Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

[読書会]2020年7月11日「老妓抄」岡本かの子

下僕:ねぇねぇ閣下、しばらくぶりにブログ更新しましょうよ。週末にオンラインで読書会やったんで。

まめ閣下:おっ、ようやくその怠惰な腰をあげたのか。

下僕:だってやりたくても材がないんですよ。疫病がいつまでもだらだら居座ってやがるもんでね。

まめ閣下:本はせっせと読んでおるようだが。

下僕:うーん、本に関してはですねー、わたくしめの愚な感想だけつらつら書いてもねぇ、なんかいまひとつじゃないですか? そんなもん、誰も読みたくねぇよって言われそうで。

まめ閣下:このブログだって然り。

下僕:まぁそう言ってしまえば身も蓋もござんせんが。でもなんていいましょうか、自分一人の考えをばぁーって言いつのるっていうんじゃなくて、外側から何らかの刺激を受けてそれによってまた自分のなかで生まれたもの、みたいな形じゃないとおもしろくないって思うんですよね。動かない水面だけ見ていたら退屈だけれど、投げ込まれた石によって生み出された波紋は面白いでしょう。

まめ閣下:何を言いたいのかちっともわからんが、まあ話を進めたまえ。

下僕:はいはい。今回の読書会で取り上げましたのは、こちらでございます。

 

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下僕:岡本かの子さんについてわたくし無学ゆえこのたび課題に取り上げられるまでまったく存じ上げませんで、恥ずかしい限りであります。その作品の素晴らしさはもちろん、岡本太郎さんのお母様であり、岡本一平氏の妻であるというのでも有名らしいですね。

まめ閣下:まぁ、貴君の無学は今に始まったことではないからの。

下僕:はぁ、すみません。で、今回はこの短編集のなかから、表題作の「老妓抄」、「鮨」「東海道五十三次」「家霊」「食魔」の5作を取り上げました。参加者は8名、それぞれに作品ごとに感じたことや好きな表現、とくに好きだった作品なんかを述べ合うというのはいつもどおりでございました。自分と同じような感じ方もあれば、まったく違う読み方もあっていつもながら刺激になります。課題を提案してくださった方ともう一人、岡本かの子のディープな読者がいらっしゃって、そういう話も興味深かったですね。

まめ閣下:そういうさ、なんていうか表層的な、っつーか何か言っているようで実のところ何にもいっていないみたいな話はべつにいいんではないかの。

下僕:ぎ、ぎくっ。す、すいません。ざっくりまとめようとするとそうなってしまうんですかね。じゃ、じゃあ、わたくしの感想を中心に述べて、そこに他の人の話などで得られたものを加えるって感じでいきましょうか。

まめ閣下:うむ。

下僕:古い作品ゆえの言葉づかいがなにせ素敵なんですよ。今はあまり見聞きしないような言葉や、時々読み方すらわからないような単語も出てきたりして、それだけで異世界に飛ばされます。またあちこちにハッとするような素晴らしい表現や描写があって、そういうところにまず魅了されました。たとえば「老妓抄」最初のほうに出てくる、「こうやって自分を真昼の寂しさに憩わしている」なんてのとか。それと老妓の複雑な人物造詣。「若い女の造詣は案外おとなしくて普通」という方も何人かいらっしゃいましたが、わたくしは「鮨」に出てくる鮨屋の娘・ともよなんかも、商売屋の子どもらしくちょっとすれたような人を見透かすような視点があると感心しました。その視点はすなわち書き手のものであって、決して通り一遍ではない、深く人を見る目に透徹したものを感じました。もちろん「鮨」の一番の魅力は、母親が食べ物を嫌がる息子に鮨を握って食べさせるシーンなんですが。この作品だけでなく、今回の作品のほとんどに、「何ものかになりそうだったのに、結局何にもなれないでいる男性」というのが出てきている、という指摘があり、わたくしもそれは感じました。その最たるものが「食魔」の主人公でしょう。これ、モデルが魯山人ではないかと言われていてみなさんそれをご存知か知らなくても読んだらすぐにピンときたとおっしゃっていて、わたくしはまたびっくり。またしてもわが無学を恥じることになりましたよ。しかしまあ読書においては、予備知識がないことも案外いい側面があったりもしますよね。まっさらな心で読めるというか。

