


まめ閣下:下僕よ、おい、だらだらしとらんでさっさと例のやつをやろうではないか。

下僕:あ、閣下。やっとおいでくださいましたね。昨日の読書会のことでしょ。だらだらしてたわけじゃないんですよ、どうやってまとめようかなって思い悩んでごろごろしておったわけでして。

まめ閣下:ごろごろしてたらだめじゃにゃいか。とりあえず指を動かせ。

下僕:はぁ。じゃあまず課題本の紹介です。今回のテーマは村上春樹訳でカポーティを読むっていうことで、有名な『ティファニーで朝食を』と、最近春樹さんが新訳で出した『遠い声、遠い部屋』の2作品を取り上げました。

まめ閣下:また貴君の趣味全開な選書ではないか。押しつけはあかん。

下僕:いえいえ、これはわたくしが選んだというわけではなくて・・・読書会メンバーの話し合いにて決まったものでして。あまりに愛が深すぎる対象はなかなか冷静に語るのは難しく。今回もやっぱりそれを実感いたしました。

まめ閣下:あぁ、やっちまったのかね。

下僕:いかにも。ついついしゃべりすぎ、それも支離滅裂。で、悩んでおるわけでございますよ。どうやってまとめるの、これって。

まめ閣下:にゃにをいまさら。貴君の話が支離滅裂なのはいつものことではにゃいか。まあいいから、とりあえず予になんか報告したまえ。

下僕:はぁ。課題本、わたしはもちろんどちらも既読でしたけど、今回久々に再読いたしました。いつぶりなんだろうと昔の日記を漁ってみたところ、『ティファニー』は2010年にこの春樹訳が初読、『遠い声』のほうは2012年に河野一郎訳で初読でした。その後何かのおりに読み返したかもしれませんが、まあ例によって記憶が・・・

まめ閣下:あぁ、残念なこんにゃく頭よ。

下僕:(スルー)えー、春樹訳の『ティファニー』こそ、わたくしがカポーティに嵌まったきっかけでございました。今でもライフタイムベストの青春小説であります。まあ言わずもがなですが、O.ヘプバーン主演で映画が有名ですが、原作は映画とはまったく別物です。こちらはみなさんにも大好評でございました。あまりにも訳文が春樹っぽくて、ヒロインであるホリー・ゴライトリーの造詣も語り手のぼくも、初期の春樹作品の登場人物っぽくて、とくに会話文などまるで村上春樹にそのまま出てきそうな語りで。ホリー・ゴライトリーというキャラクターを生み出したこと、それこそがこの作品の大きな意義でしょう。奔放で、良識のある人たちからは眉をひそめられるような生活を送っている彼女の内面にある揺らぎのなさ、イノセンス、この人物造詣を春樹さんは「戦略的自然児」と表現してます。幼少期から極貧である意味虐待とも呼べるような目にあってきた彼女が理想とする「ティファニーみたいな場所、なにも悪いことが起こらない場所」がみつかるまで旅を続ける(名詞にTravelingという肩書き?を入れている)という居場所探しの物語、みたいに思われるけれど、本当は違うのではないか。これはカポーティの考える・理想とする「イノセンス」について書かれた作品、ホリーはそれを体現したキャラクター、と読まれた方がいて、大きく頷きました。イノセンスはやがて失われてしまうもの、だからこそ、今のぼくは変わってしまったホリーに会うことに積極的にはなれない、もう失われてしまったことを確信しているから。

まめ閣下:にゃるほど。一番上に出てくる「イノセンス」ってのがそれかにゃ。

下僕:『ティファニー』に限らずカポーティを語る上では切り離せないものですね。それは『遠い声、遠い部屋』のほうのテーマでもある。こちらは13歳の少年ジョエルが主人公なんで、イノセンスといったら「子ども=無垢な存在」みたいな図式を思い描かれそうですが、このジョエルは一般的な意味の無垢とはかけ離れている。恵まれない家庭環境もあってひどく孤独で虚言癖がある一筋縄ではいかない少年です。おそらく作者自身の子ども時代がモデルなんでしょう。

まめ閣下:しかしあれだな、こっちの作品は読みにくい、難しい、と感じた人も多かったんではにゃいのか。

下僕:よくご存じで。そうなんですよ、なんとも読みにくい。わたしも、既読なのに内容もあまりよく憶えていなくて

まめ閣下:それはこの作品に限らずいつものことではないか。

下僕:まあ、そうなんですが、これはとくに憶えていなくて、難しかったという記憶だけがあり訳文のせいだろうかと思っていたのです。だから今回春樹訳が出るっていうんで「これは読まねば」って思ったんですよね。ところが。やっぱり難しかった。

まめ閣下:貴君のおつむの程度の問題ではないのか。

下僕:むむ、それは否めませんが、みなさんもやはり難しかったとおっしゃっていたんで。これはあれだと思いました、原文が難しいんです。あとがきで春樹さんも書いてました。訳者泣かせ。河野訳とそれほど違いはありませんでした。わかりにくいのは訳文のせいだと思っていたなんて、本当に申し訳ない思いがします。原文のタイトル、”Other Voices, Other Rooms”を河野さんが『遠い声、遠い部屋』とされたのは本当に素晴らしいです。これ以外のタイトルはないです。春樹さんも書いてました。

まめ閣下:本当だぞ、貴君だって翻訳をやるんだから、よく憶えておくように。

下僕:はい。で、何がそんなに難しく感じさせているのか、とわたくしなりに考えてみました。それは多分にジョエルの内面世界や幻想、心象風景などがいきなり入り込んできて、それらが非常に映像的だったり感覚的な描写で、また文章に詩的な飛躍があることもすんなり読めない理由だと思います。そういうものが現実のストーリーと混在するので、なかなか全貌が掴みにくい。だけどそこはもう、理解しようと思わずに表現自体を楽しむと決めて読み進みました。そうすると、まあ物語の枠組みは非常に明快で、ひと言でいうなら、少年が大人になる話。ラストの一文、「彼は立ち止まって後ろを振り向き、華やぎを欠いた降りゆく暮色を、自分が背後に残してきたその少年の姿を目にした。」ですべて語られてるんですよね。大人になるというのは、華やぎを欠いた暮色、なんとも寂しく薄暗い景色。ここに至るまで、ジョエルは大切なものを次々失っていくわけです。母はすでに亡くなっていて、父はもう人としての意識があるかわからない状態で、この地に来てから親しくしたおじいさんも亡くなり、家族のように身の回りの世話をしてくれていたズーも酷い目にあって心を失ってしまう。たったひとりの友だちだったはずの少女アイダベルも遠くの寄宿学校へ行ってしまう。でもアイダベルのことはジョエル自身が「もう自分には不要」と判断するんですよね。ホリーと同じでアイダベルもカポーティの抱く「イノセンス」を体現した存在だから、ジョエルは自らそれと決別することを決める。「十三歳の少年の内的世界を描くと同時に人生の終焉を描いた作品」とおっしゃった方がいて、このラストは、つまり「イノセント」を失った自分はもう人生を失ったという意味なのかもとも思いました。早熟の天才と呼ばれた作家にとって、大人になるということはつまりもう人生は終わったと感じたのかもしれない。

まめ閣下:ふうん。にゃるほど。一番上に書いた「ふたつの時代」ってのは?

