まめ閣下:下僕よ、昨夜は遅く帰ってきたと思ったらビール飲んでさっさと寝てしまったようだけど、何かイベントに行っておったのではないかな?
下僕:あぁ、すいません。ご報告したい気持ちはあったんですが、晩御飯食べそびれたし、久しぶりの新宿の雑踏でもう倉倉でしたもんで。
まめ閣下:まあよい。これだろ?
まめ閣下:この「文芸漫談」って、なんだ?
下僕:作家でありながら芸達者なお二人が、いわゆる名著を漫談風に語るというイベントで、今回はJ.D. サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」という作品を取り上げたものでした。
まめ閣下:なるほど、文学作品を軽快におもしろく語る、と。
下僕:わたくし、このイベントは初体験だったのですが、おふたりのおもしろおかしい掛け合いを楽しみたいというお客さんが多いのでしょう、昨日もチケットは完売でした。
まめ閣下:まぁ、漫談としての面白さやなんかはおいておくとして、文学的な話はどうだったんだい? 「Rock'n'文学」としてはそれを取り上げておかねばならんからな。
下僕:はい、そうでございますね。この「ライ麦畑でつかまえて」について、お二人の話のなかで印象に残ったものをいくつか、かいつまんでお伝えしましょう。閣下はこの作品読んでます?
まめ閣下:うん、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でな。
下僕:じゃあ、わたくしと一緒ですね。
まめ閣下:下僕の読んだものを脳内伝達で読んでいるんだから当然じゃにゃいか。
下僕:あ、そうでございました。
まめ閣下:基本設定を忘れては困るよ。
下僕:あいすみません。では、この作品がホールデンという16歳の少年のモノローグという形で綴られているというのはおわかりですね?
まめ閣下:おう、長い長い独り言だ。
下僕:で、こじらせ系若い男子の独白というのはある意味よくある文学の形で、有名な日本の作品では「坊ちゃん」に通じるものがある。(日本で唯一の童貞小説評論家を自認するいとうさんいわくその意味では「三四郎」にも通じるものがあるという話はかなり盛り上がりました。)そういうわりとよくあるタイプの作品がなぜこれほど人気を得て読まれたのか。それはなにより文体の魅力である。その大きな特徴は、スラングを多用した口語体で語られていること。スラングと言っても、現代のわれわれからみるとまったく「お上品」でむしろスノッブな感じがするくらいのものなんだけど、この作品が書かれたのが1950-51年という時代を考えると、当時としてははやりショッキングだったんじゃないか。日本ではまだ戦後復興まっただなかで日々の暮らしもなんとかという時代に、16歳の少年が車に乗ってデートしたり煙草吸ったりホテルに泊まってバーに行ったりしてる。それは当時の日本人から見たらまったく別世界のお話だっただろう。またホールデンは当時としては「不良」ではあるけどその不良性は今の我々からみたらひどく健全な不良性であるし、彼自身社会的には上流階級のエスタブリッシュメントにいるわけで、「強く偉大なるアメリカ」というアメリカ的アメリカの価値観が揺るがない時代にそれに対するアンビバレントな感情を抱いているがゆえにこじらせていく、というところが「俺の尾崎豊!」的な共感を呼ぶのではないか、と。
さらに、日本でこの作品が愛されたのは、野崎孝訳のぶっとびぶりも人気の一因だったと思われる。ってお話を聞いて、わたくしも断然野崎訳で再読したくなりました。もちろん、春樹訳もいいですが。
まめ閣下:まあ、春樹訳はどの作品も村上春樹の文体になるから、春樹さんの新作を読むみたいな感じはあるよな。
下僕:えっと翻訳の話もいろいろ面白いことが出たんですけど、とりあえず作品自体の話に戻りますね。わたくしが一番印象に残ったのは、この作品って言ってしまえばどうでもいいことが延々と語られている、くだらないエピソードや目的のわからない描写がいくつもあって話がとっ散らかってる、子どもの説明みたいに一生懸命長々と話しているのに最後まで聞いて「え、だからそれで?」「その話はどこにつながるの?」みたいなのが結構いくつもある。もっと上手に説明(描写)したら、もっとずっと文学的になるのに、と思うような箇所が随所にある。文の並びが「多動児」っぽい。これ、後輩が俺にしゃべっているんだったら「お前の話はつまらん!」と叱り飛ばしたくなる、と散々な言われようだったんですが、しかしそれをきちんと描写して整理して語ってしまったらおそらくこの作品の魅力がなくなってしまうだろう、といとうさんがおっしゃっていて、はっといたしました。ほんと、小説ってそういうものですよね。
まめ閣下:いわゆる「物語としては破綻しているが魅力的」ってやつ? 新人賞受賞作の選評でときどき見かける?
