Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】2020年12月20日「一人称単数」村上春樹

「あなたにはそれが信じられるだろうか?

 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」(「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノバ」より)

「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。(中略)もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」(「謝肉祭」より)

f:id:RocknBungaku:20201221101138j:plain

 

下僕:閣下、この本はもうお読みになりましたか?

まめ閣下:そりゃ貴君が読んだら予も読んだことになっておる。脳内伝達システムなるものによって。そういう設定になっておるのだ。忘れてはいかん。

下僕:あ、そりゃそうでございました。

まめ閣下:で、それがどうした?

下僕:はい、昨夜は例の私的な小説塾でして。その中でこの本を取り上げたものですからね。普通の読書会とちがって、昨夜は講師がこの本についてきっちり解説してくださって、そのため自分の読み方のいたらなさに気づいたというか、はっとさせられることがいくつもありましたので、ちゃんとまとめておこうかなって思ったんでございますよ。

まめ閣下:にゃるほど。それはよいな。聴かせてくれたまえ。まずは講座の前の貴君の読みを教えてもらおうかにゃ。

下僕:はい。閣下もご存知のとおり、わたくしは一時期かなり熱心な村上春樹読者でありました。でも最近の短編はなんとなく初期の作品と趣を異にしてきている感じがしていて、いまひとつ前のようにのめりこめないでおりました。今回の短編集も、いくつかの作品は「大成した作家だからこそ、書きたいことを好きなように書いて許される」種類のもののように感じました。「スワローズ・・・」や「チャーリー・パーカー・・・」などは個人的な偏愛を綴ったもので、そういうのは誰が書いてもたいてい面白いんですが、それが商業出版されるかというとやはり無名作家では難しいだろう、とか。そのなかで、「クリーム」と「品川猿」には初期の短編の味わいを感じて、いいなあと思いつつ、ラストに後日譚みたいなのがついてくるのが、お話の総括というかまとめてきな感じがしちゃって、短編独特の余韻を消しちゃってるんじゃないかと思いました。「謝肉祭」だけは雑誌掲載時に読んでいていて、そのときはあまり関心しなかったんですけど、作中でおすすめされているルビンシュテインの演奏で謝肉祭を聴いてから再読したら別物のように面白かったんです。でもこれも、最後に大学時代に2回だけデートした女の子のエピソードが語られているのが余計な感じがしました。一番好きだったのは、表題作の「一人称単数」。これはまさに春樹・ワールド。作中にも「私のなかにある私自身のあずかり知らない何かが(中略)目に見える場所に引きずり出されるかもしれない」と、ずばり書かれていて、奇妙で不快な経験をしてその店から出ると、そこはすでに異なる世界になっている。昔の作品愛好者には、まさにこれこれ、って感じでうれしくなりました。村上春樹を一気に有名にした初期の作品は「ぼく」という一人称で語られるもので、その後(一人称視点的な)三人称で書くようにもなったりしたけれど、年齢を重ねてやりたいことをやりつくした今、原点回帰的に書かれた作品集なのかなという気がしました。昔の作品に登場するモチーフを新たに書いていたりしているし、と。

まめ閣下:ほかの塾生たちの意見はどうだったのかにゃ?

下僕:まあいろいろでしたけれど、完成度の高さがやはりものすごいと評価されている人がいました。日本の文芸誌で目にする文学はどうしても狭い感じがしてしまうけれど、村上春樹はやはりそこからすごく自由であると。ビッグ・ネームだからこそなのかもしれないけれど、という意味では、「いちばん醜い女性」なんて表現はハルキ・ムラカミにしか書けないよね、という意見もありましたね。老いを迎え円熟した作家が書いた玄冬小説と読んだ方もいました。

まめ閣下:ふむ。で、講師の読みは。

下僕:はい。まず一言で言うと、「完璧な作品集で大傑作」。やはり村上春樹って天才と思わせられた、とのことです。

まめ閣下:ほぉおお。そりゃすごいな。

下僕:一見、作者個人の過去の回想の物語に見えるけれど、そうじゃない。実体験と思われるところから書き出して、だからこそ細部がびっくりするほど正確に描かれていたりするけれど、そのうえで巧みに創作されたフィクションである。しかし、そのフィクションを「でも実際に起きたことだ」って言ってしまうのが村上春樹である。作者のなかでは「創作」こそが現実であるということなのかもしれない。この作品集をより深く理解するためには、「猫を棄てる」を補助線として読むべき、とおっしゃっておりました。そのラストやあとがきで春樹さんが書いている文章を詳しく読んでいくと、この作品で作者がやろうとしていること、これまでの作品でずっと書いていた世界が明確に見えてくる、と。

まめ閣下:ふむ。

下僕:わたくし、「猫を棄てる」は未読なのでうろおぼえなんですが、講師が読み上げた文中、「私小説」なんていうものは実はちゃんとした定義などないというようなことを言ってるらしいのです。わたし、ぼく、など一人称単数の視点で書かれた作品で、読者が勝手に作者の実体験に基づいて書かれていると思うものが私小説と呼ばれている、みたいな。それがこの作品集のタイトルにつながっているし、実際に、一見、作者自身の回想(私小説)のように思わせて裏切る。しかしそれは裏切っているのではなくて、作者自身のなかでは現実、事実なのである。それが一番よく表れているのは、「チャーリー・パーカー・・・」のラスト。

「あなたにはそれが信じられるだろうか?

 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」

 そしてわたくしが気になった、ラストに別のエピソードが付け加えられていることについては、「どの物語も複層的に語られている。決して、表にある主たる物語だけではない。すべてがつながっている。過去のあらゆるできごと、とるに足らないこととして忘れ去ってしまっていたようなものごとが、あるときふっと自分を訪れる、というのが村上春樹作品だ」と。それを作者自身はっきり書いているところとして、謝肉祭の最後の文章を上げました。

「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。(中略)もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」

 それを聞いて、なるほど、そういうことだったか、と思いました。

 最後の一篇、表題作である「一人称単数」の最後の一文が

『「恥を知りなさい」とその女は言った。

 であることも、非常に示唆的であると講師。小説なんか書く人間はみな恥を知りなさい、と言っている、つまり自己批判ともとれる、と。ああ、たしかになあと思ったりしましたよ。

 また、構成的なことにも触れ「トータルアルバム的にきちんと考えられている」と。

神の子どもたちはみな踊る」のときと同様、雑誌掲載作群の最後に、書下ろしの一作を、表題作とかその作品集の総括的な位置づけの作品を入れていると指摘。書下ろしが入ることで熱心なファンにもきちんとアピールしている、とも。表紙のイラストも、

ベンチの後ろの茂みのなかに「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPが忍ばせてあるところも、巧みだと褒めていました。

まめ閣下:さすが名編集者の視点であるなぁ。そして貴君の読みはまだまだであるのぅ。っていうか、安定して「愚」じゃな。

下僕:はい、ほんと、おっしゃる通りでございます。さっそく「猫を棄てる」を買って読まねばと思いました次第。

まめ閣下:あー、ひとついいかな。熱心な読書欲は素晴らしいと思うけれど、予はその本のタイトルだけは受け入れがたいぞ。

下僕:はぁ、そうでございますよね。でも愛猫家としても名高い春樹さんのこと、このタイトルにも深い意味があってのことでございましょうよ。

まめ閣下:そのくらいわかっておる。わかっておるが、嫌なものは嫌にゃのだ~!