下僕:あ、そうそう。その話をしないといかんですね。春樹さんのあとがきに全部書いてあるんだけど。
「自分の物語をすらすらと自然に紡ぎ出すことができた早熟期と『ティファニー』以降の、大人の作家としてもうひとつ上の台地を目指した時代」。
早熟期の代表が『遠い声』というわけです。さらに解説から。
「いつまでも自分の少年時代の特異な体験を題材として、感覚的な物語を書き続けているわけにはいかない。彼は新しい小説のための新しい題材を求めなくてはならなかったし、その小説に相応しい文体を作り上げなくてはならなかった。」
そのため『ティファニー』を書くのにカポーティはものすごく悩み苦しんだと。
「そのかいあって『ティファニー』は「ちょっとした古典」として生き延びているしそれによってカポーティの地位も確立されたわけだけれど、そこで彼が失ったもの、手放さなければならなかったものは決して少なくなかった。」
「天衣無縫のイノセンスや、文章の自由自在な飛躍、無傷で深い暗闇を切り抜けることのできる自然な免疫力、それらはもう二度と彼の手に戻ってはこなかった。」
わたくしはこの解説すごいなぁ、と思ってあちこち書き写していたんでございます。

まめ閣下:ふむ。なんかすべてを言い尽くされたような。で、最後の「気高い、しかし情けを知らぬ主人」ってのはなんだ? 予のことか。

下僕:ははは、日記に書いたときも公開型だったのでみなさんからそう言われました(笑)。カポーティ自身のことばを書いておきます。
「ある日、私は小説を書き始めた。自分が一生を通じて、気高い、しかし情けを知らぬ主人に鎖に繋がれることになるなどとは露知らず。神があなたに才能を与えるとき、彼はまた鞭をもあなたに与えるのだ。そしてその鞭は自らの身体を厳しく打つためのものである。・・・私は今、ひとりで暗い狂気のなかにいる。」
つまり情けを知らぬ主人っていうのは小説ってことですな。無尽蔵に思われた才能を食い尽くしてからの苦悩、そうして自堕落な生活に溺れていき、思うように書けなくなって破滅してしまった・・・。その人生を思うと胸が痛みますが・・・あ、そうだ、猫。

まめ閣下:なんだ、突然。

下僕:映画の『ティファニー』でも描かれた、ホリーが自分の猫をどしゃぶりの雨のなかで放り出すシーンが原作にもあるんですが、自由にしてやったはずなのにもともと猫を所有なんかしてなかったつもりだったのに、その後自分が失ったものの大きさに気づく場面、読んでいても本当につらい。でも原作では、その後語り手のぼくが、その猫(によく似た猫)が誰かの家に大切に飼われている姿をみつけるんです。本当によかったって思いました。

まめ閣下:そうだ、そうだ、猫を大切にしないやつは地獄行きである。

下僕:あ、そうそう。わたくしの持っている『ティファニー」の表紙と裏表紙には猫のイラストが入ってるんですが、同じ本でも新しい版には入っていないというのがわかりました。この猫。いいでしょ?

 

 

 

下僕:そういえば、『遠い声、遠い部屋』についてはまだ言いたいことがいっぱい残ってるんですよ・・・あ、あれ? 閣下? 閣下? もう行ってしまわれたのですね、しょぼーん。また来てくださいませね。

 

 

【読書会】2023年7月29日『中上健次短篇集』より 於オンライン

・「体力と生命力をもてあまし制御できかねている若い男」の世界から「神話」の世界へ

・比類なき肉体性と「淫」の描写

・「私小説」と「当事者性」

 

 

まめ閣下:下僕よ、怠惰なるわが下僕よ。惰眠をむさぼるばかりのうすらばかになりさがっているつもりか。為すべき事を為せ。

下僕:あ、閣下だ! お久しぶりのご登場じゃあありませんか!! 会いたかったわぁ!

まめ閣下:だーかーらー、余はイデアである。つねにいたるところに存在しておる、って、何度も言わせるでにゃい。それよりなにより、貴君はさっさと昨日の読書会のまとめをやりたまへ。うすらばか、とんま、はくち、って言っちゃうぞ。

下僕:あ、しまった、中上健次だ。さっそく使ってくるなんて、やっぱり閣下はさすがでございますな。

まめ閣下:べんちゃらはよい。罵倒語の語彙拡張は余のライフワークである。

下僕:ライフワークって。イデアって時空を超えてるんじゃないですか。

まめ閣下:あのなぁ、もうそうやってぐずぐずと愚言を弄して、スペース埋めようとしておってはいかん。なーかーがーみーけーんーじー。

下僕:はいはい、やりますよ、やりますよ。昨日はこちらの、『中上健次短篇集』のなかから『十九歳の地図』『ラプラタ綺譚』『重力の都』の3作を中心にとりあげました。

まめ閣下:ごく普通の厚みの短篇集なのに3作? このまえの大江健三郎はレンガ本だったけど全部やらなかったっけ?

下僕:はぁ、中上健次、暑苦しくって、あ、いや、その手強くてですね。この夏の酷暑のなかでは読書がなかなかはかどらないっていうんでとりあえず。

まめ閣下:にゃんだ、だらしのない。

下僕:でもそう言いながら読み始めてみると、文体の変化のせいか描かれる世界が神話っぽくなるせいか、だんだん読みやすくなってきまして。わたくしは中上健次をちゃんと読むのは今回が初めてだったのですが、以前読んでいた方でも同じようにおっしゃる方がいらっしゃいました。

まめ閣下:貴君の読書歴が乏しいのはもうよぉくわかっておる、主(あるじ)としてなさけないが。しかしこの読書会の人たちはかなりの読み手揃いじゃないのか。中上健次は基礎的素養としてみな読んでいるのじゃないのかね。

下僕:もちろん『枯木灘』『岬』など代表作は読んでいらっしゃる方も多かったですよ。若かりし頃夢中になって読んでいたから今回は「良くも悪くも知りすぎた昔のカレに再会するようでちょっと鬱陶しい、恥ずかしい感じがしちゃった」という方も。少し前には宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』の影響でちょっとしたブームもありましたから、それで読んだ人もいました。しかし苦手意識があってこれまで自ら手に取ることはなかったという方がわたくし以外にもいらっしゃいました。

まめ閣下:その苦手意識ってのは。

下僕:わたしの場合は、なんか文体がゴツゴツしててとっつきにくい、暴力とか性欲とか、ほとばしる男臭さがちょっとやだぁ、と。「路地」を描いた秋幸三部作くらいは読まなければという気持ちはあれどついついこの年になるまで近寄らないできてしまったんです。でもこの短篇集は、とくに『修験』以降、そういうイメージを変えてくれましたね。初期作品の代表である『十九歳の地図』はまさにわたしが苦手意識をもった種類の作品でありましたが、ちゃんと読んでみるとはやり名作なんですよね。作品にほとばしる強烈な体臭を漫画の『男おいどん』的リアル、と表現されている方もいましたが、比喩や表現が巧みで、自他を見る目の鋭さ厳しさはさすがと。タイトルからどうしても大江の『セブンティーン』を連想するんですが、自意識の強烈さは共通するものの、語り手の置かれている環境が大きく異なる。中上のほうはやはり貧しさ、劣悪な環境でやりばのない怒りを鬱屈させていく。それは環境のせいもあるけれど、「若い」「男」という属性の肉体からくる抑えようがない暴力性や怒りであって、(だからこそ女性としては感情移入しがたいものがあるけれど)、これを書かなければ次に進めなかった、という作品ではないか、読みにくいゴツゴツした文体も内容にはよく合っているという評もありました。鬱屈をいたずら電話ではらしている主人公が最後に流す涙が愛おしいという方も数名。この作品の主人公は、ただただ寂しいと心の底から叫んでいる印象があるとおっしゃる方がいて、ああそうだなと思いました。じつはわたしは、作品世界がリアルに描かれているせいで、時代性にばかり目がいってしまって、名簿とか個人情報の取り扱いは、とか、いたずら電話に真面目に対応するなんて、とか、些末なところに気がいってなかなか内容に入っていけないところがありましたね。

まめ閣下:貴君のそういう姿勢がいつも真の読書体験から己を遠ざけておる。

下僕:はい、返す言葉もござんせん。しかしやはりそういうリアルさを「具象画」と表現された方がいて、後の作品とくに『ラプラタ綺譚』などはその具象から離れていっている、「シャガールオペラ座の天井画を思わせる、作者の目指すいちばんいいところが描かれている」というんで、ああなるほどそういうことかと思いました。今のわたくしには具象がうるさく感じられるところがあるのでしょう。

まめ閣下:ふん。絵画などなにもわからんくせに。

下僕:(スルー)で、その『ラプラタ綺譚』は今回ほとんどの人がいちばん好きとあげてらっしゃいました。わたしもそう。これは『千年の愉楽』の第五話なのですが、作品を全部読まなければと思いました。路地の若者をみつめるオリュウノオバという老産婆の視点で語られるのですが、その語りが素晴らしい。方言のリフレインも音楽的で、とくに冒頭、季節の移り変わりで始まっているところが生命の移り変わりにも繋がって、老いたものが若い命のエネルギーを愛でる視線を表現している、という指摘には唸りました。この第五話の作品の主人公・新一郎は美男で義賊のような盗人で、という設定からしてもう「早逝の予感」に満ちている、語り手は産婆であり生死をみつめる巫女的存在でもあり、路地を神話的世界への入り口としている壮大な叙事詩でありファンタジーという評におおいに頷きました。破壊的だし性的な激しい描写もあるんですが、なにせ美しい。

まめ閣下:語りの文学、神話・・・というと今話題の『口訳 古事記』。あー、貴君の康さん病はどうした?

