Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2021年9月11日 「驟雨」「娼婦の部屋」吉行淳之介

・今あえて吉行淳之介を読んでみた

・文学と時代性についての考察

・優れた文学作品は時代を超えるか

 

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下僕:閣下、昨夜の読書会はちゃんとお聞きくださってましたか?

まめ閣下:またあの薄っぺらい板に向かって何やらしゃべっておったのか。まあ聞いてなかったわけではないが、せっかくだからちゃちゃっと要点をまとめて報告したらどうだ。貴君のその残念な記憶力のためにも。

下僕:あのね、その「ちゃちゃっと要点をまとめて」っていう態度、いかんと思いますよ。なんに対しても最短距離で必要な情報を手に入れる、みたいなの、最近の風潮ですがね・・・

まめ閣下:あー、その話長くなるのかね。そこは飛ばして、内容にいこう、内容に。

下僕:はぁ。やっぱあれですかね、猫も年取ると人間と同じようにせっかちになるもんですかね。ま、いいや。はい、昨夜の読書会の課題は吉行淳之介の「驟雨」と「娼婦の部屋」の二作でありました。また、サブテキストとしてエッセイ集もあげられておりました。

 

まめ閣下:また古いところからもってきたな。

下僕:そんなに古くもないですよ。亡くなられたのが1994年ですから。わたくしくらいの世代なら誰でも知っている有名作家で。わたくしは、がんがんにませてイキがってた中学時代に結構読みましたね。

まめ閣下:貴君の中学時代って、恐竜とかいたころのことかい?

下僕:もう、そういうお決まりの冗談やめましょうよ。恐竜はいなかったけど、そうだなー、電話はダイヤル回してた時代です。そのころやたらと安岡章太郎とか山口瞳とか遠藤周作とか読みあさってたんですよね。「第三の新人」とか呼ばれていた人たち。なんか酒と煙草の匂いがするような、大人の不良っぽさみたいなのに憧れてたんですかね。といっても小説はやはりちょっと中学生には難しくて、好んで読んだのは主にエッセイでしたが。

まめ閣下:はは、だめではないか。

下僕:で、でも「驟雨」とか「夕暮れまで」とかは読みましたよ。中身はすーっかり忘れておりましたけどね。

まめ閣下:ほらほら、その残念な記憶力。

下僕:ですので、もう何十年ぶりかで読み返したわけです。まるで初読のごときまっさらな、新鮮な気持ちで。

まめ閣下:お得なやつよの。

下僕:文章のうまさ、描写の巧みさ、感性のみずみずしさというのはやはりさすがでみなさんもあらためて感心されていたようです。「水のような文章を書きたい」とエッセイにご本人が書かれていたのですが、まさに無色透明ではあるけれど味があるそういう文体ではないかとわたくしも思いました。あと読書会の大いなる喜びとして自分が知らないことを教えてもらえるというのがありますが、昨日は「驟雨」と「いきの構造」(九鬼周造著)との重なり具合を指摘されていた方がいて、吉行さんはこの本をかなり読み込んで「驟雨」を書いたんではないか、という意見に大いに興奮いたしました。

まめ閣下:で、貴君はその「いきの構造」ってやつを読んでおるのか?

下僕:あ、いや、それは未読でして・・・

まめ閣下:それでなんで驚いてるのだ、もう愚じゃな。

下僕:はい、すんません。でも他の著書からも吉行さんが「粋」ということにこだわっていたのは読み取れるよね、という話になりました。生粋の東京人というわけでもないから、屈折した憧れのようなものとして強くこだわりがあったのかも。などなどみなさん、それぞれの読み方で作品を楽しまれていたようです。ただ、わたくしはちょっと苦しく思うところも正直ありました。大いに考えさせられる、というか。

