Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】2021年4月18日「パニック」開高健

・求心力より遠心力で描く

・寓意・寓話小説

・人間のきらいな人間

 

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下僕:閣下はぐっすりおやすみでしたが、昨日は例の小説塾だったんですよ。で、課題図書でこちらを取り上げました。開高健の「パニック」です。

まめ閣下:お、その話は知っておるぞ。ネズミがいっぱいでてくるおいしそうな話だにゃ。

下僕:あー、ネズミがいっぱいってあたりまではあってますね。ネズミが大発生して地域がパニックに陥るという話ですよ。主人公は地方自治体の役所の山林課に勤めてるんですが、120年に一度、ササが一斉に花を開き実を結ぶと翌年にはネズミが大発生するという史実に注目して、それが近々現実になるだろうという予測を上司に進言しているんですが全く相手にされないでいた。独自に対応策を準備しているけれど役所という組織のなかでうまくいかない。そうこうするうちに、ネズミの大発生が現実のものとなり・・・という話であります。最初、ネズミが大繁殖して引き起こされるパニック、という惹句を読んでわたくしはカミュの「ペスト」を連想したんですよね。やはりこのご時世ですから。でもこの話には感染症のほうは登場しない、ただネズミの大群に恐慌をきたす人々を描いてます。「ペスト」はわたくしちょうど一年ほど前に読みまして、初めて実際に体験するパンデミック下ということもあり深い感銘を受けたわけですが、あちらがネズミが感染源と思われる未知の感染症に自らの意思でたちむかう善意の人々を描き、病や死に直面した人間による哲学的考察の話だとすると、こちらは組織の中でがんじがらめにされた主人公が孤独に状況と戦うという話で、主人公の動機も正義感とか社会や他者のために献身するというよりは、組織のなかのパワーゲームに挑むみたいなスタンスです。組織の中で働くことに対して絶望していて、なんとかそこで生きる楽しみを見いだそうとしている。中心になっているのは役所という組織の腐敗で、これは1957年に書かれた作品ですが、まさに現在のコロナ禍における政権のありようを明確に描いているように思えます。最後は増えすぎて飢えたことで狂ったネズミが集団で湖に飛び込むという形でふいに状況に終止符が打たれる。結局人間は何もできない、自然にたいする人間の無力さが示されます。そしてまた120年後に同じことが起こるのだろうというのも暗示されます。

まめ閣下:なんだ、ネズミどもは勝手に死んじゃうのか。もったいないのぉ。その場に馳せ参じて心ゆくまでネズミどもをもてあそびたいものだにゃあ。

下僕:閣下、もう口ばっかり。飢えてコントロールを失ったネズミの大群に閣下がかなうはずがないじゃあないですか。悠々自適にお暮らしになって、最近じゃあねこじゃらしにすら反応しないんですから。

 えっと作品に話をもどしますよ。この作品はそういう組織と人間、自然と人間というものをジャーナリスティックな視点で描いた面白さももちろんあるんですが、文章がすばらしいと思いました。表現の巧みさやはっとする美しさは純文学のものでありながら、その文体は乾いていて、ところどころ英米文学の翻訳を読むような印象を与えます。

まめ閣下:だっていわゆる純文学なんだろ、芥川賞作家なんだし。

下僕:はい、この本に収録されている「裸の王様」が芥川賞受賞作で、もう一作「巨人と玩具」も今回参考課題だったんですが、そういう点では同じような印象を受けました。講師のN氏によると、開高さんはもともとは同人誌などで生粋の純文学的作品を書いていたらしいです。それが、サルトルの「嘔吐」を読んで衝撃を受ける。どんなに内面を掘り下げようとしても自分にはこれ以上のものは書けないだろう、と。掘り下げるのには限界があると悟った開高さんは、それまで内側に向けていた力(求心力)を外側へ注ぐ(遠心力)方向へ切り替えた。そうして書かれたのがこの「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」だったということです。

まめ閣下:遠心力? 

下僕:はい。自分の内側に深く深く潜っていくというのではなく、外側、つまり周囲や社会を描くということでしょうか。それがジャーナリスティックで乾いた視線になったのではないかな。外を描くとなると必然的に自分と距離が必要になりますからね。「パニック」はたまたま農学者の方が新聞に書かれたエッセイをみつけて題材にしたものらしいです。「裸の王様」にしても児童画の大家に綿密な取材を重ねて書かれたもので、「巨人と玩具」は開高さん自身の宣伝部にいたというキャリアが書かせたもののように思われがちだけれど、実際は丹念に取材を重ねて書いたはず、とN氏はおっしゃっていました。それゆえに一見リアリティに溢れた物語を描いているように思われるが実はこれらは「寓意・寓話小説」となっている、と。表面に現れている物語には、その裏に寓意が隠されているとのこと。物語に託して自分が真に語りたいことを密かに忍ばせる、という感じでしょうか。

 この3作は発表時期がほとんど同じで怒濤のように執筆されたように見えるけれど、実は開高さんはあまりたくさんの小説は書いていない。エッセイやノンフィクションで培われた文章には乾いた明るさがある。また人間を見る目にも乾いた批判的視線と、でもどうしても突き放せない複雑な心情もあったのでは、とN氏、開高さんが敬愛していた詩人金子光晴の「おっとせい」という詩をあげられました。

  おいら。
  おっとせいのきらひなおっとせい。
  だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで

  ただ
 「むかうむきになってる
  おっとせい。」

というのだけれど、これが開高さんの人間に対して抱いていた感情なのではないか。「パニック」のラストも、人間に対して絶望している主人公が猫に向かってつぶやくのですよね。「やっぱり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」って。

まめ閣下:あぁ、それな。わかるわかる。実に同感だ。予も、猫のきらいな猫であるぞ。

下僕:ああ、それで。うちにこの前までいたあの三毛ジョとは最後まで和解できませんでしたなぁ。

まめ閣下:なに、それは別の話じゃ。あれは全面的にむこうが悪い。っていうか、予は猫の範疇には納まらないものである。おほん。