Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【イベント】2021年10月17日「かくのごとき物語ありや否や」熱海未来音楽祭@起雲閣

・音楽と文学、芸能によって伝えられる「祈りと物語」とは

・祈りとはなにか。祈りと願いの違い。

・なぜ人は物語を必要とするのか

 

 

まめ閣下:おい、貴君。余になにか報告があるのではないか。

下僕:わっ。閣下、ふいに現れたらびっくりするじゃないですか。かれこれ二週間ぶりですね。

まめ閣下:あのな、何度も言っておるように余はイデアである。時間や空間を超越した存在。いつでもおるといえばおるし、呼ばれたって出てこないときゃあ出てこない。

下僕:なんだ、それじゃ今までと変わりないじゃないですか。猫らしいといえば猫らしい。

まめ閣下:しかし今は完全なるイデアと化したために現に姿をみせておられる時間は短い。さっさと報告せんと霧消してしまうのだよ。

下僕:さすが、ホンモノのイデアになられてから騎士団長ぶりがあがりましたね。いや、報告ねぇ、ちょっと悩ましいんですよ。最近、有料アーカイブでしばらく観れるイベントが増えたもんでね。どのくらい内容に踏み込んだらいいものか、と。アーカイブ終わってからにしたほうがいいかなとか。熱海音楽祭のアーカイブ観られるようになるのってちょっと先なんですよね。

まめ閣下:しかしそれを待っていたら、貴君のニワトリ頭では記憶はすぐに霧消してしまうではないか。それにだね、どうせ貴君の述懐能力ではイベントの魅力をあますところなく伝えるなんてこたぁ最初から無理で、誰も「あー、これ読んだから別にアーカイブとか観なくていいわぁ」なんてこたぁ思わんのじゃないか。むしろだれかひとりでも「ん? こいつなんか言ってるからちょっと実物観てみるかな」って思ってもらえたらいいってくらいに思ったらよかろう。

下僕:はぁ、そうですかね。

まめ閣下:もともとこれって貴君の残念な記憶力をあとで補うためのものだったんじゃね? 自分のためのメモっちゅうか。あんまり大勢の人に読んでもらうつもりもなかろうよ。

下僕:そっすよねー。じゃ、自分の胸や頭に響いたこと、おぼえておきたいって思ったところだけご報告するといたしましょうか。

まめ閣下:うむ。

 

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下僕:第三回熱海未来音楽祭、今年のテーマは「祈りと物語」でした。伊豆山の災害もあったし、必然というような部分もあり、これまでの回よりも明確に焦点が絞られた感じがありました。10月2日にプレイベント、いや宵宮ってのがあって、能楽師の安田登さん、町田康さん、巻上公一さんの鼎談とパフォーマンスが行われてたんです。こちらはアーカイブで観たんですけど、鼎談のなかで祈りと願いは違うというお話がありました。もともと「いのり」とは「い」という接頭語と「のり」の合わさった言葉で「のり」には祝詞という意味も呪いという意味もある。最近では祈りと願いの区別がされなくなっていて、みんな「みなさまのご健康をお祈りします」などという使い方をしているけれど、これは祈りじゃなくて願望である。神社にお参りして「なになにしてください」なんて祈っているのは実は違ってて、それはたんに願い事である。祈りというのは、そういう言語化以前のものであり、手を合わせた瞬間に心にあるものが祈りである、というようなお話をされていたように、えっと例によってはなはだ記憶があやしくてもうしわけありませんが、思うんです。メモとかとってなくて、すんません。

まめ閣下:もっかいアーカイブ観たらどうだ。

下僕:いや、その二回観たんですけどね。もうこっちは終了しちゃって。とにかく素晴らしいお話とパフォーマンスでいっぺんに受け止めるの難しいほどで。で、たしか、祝詞とか真言とか、外国のものでも、言葉自体に意味がないものも多いっていう話になって、ただ声に出すと響くものがある、と。これは能とか音楽にも通じるものであると。

じゃあ、言葉で書かれる物語っていうものは何なのか。つい先日の汝、我が民に非ズの実演の際にも町田さんがおっしゃっていたんですが、「ギケイキ」を書いているとき、まさにそれが祈りだったって。この作品は義経の一人語りという形式で義経に心を沿わせて書いているわけですから、時にともに苦しみ激しい痛みに耐えながらひたすらその声を聞き取り手を動かすこと、それが祈りだと感じたと。その点についてはわたくしめも少しばかりわかるんですよね。誰かのことを書いているときってとにかくずっとその人に寄り添って心の声を聞いてるんです。普段やっているところではない深いところで思い出してる。

この日のイベントでは、町田さんは、佐藤正治さんのパーカッションと北陽一郎さんのトランペットと合わせて義経記を原文で朗読されました(弁慶が牛若丸から刀を奪おうとする場面)。第二部では、琵琶奏者の久保田晶子さんが平家語りを、こちらはやや現代語に寄せてされたんです。巻上さんのテルミンや藤原清登さんのダブルベースと共演する琵琶と語りの声がとにかく素晴らしかった。第三部で久保田さん、町田さん、巻上さんのトークがあったんですけど、このなかで町田さんが、もともとは常磐物語のスピンオフ的なものだった義経記がなぜ人気を集めたのか、平家物語にしても、人々はなぜ物語を聞きたがるのかというと、物語には人々の「こうあってほしい」という願望が根底にあるからではないか、とおっしゃいました。そして町田さんは小説を書くときに、話を作るという感覚はなくて、頭の中に響いてくる「語り」がまずあってそれを現しているのだと言いました。それは人々の魂のなかにあるもので、それを現す音楽であり芸能であり文学ではないか、という話をされました。そして久保田さんに、「平家語りをしているときには源平のどっちに心が寄るものなのか」と訊ねました。この日語られたのが那須与一が扇の的を射る場面だったので。それに対して久保田さんは、もちろん場面、場面で、その中心人物の気持ちに感情移入してしまうところはあるけれど、語るときには(俯瞰でみて)「ああやってるな」という感じでやる、とおっしゃいました。「ああ、人間だな」という感じだと。平家物語は、苦しみや悲しみ、自分ではどうしようもないことに翻弄される姿にみなが共感するから好まれるのでしょう、という話もされてました。それを聞いて、作家の視点みたいだなと思いました。町田さんが言った聞こえてきた声を現すことと、久保田さんが語る姿勢、その両方がないとやはり優れた文学にはなり得ないんじゃないかなぁ、なんてわたくしは感じましたよ。

まめ閣下:にゃるほど。物語は祈りであり願望を映すものでもある、と。

下僕:あ、物語とは何か、というのでね、イベントとは関係ないんですが、たまたまみつけたこのお話が、がつんときたので貼っときます。

第5回 すべての場面に関われる人。 | 特集 編集とは何か。10 「新潮」編集長 矢野優さん | 矢野優 | ほぼ日刊イトイ新聞

このなかの矢野さんの言葉、

大切な人が突然いなくなってしまって、
魂のちぎられるような痛みを
感じている人たちが、
心を壊さないために、
死者が帰って来たという「物語」を、
心の底から求めるんです。」

ってとこで、なんかドバッって涙が出ちゃったんです。

小説という営みでは、
死んだ人を思い出す」ということが
きわめて重要なんですね。
追悼するでも、
パッと思い出すだけでもいいんですよ。
死者のことを書く、
死者について話す、
死者にたいして、思いを馳せる‥‥。
それこそが、
物語の起源じゃないかなと思っていて。」

死者を思い出して書く、話す。
「物語」って、そういうことで、
原始時代から続く人間の営みなんです。」

ね、なんかみごとに共振してますよね。まさにこれって祈りじゃないですか。

まめ閣下:にゃるほど。うん、話はわかった。んで、そろそろ時間がきた。では、失敬。またにゃ~。

下僕:あ~、閣下、行っちゃうんですかぁ。また来てくださいね。

・・・・・・って、ほんとのこと言うと、こんなブログもまた祈りの行為のような気がしてるんですよ、閣下。

 

熱海未来音楽祭についてはこちらを:

第3回熱海未来音楽祭2021

 

 

【読書会】2021年9月11日 「驟雨」「娼婦の部屋」吉行淳之介

・今あえて吉行淳之介を読んでみた

・文学と時代性についての考察

・優れた文学作品は時代を超えるか

 

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下僕:閣下、昨夜の読書会はちゃんとお聞きくださってましたか?