下僕:うーん、そうかもしれませんね。その言葉はわたくし、ちょっと痛いです。でもサリンジャーのこの作品は、意図してやってるんじゃないですかね。新人作家の「それ」とは違って。
もうひとつ、昨夜のお話でわたくしが「はっ」としたのが、いとうさんの、「この作品の語り手自体が不誠実な語り手である可能性もありますよね」という言葉。不誠実、つまり語っていること自体が実は嘘なんじゃないか、って解釈です。だって主人公はおそらく精神的な病によって入院させられているみたいなんですよ。だから、あまりに子どもっぽい部分を持ち大人社会のエスタブリッシュな価値観を否定している側面を持ちながら、時々過剰に大人社会に適応しているような行動や大人とも上手にやれるコミュ力をみせたりしている場面が語られたりしてちぐはぐな感じを受けるのは、それが嘘だからなんじゃないか。それほど彼は病んでいる、と思うと主人公にいとしささえ覚える、と。ただこの解釈は、奥泉さんの作品分析によってことごとく否定されてしまったんですがね。たしかに、不誠実な語り手だとしたら、作品のどこかにそれをうかがわせる部分がないとだめかな、とは思います。でもそれ、おもしろい見方じゃないですか?
まめ閣下:にゃるほど。たしかに、モノローグであるから何を語っても本人の自由、事実と違っていても客観性を欠いていてもいいわけだ。
下僕:はい、それが語りの面白さですよね。
まめ閣下:語りは騙り、だからな。
下僕:あ、閣下! それそれ。さすがでごじゃりますな。
まめ閣下:当たり前だ(ドヤ顔)。まあ、しかし、もう一回読んでみたくなったな。今度は野崎訳で。
下僕:はい、そうでございますね。翻訳についての話で、ひとつだけ。奥泉さんが、「吾輩は猫である」の英訳を自分なりに日本語訳してみたら、というのに取り組んだときに、冒頭の「I am a cat」というのをどう訳すのか、というのが一番難しい問題だったという話をしていました。「I」を「僕」にするのか「俺」にするのか「私」にするのか。もちろん我々は「吾輩」という原文を知っているわけですけれど、そこから離れて自分なりの訳をしようと思った時に、自分をどう呼ぶか、その呼称によって作品の雰囲気がまったく変わってしまう、そういう悩みなんですよ。なるほど、日本語って主語をはっきり書かないし、その主語の呼称によってその後の文体自体がまったく変わってきてしまう。むずかしいなぁ、とわたくしも思いました。で、奥泉さんはその冒頭の一文をどう訳したか。
まめ閣下:俺は猫だ。
下僕:ぶー、残念。正解は「あ、猫です」。これ、すごくないですか。この書き出しで、一気に引き込まれますよ。その後が読みたくなるじゃありませんか。
まめ閣下:おぉ、なるほどな。
下僕:というわけで、わたくしまたいろいろと学ぶことができましたよ。ああ、そうそう、この「文芸漫談」は文芸誌「すばる」で連載されているそうで、電子版でも配信中とのことですよ。
http://ebooks.shueisha.co.jp/original/
まめ閣下:1回分ずつシングルカットされて、1本100円か。なかなかいい商売ではないか。
下僕:閣下とわたくしもやりますか? 猫と下僕の文芸漫談。
まめ閣下:すでにこれがそうではないか。
下僕:ま、こっちは無料で読めますけどね。