Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】2021年2月28日「推し、燃ゆ」宇佐見りん

第164回芥川賞受賞作を、元編集者で現在多数の小説教室で講師を務めるN氏と読んで語る会で語られたことなど。ひょっとするとあんまり大きな声では言えないようなこともあるかもしれませんが・・・。

 

f:id:RocknBungaku:20210301163411j:plain

まめ閣下:おい、下僕よ。予になにか報告すべきことがあるんではないのかにゃ。

下僕:うう、なんかわざとらしい感じですね。昨日の集いはオンラインでしたから閣下だって一緒に背後でお聞きになっていたんではありませんか?

まめ閣下:だから貴君は愚だというんだ。この会話の目的を忘れたのか。貴君のおつむの出来がいまいちであるから、せっかく学んだことをすーぐに宇宙の彼方まで飛ばしてしまってあとかたもなく忘れてしまうっていうんで、このような場所で予に報告するという形でまとめておけばちっとは有益なんではないか、と、そういう話で始まったんであったろ。

下僕:あ、さいでしたっけ?

まめ閣下:ほら、もう忘れておるではないか。なんとかならんのか、そのお粗末な記憶力は。

下僕:それを言われてしまうともう返す言葉がありませんよ。ほんとにねー、このごろつとに短期記憶っていうのが失われてきましてね。

まめ閣下:これってもう2年くらいやっておるんじゃないのか。もはや短期記憶とかいうもんじゃないと思うがにゃ。まあ、いい。話を早く始めたまえ。ああ、なるべく簡潔にな。下手の長話だけは受け入れがたいからにゃ。

下僕:はいはい、わかりましたよ。昨日の課題図書は、こちら。つい先月、芥川賞を受賞した作品であります。宇佐見さんは今年22歳、「かか」という作品で文藝賞を受賞してデビュー、「かか」は三島由紀夫賞も受賞、二作目の本作品で芥川賞受賞ということで、文芸の世界では破格の超エリートコースを驀進しているということになりますね。今回の選評を読んでも、選考委員のみなさんから高い評価を受けての受賞だったことがわかります。

まめ閣下:ほう。若いのにたいしたものじゃにゃいか。

下僕:この作品はSNSや「推し」という今時の若者ならではのカルチャーを題材に取り上げていたので発表直後からネットで若い人たちを中心に話題になっていました。しかしながら、そういう題材をとてもその若さとは思えない実力ある文体で描いたことが選考委員の方々にも高く評価されていたようです。

まめ閣下:ふうん。評価も高いし、話題も沸騰、本も売れて、文句のつけようのない作品じゃないか。

下僕:ま、そうですよね。

まめ閣下:貴君はどう思ったんだい?

下僕:はい、SNSや推しなど取り上げている材はたしかに今風ではありますが、小説の骨の部分は非常に古風っていうかオーソドックスな主題の作品だなあとまず感じました。新しさは感じなかった。これはデビュー作の「かか」でも感じたことでありますが、中心にあるのは、少女以上大人未満の女の子が抱える生きづらさですよね。家族の問題、とくに母への愛着と確執、同年代の人々のなかや社会との関わりで抱く苦しさ、そこにどう対処していくか、などこれまでの文学がさんざん取り組んできたこと、普遍的なテーマだと思いました。そしてみなさんおっしゃっているように卓越した筆力。文体の完成度の高さ、リズムのよさ、感性を深いところでつかみ取って言葉にする技術の高さには驚きました。最近の若い書き手には珍しい身体性を文章に感じました。「推し、燃ゆ」という作品については、冒頭の二文、「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」が、名キャッチコピーだなと。これでこの作品の未来が決まったように思いました。

じつはわたくし、「かか」のほうは受賞後すぐに途中まで読んではいましたが独白の口調がちょっとつらくなって投げ出していたのです。しかし今回の読書会のためにちゃんと読み直してみたんです。「推し・・・」を読了してからは不思議にするすると読めました。一気に読了して、あれれ、と思いました。この二作って実はおんなじ話じゃないの? って。若い女性のSNSや推しのいる日常を描きつつ、根本にあるテーマは非常にオーソドックス。しかし作品のパワーとしては、「かか」のほうが圧倒的なものがあるなぁというのが実感でした。

まめ閣下:はは、まあ言うのは勝手であるからにゃ。で、N氏はなんと言ってたんだい?

下僕:はい。もちろん、書き手の技術の高さ、文章のよさというのは選評にさんざん書かれているとおりだと、認めてました。宇佐見さんがご自身でおっしゃっているように中上健次の影響を感じさせる文体で、現代のネットの世界を描いたというミスマッチが高評価を受け話題ともなり売れたんだろう、と。N氏はそこにひっかかりを覚えたようです。それを「文学的偏差値が高い」と評価していた選考委員もいた。たしかに、この書き手はかなりよく文学というものを知っていて、意図的にかなり計算したうえでこれを書いたのではないか、と。そもそもネットの世界や「推し」や「推しを推す」という行為自体が、疑似現実である。「推し」というのは実体ではなく「推すものたち」によって解釈され作り直された存在であり、SNSなどではそれら「推すものたち」もまた同様にフィクショナルな存在なのである。それを描くのが中上健次の文体でいいのだろうか。中上の文体というのは肉体の言葉であり極北にあるものである。疑似現実を描くのであれば本当なら別の文体でなければいけないのじゃないか。文学をよく知っている書き手が、計算の上で中上の文体を「使っている」という感じがしてしまった。また主人公の「あかり」についても、書き手は共感・一体感というよりは一段高いところから突き放して見ているような距離感があり、これにも「使っている」という印象をもってしまった、とのこと。

まめ閣下:うーん、なかなか手厳しいな。

下僕:まぁ、N氏ですからね。中上さんの担当もされていた方ですし。でも宇佐見さんの実力はもちろん高く評価していて、「この作品でなくてもいずれ受賞する人だったろう」と。N氏個人的には、今回は乗代雄介さんの「旅する練習」に受賞させてほしかった、とのことでした。

この先はまああくまで小説の一般的な話として聞いていただきたいのですが、昨日わたくしがはっとさせられたのは、「文学的偏差値なんて低い方がいいんですよ」って発言です。計算高さ、何かを「使っている」感じ、つまり道具にしているってことでしょうか、そういうのには作家としてのモラルの低さを感じてしまうってN氏はおっしゃっておりましたよ。

まめ閣下:ふぅむ。モラルねぇ。ま、文学的偏差値に関しては貴君は心配する必要はにゃいな。低いほうがいいってんなら自信もっていいにゃ。

下僕:くくっ。しかしね、どんな作品でもいろんな意見がありますよね。至極順当に思われる今回の芥川賞だって選評読んだだけでも選考委員によってまったく違う読み方をされたりしていますし。でも評価はされている。それでいいんじゃないでしょうかね。

まめ閣下:おい、話をまとめるな。

 

f:id:RocknBungaku:20210301174956j:plain