まめ閣下:またあの薄っぺらい板に向かって何やらしゃべっておったのか。まあ聞いてなかったわけではないが、せっかくだからちゃちゃっと要点をまとめて報告したらどうだ。貴君のその残念な記憶力のためにも。

下僕:あのね、その「ちゃちゃっと要点をまとめて」っていう態度、いかんと思いますよ。なんに対しても最短距離で必要な情報を手に入れる、みたいなの、最近の風潮ですがね・・・

まめ閣下:あー、その話長くなるのかね。そこは飛ばして、内容にいこう、内容に。

下僕:はぁ。やっぱあれですかね、猫も年取ると人間と同じようにせっかちになるもんですかね。ま、いいや。はい、昨夜の読書会の課題は吉行淳之介の「驟雨」と「娼婦の部屋」の二作でありました。また、サブテキストとしてエッセイ集もあげられておりました。

 

まめ閣下:また古いところからもってきたな。

下僕:そんなに古くもないですよ。亡くなられたのが1994年ですから。わたくしくらいの世代なら誰でも知っている有名作家で。わたくしは、がんがんにませてイキがってた中学時代に結構読みましたね。

まめ閣下:貴君の中学時代って、恐竜とかいたころのことかい?

下僕:もう、そういうお決まりの冗談やめましょうよ。恐竜はいなかったけど、そうだなー、電話はダイヤル回してた時代です。そのころやたらと安岡章太郎とか山口瞳とか遠藤周作とか読みあさってたんですよね。「第三の新人」とか呼ばれていた人たち。なんか酒と煙草の匂いがするような、大人の不良っぽさみたいなのに憧れてたんですかね。といっても小説はやはりちょっと中学生には難しくて、好んで読んだのは主にエッセイでしたが。

まめ閣下:はは、だめではないか。

下僕:で、でも「驟雨」とか「夕暮れまで」とかは読みましたよ。中身はすーっかり忘れておりましたけどね。

まめ閣下:ほらほら、その残念な記憶力。

下僕:ですので、もう何十年ぶりかで読み返したわけです。まるで初読のごときまっさらな、新鮮な気持ちで。

まめ閣下:お得なやつよの。

下僕:文章のうまさ、描写の巧みさ、感性のみずみずしさというのはやはりさすがでみなさんもあらためて感心されていたようです。「水のような文章を書きたい」とエッセイにご本人が書かれていたのですが、まさに無色透明ではあるけれど味があるそういう文体ではないかとわたくしも思いました。あと読書会の大いなる喜びとして自分が知らないことを教えてもらえるというのがありますが、昨日は「驟雨」と「いきの構造」(九鬼周造著)との重なり具合を指摘されていた方がいて、吉行さんはこの本をかなり読み込んで「驟雨」を書いたんではないか、という意見に大いに興奮いたしました。

まめ閣下:で、貴君はその「いきの構造」ってやつを読んでおるのか?

下僕:あ、いや、それは未読でして・・・

まめ閣下:それでなんで驚いてるのだ、もう愚じゃな。

下僕:はい、すんません。でも他の著書からも吉行さんが「粋」ということにこだわっていたのは読み取れるよね、という話になりました。生粋の東京人というわけでもないから、屈折した憧れのようなものとして強くこだわりがあったのかも。などなどみなさん、それぞれの読み方で作品を楽しまれていたようです。ただ、わたくしはちょっと苦しく思うところも正直ありました。大いに考えさせられる、というか。

まめ閣下:ふむ。言ってみろ。

下僕:はい。少し前に「プリティウーマン」という映画を再見したときに「あ、これはキツい」と感じたのとおんなじ感じを受けたんですよね。初見のときはおとぎ話として面白く観てたのに。つまりあれですよ、今問題の「マチズモ(男性優位主義)」。小説のほうはあちこちでちょっとひっかかるなってくらいなんですが、エッセイのほうはかなり厳しい。創作や戦争について書かれたところは、ああさすが、なるほどと思うことも多く、いくつか線を入れたりしたんですけど、男女観の話になると、これ今の時代だったら大炎上してるよね、って感じで。時代が違うという方もいるでしょうが、今でもこういう人いっぱいいますよね。とくに政治界隈には。辞任に追い込まれたオリンピック関連のお偉いさんとか、失言繰り返してる政治家とか。たぶんああいう人って、そういう価値観が体に染みついてるっていうかそれが当然と思って生きてきてるから周りから批判を受けてびっくりして「叱られた」と思っちゃう。何がいけないのかちっともわからないけど、なんかうるさいから謝っとけ、みたいなことになってますね。吉行さんもエッセイを読むと徹底してこれが感じられます。「社会は男が支配するもの。女は添え物であり男を都合良く支えるものであるべき」という価値観。だから娼婦という「商売女」には性を「妻」という「素人」には家事労働や育児を担って男の社会的立場を支えることを求めて当然と考えている。そういうところが今読むと「キツい」って感じてしまうわけです。

まめ閣下:じゃあ、貴君は作品に対しても否定的な意見なのかい?

下僕:それがそうとも言い切れないんですよね。作品が書かれた時代と切り離して考えることはできないよなって思うんです。どちらの作品も、今よりももっとマチズモが強烈であたりまえだった時代に、女性のなかでさらに最も蔑まれる存在としての娼婦に対して純粋な恋愛感情に似たものを抱き、恋愛感情の苦しみと社会通念的自己との狭間で苦悩する姿を書いていて、これは非常に文学的ではないか、と思うんです。小説というのは決してポリティカルコレクトネスを謳う手段ではないし、その時代を生きる人間の苦悩を書いているのだから。

まめ閣下:にゃるほど。「驟雨」は芥川賞もとってる。

下僕:しかし小説はやっぱり時代性と切り離せないのかな、とも思います。これらの作品はあの時代の背景をわかってこそ価値がわかるというか。たとえばこのような視点で書かれた小説が今、文学賞の候補になるだろうか。なったとしても、かなりポリコレ的に叩かれるだろうって気がします。文学の話とポリコレは相性が悪いって言うか、あんまりそういう切り口で批評しない方がいいんじゃないかってわたくしは思ってるんですけどね。でも実際に今読むとキツいとも感じてしまうわけで。

中学生のわたくしは「不良っぽさ」がいいと思って吉行さんの作品を読んでいたんですが、今読み取れるのは失言を繰り返す政治家と同じ価値観で、あれれってなっちゃったんですよね。不良ってなにかなって考えたときに、反体制というか、権威に対して反発するという姿勢だろって思って。それが今は権威の側の人たちと同じように見えてしまうのはなんでだろうって考えました。ひょっとすると体制・権威というもの自体が、あの時代とはまったく変わってしまったのかななんてことも思いました。

まめ閣下:愚は愚なりに、なかなか難しいことを考えておるではないか。

下僕:はぁ、さいですな。あとちょっと昔の作家の書いたものでも、女性作家のものはこういう「今読むとキツい」って感じはあんまり受けたことがないなってのも思いました。それはもともと女性というのが蔑まれる存在であってそこで書いているということからくるのかな。優位な立場に生まれた人たちはそれがあたりまえでそのことに疑いとか持ったことないでしょう。あたりまえと見なしていることを疑ってかかることが作家の基本であると、いろんな方がいってますよね。

まめ閣下:あー、ひとつ大事なことを言ってもいいかにゃ。

下僕:はい?

