Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2020年2月8日 町田康の「文学と笑い」@池袋コミュニティカレッジ

下僕:ねえ閣下、笑いってなんだと思います?

まめ閣下:なにって。予は猫だから笑わんぞ。

下僕:笑う猫もいるじゃないですか、なんて言いましたっけ。

まめ閣下:チェシャ猫のことかにゃ。あれは予の親戚じゃ。

下僕:えっ! うそっ! そんなこと初めて聞きましたよ。

まめ閣下:まあ、何世代も遡ったら同じ血縁のものじゃ、ぐらいの話だけどな。砂漠で暮らしていた一族から派生した・・・。

下僕:なぁんだ、世の中の猫族はみんな親戚、ぐらいの話ですね。

まめ閣下:おほん。で、なんの話だったっけ。

下僕:あ、そうでございました。昨日の講座の話です。こちら、「文学と笑い」という題で町田康さんのお話を聴いてまいりましたよ。

まめ閣下:また「康さん病」にゃな。

下僕:「康さん詣で」とおっしゃってください。もう、何度言ったらわかるんですか。

 

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まめ閣下:わかったから、さっさと内容に入らんか。予も忙しいんでな。

下僕:明るいうちはずっと寝ていらっしゃるくせに、何が忙しいんでしょうね。まあ、いいや。昨日の講座の話に移りますよ。

 これはもう、タイトルからして必聴の講座ですよね。町田さんの作品から「笑い」は切り離せない要素ですから。いわば文学における笑いの達人が語る「笑い論」ですからね。町田さん自身、文章を書くときには「面白く、笑えるように」を心掛けているとおっしゃっていました。もちろんまじめに書いているわけですが、面白いことを書いてるとき自分でも笑ってしまうことがあって、仕事場で一人で書いてるときはいいけれど、新幹線のなかで一度やってしまったことがあったとか。はたから見たらただの「イっちゃったおじさん」になっちゃったらしい。

まめ閣下:はは、一人で突然声上げて笑い出したら、そりゃ怪しいやつにゃ。

下僕:そう、結構町田さんは声を上げて笑っているようで、国立劇場で以前、中島らもさん、筒井康隆さんと、それぞれ自作の落語、にわか、浪花節を演じてもらうという企画があって、公演を観客席で見ている様子を知らないうちに撮られていたのを観たら、筒井さんは演者の演出が不満で憮然とされていてらもさんはサングラスかけていて表情がよくわからない感じだったのに、自分だけ大口開けて笑っていた、というお話されてましたよ。

まめ閣下:うん、わかったから、本題に入ったらどうかにゃ。

下僕:あぁ、はいはい。すみません。まず、町田さんは著作の印象から「ものすごく面白い人」みたいな扱いを受けることがあって困惑するというような話から始められました。自分の作品(詩)の朗読をラジオでされたことがあって、その声がいかにもお笑いな感じで朗読もそういうふうにされてぶちぎれた、とか。インタビューする人が、最初からなにか変なことを言う人みたいな先入観でやってきていらつくとか。あ、インタビューについては、「おもしろい話ができるわけない」ともおっしゃってましたね。講座みたいに一人で話す場合は100%自分が言おうと思っていることを話せばいいけれど、インタビューはインタビュアーが聞きたいと思っていることを訊かれて答えるので自分が別に話したくないことの場合も多いと。それをいいようにまとめて記事にしているわけだから、それを読んで「こういう人なんだ」とか思ってもらうと違う、「人となり」とはかけ離れたものになっているのだから、と。

 そこから本題の「面白いとはなにか」という話になりました。一般的に「おもしろ」というのが誤解されている感じがある。浅草軽演劇的、「あちゃらか」な感じ、みたいなものとされてる、というたとえを挙げられましたが、これには会場の反応がほぼなく。わたくしも実際そのたとえがわからなくて。まあ、きっとおバカな軽いノリ、という感じかなと推測します。これと対比するものとして、「重厚な感じ」=真面目、というふうに一般的には考えられている。しかし、面白さというのは、そういう分け方とは別のものだ。軽くて面白くないものもあるし、真面目で面白いものもある。面白いと真面目は相対立するものではなく、関係のないもの。だいたい、不真面目で面白くないものというのが多い。「面白い」についてよくある誤解は、

1.トーンの問題(語り口) これは、なんでもふざけて言えば面白いだろうとかおどけたふうに言えば面白いだろうというような誤解。さっき言った詩の朗読みたいな。

2.知能(アホとかしこ)の問題 なんでも馬鹿みたいにしていれば面白かろうというような誤解。

 それじゃほんとの「面白さ」とは何か。たとえとして町田さんが挙げたのが、猫と虎。これは大きさが違うだけでやることは大体同じなんですが、子猫がじゃれついて襲ってきたら笑うでしょう、でも虎が同じようにしてきたら笑うより恐怖を感じますよね、と。自分が絶対的に安全なところにいれば笑うけど。同じことでも自分がいる位置、状況によって変わるものなんです、と言って、

「笑いとは、(ある状況にあるときに)突然訪れる精神の暴風である」

と定義されました。

 そして、天岩戸のお話を挙げて「岩戸隠れ」を解決したのは儀式として無理やりに作り出された笑いであった、つまり、笑いというのは意図的に作り出されるものである。自分の精神に自分で風を起こす、クリエイティブな活動である、として、さきほど述べたように、真の面白さとは、よく思われているような「愚」「不真面目」とは無関係のものであると。

