Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2021年8月28日 町田康の「文学の読み方」~中原中也「山羊の歌」を読む@池袋コミュニティ・カレッジ

・若き天才詩人にも「幾時代かがありまして」。

・「神を見た男」としてメチャイケな時代もあったのに。失ってから知る悔しさよ。

・詩というのは、ただかっこいい言葉だけを連ねたものではない。あきらめずに何度も読んで、言葉の背後にある大きなものをつかみとるべし。

 

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下僕:閣下、閣下、ねぇ、酸素カップ抱えて寝てないで起きてくださいよ。

まめ閣下:ふわぁあああ、にゃ、にゃんだい。予がせっかく高濃度酸素キメていい気分でおるというのに。

下僕:だって久しぶりに対面の催事に行って参りましたので、ご報告をと。

まめ閣下:ん? そういえばこの前は6月の上旬だったかな。ま、疫病がますます蔓延しておるようだからしかたあるまい。で、今日は何の話だったんだい? またどうせ「康さん詣で」であろう。

下僕:さすが、わかってらっしゃいますな。それにようやく「こうさん病」じゃなくて「詣で」とおっしゃってくださいましたね。はい、本日のお話はこちらでございますよ。

 

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まめ閣下:ふむ、中原中也か。

下僕:あ、ご存じでいらっしゃいましたか。

まめ閣下:あたりまえだ。「汚れつちまった悲しみは」ってやつだろ。

下僕:ぶ、ぶー。「悲しみに」でございますよ。

まめ閣下:ん? 「汚れつちまった悲しみは たとへば猫の玉袋、小雪のかかってちぢこまる」ってんじゃなかったか?

下僕:はぁ? そんなん言ってたら熱烈な中也ファンにしばき倒されますよ、もう。

まめ閣下:わかった、わかった。これも貴君の中身の薄い話を少しでも膨らませてやろうという親心ではないか。

下僕:そういうの、いりませんから。

まめ閣下:いやしかし。だいたい貴君に詩がわかるのかい? って、前にもそんな話したような気がするが。

下僕:はいはい、こちらですね。たしかに年を取るにつれて詩が難しく感じるようになったかもしれませんね。なんというか、つい文脈を求めるというか、ロジックでとらえようとするというか。今日はちょっとそういう話もありましたよ。

まめ閣下:そうか、じゃあ話を聞かせて貰おうか。手短にな。

下僕:はい、はい。最初の部分は中也の生い立ちをかいつまんで解説。家族の血の繋がりとか宗教的な違いとか複雑さを抱えていたようで。中学も地元の山口中学に入ったものの、おそらく成績不振のために、途中で京都の立命館中学編入。そのころから短歌に凝り始めたらしく、初期の詩にも短歌の影響があったようです。その後、人生におけるいくつかの大きな出来事が起こります。ひとつは高橋新吉の「ダダイスト新吉の詩」との出会い。これによって中也はダダイズムの詩に目覚めたとして、初期の「名詞の扱いに」という詩を町田さんが朗読。その冒頭に「ロジックを忘れた象徴さ 俺の詩は」というのがありまして。中也はやたらそういうことを言っていたらしい。要は名前や「愛してる」「悲しい」など言語化された感情は白こい演劇みたいだからやめろっていう話みたいです。言葉によって規定されてしまっている世界。詩はそこから離れたところにあるべき、という。それを聞いて、なるほど、と思ったんですよね。今わたくしがどんどん詩がわからなくなってるのは、ひょっとしてロジックのせいかと。

まめ閣下:ふんふん、貴君がさほどロジカルとも思えんがね。で、ほかの大きな出来事ってのは。

下僕:ひとつは長谷川泰子と出会いですね。二人は同棲するんですがその後、友人の小林秀雄に取られてしまう。もともと女性のほうが熱を上げていたのか中也のほうはかなりぞんざいに扱っていたようなですが、いざ去って行かれたら急に惜しくなってしまった。悔しい、という感情に初めて突き動かされたそうです。それ以前の中也は若くして才能に溢れ、自信に満ちあふれていた。「オレって神だよね」とまでは言わないまでも「オレは神を見た男だ」「すべての物事を把握している」「オレにとってみればこの世はすべて必然」などと嘯いてブイブイ言わせていたわけです。ところが友人に女を取られて突然その「自己統一」が失われてしまった。そのとき感じた悔しさは「まるで赤ん坊の疳の虫のようなもの」だったと書いているそうです。

まめ閣下:突然やってきた世界の変容、パラダイムシフトみたいなもんだな。

下僕:はあ、で、まあそういう彼の魂の変遷を頭に入れて詩を読んでいきましょう、ということで、詩集「山羊の歌」から、まずは「春の日の夕暮れ」を朗読して、さらに内容を深く読み込んでいきました。詩の解釈は人それぞれでいいので、町田さんの読みということでしたが、たとえば「案山子」「馬嘶く」「伽藍」という語の解釈などつめていくと、急に詩の世界が明確に見えてきました。最初の段落は外的世界の描写、次の段落は少し内面が入ってきている、ひとつ置いて、最後の段落はなんとこれまで外側の自然だったはずの春の日の夕暮れが「主体」つまり「自分」に重ねられ、最終的には「自分はこれから詩を書いていくよ」という宣言になっている、というのですね。三つ目の段落は自分に対する自然からの批判ともとれるけれどあえて愚を口にする行為への励ましともとれる、と解釈されていました。あと、「トタンがセンベイ食べて」「灰が蒼ざめて」というような「~て」というのは短歌的表現だと言われて、へぇ、そうか、と。

 もうひとつ「サーカス」という詩もやりました。「幾時代かがありまして」で始まり同じフレーズが繰り返される辺りは、やはり出し物的口上の調子を出している。自分の人生のいろいろな時代を思い出し、つらい時代もあった、と言っている。それが「今夜此処での一と殷盛り(ひとさかり)」の繰り返しの部分は、今夜限り、つかの間の回復をしようじゃないか、ということ。その後はサーカスの様子をそのまま描写しているわけですが、ぶらんこのゆったり動く感じを「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」と表現することで倦怠感が出ている。それからサーカスを楽しむ観衆の様子が描かれ、最後には外の暗闇と「落下傘奴のノスタルヂア」という言葉が出てくる。外の暗闇というのは「今は戦争がない世の中である」ことを表していて、「落下傘」という本来は戦争において屋外で使われるものが今サーカスのテントのなかにあるということのやるせなさであろう。本当であれば「神を見た男」は芸人になって俗人を楽しませたりはしないものであるが、それを見て喜んでいるあるいは癒やされている人がいるのも事実である。そういうの、根源的にはオレのやりたいことではないけれど、そういうこともやるんだよね、という宣言ともとれるのでは、というお話で、深く感じ入りました。

まめ閣下:なるほどー。他にはどんな詩を読んだんだ?

下僕:いや、それが。資料にはあと5篇あったんですけど、例によって時間切れ~、でございました。

まめ閣下:そうだ、詩の読み方ってのは?

下僕:ああ、そうでした。とにかくあきらめずに何度でも読めってことですかね。詩というのは、ただかっこいい言葉だけを連ねたものではない。あきらめずに何度も読んで、言葉の背後にある大きなものをつかみとるべしって話だったと思います。とにかく町田さんのお話はやたらめったら面白く、あははげらげらさせられながらも、非常に深く鋭い切り込みが随所にあるので、一時間半などあっという間でありました。本日は、延長なしで。

まめ閣下:そうか。じゃ、貴君の話も、延長なしで。

下僕:〽ちょうど時間となりました~