まめ閣下:この世の平和のためにはマチズモではなくキャティズモである。

下僕:キャティズモ? ってなんですか?

まめ閣下:キャット、つまり猫優位主義である。

下僕:はいはい、もうそれは十分実践されておりますよ、我が家では。

 

 

【講座】2021年8月28日 町田康の「文学の読み方」~中原中也「山羊の歌」を読む@池袋コミュニティ・カレッジ

・若き天才詩人にも「幾時代かがありまして」。

・「神を見た男」としてメチャイケな時代もあったのに。失ってから知る悔しさよ。

・詩というのは、ただかっこいい言葉だけを連ねたものではない。あきらめずに何度も読んで、言葉の背後にある大きなものをつかみとるべし。

 

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下僕:閣下、閣下、ねぇ、酸素カップ抱えて寝てないで起きてくださいよ。

まめ閣下:ふわぁあああ、にゃ、にゃんだい。予がせっかく高濃度酸素キメていい気分でおるというのに。

下僕:だって久しぶりに対面の催事に行って参りましたので、ご報告をと。

まめ閣下:ん? そういえばこの前は6月の上旬だったかな。ま、疫病がますます蔓延しておるようだからしかたあるまい。で、今日は何の話だったんだい? またどうせ「康さん詣で」であろう。

下僕:さすが、わかってらっしゃいますな。それにようやく「こうさん病」じゃなくて「詣で」とおっしゃってくださいましたね。はい、本日のお話はこちらでございますよ。

 

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まめ閣下:ふむ、中原中也か。

下僕:あ、ご存じでいらっしゃいましたか。

まめ閣下:あたりまえだ。「汚れつちまった悲しみは」ってやつだろ。

下僕:ぶ、ぶー。「悲しみに」でございますよ。

まめ閣下:ん? 「汚れつちまった悲しみは たとへば猫の玉袋、小雪のかかってちぢこまる」ってんじゃなかったか?

下僕:はぁ? そんなん言ってたら熱烈な中也ファンにしばき倒されますよ、もう。

まめ閣下:わかった、わかった。これも貴君の中身の薄い話を少しでも膨らませてやろうという親心ではないか。

下僕:そういうの、いりませんから。

まめ閣下:いやしかし。だいたい貴君に詩がわかるのかい? って、前にもそんな話したような気がするが。

下僕:はいはい、こちらですね。たしかに年を取るにつれて詩が難しく感じるようになったかもしれませんね。なんというか、つい文脈を求めるというか、ロジックでとらえようとするというか。今日はちょっとそういう話もありましたよ。

まめ閣下:そうか、じゃあ話を聞かせて貰おうか。手短にな。

下僕:はい、はい。最初の部分は中也の生い立ちをかいつまんで解説。家族の血の繋がりとか宗教的な違いとか複雑さを抱えていたようで。中学も地元の山口中学に入ったものの、おそらく成績不振のために、途中で京都の立命館中学編入。そのころから短歌に凝り始めたらしく、初期の詩にも短歌の影響があったようです。その後、人生におけるいくつかの大きな出来事が起こります。ひとつは高橋新吉の「ダダイスト新吉の詩」との出会い。これによって中也はダダイズムの詩に目覚めたとして、初期の「名詞の扱いに」という詩を町田さんが朗読。その冒頭に「ロジックを忘れた象徴さ 俺の詩は」というのがありまして。中也はやたらそういうことを言っていたらしい。要は名前や「愛してる」「悲しい」など言語化された感情は白こい演劇みたいだからやめろっていう話みたいです。言葉によって規定されてしまっている世界。詩はそこから離れたところにあるべき、という。それを聞いて、なるほど、と思ったんですよね。今わたくしがどんどん詩がわからなくなってるのは、ひょっとしてロジックのせいかと。

まめ閣下:ふんふん、貴君がさほどロジカルとも思えんがね。で、ほかの大きな出来事ってのは。

下僕:ひとつは長谷川泰子と出会いですね。二人は同棲するんですがその後、友人の小林秀雄に取られてしまう。もともと女性のほうが熱を上げていたのか中也のほうはかなりぞんざいに扱っていたようなですが、いざ去って行かれたら急に惜しくなってしまった。悔しい、という感情に初めて突き動かされたそうです。それ以前の中也は若くして才能に溢れ、自信に満ちあふれていた。「オレって神だよね」とまでは言わないまでも「オレは神を見た男だ」「すべての物事を把握している」「オレにとってみればこの世はすべて必然」などと嘯いてブイブイ言わせていたわけです。ところが友人に女を取られて突然その「自己統一」が失われてしまった。そのとき感じた悔しさは「まるで赤ん坊の疳の虫のようなもの」だったと書いているそうです。

まめ閣下:突然やってきた世界の変容、パラダイムシフトみたいなもんだな。

下僕:はあ、で、まあそういう彼の魂の変遷を頭に入れて詩を読んでいきましょう、ということで、詩集「山羊の歌」から、まずは「春の日の夕暮れ」を朗読して、さらに内容を深く読み込んでいきました。詩の解釈は人それぞれでいいので、町田さんの読みということでしたが、たとえば「案山子」「馬嘶く」「伽藍」という語の解釈などつめていくと、急に詩の世界が明確に見えてきました。最初の段落は外的世界の描写、次の段落は少し内面が入ってきている、ひとつ置いて、最後の段落はなんとこれまで外側の自然だったはずの春の日の夕暮れが「主体」つまり「自分」に重ねられ、最終的には「自分はこれから詩を書いていくよ」という宣言になっている、というのですね。三つ目の段落は自分に対する自然からの批判ともとれるけれどあえて愚を口にする行為への励ましともとれる、と解釈されていました。あと、「トタンがセンベイ食べて」「灰が蒼ざめて」というような「~て」というのは短歌的表現だと言われて、へぇ、そうか、と。

 もうひとつ「サーカス」という詩もやりました。「幾時代かがありまして」で始まり同じフレーズが繰り返される辺りは、やはり出し物的口上の調子を出している。自分の人生のいろいろな時代を思い出し、つらい時代もあった、と言っている。それが「今夜此処での一と殷盛り(ひとさかり)」の繰り返しの部分は、今夜限り、つかの間の回復をしようじゃないか、ということ。その後はサーカスの様子をそのまま描写しているわけですが、ぶらんこのゆったり動く感じを「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」と表現することで倦怠感が出ている。それからサーカスを楽しむ観衆の様子が描かれ、最後には外の暗闇と「落下傘奴のノスタルヂア」という言葉が出てくる。外の暗闇というのは「今は戦争がない世の中である」ことを表していて、「落下傘」という本来は戦争において屋外で使われるものが今サーカスのテントのなかにあるということのやるせなさであろう。本当であれば「神を見た男」は芸人になって俗人を楽しませたりはしないものであるが、それを見て喜んでいるあるいは癒やされている人がいるのも事実である。そういうの、根源的にはオレのやりたいことではないけれど、そういうこともやるんだよね、という宣言ともとれるのでは、というお話で、深く感じ入りました。

まめ閣下:なるほどー。他にはどんな詩を読んだんだ?