下僕:あ、いや、それは話が長くなりますから今回は割愛。

まめ閣下:にゃんだ、つめたいのー。

下僕:あの、もうすこしなんで中上健次続けますねー。その神話的な感じをさらにすすめたのが最後に納められた『重力の都』です。すでに死んで伊勢の土のなかで腐っていく高貴な「御人」が毎夜現れてその人がもたらす痛みで眠れないという女を、生きた肉体をもった男が肉体によって少しでも女を楽にしたいと思う。並んで納められた『かげろう』という作品と同様に、猥褻・ポルノと呼ばれるレベルの激しい性描写が繰り返されている。でもその描写も尋常じゃなくて。中上作品には、性欲の強い男だけじゃなくて淫乱な女もよく登場しますが、その女の書き方が女性からみても不快じゃないのはなぜか、という話になりました。そしてそれは、「中上作品では男も女も肉体で生きているから」という結論に。頭で生きている大半の男性作家の描く淫乱な女はえてして「男にとって都合のいい女」になっているので気に障る。そしてこの『重力の都』の男は、自分の欲のためというより、徹底して「女をよくしてやりたい」という気持ちで動いている。最後、『春琴抄』を思わせる展開になるのも、自分の歪んだ欲望によるものではなくただただ女の希望を叶えて楽にしてやるため、というのが谷崎とは違うよね、という展開に、またしてもはっといたしました。

まめ閣下:読書会の醍醐味であるな。

下僕:まさに、まさに。ひとりで読んでいたらこんなに深くはいけません。

まめ閣下:いちばん上のところに、いま話題の「当事者性」って言葉があるみたいだにゃ。

下僕:あー、そうでございました。個人的には中上健次といえば自身の出自である「路地」を描いた私小説作家というイメージがあったんで。まあ被差別部落出身ということはご本人も公表されてそれを書いている、まさに「当事者」です。それはたしかに作品に力を与える。しかし「当事者性」はマストではないんじゃないか。書き手が当事者であっても結局はそれをどう描くかが大事だと感じた、とおっしゃる方がいて、わたしもその通りだと思いましたよ。ですけど、今回の短篇集を読んで、少なくともここに納められている作品はいわゆる「私小説」とは違うんじゃないかなという印象を受けました。たしかに作者と思われる、よく似た人物は出てくるけれど、そこで起こることはまったくとはいわないけれど大部分はフィクションなのではないか、他の多くの私小説と呼ばれる作品よりはフィクション性が高いように感じました。そもそも「私小説」ってなんじゃいな、と思うわけでして、まあちょっとこの辺は、もう少し読書会を繰り返すなどして考えていきたいと思っております。

まめ閣下:お、いつになくまじめではないか。感心感心。というわけで、〽ちょうど時間となりました~。ああ、眠い眠い。

 

 

 

【講座】2023年6月3日 保坂和志の小説的思考塾Vo.11 於:巣鴨 Ryozan Park

池松舞さん(『野球短歌』)が小説の実作について抱いている質問に保坂さんが答える形で、主に話されたことは:

・『文体』とは

・小説はいかに書くべきか

 

下僕:らんららー、らんらんらー、らんらんらんらりらー

まめ閣下:ずいぶんご機嫌ではないか、下僕よ。

下僕:あ、閣下~、誇り高き文学にゃん!

まめ閣下:にゃんだ、まだ酔っ払っておるのか。昨夜もたいそう遅く帰ってきたようであったが。

下僕:えっ、酔っちゃあいませんよ。まあ、余韻に酔っているといえばそうかもしれませんけどね。昨夜はほんとになんだか刺激的な夜だったんですよー。ほら、閣下もよくご存じの保坂和志さんのね講座に、パンデミック以降初めてリアルで参加してきたんでござんす。

まめ閣下:お、保坂さんと言えば猫を愛する徳の高き人ではにゃいか。それは猫愛にあふれた尊いお話が聴けたに違いない。

下僕:猫の話もまあちらっとは出ましたがね、昨夜はほら先日『野球短歌』を上梓された池松舞さんがゲストで登場して、池松さんが小説を実作するにあたってかねてから抱いている疑問に保坂さんが答えるという形式で開催されましたんですよ。

まめ閣下:しかしあれだろ、貴君は小説的思考塾は何度も参加しておるがこのブログになにやら書いたのは1回きりではなかったか。保坂さんの話はなんだかまとめるのが難しいとか言って、ふにゃふにゃとごまかしていたような。

下僕:はぁ、最初に参加したときの話ですね。あの後も行けるときは行ってましたし、コロナ禍以降は配信になりましたからリアルタイムで聴けなくてもアーカイブがあるので毎回書かさずお話は聴いていたんですよ。ちゃんとメモもとって。

まめ閣下:だけど余には話をしなかった、と?

下僕:はぁ、なんというか、難しいんですよ。

まめ閣下:そりゃ貴君のこんにゃく頭では理解が及ばないのがあることはいたしかたないが、今に始まったことではあるまい。

下僕:読書会とか他の講座みたいに内容を簡潔にまとめる、みたいなことができないんですよ、保坂さんのお話って。最初話し出したことがいつのまにか別の話に移っていってどんどん別の話に展開していく、みたいな。

まめ閣下:それはまさに保坂さんの書くスタイルではないか。

下僕:そう、そう、そうなんですよ! で、昨日のメインのテーマは『文体』の話だっていうのでね、わたしもそこはとても興味がありましたんで前のめりになって聴いてきたわけです。

まめ閣下:お、で?

下僕:はあ、やはりというか当然というか、「文体とはかくかくしかじかである」みたいな定義はまったくなくて、ご本人も「抽象的な話にしかならない」っておっしゃっていて。でもね、昨夜のお話を聴いていて、とうとうわたくし、あ、なるほど! と思ったんですよ。だからそれを忘れないうちに閣下にお話しようと思っていたところだったんです。

まめ閣下:愚は愚なりに発見を。

下僕:はい。一番の気づきは、保坂さんのこの、なんとも要点をまとめにくい語りこそが小説の文章なんだってことです。小説は、言葉にするのがむずかしい、言葉と折り合いがつかないことをつきつめる、その大変さを知る人が苦しんでひねりだしてくるものであって、すらすら簡単に書けるようなものではない、たちどまって苦しみ悩んでいる過程をこそ書くものである、というようなことをおっしゃって。そうやって自分を追い詰めてやっと産み出された文章は誰もが簡単に理解できるようなものではないし、小説の言葉には共通理解はないのだ、だから抽象的にしか説明はできないんだと。もちろんこれは芸術としての小説の話であって、エンタメには文体はありません、っともおっしゃってました。

まめ閣下:保坂さんの言うところの「文体」はないって話だにゃ。

下僕:まあそういうことです。「小説を書く人は意識して客観性の外に出るべき」との言葉に最近の自分の書くもののダメなところを言い当てられた気がしました。小説というのは報告書ではない、なんでもかんでも読者に明確にわかるように説明しなくていい。わからないもの、いく通りにも考えられるもの、そういうものを読みたいのだから、と。自分は無意識に、読む人にできるだけきちんと理解して欲しくて説明しすぎのとこがあったと思うんです。よく「もっと読者を信用して」と言われたりしてるんです。あと、自分はつねに物事に対してフェアでいたいみたいな気持ちがあって、小説にしてもできるだけ客観的な視点で全体を俯瞰して書かねばみたいな思い込みもあったんですよね。でもそれが、本当の意味で面白い小説から遠ざけることになっていたのかと、ショックを受けました。そうそう、文章には勝手に動く特性があって、一行目を書くことでその次の行が変わっていくものであって、一行目を書いたときに思い描いていたところにはたいてい到着しないとおっしゃっていて、まさに保坂さんの語りもそれだから、なかなか文脈を簡単にまとめられないんだって気づいたんですよ。

