Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2020年5月30日 レイモンド・カーヴァー「大聖堂」ほか

まめ閣下:下僕よ。昨日も何やらにぎやかだったな。一人で四角い画面みたいなのに向かってなにをべらべらくっちゃべっておったんにゃ?

下僕:やだ、閣下。あれはパソコンではありませんか。わたくしめが毎日毎日黙々と作業している機械でございますよ。

まめ閣下:それはわかっとるわ。それで何をやっていたのかと訊いておる。

下僕:今流行りのオンライン会議ってやつで、読書会やってたんじゃありませんか。課題図書はこちらの短編集から、「ささやかだけれど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂(カセドラル)」の三作品を取り上げました。

 

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まめ閣下:カーヴァーといえば貴君が先日、「非常事態をくぐりぬける文学とは」と言って紹介しておったやつじゃな?

下僕:さいで。しかしあの記事を書いたころと、今の心持ちはだいぶん違っておりますね。4月の上旬は今から思うとけっこう追い詰まった感じがありました。この先どうなるのかまったく予測できない不安みたいなのが強かった。たぶん今よりずっと暗い未来を予測していたからでしょう。読書会の課題に推薦させていいただいたのはあのすぐ後くらいだったんじゃないかな。

まめ閣下:他の人たちは課題についてどう言ってた?

下僕:昨日の参加者は全部で7人、そのうちカーヴァー作品をこれまで1作でも読んだことがあった人はわたくし以外にお一人だけでしたが、みなさん課題として読めてよかったとおっしゃってました。気に入っていただけたようです。

まめ閣下:どんな話が聞けたのかにゃ?

下僕:作品ごとに感想を述べあったのですが、やはり翻訳が村上春樹さんであるということが全体としてかなり大きな影響を与えてましたね。翻訳者ってこんなに前面に出ていいもんなのかな、というとまどいもありました。あまりに「村上春樹的」すぎると。井戸、ジャック・ロンドンの「焚火」など春樹作品にも登場しているモチーフも出てきてるし、話の展開も春樹作品を思い出させるものがありすぎて。どっちが先かという話しになると刊行年などでみれば春樹作品のほうが先のようですけれど、単なる偶然の一致にしたらあまりに重なりすぎていて、それこそ「井戸の横穴で」とか「地下深くの水脈で」通じてしまったのだろうか、みたいなそれこそ春樹ワールドがまた広がってしまって。カーヴァーに限らず春樹訳のものは、どうしても村上春樹作品みたいになってしまうんですよね。そう感じるのは、読者がすでに作家としての村上春樹の文体に慣れ親しんでしまっているせいなのかもしれないですけれど。「風の歌を聴け」に登場する架空の作家デレク・ハートフィールドが実はカーヴァーとフィッツジェラルドを掛け合わせて作ったとかいう説もあるらしく、ひょっとすると若き日の村上春樹氏が原書で読んだカーヴァー作品に影響を受けたんではという推測もとびだしました。その辺りちゃんと年表を調べてないからいいかげんなこと言ってますけど。

まめ閣下:ふうん。まあそれは置いておくとして。作品ごとの感想はどうかにゃ?