下僕:いや、それが。資料にはあと5篇あったんですけど、例によって時間切れ~、でございました。

まめ閣下:そうだ、詩の読み方ってのは?

下僕:ああ、そうでした。とにかくあきらめずに何度でも読めってことですかね。詩というのは、ただかっこいい言葉だけを連ねたものではない。あきらめずに何度も読んで、言葉の背後にある大きなものをつかみとるべしって話だったと思います。とにかく町田さんのお話はやたらめったら面白く、あははげらげらさせられながらも、非常に深く鋭い切り込みが随所にあるので、一時間半などあっという間でありました。本日は、延長なしで。

まめ閣下:そうか。じゃ、貴君の話も、延長なしで。

下僕:〽ちょうど時間となりました~

 

 

 

【講師のいる読書会】2021年6月12日町田康さんと本を読む第7回「津軽」太宰治@大磯・カフェマグネット

・一冊の本について話す気楽な会

・読書に正解はない、読んで感じたことを自由に語る

・このタイミングで太宰を課題に選んだ理由はとくになくて「早く決めないといけなかったから」と町田さんはおっしゃっておりましたが、ふと気づくと読書会の翌日は太宰が玉川上水に入水した日。やはり作家っていうのはこの世じゃないところと通じてて、なにか呼ばれるものがあったのではないかしらん。

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下僕:閣下、閣下、閣下。

まめ閣下:なんじゃ、うっせぇな。そんなに何度も呼ばんでも聞こえておる。

下僕:だって、だって、だって、

まめ閣下:〽ぼくんち、ケーキ屋なんだもん!!

下僕:ケーキ屋けんちゃん? ふっるー。だいたい閣下なんでそんな古い歌知ってるんですか。まだ二十年しか生きてないのに。

まめ閣下:それは下僕から脳内伝達で、・・・ってこの話この前もしたよな? 何度もおんなじこと言わせるでない。もう、いいから、さっさと本題にはいらんか。

下僕:はーい。昨日は例の大磯での読書会だったんです。コロナ禍でもうしばらくは開催されないと思ってたんですが。なななんと、参加人数を10名に制限しての開催。申込受付開始と同時に定員の3倍くらいのメールが来たそうです。先着順10名のなかに入れたことは非常にまったく最高にウルトラ超ラッキー! だったんでございますよ。

まめ閣下:ほう、くじ運の悪い貴君にしては珍しいことだな。

下僕:はい、まことに。苦節○十年、やっとオレにも運が向いてきたか!

まめ閣下:いや、これで幸運使い果たしたんだとおもうぞ。

下僕:そ、そんな不吉なこといわないでくださいよ。

まめ閣下:もう、いいから本の話に入ったらどうだ。

下僕:はい、はい。昨日の課題図書はこちらです。太宰治の「津軽」。大好きな作品について町田さんとともに語れるんですから、そりゃあ興奮もいたしますよね。なんちゃって、実はだいぶ昔に読んで、好きだった、面白かったということはおぼえていたんですが内容はかなり忘れてしまっていて、課題として取り上げていただき、また新たな気持ちで読むことができましたよ。

まめ閣下:物は言い様じゃな。貴君の場合、その、記憶力にいささか難あり、つーか、かなり残念な記憶力しか所持しておらないからな。しかしまあ、何度読んでも常に新鮮に読めるっていうのはある意味お得ではある。

下僕:ふん。(鼻息)

 

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まめ閣下:で、どうだったんだ、肝心の読書会は。

下僕:はい、今回は少人数だったので全員がじっくり感想を語る時間があり、さらにその感想について他の参加者も自由に発言して意見交換しましょうと町田さんが提案されたので、というか、以前から町田さんはそういう読書会をやりたいと思っていらっしゃったんだけど、これまではどうしても定員が30人超とかになってしまうから普通の講座みたいになって自分一人が先生になってしゃべってしまう形式になるのが不満だったようでして。で、参加者のほうもそのくらいの人数だとやはり発言をためらいがちになって、活発な意見交換とか難しかったんですよね。その点、昨日の読書会は最高でありました。わたくしなんぞはついつい話が長くなってしまって・・・

まめ閣下:なんだ、やっちまったか。

下僕:はぁ。わたくしひとりのせいではないはずでござりまするが・・・17時終了の予定が例によって例の如く18時まで延長に・・・

まめ閣下:ふぅ、まったく。

下僕:でもね、いい作品はどうしてもみんな語りたいことがたくさんあるじゃないですか。それに疑問に思ったことを出し合って、それについて自分はこう思ったとかを語るのが読書会の魅力ですから。わたくしが疑問に思った点についても、いろんな方がそれぞれの読みを話してくださって、ああそういう見方もあるかと気づかされたり。多面的に読めることになるんですよね。

まめ閣下:それは貴君が個人的にやってる読書会でも常に言っていることだにゃ。

下僕:はい。わたくしが読書会をやるようになったのは、こちらの大磯の読書会(第5回・課題は吉村萬壱さんの「前世は兎」)に参加して、町田さんの読書会に対する熱い思いに触れたからなんですよ。そして今回ようやく、町田さんが思い描いたような会になった。町田さんも「こういう形ならこれからもっとちょくちょくやりたい」とおっしゃってましたよ。

まめ閣下:はは、そりゃまた熾烈な申込の戦いが繰り広げられるというわけだにゃ。おい、しかし、なかなか本の内容に進まないのはどういうことだ。

下僕:ああ、えっと、みなさんの意見、同じところに感じ入ったり、それぞれ違っているところもあり、まとめきれないというのが本当のところでありまして。なかでも「太宰は津軽においてウィルスのような存在である」という説を出してきた方があって、衝撃的でしたがそれがなかなか説得力に満ちていて。詳しい話は他の方のご意見ですのでここには書きませんが、

まめ閣下:とか言って、理解がおよばなかったんであろう、貴君のこんにゃく頭では。

下僕:ぎ、ぎくっ。町田さんが「これはちゃんとした論文にしてどっかに出したらどうか」っておっしゃってましたよ。誰も考えたことがないようなものだったから。

まめ閣下:他の方々の意見は書きづらかろうが、貴君の読みは予に報告したっていいだろうよ。

下僕:長いですよ。

まめ閣下:まぁ、手短にな。

下僕:わたくしの話はあとで閣下にはかいつまんでお聞かせするとして、町田さんがどう思ったかということだけ。この旅は太宰の「子ども返り(退行・幼児化)」の旅ではなかったか。そこそこ名の売れた作家になってようやく故郷に帰ったものの、皆は志賀直哉ばっかり持ち上げて自分のことはさっぱり。名を上げて少しは見直してくれたんじゃないかと期待して実家に帰れば、やはりなんだか身の置き所がない。地元の人からはいまだに「津島の家の(ドラ)息子」という眼でしか見られない。作家としても男としてもダメという刻印を押された感がある。俺はダメだ。でも俺がダメになったのは本当に俺のせいなのか?という思いがある。俺が悪いんじゃなくて家族や家が悪いんじゃないのか。それで罪がなかったころの自分を育ててくれた女中のたけに会いに行く。使用人たちと心やすく過ごすうち自分は女中の子、使用人の側の人間なんだと考え、これまでの失敗を捨てて再出発しようとするという話なんでは、と。完全に幼児に戻って、天真爛漫無邪気に放ったのが有名なこの文末。