 では、文章における面白さとは何か。ある文章を読んで笑う人というのは笑いの道筋を持っている人である。その道筋はどうやって養うのか。

 よく話の面白い人というのがいるけれど、これは決してたまたまその人の周りに面白い人や出来事が多く集まっているからではない。捉え方の違いである。面白い文章を書いている人もそう。同じような状況にあっても、よくある先入観や前提にとらわれずに

物事をありのままに観察し他の人は見落としているような事実をそのまま捉えているということ。よく、自分の小説の登場人物に対してあの「キャラ」はどうやって作ったのか、という質問を受けるが、その「キャラ」という考え方がダメ。よく一般の人が陥りがちなのはこの「方便」として存在する面白さ、なんであれ「こんなもんですよね」という先入観、前提、約束事みたいなものであって、それは小説の敵である。小説に書かれるべきは、ありのままの人間であって、人間と言うのは環境、物語の流れ、相手、状況によって変わる首尾一貫しない存在である、それを「キャラ」のような固定された、いわば「方便」でとらえようとすると本質を見誤る、と。これ、ものすごく重要なことですよね。

まめ閣下:うん、その通りだにゃ。

下僕:つまり面白いものを書こうとするのであれば、世の中に1割くらい方便があるとしても残りの9割の事実を自分の力で捉えて面白がり、それを翻訳して上手に伝えることである、と。泣くという行為は動物的でわりかし簡単、でも笑いは人間的行為であり、能動的なもの、だから笑わせるのは非常に知的な作業。お笑いのコンテストの審査員になったみたいに批評的に笑いを見るやつがおるが、そいつが一番おもろない。精神が貧困なアホである。「かむ」とか「すべる」とか、日常に持ち込むな。別に芸人じゃないんだから、かんだってすべったって当然のこと。「言いよどみ」というのは人間にはあることで、そこに逡巡、ためらいがあり、それをできるだけ本当のことに近づけようと必死に言い換えるのが文学である、と。

 面白さを何に見出すか、という話しになり、相手が自分をおもしろがらせようとしていないことが大前提、だと。面白さの本質は、「絶対的真摯、ひたむきな姿勢」にある。観客を意識したものではない。例として、町田さん訳の「宇治拾遺物語」なかの「婿をもてなす話」を朗読されました。この婿と舅の面白さは、彼らが笑わせようとしてやっていない、本気で真剣にやっているところだ、と。それに筆致。半笑いで書いたようなのはいけない、うけを狙うことなく面白くしようとしないこと。主観を交えないことも大事。

 笑いを書く技法については:

1)下から、低いところからの視点で書く。仰ぎ見る、というか。しかし単なる卑屈ではまた面白くなくて、そこににじみ出る傲慢があり、傲慢と卑屈のブレンド具合によって笑いが生まれる。例としてあげたのは、太宰治。「ろまん灯籠」のなかの「服装について」をとりあげて、そのいきいきとした筆致に注目。自分が愚であることをのって書いているのがわかる、と。同じような卑屈さ(自己の切り下げ)の面白さについて、内田百閒「阿房列車」や夏目漱石吾輩は猫である」を挙げてました。

2)自己の凝視。自分の心理状態を丹念に凝視して綴ることで面白さや迫力のある小説になる。例として、梅崎春生の「ボロ家の春秋」の朗読、これはいかに自分が猫と仲が悪いかを書いているけれど猫への憎悪を分析することで自分の心理状態を深くみつめている。

3)誇張があること。自分の文章に自信があり技術の裏付けがあってこそ「外し」ができる。ハチャメチャやでたらめではだめ。

 ではいかにしてそこへ到達することができるか。

・人間は自然に面白いし哀しいもの。それをしっかり描く。「方便」でない人間を描く。

・自己の放下・滅却が必要。笑いのパワーは自己を滅却してこそ生まれる。

・文章もまた演技のようなものである。演技であり歌唱であると考えることで、どのように表現するかに繋がる。

 あの、閣下? ついてきてます?

まめ閣下:なんだかだんだん説明が薄くなっているにゃ。

下僕:はぁ、すいません。あともうちょっとだけ。最後に質疑応答があって、いくつか印象的な言葉がありました。笑いと直接関係はないんですが、

・太宰が女性の主人公を描くのに不自然さがないのは、女性一般を書こうとしてるのではなく、「この女性」を書いているからではないか。目の良さであり、言葉をよく聞いていて嘘がない。演技力のようなもの。いわゆる「方便」でない、ってことでしょうね。

まめ閣下:しかし笑いというのは、なかなか難しいな。

下僕:はい。なにせ、笑いは知的な創造的作業でございますから。

まめ閣下:アホでは作れない、と。

下僕:あ、閣下は猫ですから、自然体で笑いがとれますね。よろしいですなぁ。

まめ閣下:ふむ。諸君はもうちょっと精進が必要だにゃ。

下僕:あ、そういや話は変わりますが、昨日、ご一緒した「康さん詣で」仲間から、こんなものをいただきましたよ。Bunkamuraで出してる小冊子なんですが、町田さんが猫についてのエセイを書かれていて、これがまたしみじみとよい文章でした。

 

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