下僕:じゃ、まず「ささやかだけれど、役に立つこと」から。これはわたくし的にはイチオシ作品だったんですがね。何度読んでも泣いてしまうという。しかし、そこまで感動はしないかな、という人のほうが多かった感じです。この作品は、比較的恵まれた生活を送っている夫婦が突然子どもを失ってしまうという前半と、その子の誕生ケーキの注文を受けたパン屋と夫婦の間にちょっとしたボタンの掛け違いから生じた感情的な対立を乗り越えていく後半に大きく分かれるんですが、その掛け違いのところにイライラさせられてしまう人もいましたね。「どうして最初にもっとはっきり言わないんだ」と。でもまあ小説としてはすごくちゃんと作られていて、豊かな暮らしを送る白人夫婦がこういう事態になるまでは、ごく自然に「自分たちとは違う種類の人々」を切り捨てて当然という生き方をしていたことが細かい描写によって示されている。たとえば妻はパン屋に不愛想な応対をされて反感を覚える。それは常に他の人から一目置かれて大切にされるのが当然だと考えていたからではないか。肌の色や外見、話す言葉などで看護師を分類し明らかに自分たちと違うようにとらえている夫婦が、息子の危機を通じて黒人家族に心を添わせていくことや自分たちと同じカテゴリーだったはずの医師に対して反感を感じていく様子などが決してあからさまではなく示されているのがよい。息子の死のやつあたり的にパン屋への敵意を募らせるけれど、パン屋にそれを真正面からぶつけて、パン屋もそれをきちんと受け止め彼らに自分の生活というものがどういうものかを語るのを聞くうちに、彼の焼いた甘いシナモンロールを口にする。匂いがわかるようになる。それまではかたくなに不快に感じていた「食べること」が、パン屋と向き合うことでようやくできるようになった。それが「パン屋」であることがとても重要に思える。パンは人が生きる糧のシンボルであるから、という意見もありました。そこでパン屋が話すことは、単に自分がどういうふうに仕事をしてそれに対してどういう感情を抱いてきたか、というようなことなんですよね。子どもを亡くした夫婦にはおそらく何も共感できるようなところのない話。それが凍りついていた夫婦の心を溶かしていくっていうのがわたくしにとってはとても胸を打つわけなんですけれど、この作品だけでなくカーヴァーは他の作品もやたら「しゃべる話」だな、と感じた方がいました。たしかに、誰かに何かをしゃべることで成り立っていく作品が多いですね。その方は、オチのない話を人に聞いてもらおうとするのは甘えだと思うのだけれど、カーヴァーの作品に出てくる人たちはそういう話を他者にすることであるいはそれを聞くことで、何かを癒されている。つまり話すことそれ自体が「ささやかだけれど、役に立つこと」なのかもしれない、と言っていて、はぁなるほど、と思いましたね。

まめ閣下:にゃるほどな。じゃあ次の作品は?

下僕:はい、「僕が電話をかけている場所」です。これはアルコール依存症の治療施設のようなところで主人公が知り合った男性の「話を聞いて」考えることが軸になっている作品ですね。最初の読書会でとりあげたのが、ルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引き書」だったんで、どうしてもみんなそれを連想したようでした。ルシアに比べると少し軽いというかうす明るい感じに書かれているように思われる。アル中の人たちにはどうしても甘えがあるように思えて「しっかりしろ」って思ってしまうという方もいました。依存症というのはなにか原因があってなってしまうというものでもなく、そして一度依存症になってしまったら全快はしない、という人があり、翻訳者の「解題」ではラストは「回復の予感がある」とされているけれど、この後には回復などはなく絶望しかないのでは、というのがわたくしの意見です。しかしその救いのなさこそがある読者にとっては救いになるとわたくしは思いました。また、友人JPが井戸に落ちてそこから空を見上げるシーンが印象的で、JPの奥さんであるロキシーが煙突掃除人だったことも象徴的であるということ、ロキシーがとても魅力的で、眩しい存在、外の世界の象徴のように感じられたというのはみなさん言ってましたね。あと、このなかにジャック・ロンドンの「焚火」やたばこの火など、「火」がたびたび登場してくるんですが、それは「動物的衝動」を表しているのではないかという方がいました。治療者であるマーティンはそれを制御できる人として描かれているが、主人公もJPもそれができない。ジャック・ロンドンもまた火によって破滅した人ではなかったか。また、主人公が突然大家が訊ねてきた日のことを思い出す場面で「自分があんな人間でなくてよかった」というような台詞をはくところがあるけれど、こんなふうに他者と比較することによってしか自分の幸福を確かめられない生き方というのはおそらくとても苦しいのではないか、それが依存症にもつながっているのではないか、という方がいました。ああ、あとですね、この話のもっとも素晴らしいところは最後の部分、主人公がガールフレンドに電話をかけようと考えている場面に突如ジャック・ロンドンの「焚火」が想起され、火について考えて、すぐにまた女房に先に電話をしようという考えに移る、その意識の流れの描き方、唐突なものを何のひっかかりもなく組み込んでいてそれがまた自然に感じられるところが素晴らしいと褒めている方がいましたよ。回復の希望とかそういうことを書いてるんじゃない、意識の流れを欠いているのだ、と。なるほどー小説とは意識の流れを書くものよねと思いました。この最後の場面は、春樹さんの「ノルウェイの森」思い出すよねって言う人がいました。「ささやかだけれど、」も「パン屋再襲撃」を思わせるし、とか。まあまたそういう話になるときりがないんですけど。 