まめ閣下:ご長寿早押しクイズの間違った答えの連鎖みたいに、って言ってたな。

下僕:あれ、閣下聴いてらしたんですか。

まめ閣下:まあ、ネコ二オンとして貴君の肩のあたりにときどき憑いておったんにゃ。

下僕:ほんとうですか。じゃあ別に話しなくてもいいじゃないですか。

まめ閣下:だから何度も言っているように、貴君の非常に残念な記憶力のことを心配してだにゃ・・・

下僕:はいはい。もうひとつ、文体とは少し離れるんですが、いかに書くかという話はいつもながら非常に勇気づけられるものでした。自分はどうして小説を書くのか。そこにきちんと向き合わないとダメだなと思いましたね。誰か(ジャッジする人)に認めて貰いたいから書き始めたわけじゃないよね、作家になって誰かを見返してやると決意して書いてるわけじゃないよね、職業として一生書き続けていく人もいるけれど、小説というもの(小説を書くこと)を生涯肌身離さずに持ち歩いて生きていく人もいるよね、と言われてみると、わたしはそりゃもちろん職業作家をめざしてやってきたわけだけれど、こんなに長くやってて芽が出ないんならもう無理なのかなという切羽詰まった気持ちがひしひしとあるわけです。じゃあきっぱりあきらめられるか、というと何度もそう思うことはあったけど、もう書くというのは子どものころからの習癖というか習慣というか、基本的な欲求のひとつみたいなものでやめたら命に関わるみたいなところがあるんですよね。だから、職業作家にはなれなくてもきっと一生書いていくんだよねって受け入れるしかないっていうか、もうこれは諦めみたいなそんな感じで。そうであれば、べつに自分が一番のびのびとやれて、本当に書きたい気持ちがあふれてきたことを書けばいいんだということなんです。保坂さんは、今はなにかと文芸誌だとか賞だとかそういうものを重んじるような権威主義が強くなっていて、だからついつい公募の賞のために書くことを探す、〆切に間に合わせるために書く、みたいになっちゃってるけど本当はそういうものじゃないよねっておっしゃって、いやほんとうにわたしもそうだと思っているんですが、現状は、イヤもうホント、モウシワケアリマセン・・・って感じで。でも書きたいことが噴き出してきて書いたものがたまたまちょうど出せるところがあって出したっていうのが賞をいただいた経験はあるので、そういうものなのかなと納得もしたりしまして。

まめ閣下:うん、そうかもしぬ。

下僕:あと散漫になってしまうんですけど、心に響いたことをあげておきます。昨今は小説作法とか書き方マニュアルみたいな本が本当にたくさん出ててもてはやされているけれど、本当にプロになるような人はそんなものを読まなくたって最初から自然にできてるようなことしか書いてない。とにかく「こうすればプロになれる」なんて方法はないって話とか。文芸誌の新人賞の傾向と対策なんてやってるんじゃなくて、自分のなかに揺らがないものを確立することが大事とか。芸術は工芸品ではない。工芸品は技術的に完成されたものを目指すけれど、芸術は違って欠点がまた魅力となりうるとか。あ、あと、ストーリーテリングっていうのは一種の病気みたいなもので、どんどん湧いてきちゃって自分で止められない人がいるから、それはもうそういう人に任せたらいいんだって話には笑ってしまいました。ほんと、そういう人いますよね。かなわないって思います。

まめ閣下:あー、きっとその場でちゃんと聴いていた人にはもっと深い内容のあることが言えるんじゃないかと思うぞ。しかしまあ、またここに書く気になっただけでも進歩である。本当にあっちこっち話は飛んでいきまくっておるが、まとまらない話こそが文学である。ってことでいいのかにゃ。

下僕:とりあえず、いまはそのへんでご勘弁を。

まめ閣下:よしよし。〽ねーこを愛するひーとーはー徳の高きひーとー

 

 

 

【読書会】2023年5月20日『三匹の蟹』他・大庭みな子

・動物の一種としての人間という視座

・観察眼の鋭さ

・広島での戦争体験がもたらしたもの

・今読まれるべき作家

・蟹とはなにか


下僕:おや、閣下ではありませんか。どうしたんです、アザラシが水面に顔出すみたいに、ぽっかりと現れたりして。

まめ閣下:ようやく気づきおったか余はさっきからずっとぽっかりと現れてはすうっと消えるってのを繰り返していたんだがにゃ。観察力のないやつだ。

下僕:お、さっそく大庭みな子ですか。そりゃ『トーテムの海辺』でしょ。

まめ閣下:昨日は久しぶりに我が館に大勢集まって、賑々しくやっておったのぅ。なかなか有意義な話だったようだからちょっとかいつまんで教えてくれ。

下僕:聞いていらっしゃったのなら、あらためて報告する必要はないんじゃありませんか。

まめ閣下:余は貴君のこんにゃく頭っぷりを心配しておる。つるつる滑ってなかなかしみこまないこんにゃくみたいに、なにもかもすーぐ忘れてしまうではないか。

下僕:はぁ、返す言葉もございませんな。ではさっそく。昨日の課題図書はこちら、大庭みな子さんの短編集『三匹の蟹』です。収録されている7作のうち、表題作と『青い狐』『トーテムの海辺』を取り上げました。

まめ閣下:ずいぶん古ぼけた本ではないか。紙がすっかり茶色く変色して。大昔に買って読んでおったのか。

下僕:いえ、これはつい先日入手したもんです。今回課題になったので購入しようと思ったらもう中古しか手に入らなくなってたんですよ。

まめ閣下:絶版になってるってことか。

下僕:そうなんでしょう。こんな有名作品まで・・・と思うと愕然といたします。まあ、それはさておき、作品についての話を進めましょう。

まめ閣下:しかし貴君は大庭作品を読んだことはなかったんだったかにゃ?

下僕:もう十年以上前に小説教室の課題で『三匹の蟹』を読みました。講師が選ぶ「日本文学の読むべき作品」の一つだったんです。でもそのときにはどこがすごいのか正直あんまりよくわからなかった。たしかに描写の美しさはあるけれど、アメリカで暮らす人妻がホームパーティを抜け出して行きずりの男と一夜を過ごす話なんてべつにめずらしくもないんじゃないの、って感じを受けたんですよね。で、今回は、どこがすごいのか、技巧的な部分から分析してみようかと思ったんです。

