下僕:閣下、閣下、起きてくださいましよ。ねぇ、ちょっと、ちゃんと聞いてましたか?
まめ閣下:な、なんじゃ、うるさいなぁ。ふわぁあああ。
下僕:もう。せっかく町田さんの講座を家で一緒に受講できるチャンスだったっていうのに、なんで寝てるんですか。
まめ閣下:あ? そりゃしかたない。予は猫である。寝るのが仕事じゃ。とくに予は夜中ずっと絶叫ライブを開催しておるのだから、昼間は体力を温存しておかねばならんのだ。だいたいだな、そういうものを予にかいつまんで報告するのが、下僕の務めではにゃいのか。
下僕:もう。わかりましたよ。じゃ、さっそく報告いたしましょう。
まめ閣下:なるべく簡潔ににゃ。例の病はやめておけ。
下僕:あー、おほん。今回の講座は、もともとは4月に生で開催されるはずだったものですが、疫病の影響で延期になってて、ようやくウェブ開催となったものです。
まめ閣下:生って。講座も生講座とかいうのかい? どうせなら生まぐろとかのほうがみんな食いつくんじゃないのかにゃ。
下僕:もう、かきまぜないでくださいよ。簡潔にとか言ってるくせに。
まめ閣下:ははは、すまんすまん。しかしなぜに「清水次郎長伝」なんだ? 文学っていうより浪曲とか浪花節じゃないのかね。
下僕:はい、だから「語り口の文学」なんでございますよ。浪曲、浪花節というのは音曲であって耳から入って来るもの。それが文学に与える影響を考える、といいますかね。冒頭で町田さんは「語りの尊さ」というものについて解説。人が口で言ったことを信じるかどうかっていうのはその語りに人格的説得力があるかどうかというのがポイントになる、と。本か何かで読んで知識として知っていることであっても、そこにちがう理解が生じる。たとえ同じ語彙であっても、読んで知っていただけのものと語りで知った語彙は、その内包するものが違ってくる。たとえば、廣澤寅蔵の浪曲で聞いて覚えた「おともだちさんにござんすか」の「おともだち」という語を、子母澤寛の「駿河遊侠傳」という本の中で目にしたときに、それがその場だけのたとえではなくて当時「同業者」を意味する語として普通に用いられていたという時代的背景も知ることができる。浪曲などは「芸能」ではあるけれど、当時の気配というものをより明確に伝える力があり、同じ言葉を文章で目にしたときにその背後にある気配をも感じとる力につながっている、という話しから講座は始まりました。
4,50年前には、浪曲、浪花節に限らず伝統的文化全般がダサい、唾棄すべきもので、何事によらず「和製」というのはかっこわるいもの、パチモンみたいなイメージがあった。でもあるとき聞いてみたら、ええもんだった。言葉が古くてわかりにくかったりするけれど、浪花節にしても浪曲にしても、音楽・物語・おもしろさ(笑い)・会話とナレーションという多要素の複合体としてのおもしろさがあり、語りのリズムや拍子というものも、文章に生きてくる。いい文章というのは、やはりリズムがいいのである。
だからぜひ聴いてみることを勧める。しかし長い。検索したら部分的にも聞くことが可能ではある。しかしとなるとストーリーがつかみにくい。もちろん、ストーリーがわかってしまったらもうおもろないか、というとそんなことはなくて、エンタメでも文学でも、展開がわかってても何度でもおもしろいというのが本物である。結果を知りたくて聞いたり読んだりするわけではないのだから。でも、そうやってあちこちを切れ切れに聞く場合には、あらかじめ全体の話の流れを知っていたほうが楽しめるであろう、ということで、後半は清水次郎長伝とはどういう話しであるか、というお話になりました。
町田さんは現在、Cakesというサイトで「BL古典セレクション 東海遊侠伝 次郎長一代記」というのを連載中。なので、くわしくはこれを楽しむといいかと思います。
また、次郎長について書かれたものは硬軟とりまぜてたくさんあるようでして、先に紹介した「駿河遊侠傳」のほか、天田愚庵の「東海遊侠傳」なども資料としてあげられていました。他にも静岡県立図書館に所蔵されている手書きの「安東文吉 基本資料」やら「全資料集」やら、かなりマニアックな資料がたくさん出てきまして、やはり相当調べたうえで小説にしているのだな、と深く感じ入りましたよ。
まめ閣下:〽旅ゆけーばー、駿河のくーにーに、茶のかおーりー
下僕:あれ? 閣下もそんなのご存知なんですか? 19年しか生きてないのに。でもどうやら「駿河の道に」らしいですよ。
まめ閣下:え、そうにゃのか? ま、どっちでもいいわにゃ。
下僕:あ、そうそう大切なことをもうひとつ。本日は、ウェブ開催ということで、町田さんのご自宅からシブい和服姿での講座でありました。最近はもっぱら和装のようですな。これからはパンク野郎の衣装は和服ってことで。
まめ閣下:だから貴君のその「病」は・・・。