Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【イベント】2020年1月20日「石牟礼道子の遺した言葉」町田康x若松英輔 @東京工業大学

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まめ閣下:下僕よ。どうした、さっきからノートを眺めてため息ばかりついておるが。

下僕:ああ、閣下。昨夜こちらで聴いたお話があまりに深く心に沁みて、何からどうお話しようかと考えあぐねているところでございます。

まめ閣下:話がまとまらないのはいつものことじゃないかにゃ。いつも言っておるが、諸君はそもそも頭の出来が残念なのだから、あまり上手にまとめようとか思わずに予に伝えたいと思うことだけ話せばいいと思うぞ。

下僕:はい、でもね、あまりに伝えたいことがたくさんあって、いただいたものがたくさんあって、どれから手をつけたらいいのかわからなくなっておるのです。

まめ閣下:ふむ。それじゃあどうだ、最初にイベントの大枠みたいなのを言ってみては。

下僕:わかりました。昨日はまず町田さんによる石牟礼作品の朗読があり、その後町田さんと若松さんがそれぞれ石牟礼さんの作品について思うことを述べ、休憩を挟んで、お二人による対談という流れでした。

まめ閣下:朗読はよかったんだろ。

下僕:はい、それはすごいものでした。「天湖」「しゅうりりえんえん」「道行き」からの抜粋だと、朗読後に町田さんがおっしゃっていました。形式としては詩です。詩はまことに声に出して読まれるべきものですね。音として響いてくる、力というか波動というか、霊的な震えといいましょうか、とにかくすさまじかった。途中、朗読する町田さんがぐっと声をつまらせる場面もあり、若松さんも目頭を押さえるしぐさが見えました。

まめ閣下:そうか。それぞれのお話ってのは?

下僕:まず町田さんが、石牟礼作品における7つのキーワードと、2つの疑問というものを提示しました。7つのキーワードは、「反転」「逢瀬」「狂気」「滅亡」「周縁」「哀惜」「荘厳(しょうごん)」、のちに若松さんとの対談のなかで、その7つにもうひとつ「憑依」を加えました。「反転」というのは世の中にある既成の価値観が逆になったりすること、「狂気」については狂気との親和性、近しいもの・自分のなかにあるものとして共感をこめて書いていると。2つの疑問は、「出発点は歌人だったが、初期の歌と長いブランクののちの歌が劇的に違っているのはなぜか」「それまでの文学を一切読んでいないというのは本当だろうか」というもの。これについてはあとで述べますね。

まめ閣下:若松さんのお話は?

下僕:若松さんは石牟礼さんのことを深く理解されさらに今もより深く理解しようと努めている方だなというのが言葉の端々に伝わってきました。水俣病というものに対してある種責任を負う東工大という場で、石牟礼さんの言葉を若い人に伝えたいという思いで教えているそうです。「石牟礼さんは、その言葉のなかにいる。声に出せばそこにいる」とおっしゃっていました。町田さんの朗読に壇上にいるにもかかわらず思わず涙したのはそういうことでした。石牟礼さん本人と向き合って話をしていると、いつも彼女以外の人々、彼女に言葉を託した人たちとともにいるという感じをうけていた、と。そういう人々を思いつつ石牟礼さんを見ていると、言葉を紡ぐとは、死者たちの声を聴くことであり、誰かの思いを受け取ること、その「思い」は拒むことができないものとして降りてくる、とおっしゃったとき、わたくしなんだか涙腺が。「作家とは、受け取る者である」とおっしゃったのに対し、町田さんが「『苦海浄土』を書いているとき、書きながら自分のほうが照らされる、荘厳されるような気持だった、と言ってますね」とキーワードとしてあげた「荘厳」について説明されました。そこから『苦海浄土』を書いたときの話になり、石牟礼さんは「戦いだと思った、一人で戦うつもりだった」と言っていたそうです。市民運動の真ん中にいた人なのに、「一人でやる」と。本当に世の中を変えようとしたら一人でないとできない、一人だからこそ目に見えない人たちと手をつなぐことができる。「目に見えるものは目に見えないものたちによって有らしめられている」「一番伝えたかったのは、言葉にならないことであり、語り継ぐべきことは、言葉たり得ないものだった」という若松さんの言葉は、魂を震わせる力がありました。道を説く宗教家のようでもありましたよ。

 そこでいったん休憩。休憩中も壇上で談笑するお二人を眺めていることができました。町田さんのお召し物は、茶系の迷彩柄のスゥエーター、と思ったら、迷彩柄のあちこちに猫の顔が。猫柄のスゥエータ―でありましたよ。可愛いらし。

まめ閣下:わかった、わかった。休憩おしまい。

下僕:もう、こういうちょこっとした息抜きが大切なんでございますよぉ。閣下はわかってないなぁ。

まめ閣下:はいはい、いいから先に進めんかね。

下僕:はい。休憩後はお二人の対談となるわけですが、石牟礼さんの作品についてのお話であり物を書くことの本質についての話でもありました。それについてはあとで詳しく述べるとして、先に、町田さんの2つの疑問について。初期の短歌はいわゆる近代詩的、自分が主体、生々しい個人である私の感情が歌われていたのだけれど、27年という長いブランクの後に読まれた歌は、がらりと変わっている。ということについて、若松さんは、定型詩の可能性というものについて語り、型があるからこそ溢れるものがある、その溢れでるものを救い取る作業がいい訓練になって『苦海浄土』という作品につながったのではないか、とおっしゃってました。それにより、後の作品の主体が「私」ではなくなっている。「非人称的なものが文学を司っているんです」と若松さん。また、本当に文学を読んでなかったのかな、初期の歌を読んでみるとあきらかに本を読んだ人の言葉づかいだと感じる、という町田さんに、「ちゃんと読み通した作品はあまりなかった、たぶんひとつくらい」と若松さん。それを聞いて「ああ、言葉というのは芋づる式だから。ひとつを深くつきつめていけば、あとは繋がってくるということか」と町田さん。

