Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2021年2月6日「清水次郎長伝 語り口の文学Ⅲ」町田康 <オンライン>

・物語の二分類と物語の作り方

・現実が物語化されそれによって現実が更新されていく

 

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まめ閣下:おい、なんだこの写真は。

下僕:清水次郎長さんの本当のお写真らしいですよ。

まめ閣下:いや、そういう意味じゃなくて。ブレッブレじゃないかって言ってんだがにゃ。貴君の写真はいつも残念だがこんなにひどいのは初めてだぞ。

下僕:じつは今回は特別にこういうのを狙ってやってま・・・せん。

まめ閣下:がくっ。

下僕:いやいや、オンライン講座でちらりと見せていただいた瞬間をスマホで撮るってむずかしいんですよぉ。まぁ、今日のお話の第1部が、物語のなかに描かれた次郎長と現実の次郎長の人となりの違いでしたので、この写真がいいかなって思いましてね。

清水の次郎長は、浪曲だけでなく映画なんかにもなって映像化されてますから、演じた俳優のイメージなんかで想像しがちなだけに、実在の人物であったというのがこの写真で証明になるんじゃないでしょうか。

まめ閣下:えっ、実在の人物だったのか!

下僕:そうなんです。しかし次郎長伝という物語のなかの次郎長像は、現実の次郎長という人とはかなり違うようだ、というところから話は始まりました。次郎長伝は、前回の講座でも紹介されていました天田愚庵の「東海遊侠伝」が元になっているらしく、そこから今にいたる「落ち着いていて貫禄のある大親分」という次郎長像が形作られてきたのですが、ここで描かれた次郎長は実際よりはかなり美化されている、というのも天田愚庵は次郎長の養子でして、明治十七年に次郎長が逮捕されたおりの助命嘆願のためにこれを書いたと。となると、なるべくいい人に書いた方がいいわけですからね。

まめ閣下:しかし次郎長さんはなんで逮捕されたんだい?

下僕:自由民権運動に関わっていたからとか。なぜやくざがそういう運動に関わるのか。アウトロー気取っているやつほど権威に弱い。それにつけ込まれて利用されるけれど、邪魔になったら簡単に処分されるという構図のお話は面白かったです。

まあ、とにかく私たちが今いろんな物語で知っている次郎長というのは、現実の人をモデルにしてはいるけれど、全く違う”キャラクター”として物語には描かれているものだ、というのが前半の肝のようで、そこから後半の話へと繋がっていくのでした。

まめ閣下:して、後半は?

下僕:はい、その前に、ここであえて町田さんは”キャラクター”という言葉を使われました。星飛雄馬、矢吹ジョーなどは実在しないキャラクターであり、清水の次郎長は実在の人物であるけれど、それが物語化されて”キャラクター”になった。物語を読んだ(聞いた)人のなかでそっちが現実になっていき、現実を更新していく、という説明が印象に残りました。

まめ閣下:して後半は?

下僕:はいはい。後半は明確なテーマがございました。「物語の二分類と物語の作り方」であります。まず、「物語とはどう作られていくのか」という話がありました。ざっくりわけて、物語には三種類ありまして、

1)義理と人情の板挟み

2)勧善懲悪

3)敗北者への哀惜(かわいそうという気持ち)

1)はまさに浪曲の作り方でありまして、人間の葛藤する様を描くもの。〽義理と人情をはかりにかけりゃ義理が重たい男の世界~なんて歌声も披露してくださいましたよ。おほほ。

2)は古くさいようにみえるけれど、「落ち着くべきところに落ち着いてほしい、なってほしい方向性を求める」というのは人間の生理のようなもの。ちゃんと解決してほしい、G7のあとにはCが来てほしい、途中で終わるのは気色悪い、というのから逃れがたいものがあるのですね。

3)は判官贔屓といいますか、敗北者をかわいそうと思い、涙を流す快感というのがある。

これらのどれかに則ってエンタメというものは作られている、と。

また、物語というのは大きく次の二つに分類される。

ア)概念中心主義

イ)人間中心主義

太平記」というドラマを例にとって説明するならば、なんでこんなことになったのか、という理由を考えたときに「北条が悪いから」というのがア)であり、「全員頭がおかしいから」というのがイ)である、と。

ア)は、上でいう2)勧善懲悪がわかりやすい。悪という概念を出して、解決するには悪をなくせばいい、原因を決めつけてそれを排除することですっきり解決できる。

これに対してイ)は、誰か何かが悪いと決めつけるのではなくみんながそれぞれに変だけれどそれにはそれなりの理由があって結果的にこういうことが起こってしまったという話であるから、エネルギーに方向性がなく渦巻くカオスになりがち。結果が予測できないし解決できない気持ち悪さもあって娯楽作品としては難しい面もあるけれど、笑いとの相性はよい。

次郎長伝というのは浪曲でありとなれば概念中心主義の作品であるから、明確な”キャラクター”としての次郎長が必要、というのがまぁ結論でありました。

まめ閣下:なるほど。エンタメ論という感じだにゃ。

下僕:しかし町田さんは、人間中心主義のほうが絶対におもしろいとおっしゃってましたね。小説としては奥深いと。きっちり物事を分けてしまう、○○というフォルダーに入れてしまうというのが昔から嫌で、つねに「それってほんとにそうか?」と疑ってきたと。パンクとはそういうものですからね。きっちり話を終わらせる、着地点(納得)のあるものは苦手、ツィッターでうまいこと決め台詞言って「どやっ!」っていきってるみたいでうざい、と。参加者の方からの「でも人間中心主義だと話の収拾がつかなくなりませんか? みな頭がおかしいというんでは」という質問には、「いや、それはつきつめが足りないのだ」というお答え。人間本来の姿をどこまでも深く掘り下げていけば、そこにはおのずとああそれならしかたないなと思うところがあるはず。しかし人間そこまで掘り下げるのは苦しいし、自分自身の負の部分とも向き合い続けることになるのでつらい。だからついリミッターをかけてしまってつきつめきれない。概念中心主義は、一見納得がいくように感じるけれど、実のところはそういう苦しみを避けて人間本来の姿をねじ曲げて既存の型にはめてしまっているのではないか、とおっしゃってました。

それを聞いてわたくし、ああ、これぞ人間中心主義の代表作、と思ったものがございます。

まめ閣下:「告白」だろ。

下僕:あ、なんでわかっちゃったんです?

まめ閣下:それわからんやつ、おらんのじゃないかにゃ。少なくともこの講座の受講者は。

下僕:はぁ、そうでございますかね。しょしょしょぼぉーーん。

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まめ閣下:こら、またこんなぼけた写真を!