まめ閣下:またそうやって都合のいいように言うなあ。

下僕:はは、すみません。しかしかの子さんは有名人ゆえ、いろんな情報をすでにもっていた方々は、「ぶっとんだ天才」「派手で奇抜な人物」というイメージだったらしく、実際作品を読んでみると「案外普通・まともなんだ」と驚いていらっしゃいましたよ。わたくしはどの作品に出てくる人も、あんまり「普通」とは思えませんでしたが。そういうところも、読書の面白さですよね。

で、「食魔」。最初はちょっとこの主人公の人物造詣があまりに身近にあるもののように思われて(つまり自分の近くにもそっくりな感じの人がいたぞというひりひりした感触)読むのがつらいほどだったのです。しょせんニセモノでしかないのに、自分を買いかぶって大きく見せようとして、つねに他者を見下そうとしたり傲岸不遜な態度に出たりする、嫌な奴。でも内実、無学ゆえのおのれの空疎さをよく自覚している。芸術に対して痛いほどひりひりとした憧憬を抱いているけれど、どうやっても自分はそこに到達できないというのも、認めたくはないが知ってしまっている、というような。

それが、霰の降りしきる庭の闇をみつめながら過去の回想にふけるあたりから、ぐっと普通の人間的な、よくわかる話になっていきます。最後のほうになって、どうして主人公の現状に至るのか、いくつかの謎がとかれるように明らかになっていくのは物語としての高揚がありました。芸術に対して強く憧れを抱きなんでも器用にそれなりにこなしている主人公ですが、料理以外ではどうやっても本物になりえない。芯の部分に空疎なものがあることを自認しそれに苦しんでいる。でも病気で死にかけている友人にせがまれ、その癌の瘤に主人公が人面を書かされるシーン、けっこうグロテスクだし主人公も嫌で苦しみながらそれをやるんですが、わたくしはこの主人公が最も真の芸術というものに近づいた瞬間だったと感じました。回想のなかで、どうも岡本夫妻ではないかと思われる画家とその妻が登場し、彼の作品や料理について批評をする。その批評を穿ってしかとれないひねくれた心が、長い回想を経てそこに込められた真実について認め始めるという展開、また最後にたどり着くのが、幼いころから苦しめられて憎んできた仏教の境地である「無常」であり「不如意」を受け入れるというところも、物語として非常にうまくできていると思いました。まあ、こういう人物像はわたくしが感じたもので、魯山人がモデルだとか知っていたら、そういう人物像をわたくしが主人公に抱いたかどうかは怪しい。知らないからこそ、文章から受ける印象だけで読むことができたものだったと思いますね。

課題を提案された方によると、かの子さんが活躍されていた時代は文壇でも芸術界でも「女なんて」と馬鹿にされていた時代で、どこに行っても「一平の妻」という扱いしか受けなかった。作品の評価も、「よく作ったものだ。だが女がこんなこと知りえないだろう。」という目で見られていたのではないか。ということでしたね。全集の丸谷才一さんの解説も、今読むとそういう目線が感じられる、と。しかしかの子自身は、パリに遊学してその時代集まっていた芸術家たちのデカダンを自分の身で感じ取って書いていたのだ、わからなかったのはむしろ日本の男どものほうじゃないのかな、と。そして「食魔」の主人公は魯山人がモデルと言われてはいるけれど、その心情的な描写には、彼女自身の、芸術に対する飢えにも似た切々たる思いのすべてを詰め込まれているのではないか、という言葉にいたく共感いたしました。小説を読む喜びというのは、素晴らしい描写や文体を楽しむというのもあるけれど、一番はやはり筆者の思考の流れを、読み進むことによって一緒に体験するというところにあるんではないでしょうか。作者にはおそらく最初からそのような考えを描こうという意図はなかったものが書くうちに形となって流れ出てくる、それが小説であって、その過程をともに楽しむのが読書である、とわたくしは思いましたよ。

まめ閣下:にゃるほど。なかなか新鮮な読書だったようだにゃ。

下僕:はい。古いからこそ新鮮な発見もありますね。さらに、知らなかったからこその発見もありますよ。

まめ閣下:うーむ、確かに情報というのは時に目を曇らせてしまうこともあるが、貴君のはただの勉強不足、単なる怠惰であると思うがにゃ。