Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

2017年11月4日 町田康 講演会「読むことと書くことの関係」@中央大学多摩キャンパス

下僕:閣下、大変でございます!

まめ閣下:なんだ、騒がしい。

下僕:あの、今クローゼットのなかを整理いたしておりましたら、こんな古いパンフレットが出てまいりました! 開いてみれば、詳細なメモ書きが。これ、ちょっとご覧くださいませよ。

まめ閣下:ふむ、「主催:中央大学学術連盟 文学会」と書いてあるな。

下僕:はい、たしか大学の文化祭のイベントでございました。学生だけじゃなくて、一般人も聴講できるっていうんで出かけたんでございますよ。

まめ閣下:そうだったな。で、そのメモとやら、読んでみよ。

下僕:はい、では、さっそく。

 

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町田氏は、グレーのスーツ、くすんだピンクのシャツに黒いネクタイという出で立ちで登場。(主催者の大学生たちも全員が黒のリクルートスーツ。なんか堅苦しい

講演のタイトルは「読むことと書くことの関係」。
最初の一時間ほどは、「言葉を鍛える」ということについての話。
言葉を鍛えるというのは、いわゆる「語彙を増やす」とか「文章力をつける」とかいうのとはまったく違う。小説というものは、その「鍛え抜かれた」言葉によってしか壁を超えて行くことはできない。


ではどうやって言葉は鍛えられるのか。
それは何よりも読むことである。
それも、ただ純粋に読むことが大事である。

批評しようとか、読んだこと(=INPUT)を何か別の形(=OUTPUT)にしようなどと企てずに、ただ自然体で向き合い続けていくこと。

(自分が)表現しようとせずただ受容すること。
それをひたすら続けていくと、なにが良い物でなにが悪いものか、なにが本物でなにが偽物か、自然とわかるようになってくる。

自分が最初に言葉というものに真剣に向き合ったのは「歌詞」であった。
そもそも「パンク」というものは、既存のものへの反抗、破壊であったはずなのに、
日本におけるパンクロックというのは、どうにもそのオリジンであるところの英米から、雰囲気にしても言語的にも離れることができないでいた。
それまで、いわゆる「ロックの歌詞」の言葉は、なんというか、村上春樹の文学的であった。日本語で書かれていてもどこか英米的であり、日常を描いていてもそれはどこでもない場所であった。
そういうのではあかんと思って、わしは日常の言葉を使う、と決めた。
“Sex, Drug, Rock n’ Roll” ではなくて、「センズリ、アンパン、河内音頭」である。
歌詞らしい、文学らしい、ロックらしい、というように「~らしい」というものは様式である。
伝統様式からの脱却をめざせ。(パンクなどは今となってはもう40年近い歴史があるわけで、もはやそれは伝統である。自己矛盾。)

その後、5冊の本を取り上げて上記の内容を具体的に。

1.「夜を走る」 筒井康隆
大阪弁のタクシー運転手のモノローグ。
主題はただひたすら「酒が飲みたい」。
すさまじい罵倒語の連続、リズムのすごさ、絶対に小説の言葉ではないものをこれでもかというほど並べ立てていることに驚いた。今であれば確実に大炎上であろう。
しかしそれが文学として成り立っているのは、それらが高くそそり立つ壁をやすやすと突破する鍛えられた言葉であるからである。
笑いが文学の中心になるというのが、自分には発見であった。
ずっと気づいていなかったのだけれど、「くっすん大黒」のベースにはこの作品があったと最近になって気づいた。

タクシー運転手が主人公の映画「タクシー・ドライバー」だって内容的にはほぼかわらずヤバい話。なのに名作、かっこいい映画として受け入れられている。
それは英語であり、ニューヨークであり、ロバート・デ・ニーロであるという「かっこいいフィルター」がかけられているからだ。
そういうのにだまされてはいかん。

2.「エロ事師たち」 野坂昭如
これもまた大阪弁で書かれた小説で、そこに書かれているのは、炸裂する本音であり崩れ去る建前。
これはもう100回以上読んでいて、本当に自分の作品の素地になっている。

3.「阿房列車」 内田百閒
他人からは笑われそうなおかしな個人的な嗜好をしつこく正直に書いていて、読んだ時
「あ、俺がおる」と思った。
いかにも「へんてこなこと」をいかに正当か説得しようとすることは、自分にあわせて現実を変えようとすることで、普通であればそれは「キチガイ」と呼ばれる。
だが鍛えられた言葉を用いて表現することで、それは文学になる。

4.「開墾村の与作」 井伏鱒二
古典とか苦手だったのに、案外いいなあと思うきっかけになった作品(下僕注:うろおぼえ)。
古典の魅力は、抑制と自由のバランスである。
この作品に出てくる墓盗人のモチーフが「告白」につながっている。

5.「壊色」 町田康
「シティ・ロード」という雑誌に掲載していたもの。日記は百閒にインスパイアされて書いた。

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下僕:あー、その場ではよくわかって納得したはずなのにこうして後になってメモだけみるとちょっと支離滅裂なところありますね。

まめ閣下:まあ、ないよりはましであろう。しかしなんだか、後半に行くにつれて息切れしておるではないか。内容が薄くなってるな。

下僕:ああ、それはですね、例によって町田さん、枕がやたら長い落語じゃないですが、スロースターターな話しぶりでして、1時間半の予定だった講演を2時間にしても最後のほうは駆け足になってしまったんですよ。

まめ閣下:また、そうやってお前はよそに責任を転嫁しておるのだろう。

下僕:まあ、ちょっとそのへんは、むにゃむにゃ。そしてその延長になった分は、後半の質疑応答の時間を削ったんですが、この短い時間に投げかけられた質疑がまた、町田さんが笑い転げるような珍問が続出で、さすが大学生はちがうなぁ、と感心いたしました。

まめ閣下:笑い転げるんであればよかったではないか。

下僕:まぁ、そうでございますね。しかしこれ、あらためて見返してみると、先日の記事でも書いた内容と非常に重なっておりますね。ちょうど同じころに「文藝2017年冬号」の対談も出ていたので。また先日の京都の講演ともかぶっている部分もあり、これはこれで、これまでの講座を補足するうえでも大事なメモであると思うわけですよ。

まめ閣下:メモを取っているところは褒めてつかわすぞよ。お前のおつむの出来は、何度も聞いてようやく人様の半分どころか、ほんの少し理解が深まる程度であるからな。でもメモを残しておかなければ、その場ではわかったような気になって、すーぐに忘れてしまうんだからな。

下僕:はい、わたくし記憶力だけには自信が・・・、ないんで。

まめ閣下:まったく、困ったものよのう。

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