まめ閣下:ふーん、技巧かぁ。

下僕:まあ、ちょっとだけ我慢して聞いてください。構造としては、冒頭部分が作品中の現在、行開け後がその前の晩の回想となっております。まあそんなに珍しいわけではありません。この冒頭部分が詩のように美しい海辺の描写で始まるんですが、語り手が誰なのか最初はっきりわからない。でも鴎が「眼をじっとこちらに向けて」という表現が出てきて、ああ「こちら」ということはこれは一人称の語りなのかとわかる。その後由梨という名前が出てきますが、三人称視点ではなく由梨の視点で書かれるのかなと思う。舞台がどこかというのもしばらく書かれず、バスに乗って「L市」というのとバス代が「85セント」というところで外国の話なんだとわかる。あまり情報を提示しないタイプの幻想的な話か、と思っていると、行開け後の回想部分はまったく別の作品のような印象になります。娘との会話、続々とやってくるブリッジパーティのお客たちとの会話が続くんですが、この会話がなんとも演劇的、なにか芝居を観てるような印象を受ける。それはここの場面が由梨の視点ではなくていわゆる「神視点」であることも関係あるのかもしれません。互いの互いに向ける批判的な感情も描かれます。会話は辛辣でウィットに富み皮肉たっぷりで、あからさまに自由恋愛が語られ、饒舌なおしゃべりであるのに本当の意味のコミュニケーションはない。この場面を読んでで自分も逃げ出したくなった、と言う方もいました。それが、由梨が家を出る場面からまた由梨視点で語られるようになります。ひとりであてもなく車を走らせて夜の遊園地に入る。そこでたまたま開催されていたアラスカ・インディアンの民芸品の展覧会になんとなく入って出たところで桃色シャツを着た係員と出会う。この男といろいろあって一晩を一緒に過ごすことになるわけです。そのいろいろあって、ってところもあまり劇的なことはない。会話もほとんどない。「どうして黙っているの」「喋ることなんか無いもの」という会話が何度か繰り返されます。男の曖昧な誘いを断りもせず由梨はふらふらとつきあっている。由梨はただ男のことを観察している。動物を観察するように、行動によって内面を推測する。しかしなんでこの男と一夜をともにしてもいいと思っちゃうんだろうと、不思議に思いつつ読んでくと、由梨の昔の友だちの短い回想が入り、日本に帰ったところでアメリカ帰りは嫌われるだろう、という独白があって、ふいに「男の感じているむなしさと悲しさは由梨に伝わって、其処で優しい和みのようなものになった」という一文が出てきます。あ、なるほどと思いました。由梨はアメリカの暮らしに疲れて飽き飽きしている。なにかしゃべっていないとその人は存在しないことになる社会、言葉を交わすほどに虚しくなる関係。それでたまたま目についた「三匹の蟹」というネオンのついた場所に誘われる。由梨がそこで男と一晩を過ごしたことははっきりとは書かれないけれど、最後の文に「『三匹の蟹』は海辺の宿にふさわしい丸木小屋であった。そして、緑色のラムプがついていた」と書かれていて、ああなかに入ったんだとわかる。そして冒頭のシーンに繋がるわけです。車で一緒に来たはずの男の姿はなく、由梨はバスで昨夜自分の車を止めた場所に戻ろうとしている。財布のなかから20ドル紙幣が消えていて、ポケットのなかから口紅のついたくちゃくちゃの1ドル札が出てくる、というのでどんなことがあったのか読者は推測するというわけです。

まめ閣下:まあそれはそれで普通の解説であるが、もうちょっと発見があったんだろ?

下僕:はいはい。やはりすごく巧いなあとは思ったんですが、一大センセーションを巻き起こしたデビュー作って書かれてるのにひっかかりまして。何がセンセーションだったの? と、リービ英雄さんの解説を読んでみたんですね。そしたら群像新人賞芥川賞を受賞したときの三島由紀夫やら丹羽文雄とい大先生がたの批評が抜粋されていて、そのほとんどが「日本人妻が『アメリカ人』、あるいは『外人』と『姦通』したことに『衝撃』の大半があったように見える」って。ダメじゃん、先生方! そこじゃないよね、衝撃は、と大いに叫んでしまいました。じゃあ何なのかというと、まだよくわからないまま、残りの二作を読み始めました。『トーテムの海辺』を読むうちに、はっと気づいたんです。大庭みな子さんの独自性っていうのは、動物観察的な視座ではないのか。自分もまた動物の一種としてすべての動物と等しくこの世に存在していてるという感覚。海外暮らしをしていると、この動物的感覚が強まるというのはわたくしも実感としてあります。言葉が不自由なわけですから生き物としての感を研ぎ澄ませてよく相手を観察して判断する必要がある。それはあとがきとして書かれた文章のなかにはっきりと書かれていました。以下、引用します。

・・・・・・黙って彼らの話に耳を傾けていただけだ。彼らの話す言葉は異国の言葉だったので、わたしは森の中で出遭った動物の目をじっとみつめて、その心を探りながら、あまりよくわからないあやふやな推測で彼らの言おうとする話の道筋を追うしかなかった。

 だが、今になって思えば、不可解な言語に囲まれて、想像力で相手を理解しようとすることは、文学そのものだったような気がする。・・・・・・

 

まめ閣下:にゃんだ、猫と同じじゃにゃいか。

下僕:そうなんですよ、閣下。犬猫が人間を理解するように人間も人間を理解しようとすればいい。これはわたくしには一大センセーションを巻き起こしました。賛同の嵐です。この『トーテムの海辺』はおそらくご自身の体験にかなり近いところで書かれた話だろうと思うんですが、すごく共感できる文章がたくさん出てくるんです。『三匹の蟹』のときはさらっと読み流していた、アラスカ・インディアンの神話のモチーフが、大庭さんにとって非常に大切なものであったこともわかります。神話のなかでは人も動物も等しい存在であり恋に落ちたりもし、死者もまた陽気にそこらをうろうろしている。そこでは、人間と動物、生きているものと死んでいるものは地続きで、それを分断したのが実は言語なのではないか、と指摘される方もいて、はっとさせられました。さらに、最近注目されているマルチスピーシーズ人類学というものに通じるとも。そういう点では今読まれるべき作家なのではないだろうか、とおっしゃっていました。

まめ閣下:うむ、それはいい視点にゃ。なんでも人間が一番という考えはこの世を滅ぼすものである。(おほん)

下僕:なんだかちょっとしゃべり疲れてしまいましたよ。

まめ閣下:なんだ、だらしがない。もう少しだ、がんばれ。

下僕:はい、はい。そうだ、タイトルにある「蟹」とはなんぞや、という疑問を抱かれた方が多かったですね。『トーテムの海辺』では死肉を食らう忌み嫌われる存在とアラスカ・インディアンの村からきた村長が語りますし、『三匹の蟹』にはキリスト教モチーフが隠れているのでは、という方も。蟹はキリスト教では「キリストの復活」の意味があるそうです。そこから登場人物を数えてみたら13人だった、これは最後の晩餐では、と推測されていて、わたくしにはまったく思いもよらない読みで大いに驚かされました。読書って本当に個人個人の体験で、読むことは創作活動なのだと実感しました。また、大庭さんが広島で戦争を体験したことに注目して、そこからつねに死というものを近くに感じ考え続けていたのだろうという方の話にも大いに頷かされました。『三匹の蟹』が書かれたのはちょうどベトナム戦争のころで、井伏鱒二が『黒い雨』を書いたように、戦争体験者として書かざるを得ないものがあったのではないかという意見もありました。この作品から戦争というのは、わたしにはあまりつながらなかったのですが。あと、観察ということに関して言えば、こういう古い時代の作品に関して言うならば、圧倒的に女性作家のほうが観察眼が鋭いと感じる、と指摘される方がいて、わたしも納得しました。それはやはり女性の立場が弱かったせいだと思いますね。子どもと同様に、周囲をよく観察していないと生きていくのが難しかったのじゃないでしょうか。

まめ閣下:それは生き物としての基本じゃ。

下僕:『青い狐』は最初、なんか幻想的で夢のようでなんともつかみどころがない話のように感じたのですが、そういう視座やアラスカ・インディアンの神話的な見方で紡がれた物語だとするとわかるような気もしました。で、そうか、大庭みな子わかったぞ、って意気揚々と調子に乗って『首のない鹿』を読んだのです。そしたら・・・ぎゃ、ぎゃふん、でありました。とにかく描写に圧倒されて。動物的視点だけじゃないわ、やっぱ手強いわ、簡単にはいかんわ、と尻尾を垂れ深く項垂れたという次第。

まめ閣下:うん、また最初から読み直した方がいいにゃ、はんぺん頭よ。

下僕:今度は、はんぺんですか・・・

まめ閣下:多孔質、スカスカってことにゃ。

下僕:そういえば閣下がいなくてみんな寂しがってましたよ。

まめ閣下:なにを言うか。余はイデアである。つねに存在しておる。昨日もあの場におったのだ。見えないのは信心が足りないからにゃ。

下僕:ん、信心? イデアってそういうもんでしたっけ?

 

 

 

 

 

【読書会】2023年2月23日「大江健三郎自選短篇」より 於Malucafe&On-line( ハイブリッド)

・完璧な小説というものは存在する

・体験をフィクショナイズする力のとてつもなさ

・多様な文体を生み出し使い分け、言葉の選択、構成の巧みさ

・何を書くか、ではなく、いかに書くか

・大江という作家の目・耳・頭を借りて世界をみられる喜び

・以前の作品の捉え直しや改稿、テーマを抱いて連作する姿勢

 

 

まめ閣下:久々の読書会であったな。

下僕:ええっ? 今日はなんと単刀直入な。いつものくだらないしゃべりはやらないんで?

