Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

Poetry Jam Tokyo New Source 2019年6月22日 @青山CAY

下僕:突然ですが閣下は「詩」はお好きですか?

まめ閣下:好きも嫌いもない。予にとって詩とは空気のようなものだ。詩を吸い込み吐き出して生きておる。

下僕:それがあの毎夜毎夜開催される、大絶叫ライブ「おわぁ、おわぁ」ってやつですか?

まめ閣下:予の神聖なる心の叫びが、おっまえのごとき愚なるものには伝わらんのだなぁ。嘆かわしいことだ。その程度のオツムしか所有していない者がなんでいきなり詩の話など始めるのかな?

下僕:はい、わたくし昨夜初めて詩のイベントってものに行ってまいりました。こちらです。ポエトリージャム、って書いてあるでしょ? 要はポエトリー、詩を中心に据えたジャムセッションって感じでございましょうかね。

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下僕:s-ken & prester john、いとうせいこう is the poet、町田康 &3Sという3ユニットがメインパフォーマーで、他にID、GOMESS、toto、向坂くじらという若手のパフォーマンスがありました。スタイルも様々で、新劇風の朗読というものから、音楽にのせて言葉を放つもの、もちろんラップもあり、という感じで、一口に「詩の朗読」と言っても幅が広いなぁと思いましたね。<音楽>から<詩>へ移ろいゆく途中のグラデーション、というか。音楽に近いものから硬質な言葉で構成される詩に寄り添っているものまで。あ、そうそう、懐かしのダウンタウンブギウギバンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」風なのもありました。ったって、閣下は今18歳だから知りませんよね。

まめ閣下:なにを申すか。予はイデアであるから、時間や空間という認識はあらないのだ。

下僕:おっ、騎士団長ではありませんか! 閣下ってば、いつのまにイデアになられたんですか!

まめ閣下:おほん、予はイデアであって諸君の理解を助けるために便宜的に猫の姿をとっている、と考えるのが、このブログのコンセプト的にも便利ではないかと思ってな。

下僕:またまた。その「あらない」とか「諸君」とか、使ってみたかっただけでしょう? すぐそうやってかぶれちゃうんですから。
まめ閣下:まあよい。話を詩に戻そうではないか。だいたい、その愚なるオツムの諸君は、詩なんか理解できるのかね?

下僕:えっ、失礼な。そもそもわたくしが最初に書き始めた文章は詩でありましたよ。詩がやがて長い文章になって「一人語りのたわごと」になって、そのうち他の人に読ませるのを意識する小説という形に変化していったわけですが。音楽やっていたころは歌詞もずいぶん書きました。しかし「詩」というのはむずかしいです。

まめ閣下:むずかしい。書くのが? 理解するのが?

下僕:平易な言葉で、自分がうまく言葉にできなかった無意識を上手に浮かび上がらせてくれるようなわかりやすいものもありますよね。そういうのは心から「好き」「いい」って思うんですけど、1回読んだだけではわからないもの、1回読むのでさえひどく時間がかかるものも多いじゃないですか、とくにいわゆる「現代詩」とかは。そこに書かれていることが理解できないから、心から好きとかいう段階にいかない。

まめ閣下:なるほど。それは「内容」を「理解」しようと思ってるからじゃないかね。

下僕:だって言葉で書かれているものですから、その意味を理解しようとするのは当然じゃないですか? 音楽なら歌詞の意味なんてどうでもいいってのもありますがね。

まめ閣下:「意味」と「内容」ってのは違うものだと思うな。内容っていうのはそこでなにがどうしてこうなったって脈絡のことで、いわゆる「話の筋」だろ。意味というのは、もう少し深いところにあるものじゃないのかな。