 『苦海浄土』は発表当時からわりと最近までノンフィクションに分類されていたけれど、これは詩、というか既存のものとは違うまったく新しい地平を拓いたもの、という町田さん。だってしゃべれない人にインタビューした、とか言ってる時点でノンフィクションじゃないって気づくべきでしょう、と。若松さんも「詩として書いたと本人もおっしゃってる」と。

 ここから先は少し文学論的になっていって、わたくしにとっては大変大事な話でありました。すんません、文章にならすのが難しいんでちょっと羅列します。

 ・「言葉で書き得ないものを書く」というのが文学、文学を読むというのは「言葉に書かれていないものをわかろうとする」こと。

 ・自分が知っていることを書くのではなく、何ものかによって与えられたものを書くこと。天からの声がちゃんと聞こえてそれを書いてるのがいいもの。石牟礼さんは「天とWiFiで繋がってる人」だった。

 ・頭で考えたものは頭にしか響かない、心で書いたものは心に、魂で書いたものは魂に響く。

 ・理路整然と語ってはだめ、それは読んだ人を頷かせるだけ。人を頷かせよう、説得しよう、納得させようとしてはならない。読んだ人を「立ち上がらせる」のが文学。

 ・結論はいらない。「なんで〇〇したの?」「なんで〇〇するの?」など物事には必ず理由があるはずという考えは捨てる。

 ・やってみないとわからないことがあるように、書く意味は書いてみないとわからない。

 ・死ぬということはどういうことか、きちんと見据えないといけない。「いかに生きるか」という問いの根底には、「私は自分の生きたいように生きられる」という考えがあるのじゃないか。そんなことが本当に可能なのか。

 ・たぶんキーワードの「滅亡」につながる話だったと思うんですが、石牟礼さんのなかには、「人間に対する嫌悪」というのもあった。人間であることが嫌でしょうがない。「地球にやさしい生き方」なんてのも、お前は何様だ、という言い方。本当に地球のためを思うなら人間は絶滅したほうがいい。生類のなかに人類がいるという考え。

 ・石牟礼さんの言葉は、本気じゃないと決して書けない言葉である。頭で理解しようとしてもできないものがある。作家とは、ある種、「きちがい」じゃないと書けないものを書くひとである。

 あと、これとても大事な話だったんですけど、情報ばかりにたよらないということ。情報ができることってわれわれが思ってるよりずっと弱いんだという認識が必要ということだなってわたくし思ったんです。「水俣病を今の若い人たちにどうやって伝えたらいいか」という質問への若松さんの答えが「情報だけでは伝わらない」でした。ウィキペディアに書かれているような事実を情報としてだけ与えても心には響かない。水俣病は「経験」である。情報として数字やなんかで記述されていないところにこそ真実がある。歴史物を書くとして年表に書かれていないものが見えてきたときにそれでやっと「書ける」と思う。文学と同じようにして、心の扉を開かない限り本当には伝わらない、とおっしゃってて、それは水俣病だけでなく震災や現実に起こったあらゆる災害を書くことにもあてはまると感じました。なにもかも情報優先、効率を求める現代の問題点についての話になり、町田さんが「昔だったら歩いててここよさそうと思って店を選んで、入ってみたら残念だった、みたいなことがあって、でもそれがおもしろかった。今は効率を優先してなんでも先に調べてよさそうなとこに行くからそういうおもしろみはない」と言って、でもそれはなんでもかんでも昔はよかったという話しじゃなくて、なんでもかんでも「これさえおさえればOK」みたいなパッケージにすればいいというものじゃない、というの、わたくしも日々感じていることでしたので大いに納得しました。

まめ閣下:まあ、諸君のようにあまりにも行き当たりばったりってのもどうかと思うけどな。

下僕:うぉほん。ほん。最後に「石牟礼作品のおすすめの読み方は?」という質問に、若松さんが

・声に出して読む

・書き写す(手で)

・随筆から入る

という3つを挙げてました。声に出すことの重要性は最初の朗読ではっきり示されましたし、書き写すということについては町田さんが「近代詩的な私中毒の解毒ができる」って言って、この前の「文學界」での伊藤さんとの対談でもさんざん出てきましたが、近代詩に対するにゃんとも厳しい視線が感じられたりもし。入門としてお薦めの随筆として、「花びら供養」と「綾蝶(はびら)の記」を若松さんは挙げておられました。

 ああ、そうそう、「反転」の例として、町田さんが「最近忙しくて猫と遊んであげられなくて」と言ったとき石牟礼さんは「あなたね、それは違う。あなたが猫に遊んでもらってるのよ」と言ったと。人が猫になにかをしてやっているのではなく猫から与えてもらっている。気の毒な人たちに恩寵を与えているのではなく、気の毒な人たちこそが神の化身であって、自分はなにか尊いものを与えられている。私たちは自分が何に支えられているのか知らないでいるだけで、実際には何ものかがわからないように支えているのだ、というのが石牟礼さんの考え方だと説明されていましたよ。

まめ閣下:そうそう、猫が人に与えておるのだよ。よくぞ言ってくれた。「反転」サイコー!!

下僕:しかし、閣下。外の社会のことはわかりませんが、このうちのなかではずっと猫が主で人が下僕であるわけですから、ここで「反転」させるとなると、人が主で猫が僕ってことになりませんか?

まめ閣下:ん? にゃ、にゃにを言い出すのだ。猫は神である。これは不変の真実にゃ。