まめ閣下:昨日の読書会、話すべきことがたくさんあるであろう。

下僕:はい、なんてったって大江健三郎ですからね。大家中の大家、ラスボス感ありますな。

閣下:いいから、さっさとやらないか。

下僕:では、さっそくやりましょう。「あの場で自分が論戦を再構成したものを、もういちど記憶のひずみと時間のもたらしたズレとに影響されながら、のべなおすことにほかならない」のでありますが。

閣下:ぷっ、さっそく『頭のいい「レイン・ツリー」』からの引用か。

下僕:お、さすがですな。じゃ、これは? 「記憶に残っている内容を、記憶に残っている文体のまま再現することにする。」

閣下:『河馬に噛まれる』であろう。もう、いいから、本題に入れ、本題に。

下僕:ちぇっ、わっかりましたよー。昨日はこの『大江健三郎自選短篇』というのが課題本だったんですが、なにせこの厚さ、レンガみたいなんで、とりあえず『セヴンティーン』と『静かな生活』の2篇をとりあげ、他の作品については自由に語るという形にしました。

閣下:諸君らは大江作品くらい、たいてい読んでいるだろう? なにせ小説書くものの集まりであるのだから。

下僕:はぁ、それが。かつて数作品読むには読んだ、けれど難しかった、苦手だった、お腹いっぱいになって以後は読んでない、というのがおおかたで。わたくしなんぞは、恥ずかしながら若いころにはまったく読まず、時折文芸誌などで目にする文章はなんだか観念的で難解で、長らく敬遠してたんですよね。

閣下:まったくもう、だから貴君は。

下僕:みなまでおっしゃらずとも、文学的素地の貧しさはじゅうじゅう自覚しておりますよ。それが、十年くらい前か、教室の課題で『空の怪物アグイ―』を読み、文体にコマされてしまったんですよ。

閣下:なんだ、下品な。

下僕:だって、春樹さんがそう言ってたんです、短編小説の文体は読者をたちどころにコマすものでないとダメだって。まあこれも「記憶に残っている内容を、記憶に残っている文体のまま再現することにする。」ってやつですが。

閣下:わかった、わかった。で、それから嵌まってしまった、というわけか。

下僕:それがそれ以降はやはり読まなかったんですよね。

閣下:ぶっ、ほんっとに怠惰なやつよの。

下僕:まあしかたないじゃないですか、つねに読まなきゃいけないのをたくさん抱えてるんで。でもおかげで今回、ほとんど白紙の状態で作品に臨めたのはかえってよかったと思いますよ。課題の2作を読むつもりが最初から読みふけってしまって、初期の作品群は全部読んでしまいました。あ、この本は、初期、中期、後期と、年代順に分けられてるんです。自選ですから、ご本人がそのように分類したんでしょうね。

閣下:なるほど。とりわけ初期作品は強烈であろう。

下僕:はい、まさに暴力的なほど身体的、五感を掴んで捻り切られるみたいな。それも不快のほうです。排泄、不潔、性、残酷、とにかく「嫌ぁー!」と逃げ出したくなるような描写もあって、若いころ苦手と思った人の多くはそこでしょうね。わたくしもそうだった記憶があります。でも今回は読めたし、ものすごい引力を感じました。

閣下:年の功ってやつか。

下僕:ま、そういうことかも。そんなわたくしの感想を申しますと、課題の『セヴンティーン』は、17歳のころってこういう青臭すぎるところあるよねー、自意識過剰、強すぎる性衝動で動かされてるところ、でもちょっとこの主人公は過剰すぎるかな、と思いつつあちこち笑ったりして読んでいたら、ラストに向かってたたみかけるように、まさかの極右に走ってしまうという展開に驚愕しました。読後に見たWikiの解説だったか、「オナニストからテロリストへ」って言葉があって大爆笑しちゃいましたよ。でもなんで右翼? この時代の若者、とくに知的な人たちはみな左翼をきどってたんじゃ、と不思議に思ったんですよね。それにタイトルにあるように、主人公の17歳という設定もちょっと不思議でした。これが出たとき作者は26歳で、体験をもとに書くなら大学生になるはず。ラスト近くに運動中に亡くなった女子学生が出てきて、あ、これって樺美智子さんのことだ、とひらめきまして、その経歴も調べました。東大生で、亡くなったのは1960年6月22歳のときで、大江とはほぼ同年代、学生の大多数が学生運動に走っている流れのなかでわざわざ右翼のテロリストになっていく主人公を書いたのは、時流への反発なのか批判精神なのかなとも考えました。ちなみに樺さんは20歳の誕生日に共産党に入党したということで、右と左は違いますが、この作品の設定に共通するところがあります。その後、収録されている「河馬に噛まれる」という作品がこの作品のとらえ直しだというのを知り読んでみたところ、大江さん本人は左にも右にもなりきれず、どっちつかずで、左派の人たちからは嘲弄されるような立場でいたようです。本作も、右翼を決して礼賛しているわけではなく、むしろ批判的にちょっとコミカライズして書いている。まあそんな感じでいつもながらぼんやりとした感想を抱いて臨んだ読書会でしたが、やっぱりすごい、他の方の読みに大いにはっとさせられました。

閣下:ふんふん、それは?

下僕:まずこれは、思想的に右か左かはどうでもよく、なんであれ「狂信」が思考停止を生み、個人の懊悩から解放された人が至福を覚えるという話だ、と。ああ、そうだ、まさにそうだよ! と膝を打つ思いでした。もうひとつ、17歳の謎も、他の方の読みで解決しました。これが出たのは1961年、戦後16年です。もうじき17歳を迎える戦後日本の精神を描いたものだろう、と。主人公は実のところ確固たる思想もなく左から右へ極端に揺れるし、狂信によって幸福に至るし、さらに主人公の父、アメリカ的自由主義を標榜してはいるが、子どもに対して強権も振るわないが体を張って叱ることもなくただ冷笑している、これは戦前の家父長制が崩れたのちの日本の父親というか権威の姿ではないか。すごい、そうだ! と興奮しました。こうやって自分一人では到達できない理解が得られるのが読書会の素晴らしさだとつくづく実感しました。

閣下:すごいな、それは。しかし話が長くないかね? ちょっと何か息抜き、ブレーク的なものを投入したらどうか。

下僕:はぁ、じゃあこれはどうです? 昨日集まった本たち。

 


閣下:はは、レンガ本の群れだ。しかしなんかブレークというよりは胸焼けが。

下僕:そうですか、じゃあ、これなんかどうです? 会場となったマルカフェさんの極上デザート。

 

 

閣下:おお、これは美しい。

下僕:でしょ、今回は軽いお食事もいただいての読書会でした。

閣下:よし、じゃあ本題に戻って、二つ目の課題『静かな生活』に入ろうではにゃいか。

下僕:こちらは中期の最後のほうの作品です。この短編集では初期と中期の収録作品の間が16年も開いてるんです。初期の最後が『アグイー』、長男の誕生が影響していると思われる作品です。それから中期の『レイン・ツリー』のシリーズまで何も書いてないわけじゃないんですがここには収録されていない。長男の誕生以降の作品、作者自身に近いところで書くようになったものをを中期と、ご自身の中で分けられたのかなと思いました。自分の経験、生活をもとに書くというといわゆる私小説という枠組に入れてしまいがちで、大江さんについても中期以降は私小説作家という印象をもたれているかもしれないですが、やはりそうじゃない、初期作品と同じように、実体験をちいさな核あるいは素材あるいは背景にして、まったく別の世界を構築してるんだなというのが『静かな生活』を読むとよくわかりました。これは作家の娘の視点で、障がいをもつ兄との生活を書いた作品ですが、この視点で語ることで、柔らかい語り口になりまた無垢な存在である兄へのまっすぐな愛情を書くことができた。これが親の視線ではこういうふうには書けないと思いました。自分ではない若い娘の視点とするために、計算されつくした文体で書かれてます。具体的なヒントはなにひとつないにかかわらず、最初の6行でこれが若い女性の語りだとすぐにわかる、とおっしゃっている方も。この語り手に作者の現実の娘を重ね合わせてちょっと不快感を覚えた方もいるようですが、他の著作で大江さんがこれはまったく書く架空の語り手を設定したと語っていることを教えてくださった参加者がいました。この語り口を生み出すのにいろいろ工夫したらしい。