下僕:閣下、なんか難しいことおっしゃいますね。たしかに、以前通っていた小説教室でも時々教材として「詩」を扱うことがあったんですが、とくに現代詩は小説書きたい人にはいつも大いに不評でありました。とくにエンタメ系の、話の筋が一番大事と思っている人たちにとっては、詩というのは理解しがたいものだと。小説っていうのは基本的には、他人に文脈をわかりやすく伝えないといけないですから、文章もそういう手順を手数をかけて踏んでいくわけですよね。たいていの場合それが省略されているのが詩ですから、「必要な手順を踏んでない」文章と感じるわけです。だから、書きなれていない人が書いたあちこちが破綻している小説に対して「詩のような」と評したりして。ちょっとネガティブな意味合いで使われていますね。

まめ閣下:どちらもおなじ「言葉」を使って作り上げるものなのに、奇妙なことであるな。というよりも、「言葉」というものはおなじではないのかもしれない。「話しことば」と「書き言葉」が違うように、詩のことば、俳句のことば、歌のことば、小説のことば、落語のことば、それぞれが別のものなのかもしれないよな。

下僕:はぁ、さいですな。で、昨日のイベントを見て感じたことは、言葉も大事だけれど朗読(パフォーマンス)がまず物をいうのだということです。一口に「詩の朗読」と言っても、スタイルも様々だし、たとえばただ声に出して読み上げるだけだって人によってずいぶん異なってくるわけで、こちらは演劇に近いですよね。同じ詩を違う人が取り上げるというのはなかったですが、たとえ同じ詩を読んだとしても、声、読み方、リズム、そういういろんな要素があって、まったく違うものになると思うんです。「あ、この人の声好きだな」「この人のしゃべり方に吸い込まれるな」「このリズム感、めっちゃくる」、そういう好みは人それぞれにわかれるところなのではないかなと思いました。

まめ閣下:歌い手の好き嫌いと同じようにな。

下僕:そうであります。「歌唱力」と同じように「読み聞かせ力」や「朗読力」というものがあるんじゃないですかね。朔太郎忌のイベント島田雅彦さんが、「元来、詩人は神のことばを伝えるシャーマンであったはずで、魔力的なものを有している人であったはず。常人と異なる魅力、威力を備えていなければ誰もその言葉に耳を傾けない。だからその末裔であるところの詩人というのは当然人を惹きつけるものを備えている」とおっしゃっていたことを思い出しましたよ。

まめ閣下:そうだったな。

下僕:そして、「詩というのはそもそも伝染性のある呪文」ともおっしゃっていました。これ、わたくし町田さんの詩を読むたびに感じるんですよね。内容とか関係なしに、ただ呪文みたいに何度も唱えて言葉を楽しむ。昨夜の町田さんの朗読は、石牟礼道子さんや中島らもさん、太宰治さんらの作品でしたが、やはりそこにある言葉自体をたっぷりと味わわせていただきました。3Sというのは、近松門左衛門の話に登場する音(Sound)、歌(Song)、魂(Spirit)のことなんだそうです。中村さんのギターと浅野さんのフルートは、朗読を邪魔することなく、でもただ雰囲気やBGMとしてそこにあるのではなく、たしかに言葉の一部としてそこに存った気がしました。朗読の後に、「せっかくだから歌いましょう」と、「つらい思いを抱きしめて」をギターとフルートの伴奏で歌ってくれたのもよかった。言葉を味わう、という意味ではいつもよりも深くしみいる感じでした。しかし、町田さん、つい先日、今度は一番長く一緒に暮らしていた猫さんを亡くされたばかりで・・・それを思うとこちらもなんだかせつなくて。

まめ閣下:なんと。先週の太宰の講座のときとはまた別の猫さんか?

下僕:はい。たて続けで、どれほど心うちひしがれているか、と。

まめ閣下:家族を亡くしても舞台に立つ、本当にきついものだな。

下僕:閣下、長生きしてくださいませよ。

まめ閣下:なに、予はイデアであるから死という観念はあらない。

下僕:はいはい、ぜひともそうあってくださいませね。

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