まめ閣下:ふうん。聞いているほうもきりがない感じになってきたぞ。

下僕:はいはい、じゃ最後の「大聖堂」の話に移りましょう。表題になっているこの作品がみなさんの評価が一番高かったですねー。こんなことフィクションで思いつくものかな? というくらい突飛な設定にまずびっくりしたという人も。自分の妻が長年つきあっている盲人に対してあからさまな嫉妬心を抱く夫の差別的発言が激しすぎてむしろすがすがしいほど。そんな夫が盲人と一緒にいるうちに心持ちに変化が出てくる様子、あからさまに描かれていないところがいい。こんなトンデモ発言しつつ大麻とか吸いながらテレビ見ている人たちの話でいったいどう「大聖堂」と繋がるのか、と思っていたらまさかこういう展開、と驚いた人あり。盲人ロバートと10年来親しく付き合っている妻と、今日初めて会ったばかりの夫。その関係はあきらかにまったく違うのだけれど、長く付き合ってきたはずの妻のほうがじつはロバートを大事にするあまり盲人扱いしていて残酷かもしれない、何も知らないがゆえに無神経な質問をしたりする夫のほうが実はロバートにとっては安らぎになったりしている。夫は、いっしょに大聖堂の絵を描くことによってロバートと聴覚だけでなく触覚でひとつの絵を共有するに至るというのが象徴的だという意見におおいに頷きました。ラストの逆転が鮮やか、奇跡が訪れた瞬間というのを見事に描き切っている。また、自分は普段いったい何をみているんだろうと自問した人もいて、この話を読んで自分も目を閉じて大聖堂を描いてみたという人が二人もいたことに驚きましたよ。すごくないですか? 一番驚かされた意見は「これは小説家が作品を描くということのメタファー」というものですね。「見えていない人(読者)にいかに伝えるか」という悩みを作家というのは常に抱えているから、と。目の前が突然開かれたように感じました。最後は読者に伝わったときの感動を描いている、と。うわぁ、と思ったけれど、その「見えていない読者の手をとってともに絵を描く」というのは具体的にどういうことなのか、それについても書いてほしいものだと欲深く思ったりもしました。

まめ閣下:うぉほん、諸君、欲をかいてはいかんよ。予はそういう俗から離れた存在であるからあまり縁がないけれど、なんだ、ほら、うちに間借りさせておるあの三毛柄の小うるさい娘っ子なんざ、誰も盗らんというのにがつがつ急いで食べてはしょっちゅう吐き戻しておるではないか。

下僕:はぁ、あれはそういうことなんでございましょうか。

まめ閣下:まったく見ておれん。貴君がしっかり礼儀作法を教えてやらんからああいうことになるのにゃ。

下僕:はぁ、そうおっしゃる閣下だってさきほどからずいぶんゲロンチョゲロンチョされておるではありませんか。

まめ閣下:こ、これは、ちがう。毛玉だ。身だしなみに気を使い、つねに身づくろいを丁寧にするあまり、ときどき毛玉が腹にできてな。そもそも、そんなことにならぬようきちんと健康管理をするのが下僕の役目、下僕が怠慢だからこのような・・・

下僕:はいはい、わかりました、わかりました。とりあえず、かんぱーい!

 

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