閣下:文体の多様さ、と冒頭で貴君が書いたことのひとつだな。

下僕:はい、作品によって本当にがらりと文体が変わる。『セヴンティーン』も冒頭の数行で過剰な自意識を持つ主人公の精神のありよう、作品世界まできっちり提示されている、と指摘された方も。作品中の時間の流れが、自意識にとらわれた内向的なところはゆっくり長く書かれていて、思考停止になってからは早く短いとか、指摘されている方もいて、なるほど、と。また、どの作品にも言えることですが、とにかく構成がすばらしい。情報を提示する順番も、あえて謎を残したり、限定された情報だけを提示して読み手のなかにトラップをしかけたり、とにかく巧みだとみなさんおっしゃっています。なかでも『飼育』を評価する方が多かったです。素材も文章も構成も、何もかもが完璧な小説だと。

閣下:あれは本当にすごい小説にゃ。予は決して生け捕りにはされたくないと思ったぞ。

下僕:(ガクッ)えー、まじめな話に戻ってもいいですか。言葉の選び方も巧みで、たとえば性器の呼び方をとっても、初期作品では「セクス」が「性器」になり、中期の『静かな生活』では「キン」になり、とか、長男の呼び名を「イーヨー」妹を「マーちゃん」にしていることなど、それぞれちゃんと効果が考えられているという指摘もありました。『静かな生活』ですが、実人生に近づけて書くという点では『アグイー』から四半世紀たったからこそ書ける部分もあったのだろうと思います。『セヴンティーン』が人間の弱さを書いているとすれば『静かな生活』は人間の強さを感じた、という方もいました。中期以降の作品は、より実人生を想起させるものが多くなっていますけれど、たとえ同じ場所にいて同じものを観たり体験したりしても、だれでもこんなふうに書くことはできないだろう、小説というのは何を書くかではなく、いかに書くか、大江作品は、大江という類まれな作家の目と耳、頭を借りて世界を見られるという喜びを与えてくれる、という方がいて、激しく同意しました。

閣下:書き直し、改稿についても話があったみたいだにゃ。

下僕:はい、表紙からして自筆の『アグイー』の改稿ですからね。あとがきで、初期の数作品がさまざまな書き直し・捉えなおしから派生していることに言及していて、本当に、書くこと、それによって思考を深めること世界を正確に捉えようとすること、に真摯に向き合っているのが伝わってきました。あとがきの最後の段落を写しておきます。

私は若い年で始めてしまった、小説家として生きることに、本質的な困難を感じ続けてきました。そしてそれを自分の書いたものを書き直す習慣によって乗り超えることができた、といまになって考えます。そしてそれは小説を書くことのみについてではなく、もっと広く深く、自分が生きることの習慣となったのでした。」

これって、なぜわれわれは小説を書くのかってことにも深くつながっているように思います。

閣下:ふうむ、昨日の会でみなが語ったことの半分もまとめられていないようではあるが、まあ充実した会であったことは、この長さによって推測してもらえるであろう。

下僕:はい、分量によって内面の時間の流れる速度があらわされておるのであります。

大江健三郎さんは2023年3月3日、亡くなられました。読書会の余韻も覚めやらぬタイミングで、非常に驚き衝撃を受けました。しかしご存命中に、読書会のため真剣に作品と向き合う時間ができたことは得がたき幸運だったと思います。いたらない読者としては未読の作品がまだたくさん残っていることは、幸せなことだと感じております。素晴らしい贈り物を残してくださったこと心より感謝いたします。>

 

 

 

下僕:さてさて、昨日の会場、マルカフェさんです。本当に素敵な空間で、お料理もなにもかも素晴らしかったですね。

まめ閣下:それにあそこには、ちっちゃくて猫みたいだが猫じゃないけむくじゃらのものらがおるであろう。

下僕:マメちゃんとドリルちゃんですね。昨日も時々参加して、とくにマメちゃんからは熱烈大歓迎を受けましたよ。

閣下:名前からして人格者もとい犬格者と決まっておる。

下僕:全然いばってなくて、同じ名前の某閣下とはだいぶ違いますがね。

閣下:(しらんふり)それに昨日はリモート参加もあったな。

下僕:はい、時差のある国からの参加でした。コロナ以降しかたなく始めたオンラインですが、世界中どこからでも参加できるという利点もありますよね。今回は初の試みとしてリアルとオンラインのハイブリッドで。思えば3年前、やはりこちらで開いた読書会が、我々の最後の対面読書会となっていましたから、パンデミックからの苦闘の日々をちょっと思い出したりもしましたよ。やはりリアルで話すのは、オンラインにはない良さがたくさんあるなーと、みなさん口々におっしゃっていました。マルカフェさんの居心地の良さもあって、最後はなんだか離れがたく、いつまでもダラダラ居残ったりして。

ああー、閣下ともリアルでお会いしたいですよ。イデアとか脳内伝達じゃなくて・・・

そういえば3年前はまだ閣下はこんなことしてらっしゃいましたねぇ。いろんなことがありましたね。

 



 

 

【読書会】2022年10月1日「すべての月、すべての年」ルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳

・「外さないルシア・ベルリン」

・死と生、清と濁、弱さと強さ、相反するものを等価に描写する手つきの鮮やかさ

・実人生をいかに作品の素材にするか。ねじ曲げるのではなく変容させること。

・小説における「ほんとうのこと」とは。ほんとうのことが人の心を打つ。

 

 

下僕:♪かっかかっかかっかー、かっかかっかかっかー

まめ閣下:なんだ、騒がしい。

下僕:あ、出た! いや、おいでくださった。

まめ閣下:余はイデアであるからつねに存在しておると毎回しつこくいうてるではないか。それにそのへんな歌みたいなのやめろ。下品である。

下僕:だって閣下を召喚するための合図みたいなのがまだ確立してないからしかたないじゃないですか。あ、そういえばこの前夜中にひっそりと帰宅されていたでしょう? 廊下に猫砂が落ちてましたよ。

まめ閣下:それなー、余ではない。イデアは猫砂など必要とはしないのであるから。おおかた貴君のふだんの掃除が雑でどこか奥の方に入り込んでいた砂がなんかの拍子に出てきたのであろう。

下僕:えー、だって閣下が肉体を失ってからもうすぐ一年になるんですよ。いくらなんでもそんなこと・・・

まめ閣下:ええぃ、もうそういう無駄なしゃべりはやめてさっさと昨日の読書会の報告を始めたらどうだ。何度もいうようだが、イデアである余が貴君の目に見える形でいられる時間は限られておる。

下僕:そうでした、そうでした。お会いするとついうれしくなっちゃって、すんません。ではさっそく、昨夜の課題図書はルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳「すべての月、すべての年」であります。

まめ閣下:お、このおにゃごは知っておるぞ。ずいぶん前に貴君たちの読書会で「掃除婦のための手引き書」っての取り上げていたんではないか?

下僕:はい、こちらでございますね。2019年の11月だから、もう3年前になりますねー。われわれの読書会第1回目の課題図書でありました。それから回を重ねること、昨日のが14回目。ちょっと感慨深いものがあります。今回とりあげたのは、アメリカでは2015年に出版された「A Manual for Cleaning Women」のうち、日本語訳版「掃除婦のための手引き書」(2019年)に収録されていなかった残りの半分、つまり2冊合わせてようやくアメリカで出された短編集1冊の全作が出たというわけです。

まめ閣下:それにしても2冊合わせたらすごいボリュームにゃ。最初から1冊でいくというのはまあいろいろ難しかったのであろう。

下僕:翻訳は時間がかかりますしね。でも両方読めてよかったです。ちまたで耳にするっていうか目にする評判も、1冊目同様にかなり熱いです。

まめ閣下:昨日集まった人々の感想はどうだったのかにゃ?