「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」

最後の唐突な終わり方は、さすがに「力尽きた」んではなかろうか、とおっしゃってました。(例によって記憶は甚だ怪しいのでありますが)


***わたくしの拙い感想文を写真の下に貼り付けておきますんで、ご興味ございましたらチラ見でもしてくださいませね。話が長くてすんまへん。

 

 

 

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太宰治著「津軽」について

 この作品は故郷の津軽を実際に訪ねて綴った紀行文の形式をとっています。序編には、故郷とはいえこれまで自分が知っていた場所はほんのわずかでありこの機会に今まで知らなかった津軽を歩いてみたいと書かれています。実際初めて訪れる地についても書かれてはいますが、全体を通して読んでみるとそれは決して「縁もゆかりもない未踏の地にめずらしいものを見にいく旅」ではなく、太宰の心の故郷と呼ぶべきところに繋がる場所をたどっていく旅だと感じました。

 序編に書かれているように、太宰は津軽に対して「汝を愛し、汝を憎む」という両価的感情を抱いています。また家族に対しても同じような感情を抱いている、というか故郷と家族は分かちがたいものなのかもしれません。憎しみというのはもともと愛情から派生しているものですから、この作品は太宰が抱くさまざまな形の愛について書かれたものだと、読み終えてから感じました。太宰自身が序編の終わりに「私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。(中略)私はこのたびの旅行において、主としてこの一科目を追究した」と書いています。

 紀行文としての楽しさももちろんあります。とりわけ旅のあちこちで供される食材の豊かさは、とても終戦の一年前のこととは思われませんでした。とくに蟹田で出てくるものはどれも、行って食べてみたいと思わされました。

 本編の出だしは紀行文らしく軽やかに、自分の身なりの滑稽さ(紺色に染めたのに変色してむらさき色になってしまったジャンパーに緑色のゲートルとか)や古い知人たちとの酒宴の様子が面白おかしく書かれています。

 酒宴ではなんと言っても、世慣れた紳士然としていたSさんが自宅で酔って太宰を過剰にもてなそうとする場面から「Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ」と答えたという。叱られるつもりでいるらしい。」に至るまで、腹を抱えて笑ってしまいました。「決して誇張法を用いて描写しているのではない」と書いていますが、そのみごとな書きぶりには作者のエンターテイナーとしての才能をみせつけられます。また、Sさんの逆上したようなもてなしぶりを「津軽人の愛情の表現」と評していますが、東北にいる自分の親戚の顔をいくつも思い出して、津軽に限らないよなあと思いました。

 酒に振り回されるエピソードがたびたび出てきて、酒飲みであることの哀しさ愚かしさがこの作品のもう一つのテーマなのかもしれないと思われたほどです。最初に(「二 蟹田」)、酒は泥酔などして礼を失しない程度ならいいのだ、自分はアルコールには強いのでよその家でごちそうになって乱に及ぶような馬鹿ではない、と言うようなことを書いておいたのは、その後につぎつぎ繰り広げられる酒ゆえの愚行をより面白おかしく読ませるための前ふりだったようにさえ思われました。実際、そのすぐ後に、宴会で言わなくてもいいことを言ってしまって「甚だいやしいことを、やっちゃった」と書いていますし、旅の最後の「五 西海岸」では、「このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を廃す気持ちにはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜらる」と書いています。そういうところがまた太宰らしくてかわいいと、読者は思わされてしまうのです。

 「三 外ヶ浜」では古い友人であるN君との旅が書かれますが、ここでもまた酒飲みの哀しさ愚かしさを表すエピソード(本覚寺でのN君の思いも寄らぬ長話、衝動的に買ってしまった鯛など)がこれでもかと描かれています。すべてを通してN君への愛情が感じられ、「この友人を愛している」という一文は、太宰にしては珍しく裏を読む必要はないのだろうと感じました。

 前半は古いつながりの人たちと会い大いに飲んで旧交を温める様子を面白おかしく綴っているわけですが、「四 津軽平野」から様子が変わってきます。序編から四章の冒頭に長々と書かれる津軽の歴史に至るまでが、「大河が海に流れ込む直前に奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなっている」かのように、本題に入るのをためらって遠回りしていたのではないかとさえ思われました。とうとう金木の生家を訪ねることになるからです。勘当に近い扱いを受けていた長兄との対面に、太宰は緊張し身の置き所がないような感じを覚えます。父親代わりとして太宰を支え数々の不始末の尻ぬぐいもしてきた長兄を、太宰は煙たい存在だと感じているのがはしばしから伝わってきます。でも鹿の子川溜池を皆で訪れたとき他の者たちと気安く交われない長兄を目にして「兄は、いつでも孤独である」と書いているところに、常に厳しい家長としてふるまわなければいけない長兄に対し気持ちを寄せているのがわかります。「五 西海岸」で「長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし」と書いているように、これはこれで愛の形なのだろうと思わされました。

 金木の家ではまた、嫂や姪たち、子どものころから世話をしてくれていたアヤとともに楽しい時間を過ごし、修練農場や岩木山などこれまで知らなかった金木の魅力を発見します。家族に抱く複雑な感情とは違って、T君、アヤ、中畑さん、それにたけなど子どものころに世話をしてくれた人たちに対して太宰は愛情を隠すことなく描いています。

 母親代わりに自分を育ててくれた女中のたけに修治が会いに行くのが、この旅の、そしてこの作品のクライマックスです。二人がほぼ三十年ぶりの再会を果たすまでに、太宰はたくさんの障害を用意します。(小泊に着いたものの住所がわからない、人に聞いて訪ねて行っても留守、近所の人に尋ねてようやくたけが運動会に行ってることがわかる。)その苦難を乗り越えて国民学校にたどり着いたとき目にする運動会の描写がお伽話の世界のように美しく、ああこれでようやく思いが叶うのだと感じました。ところが太宰はまたしても障害を用意します。なりふり構わず必死に探し回っても人が多すぎてたけを見つけ出すことができません。あきらめてもう帰ろうかと学校を出て、帰りのバスの時間までどこかで何か食べようと思って宿屋へ入っても断られる。どこまでもついていない、修治の前に次から次へと現れる障害に読者ははらはらさせられ続けます。だからこそ、今生のいとまごいにと再びたけの家の前に行ってようやくたけの娘と顔を合わせるというところで、読者も拳を振り上げて喜ぶのです。ところが作者はそう簡単に話を進めてくれません。娘の案内でようやく会えたというのに、たけはさほど驚いた様子もなく淡々としています。それでも無言でたけのそばに腰を下ろしているだけで修治は満足し安心しきってしまいます。「胸中に一つも思う事がなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちのことを言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい」という描写で、どれほど幸福を感じているかがわかります。三十年ぶりに会うたけの姿を黙って観察して、モンペの柄にまで他のアバとは違うと贔屓目になってしまう修治がかわいく思えます。餅を勧めても食べたくないという修治に、たけが「餅のほうでないんだものな」と酒飲みであることを察した様子で、しきりにふかしているたばこを目にとめて「たばこだの酒だのは、教えねきやのう」と言われて、修治は咎められたように感じたようですが、わたしはこのたけの物言いに、東北人らしいおおらかなユーモアのようなものを感じました。