まめ閣下:ふむ。言ってみろ。

下僕:はい。少し前に「プリティウーマン」という映画を再見したときに「あ、これはキツい」と感じたのとおんなじ感じを受けたんですよね。初見のときはおとぎ話として面白く観てたのに。つまりあれですよ、今問題の「マチズモ(男性優位主義)」。小説のほうはあちこちでちょっとひっかかるなってくらいなんですが、エッセイのほうはかなり厳しい。創作や戦争について書かれたところは、ああさすが、なるほどと思うことも多く、いくつか線を入れたりしたんですけど、男女観の話になると、これ今の時代だったら大炎上してるよね、って感じで。時代が違うという方もいるでしょうが、今でもこういう人いっぱいいますよね。とくに政治界隈には。辞任に追い込まれたオリンピック関連のお偉いさんとか、失言繰り返してる政治家とか。たぶんああいう人って、そういう価値観が体に染みついてるっていうかそれが当然と思って生きてきてるから周りから批判を受けてびっくりして「叱られた」と思っちゃう。何がいけないのかちっともわからないけど、なんかうるさいから謝っとけ、みたいなことになってますね。吉行さんもエッセイを読むと徹底してこれが感じられます。「社会は男が支配するもの。女は添え物であり男を都合良く支えるものであるべき」という価値観。だから娼婦という「商売女」には性を「妻」という「素人」には家事労働や育児を担って男の社会的立場を支えることを求めて当然と考えている。そういうところが今読むと「キツい」って感じてしまうわけです。

まめ閣下:じゃあ、貴君は作品に対しても否定的な意見なのかい?

下僕:それがそうとも言い切れないんですよね。作品が書かれた時代と切り離して考えることはできないよなって思うんです。どちらの作品も、今よりももっとマチズモが強烈であたりまえだった時代に、女性のなかでさらに最も蔑まれる存在としての娼婦に対して純粋な恋愛感情に似たものを抱き、恋愛感情の苦しみと社会通念的自己との狭間で苦悩する姿を書いていて、これは非常に文学的ではないか、と思うんです。小説というのは決してポリティカルコレクトネスを謳う手段ではないし、その時代を生きる人間の苦悩を書いているのだから。

まめ閣下:にゃるほど。「驟雨」は芥川賞もとってる。

下僕:しかし小説はやっぱり時代性と切り離せないのかな、とも思います。これらの作品はあの時代の背景をわかってこそ価値がわかるというか。たとえばこのような視点で書かれた小説が今、文学賞の候補になるだろうか。なったとしても、かなりポリコレ的に叩かれるだろうって気がします。文学の話とポリコレは相性が悪いって言うか、あんまりそういう切り口で批評しない方がいいんじゃないかってわたくしは思ってるんですけどね。でも実際に今読むとキツいとも感じてしまうわけで。

中学生のわたくしは「不良っぽさ」がいいと思って吉行さんの作品を読んでいたんですが、今読み取れるのは失言を繰り返す政治家と同じ価値観で、あれれってなっちゃったんですよね。不良ってなにかなって考えたときに、反体制というか、権威に対して反発するという姿勢だろって思って。それが今は権威の側の人たちと同じように見えてしまうのはなんでだろうって考えました。ひょっとすると体制・権威というもの自体が、あの時代とはまったく変わってしまったのかななんてことも思いました。

まめ閣下:愚は愚なりに、なかなか難しいことを考えておるではないか。

下僕:はぁ、さいですな。あとちょっと昔の作家の書いたものでも、女性作家のものはこういう「今読むとキツい」って感じはあんまり受けたことがないなってのも思いました。それはもともと女性というのが蔑まれる存在であってそこで書いているということからくるのかな。優位な立場に生まれた人たちはそれがあたりまえでそのことに疑いとか持ったことないでしょう。あたりまえと見なしていることを疑ってかかることが作家の基本であると、いろんな方がいってますよね。

まめ閣下:あー、ひとつ大事なことを言ってもいいかにゃ。

下僕:はい?

まめ閣下:この世の平和のためにはマチズモではなくキャティズモである。

下僕:キャティズモ? ってなんですか?

まめ閣下:キャット、つまり猫優位主義である。

下僕:はいはい、もうそれは十分実践されておりますよ、我が家では。