Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2021年4月17日「清水次郎長 語り口の文学Ⅳ」町田康 <オンライン>

町田康さんが語る「清水次郎長」も4回目、今回は浪曲清水次郎長」からはちょっと外れて、「 」についてのお話。

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まめ閣下:ふぁあああ、よく寝た。

下僕:よく寝た、じゃありませんよ、もう。せっかくのオンライン講座なのに、また聞いてなかったんですか?

まめ閣下:おやおや、なんのために貴君がおるのだ。講座の内容をかいつまんで予に報告するのが貴君の仕事ではないか。

下僕:はいはい、わかりましたよ。まあ、今日は手短にいきましょう。

まめ閣下:毎回それを言っておるような気がするがにゃ。

下僕:本日は「 」の自由と効能、というのが講義のテーマでございました。浪曲は節いわゆる〽(庵点)で表されるメロディーと啖呵(?)と言われる「 」でくくられた会話と、ナレーションにあたる地の文で構成されており、小説と似ている。落語の場合は、枕があってその後は会話だけ、地の文にあたるものはない。

まめ閣下:ふむ。でも小説にも歌の部分はないんじゃないのかい?

下僕:はい、わたくしもそう思ったんですが、町田さんによると、一人称の語り(独白体)などが歌にあたるのではないか、とのことでした。

まめ閣下:それで今回の話は「 」でくくられる会話の部分についてってことか。

下僕:はい。地の文(ナレーション)との違いは、「 」の中は人がしゃべっていること。しゃべり方で、性別、階級、職業、性格、感情などをくわしく表すことができる。同じことを地の文でやろうとすると説明がちになってしらける、と。また小説などでは語の統一が基本的には求められるけれど、「 」の中においてはそれもある程度自由にできる。方言も入れられる。また書き手側からしたら、自分以外の話し方にすることもできるという効能がある。ただしこの語り口というのも、そっくりリアルにというわけではなく、一種の虚構であって、標準的欺瞞というものが作られる。広沢虎造清水次郎長で言うなら、登場人物がみんな江戸っ子弁でしゃべっているのは実際にはありえないことだけれど、それを聞いている人は変だとは思わない。

 このように「 」には表現の自由があるわけだけれど、具体的にはどうなのか。たとえば方言などの場合、どの程度音を表現するか。そのまま書いて意味が通るか、音を正確に表現しようとするとひらがなばかりになって意味が通らない、意味をわからせるために漢字を使うとしゃべっている人の個性や特徴が出てこなくなる。その見極めは感覚というかその都度判断して決めるしかない。なんでも「方式」みたいなものをこしらえてそれに当てはめようとするとおもしろくなくなってしまう。

 また「使えない言葉」というものもある。いくら自由と言っても、その時代にはなかったものを出すわけにはいかない。我々は無意識のうちに今の常識にとらわれていて日常何気なく使っているカタカナ語には実は曖昧にしかわかっていないものが多い。日本語に置き換えてみるとあらためて捉え直すことができる。気づくことも多い。
 ただ、「 」の虚構による標準的欺瞞は、陳腐化に繋がる危険性もある。ドラマのなかだけで使われている「田舎風言葉」「百姓風言葉」「やくざ風言葉」「女言葉」など。

 それと「 」には時差ができがち。書いたときには新鮮だった言葉が本になって読まれるころにはもう古くなってるとか、年取った人が書いた若者言葉がどうしてもその人の若い時代の言葉だったり。しかし1度死語になった言葉がのちに息を吹き返すこともあるのは面白い。

 とにかく虎造の浪曲で、豊かな「 」を聞くことで、いろんなものから自由になっていくことができるであろう、とまぁ、だいたいこんな感じでしたかね。

まめ閣下:なんだ、それで終いかい? 今日はほんとに短いな。

下僕:はぁ、わたくしここひと月ばかり非常にいろんなことがありまして。ちょっと頭脳労働にまわすエネルギーが低下しておるんでありますよ。

まめ閣下:いつにもましてってことかい? 貴君の脳にエネルギーが行き渡らないのはいつものことだと思うがにゃ。

下僕:はぁ、なんとでもおっしゃってくださいませよ。ね、閣下。閣下はこれからも元気で長生きしてくださいませね。

まめ閣下:へ? なんだ、そりゃあ。

 

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