 その後二人は運動会を離れて竜神様の桜を見に行きます。その桜の下で、にわかにたけが堰を切ったようにしゃべりだします。どんなに自分が修治を恋しく思い会いたいと願ってきたか、せつせつと語る言葉に、読んでいるこちらも声を上げて泣いてしまいました。ああ、この津軽の旅は修治が心の母を訪ねる旅だったのか、と感動の嵐のなかで作品は終わります。

 作品の最後の部分には、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった」と書かれていますが、これは例によって額面通りに受け取ってはならない太宰の言葉なのです。実際にはかなりの脚色や創作があったことが解説にも書かれています。

 しかしこの作品に描かれているかなりの出来事が創作だとしても、この作品の魅力は何にも代えがたいものです。実体験をそのまま書いているように見せかけて、実は念入りに創作の手を加え素晴らしく面白い作品にしてしまうのが太宰治という作家だと思いました。

 ひとつ、気になったところがあります。「三 外ヶ浜」では、津軽について書かれた文献をいくつか紹介してたいていは津軽がこの国の歴史や文化のなかで軽んじられてきたことを嘆いていますが(余談ですが三馬屋を襲った津波の前に起こったとされる超常現象が非常に美しく町田作品を彷彿とさせられました。)、佐藤理学士が書いた奥州産業総説のなかの「文芸復興直前のイタリヤにおいて見受けられたあの鬱勃たる擡頭(たいとう)力を、この奥州の地に認めなければならぬ。」以下の言説には大いに喜んでいる様子があります。この章の最後のところ、外から幼い女の子が手鞠歌を歌っているのが聞こえてくる場面で、佐藤理学士の言説がまた出てきます。歌を聴いて、「たまらない気持ちになった」という部分にわたしはちょっとひっかかりを覚えました。「たまらない気持ち」というのは、深く感動を覚えたということなのか、もっと複雑な、両価的感情がここにもあるのか。中央の人に未だに蝦夷と軽蔑されているこの地にもこのような美しい発音の爽やかな歌声が聞こえてくることに感動を覚えたというのはわかります。が、佐藤理学士の言説自体が、現代のわたしから見ると「底の浅い中央礼賛」のように思われてしまうのです。太宰は心から佐藤理学士の言説を喜ばしく感じていたのだろうか、と疑問に思いました。「明治大帝の教育」うんぬんという言葉が出てきているところを見ると、軍事的に大事な場所だから詳細には書けないというのが何度も出てくるのとあわせて、その時代、ひょっとするとそういうふうにしか書けなかったのでは、と穿って考えたりもしました。しかし「五 西海岸」にもまたこの佐藤理学士の言葉が登場します。歴史の自信がないがゆえに卑屈になってよその人のことを「卑しきもの」など蔑んでしまいがちな津軽人に対しての強力なエールとして捉えているのがわかります。

 今でこそ地方の独自性とか個性が尊ばれるようになってきましたが、考えてみるとついこの間まで自分も、東京こそが文化の発信地であり日本全国すべからく東京を追いかけ模倣していくべきだと考えていたような気がします。時代による価値観の変化を感じました。

 

【読書会】2021年6月6日「トーベ・ヤンソン短編集」

・言葉の意味とは。理解とは。

・小説の言葉とは。

・それにつけても「読書会」ってすごいわ。

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下僕:閣下、昨日の読書会も白熱しましたね。

まめ閣下:ん? 予にはただの世間話にしか聞こえなかったが。

下僕:あ、そうか。閣下は読書会本編が終わってから参加されたんでしたね。

まめ閣下:なんで肝心のところに予を入れぬのかにゃ。

下僕:いいじゃないですか、懇談会は楽しまれたんですから。だって閣下は自由気ままに突然絶叫ライブを始めちゃったりするから。

まめ閣下:それが猫というものじゃにゃいか。魂の叫びは止められにゃい!

下僕:はいはい、すみませんでした。じゃあ、いつものようにいいとこどりで閣下にもご報告いたしますよ。

まめ閣下:いつも「いいとこどり」してるとも思わんが。

下僕:あー、こほん。始めますよ。昨日の課題図書はこちら。トーベ・ヤンソンは多種多様な短編を数多く残しているのですが、そのなかからいくつかのテーマに沿って選んだ短編集です。今回課題となったのは、<創作><旅><老いと死の予感>の3テーマで14作品です。

まめ閣下:トーベ・ヤンソンって言ったら「ムーミン」の作家ではにゃいかな?

下僕:はい、さすがよくご存じで。閣下が「ムーミン」を知ったのは、テレビアニメで? それとも原作の方ですか?

まめ閣下:そりゃあ、テレビアニメに決まっておる。

下僕:えっ、つまりそれは、ある一定以上の年齢ってことですね? たしか閣下は今二十歳ですよね? ムーミンのアニメ版を観ていた世代だとすると、年齢詐称じゃありませんか?

まめ閣下:ば、ばかをいうでない。これはつまりあれだ、下僕からの脳内伝達。下僕が見聞きしたことを予に脳内で伝えているというこのブログの前提を忘れてもらっては、困る。

下僕:うーん。ムーミンのアニメについてお伝えしたことはなかったと思いますが、まあいいや。

まめ閣下:とにかく、トーベ・ヤンソン短編集。たくさんの作品を取り上げたんだにゃ。

下僕:はい。すごく短いものが多いので。しかし案外読むのはたいへんでしたよ。わたくしだけかもしれませんが。

まめ閣下:貴君のごとき愚の巨人には難しすぎる内容ってことか。

下僕:愚の巨人。ま、それはたしかに当たっておりますが。なんというか、すんなりと読み込めなくて、先に進むのに時間がかかったんですよね。なんでだろうと思っていたんですが、昨日みなさんの話を聞いていて、ああそうか、ってわかったんです。たぶん文章がそこに書かれている言葉の表面の意味だけの連なりではないというか、複層的というか。ほら、我々が日常的に接している文章ってのはさくさく読めてすぐに意味がわかるって種類のものじゃないですか。ネットの情報、雑誌の記事。小説にはそうではないものもありますが、エンタメなんかだとするする読めることが大事だったりしますよね。トーベ作品はそういう見地からいうと小説の文章ではなく詩に近い。もちろんストーリーもちゃんとあるし風景描写や生活のディテールも素晴らしいし決して抽象的ではない。人物造形も豊かで、ユーモアにあふれた作品もある。でもなんだろう、一文を消化するのに時間がかかるっていうか、読んでも消化しきれないまま次に行くという感じ。言葉の表面だけを追っていたら見落としてしまうことがすごく多い。

まめ閣下:ふむ。なんか難しい感じだにゃ。

下僕:それがそうじゃないんですよ。面白い。でもさっと読んでしまうとわからないものも多い。まあそれこそが短編の本領というものなのかもしれないですが。

なんでそれに気づいたかというと、昨日の参加者8名はみなさんこの作品を気に入っていたんですけど、なかにお一人ものすごく心を掴まれた方がいて。その方の熱い語りを聞いていて、なるほどと。仮に名前をFさんといたしましょう。Fさんは今回の課題には入っていなかった「嵐」という作品に大いに目を啓かれたようなんです。なかに出てくる「夜」とか「夢」とか「クリスマスツリー」とかの単純な言葉にも、自分が今まで考えもしなかったものが含まれているのではないか。われわれが日々理解し認識しているものはすべて言葉を通してであるはずなのに、同じ言葉であってもそこには人それぞれにちがったものがあるのではないか。ズレがあって当然であるはずのものを、われわれはあえて素知らぬ顔をして「言葉の最大公約数的意と理解に媚びて」いるのではないか、と考えたらしいんです。うーむ、ちゃんと説明できてる自信はないんですけど。