下僕:やはり1冊目のときと同様、ごく短い作品から中編までどの作品のどこをとっても外れがない、「外さないルシア・ベルリン」と表現されていた方がいました。どの作品にもそれぞれの魅力がある。まあ一冊目のほうが内容のバラエティに富んでいる感はありますが。それは読み手にとって初めてのルシア・ベルリン体験だったので、強烈でびっくりしちゃってたってこともありますよね。今回はちょっと慣れて、少し冷静になって読めた部分はあると思います。みなさんそれぞれに印象に残った作品があって、同じ作品がある人にとってはものすごく楽しめたのがほかの人にはちょっときつかったというのもありました。みんなの印象に残った作品をすべてあげると目次全写しになっちゃうからやめときますが、この読書会のメンバーだからこそかな、と思われるのは「視点」ですね。創作における一人称視点と三人称視点の手法の考察なんですが、ラストで三人称「ヘンリエッタ」が「わたし」にすりかわるという。一読したときは技巧的な作品だなという印象だったんですけど、よくよく考えるとこれこそがルシア・ベルリンの作品の書かれ方を端的に表してるのかもって思いました。

まめ閣下:ん、どういうことかにゃ?

下僕:そのことについては後ほどくわしく。まずはみなさんの感想で印象に残っているのをあげると、一つの作品に生と死が等価に扱われていてその手つきが鮮やかというのがありました。生と死だけでなく、清らかさと汚さとか相反するものが等しく描かれてある。多くの作品にアルコールやドラッグの中毒というのが底にあって、それが作品のひりひり感につながっているわけですが、そういうものに依存してしまうのは弱さなんだけれど同時に主人公の生物としての強さというものがあって、作品を魅力的にしてるという意見でした。作品によって(著者がモデルと思われる)視点人物の名前はいろいろ変わるんだけれど、妹や叔父さん、いとこ、元恋人などは同名でいくつかの作品にも登場してきたりして、それをたどっていくのもおもしろかった。同じ人物だろう人が出てくるのに、作品同士は微妙に整合してなくて、一読では「これがあの作品のあの人」ってのがわからなかったりもする。どの作品も人物の描き方が悲惨な状況にいる人も含めてとても生き生きしているのは、おそらく観察眼の鋭さによるものでしょう。1冊目に比べると、2冊目に入っている作品はあきらかに著者がモデルだろうと思われるものがほとんどで、ことごとく「美人」で「いい女」でちょっとそこはどうなのかと感じますが、写真見たらさもありなん、こんな人がこの環境にいたらそりゃ男たちは放っておかないよな、と納得してしまう部分もありますって人もいました。自分がこの作品のなかのこの人だったらきっと同じことをするという共感を持った人も。

まめ閣下:写真の威力か。そんな外見で作品まで判断していいのか。

下僕:いや、そういう単純な話じゃないんですがね。でも分かちがたい部分もあるような。著者の実人生を素材に書いてるんだなと思わせる作品が多いですから。全体から、武田百合子さんを連想したという人もいるし、フリーダ・カーロの作品をイメージしたという方もいます。

まめ閣下:ふうん。つまり非常に魅力的である、ってことだな。実人生を素材にってことは、私小説ってくくりでいいのかな?

下僕:そこがねー、わたくしは違うと思うんですよ。たしかに経歴を見ると作品とかぶる部分は多いんですけどね。でも病院で高齢者の生活歴を聞く活動もしてるので、そういうところからヒントを得たものもあったんじゃないでしょうか。この本の中で一番長い作品「笑ってみせてよ」というの、読了したときわたくしはもうこれ大好きっと燃えあがったんですが、なんでそんなに好きなのかと考えたとき、自分の好きな系譜、「ティファニーで朝食を」とか「ボニーとクライド」とか「グレート・ギャッツビー」を想起したからだなと。まあよくよく考えてみると、エンタメとしてストーリー的にはかなり盛っているんじゃないか。それはルシア・ベルリン作品としては本来の魅力からは外れるんじゃないかという気にもなったんですが。しかしグレート・ギャッツビーから、あ、そうだフィッツジェラルドではないか、と気づきました。おなじタイプの書き手なんではないか。村上春樹さんが「ザ・スコット・フィッツジェラルド」という著書のなかで、「彼は経験したことしか書くことのできない作家だった。彼は実人生を徹底的にフィクショナイズすることに腐心した。そしてそれを幾分誇張してーあるいはまったく誇張しないでー小説にひきうつした。」って書いてるんですよね。

まめ閣下:フィクショナイズ。

下僕:はい、それについてはちょっと長い話になります。この読書会にあたって、わたくし、ルシア・ベルリンが翻訳小説にしては異例のヒットとなっていてとくに若い読者たちに熱く受け入れられているようなのはなぜなのか、と考えてみたんです。

まめ閣下:愚は愚なりに。

下僕:まあそうですな。まず圧倒的なリーダビリティ。これは岸本佐知子さんの生き生きした現代的な訳文のおかげもおおいにあるでしょう。あとは素材。こんな世界があるのかとびっくりしてしまうような、それがどうも実体験らしいぞ、と。あと著者とおぼしき登場人物の魅力(人間に対する情の濃さやユーモア、絶望、諦観、強さなど)、もちろん場面の切り取り方のうまさもありますよね。普通のひとが自分の体験したことをただ書いてもこういうふうにおもしろくはなりませんから。

まめ閣下:そうだ、前回の読書会のときには「ルシア・ベルリンの小説はちゃんと「牛が床屋に行ってる」」って話になってたな。

下僕:はあ、そうでございましたな。さっきのフィッツジェラルドの話に戻りますが、ルシア・ベルリンの作品も同様に、実人生をもとに書かれているけれど徹底的にフィクショナイズしてると感じます。だから「私小説」とは呼べないとわたくしは思います。

まめ閣下:まあ「私小説」というくくり方自体が難しいもんにゃ。どれだけ実体験に寄せて書くかという違いだけで創作であることに変わりはない。

下僕:そうですよね。今回1冊目をざっと見直してみてみつけたんですが、本人がこのように言ってました。「実際のできごとをごくわずか、それとわからないほどに変える必要はどうしても出てくる。事実をねじ曲げるのではなく、変容させるのです。するとその物語それ自体が真実になる、書き手にとってだけでなく、読者にとっても。すぐれた小説を読む喜びは、事実関係ではなく、そこに書かれた真実に共鳴できたときだからです。」

まめ閣下:しごく名言じゃ。

下僕:ですよねー。つい先日、阿波しらさぎ文学賞の受賞イベントの動画をみたんですが、選考委員の吉村萬壱さんと小山田浩子さんがこれから賞をめざす人たちには「ほんとうのことを書いてほしい」とおっしゃっていたんです。ここでいう「ほんとうのこと」というのは、現実にあったことそのまんまという意味ではなくて、「書き手のなかに現実として立ち上がったもの」ということです。どんなに荒唐無稽なものであっても、それが書き手のなかにリアルに存在するものであればそれはほんとうのことである。そういうほんとうのことこそが人の心をつかむというような話をされてました。あ、それだ、と思いました。ルシア・ベルリンがこんなにも多くの人の心をつかむのは、「ほんとうのこと」が書いてあるからなんだ、と。それがあまりに「ほんとう」だから、読者はそれがすべて筆者の人生に実際に起こったことのように感じてしまうけれど、そこはちょっと違う。でも小説的にはほんとうのこと。

まめ閣下:しかしそれって、非常にオーソドックスっていうか、少なくとも今風ではないような。

下僕:そうなんですよ。昨日の読書会でも「作品を読んでいるともっと古い時代の人なのかと思ってしまっていた」と多くの人がいっていました。けれど亡くなったのは2004年、68歳でまだ若かった。「911も見たってことだよね」と考えるとちょっと驚くくらい、作品は古きよき文学を思わせる。それこそフィッツジェラルドとは50年くらい違ってるのに。でもだからこそ若い読者には新鮮なのかも。こういう作品が熱烈に支持されるということはわれわれ年を重ねた書き手にもちょっと光明が差すような。

ね、そうでしょ、閣下。え、あれ? もう行ってしまわれたのかぁー(しょぼん)。また来てくださいねー。