まめ閣下:Fさん、愚なる下僕を許してやってくれよ。

下僕:Fさんは、わたくしがラストの意味をつかみきれないでいた「森」という作品についてもきっちり評してくださって、「子ども性とその世界が失われてしまうとき」というものをものすごく的確に描いた優れた作品だと絶賛されてました。ごっこ遊びのなかの真実が現実に直面することによって消される、というラストなんだと。

Fさんは、トーベが宮沢賢治と共通するところがあるとも指摘されてました。それについて別のSさんという方も、最後に収録された「雨」という作品に宮沢賢治の「眼二テ云フ」に通じるものを感じたと。死に瀕している人の視点、その瞬間を切り取る鋭さ。

また、「時間の感覚」という作品について、わたくしは単に認知症を患った祖母と祖母を愛するが故気遣うあまり神経質になりすぎてしまう青年の旅の物語で、でも本当は祖母の時間軸のほうがあるべきものではという話、という程度に読んでいたのですが、何人かの方が、語り手が「僕」から途中で三人称の「レンナルト」に変わっていくのには理由がある、信用のおけない語り手であることが示されている、と指摘して、あっ、そうなのかって。

あと「リス」とか「猿」という動物が出てくる作品があって、わたしはどちらも愛憎と簡単に言い切れない複雑な心理的愛着の表現だと読んでいたのですが、Kさんという方が「猿」のほうは「創作・芸術」のメタファーなのでは、とおっしゃって、たしかにそうかも、と。

もうね、うにょにょうにょにょ、わたくしごとき知の小人、いや愚の巨人には眼から鯛のごとき鱗がぼろぼろと削り落とされるようでございましたよ。

まめ閣下:なにを今更、って感じである。予がいつも言っておることではにゃいか。

下僕:はぁ。

まめ閣下:いっぱい作品があったけれど、特に評判がよかったのとかあるのかい?

下僕:ああ、はいはい。一番人気はやはり「雨」。死にゆく人のその瞬間、情景描写の美しさ。あとは孤島で暮らす女性とリスの不思議な関わりを書いた「リス」、美術館で見かけた尻の彫刻がほしくてたまらなくなった男とその恋人を描いた「愛の物語」、これぞまさしく「愛の物語」!って拳を振り上げたくなる。それに煩わしいしがらみをすべて捨て去って船旅に出た男が、結局そこでもやっかいな人々と関わることになるという喜劇「軽い手荷物の旅」。それから課題には入っていなかったのになぜか多くの人が「往復書簡」を上げていました。往復とはいうものの、熱烈なファンと思われる日本人の女の子からの手紙だけで綴られた物語です。ああ、そうそう、Kさんが「愛の物語」のなかのキーアイテムが尻の彫刻であることがすごい、と。それだけでもう読者を面白くてたまらない気持ちにさせる、他でもない尻というものを選ぶ「言葉の経済効率」コスパのよさがここに顕著に表れていて、すごいとおっしゃってましたね。

まめ閣下:にゃるほど。最小の言葉で最大の効果をもつものという意味だにゃ。短詩、詩の言葉にも通じる。予は猫であるからコスパとか経済効率ってのはよくわからんが。

下僕:わたくし、今日になってからFさん絶賛の「嵐」を読みました。本当に詩と小説の複合みたいな、美しく深く心に響く作品だと思いました。でもたぶん、一度読んだだけでは味わい尽くせない、とも。たぶんどの作品もそうなんですよね。短いし、思い立ったらいつでも何度でも読み返せる。そしてそのたびにまったく新しいものとして読めるかもしれない。

今回に限らず、読書会をやって他の人の話を聞くと、もう一度作品を読み返したくなることが多いです。自分だけで読んでいたら決して気づくことがなかったようなこともみつかる。語り合うってことはすごいなって思いました。そしていい作品ほど、誰かと語りたくなるものなんですよね。

まめ閣下:ふんふん。そうやって愚の鱗をこそげ落として、少しは愚の小人くらいにはなれるといいのう。

下僕:それって愚の巨人よりはましなんですかね? 知のミジンコくらいにしてもらえませんか?

まめ閣下:うーん、じゃあ、知のウィルスってあたりじゃどうかな。

下僕:はっ、ひとつ大事なことを言い忘れました。これ、翻訳も素晴らしいです! 冨原眞弓さんとおっしゃるフランス哲学が専門の方のようですが、トーベ・ヤンソン作品も多数手がけていらっしゃいます。この詩のような文章を日本語でごくごくと飲み込むように読ませていただけるなんて、至福でありましょう。

 

【講師のいる読書会】2021年4月18日「パニック」開高健

・求心力より遠心力で描く

・寓意・寓話小説

・人間のきらいな人間

 

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下僕:閣下はぐっすりおやすみでしたが、昨日は例の小説塾だったんですよ。で、課題図書でこちらを取り上げました。開高健の「パニック」です。

まめ閣下:お、その話は知っておるぞ。ネズミがいっぱいでてくるおいしそうな話だにゃ。

下僕:あー、ネズミがいっぱいってあたりまではあってますね。ネズミが大発生して地域がパニックに陥るという話ですよ。主人公は地方自治体の役所の山林課に勤めてるんですが、120年に一度、ササが一斉に花を開き実を結ぶと翌年にはネズミが大発生するという史実に注目して、それが近々現実になるだろうという予測を上司に進言しているんですが全く相手にされないでいた。独自に対応策を準備しているけれど役所という組織のなかでうまくいかない。そうこうするうちに、ネズミの大発生が現実のものとなり・・・という話であります。最初、ネズミが大繁殖して引き起こされるパニック、という惹句を読んでわたくしはカミュの「ペスト」を連想したんですよね。やはりこのご時世ですから。でもこの話には感染症のほうは登場しない、ただネズミの大群に恐慌をきたす人々を描いてます。「ペスト」はわたくしちょうど一年ほど前に読みまして、初めて実際に体験するパンデミック下ということもあり深い感銘を受けたわけですが、あちらがネズミが感染源と思われる未知の感染症に自らの意思でたちむかう善意の人々を描き、病や死に直面した人間による哲学的考察の話だとすると、こちらは組織の中でがんじがらめにされた主人公が孤独に状況と戦うという話で、主人公の動機も正義感とか社会や他者のために献身するというよりは、組織のなかのパワーゲームに挑むみたいなスタンスです。組織の中で働くことに対して絶望していて、なんとかそこで生きる楽しみを見いだそうとしている。中心になっているのは役所という組織の腐敗で、これは1957年に書かれた作品ですが、まさに現在のコロナ禍における政権のありようを明確に描いているように思えます。最後は増えすぎて飢えたことで狂ったネズミが集団で湖に飛び込むという形でふいに状況に終止符が打たれる。結局人間は何もできない、自然にたいする人間の無力さが示されます。そしてまた120年後に同じことが起こるのだろうというのも暗示されます。

まめ閣下:なんだ、ネズミどもは勝手に死んじゃうのか。もったいないのぉ。その場に馳せ参じて心ゆくまでネズミどもをもてあそびたいものだにゃあ。

下僕:閣下、もう口ばっかり。飢えてコントロールを失ったネズミの大群に閣下がかなうはずがないじゃあないですか。悠々自適にお暮らしになって、最近じゃあねこじゃらしにすら反応しないんですから。

 えっと作品に話をもどしますよ。この作品はそういう組織と人間、自然と人間というものをジャーナリスティックな視点で描いた面白さももちろんあるんですが、文章がすばらしいと思いました。表現の巧みさやはっとする美しさは純文学のものでありながら、その文体は乾いていて、ところどころ英米文学の翻訳を読むような印象を与えます。

まめ閣下:だっていわゆる純文学なんだろ、芥川賞作家なんだし。

下僕:はい、この本に収録されている「裸の王様」が芥川賞受賞作で、もう一作「巨人と玩具」も今回参考課題だったんですが、そういう点では同じような印象を受けました。講師のN氏によると、開高さんはもともとは同人誌などで生粋の純文学的作品を書いていたらしいです。それが、サルトルの「嘔吐」を読んで衝撃を受ける。どんなに内面を掘り下げようとしても自分にはこれ以上のものは書けないだろう、と。掘り下げるのには限界があると悟った開高さんは、それまで内側に向けていた力(求心力)を外側へ注ぐ(遠心力)方向へ切り替えた。そうして書かれたのがこの「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」だったということです。

まめ閣下:遠心力? 

下僕:はい。自分の内側に深く深く潜っていくというのではなく、外側、つまり周囲や社会を描くということでしょうか。それがジャーナリスティックで乾いた視線になったのではないかな。外を描くとなると必然的に自分と距離が必要になりますからね。「パニック」はたまたま農学者の方が新聞に書かれたエッセイをみつけて題材にしたものらしいです。「裸の王様」にしても児童画の大家に綿密な取材を重ねて書かれたもので、「巨人と玩具」は開高さん自身の宣伝部にいたというキャリアが書かせたもののように思われがちだけれど、実際は丹念に取材を重ねて書いたはず、とN氏はおっしゃっていました。それゆえに一見リアリティに溢れた物語を描いているように思われるが実はこれらは「寓意・寓話小説」となっている、と。表面に現れている物語には、その裏に寓意が隠されているとのこと。物語に託して自分が真に語りたいことを密かに忍ばせる、という感じでしょうか。

 この3作は発表時期がほとんど同じで怒濤のように執筆されたように見えるけれど、実は開高さんはあまりたくさんの小説は書いていない。エッセイやノンフィクションで培われた文章には乾いた明るさがある。また人間を見る目にも乾いた批判的視線と、でもどうしても突き放せない複雑な心情もあったのでは、とN氏、開高さんが敬愛していた詩人金子光晴の「おっとせい」という詩をあげられました。

  おいら。
  おっとせいのきらひなおっとせい。
  だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで

  ただ
 「むかうむきになってる
  おっとせい。」

というのだけれど、これが開高さんの人間に対して抱いていた感情なのではないか。「パニック」のラストも、人間に対して絶望している主人公が猫に向かってつぶやくのですよね。「やっぱり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」って。

まめ閣下:あぁ、それな。わかるわかる。実に同感だ。予も、猫のきらいな猫であるぞ。

下僕:ああ、それで。うちにこの前までいたあの三毛ジョとは最後まで和解できませんでしたなぁ。

まめ閣下:なに、それは別の話じゃ。あれは全面的にむこうが悪い。っていうか、予は猫の範疇には納まらないものである。おほん。

 

 

【講座】2021年4月17日「清水次郎長 語り口の文学Ⅳ」町田康 <オンライン>

町田康さんが語る「清水次郎長」も4回目、今回は浪曲清水次郎長」からはちょっと外れて、「 」についてのお話。

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まめ閣下:ふぁあああ、よく寝た。

下僕:よく寝た、じゃありませんよ、もう。せっかくのオンライン講座なのに、また聞いてなかったんですか?

まめ閣下:おやおや、なんのために貴君がおるのだ。講座の内容をかいつまんで予に報告するのが貴君の仕事ではないか。

下僕:はいはい、わかりましたよ。まあ、今日は手短にいきましょう。

まめ閣下:毎回それを言っておるような気がするがにゃ。

下僕:本日は「 」の自由と効能、というのが講義のテーマでございました。浪曲は節いわゆる〽(庵点)で表されるメロディーと啖呵(?)と言われる「 」でくくられた会話と、ナレーションにあたる地の文で構成されており、小説と似ている。落語の場合は、枕があってその後は会話だけ、地の文にあたるものはない。

まめ閣下:ふむ。でも小説にも歌の部分はないんじゃないのかい?

下僕:はい、わたくしもそう思ったんですが、町田さんによると、一人称の語り(独白体)などが歌にあたるのではないか、とのことでした。

まめ閣下:それで今回の話は「 」でくくられる会話の部分についてってことか。

下僕:はい。地の文(ナレーション)との違いは、「 」の中は人がしゃべっていること。しゃべり方で、性別、階級、職業、性格、感情などをくわしく表すことができる。同じことを地の文でやろうとすると説明がちになってしらける、と。また小説などでは語の統一が基本的には求められるけれど、「 」の中においてはそれもある程度自由にできる。方言も入れられる。また書き手側からしたら、自分以外の話し方にすることもできるという効能がある。ただしこの語り口というのも、そっくりリアルにというわけではなく、一種の虚構であって、標準的欺瞞というものが作られる。広沢虎造清水次郎長で言うなら、登場人物がみんな江戸っ子弁でしゃべっているのは実際にはありえないことだけれど、それを聞いている人は変だとは思わない。

 このように「 」には表現の自由があるわけだけれど、具体的にはどうなのか。たとえば方言などの場合、どの程度音を表現するか。そのまま書いて意味が通るか、音を正確に表現しようとするとひらがなばかりになって意味が通らない、意味をわからせるために漢字を使うとしゃべっている人の個性や特徴が出てこなくなる。その見極めは感覚というかその都度判断して決めるしかない。なんでも「方式」みたいなものをこしらえてそれに当てはめようとするとおもしろくなくなってしまう。

 また「使えない言葉」というものもある。いくら自由と言っても、その時代にはなかったものを出すわけにはいかない。我々は無意識のうちに今の常識にとらわれていて日常何気なく使っているカタカナ語には実は曖昧にしかわかっていないものが多い。日本語に置き換えてみるとあらためて捉え直すことができる。気づくことも多い。
 ただ、「 」の虚構による標準的欺瞞は、陳腐化に繋がる危険性もある。ドラマのなかだけで使われている「田舎風言葉」「百姓風言葉」「やくざ風言葉」「女言葉」など。

 それと「 」には時差ができがち。書いたときには新鮮だった言葉が本になって読まれるころにはもう古くなってるとか、年取った人が書いた若者言葉がどうしてもその人の若い時代の言葉だったり。しかし1度死語になった言葉がのちに息を吹き返すこともあるのは面白い。

 とにかく虎造の浪曲で、豊かな「 」を聞くことで、いろんなものから自由になっていくことができるであろう、とまぁ、だいたいこんな感じでしたかね。

まめ閣下:なんだ、それで終いかい? 今日はほんとに短いな。

下僕:はぁ、わたくしここひと月ばかり非常にいろんなことがありまして。ちょっと頭脳労働にまわすエネルギーが低下しておるんでありますよ。

まめ閣下:いつにもましてってことかい? 貴君の脳にエネルギーが行き渡らないのはいつものことだと思うがにゃ。

下僕:はぁ、なんとでもおっしゃってくださいませよ。ね、閣下。閣下はこれからも元気で長生きしてくださいませね。

まめ閣下:へ? なんだ、そりゃあ。

 

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