Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2021年11月27日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第2回 於NHK文化センター青山

・詩人として~詩の言葉とは何か~

・小説家として~文体と笑い~

・「わかる」の四種類

・「文体は意志である」

・笑いの本質「おもしろいことはこの世の真実」

・「壺」 ー ある単語によって書き手と読み手がともに照らされる使い方

 

まめ閣下:呼ばれてないけどジャジャジャジャーン!

下僕:あ! 出た! ちょうどお呼びしようと思っていたところなんですよ、っていうか、「ハクション大魔王」でしょ、それ。前回の「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン」のとき何かと思ってましたけど。ちょうどね、昨日の講座でそのアニメも話題に上がってましたよ~。閣下がそんなアニメをご存じだとは、いやはや。

まめ閣下:そう、その昨日の講座ってやつな、その話がしたいんじゃないかと思ってにゃ。呼ばれなくても出るときは勝手に出るのがイデアというものだ、ははは。

下僕:まあいつおいでになっても、っていうか、わたくしとしてはずっといていただいたほうがうれしいんですが。

まめ閣下:まぁ、イデアである以上そうはいかんのだ。現(うつつ)にいられる時間には限りがある。君、早く話を進めたまへ。

下僕:そうですね、今回はいろいろお話ししたいことがたくさんあって。メモ書きがノート6ページ。この講座は全4回で、昨日が二回目でした。1回の講座を三分割してラジオ放送があるのでこんなふうにきっかりお話の内容が決められております。昨日は4~6回放送分。

下僕:通常の講座だとついつい枕が長くなって後半時間が足りなくなりがちなんですが、前回もきっちりお話を時間内にまとめていらっしゃって、なんだやればできるんじゃないの、って感心しました。

まめ閣下:おい、なんだその言い様は、失敬だな。

下僕:あ、いえいえ、町田さんのお話はいつも楽しいしかなうことならずっとお聞きしていたいんですけどね。なにせ「ちょうど時間となりました~」ってちょん切られちゃうのはねぇ、準備をしてきた話者としても残念でしょうしこちらも最後までお聞きしたいし。でも昨日もみごとに三回分お話をまとめて、さらにちょっと延長して質疑応答の時間まで。ありがたき幸せでございました。

まめ閣下:ふん、貴君もみならって、その長ったらしいメモを、さっさと上手にまとめてくれんかな。

下僕:はい、そうでございました。昨日のお話は大きく「詩人として」と「作家として」に分けられました。まず「詩とはなにか」。人間のなかには理屈と感情があるとすると、詩というのは「感情の働きを言葉にしたもの」である。それが他者によってわかる、共感されるということがある。ではこの「わかる」とはどういうことなのか。町田さんは「わかる」には次の四種類があると言います。

1.わかるからわかる ー これは「理屈でわかる」ということ。理屈ではあるが、ときには感情の動きが伴うこともある。例として俳句を挙げられていました。「五月雨をあつめて早し最上川」など、言われてみたらほんまやわ、というような。腑に落ちる、というんですかね。

2.わからんけどわかる ー なんでそうなるのか理屈はわからないけど感情で同調するもの。これが詩である。洋楽とかも言葉がわからなくても心が動くものがそう。

3.わかるけどわからん ー 理屈はわかるけど感情的には同調できないこと。例として、小説や映画などであまりにご都合主義的に造形された人物「こんな女いねぇよ」みたいな。

4.わからんからわからん ー 何をいうてるのかわからんからわからんもの。例としては、前衛的な表現、前提やルール知らないとわからないもの。

では詩は「2」であればいいか、というとそれだけではいい詩にはならない。詩は大きく「おもろい詩」と「おもろない詩」に分けられるけれど、大半は「おもろない詩」であって、「おもろい詩」のほうは例を挙げるのが難しいくらい。(といいながらおもろい詩として中原中也を挙げてました。)で、そのおもろい詩の条件として、

・感情の出し方がうまい

・調子でもっていく(例.歌詞はたいしたことなくても聞いてみたらえらくいい楽曲)

・そいつ自身(書いてる人)がおもろい(キャラクター、人生など)

・内容や意味が、役に立つ・正しいもの(例.人生訓)←これは町田さん的には本当の意味で「おもろい」という分類には入らないけれど、と注あり。

町田さん自身は「詩」というものに対して一貫して批判的で、自分が詩人であろうと志したこともない。詩を書こうと思い立った人が陥る落とし穴というのがあって、それは「重大なことをかかんとあかん」と考えてしまうことで人間にとって何が重大かと考え始めるとたいていは「自分の生と死」に行き着く。そして自分が存在してることというのがとてつもないことではないか、と考え、とてつもないこと=「私」と錯覚することによって「私」に拘泥してしまう。じつはこの「私」「自分の生と死」のようなものは他人からみたらどうでもいい、ありふれたことである。もともと「生と死」ということ自体が思考つまり理屈である。それを感情に置き換えようとするためにテクニックに走って大仰になり、それらしくみせるためにコスプレみたいなものになっていってしまう。自分は詩を書くときに、技術的に巧くなって上の4つの条件をみたそうとも考えていないし、「私」に拘泥もしないように心がけている、というお話でした。

まめ閣下:ふむふむ。以前も詩について「我がが、我がが」だ、と批判的に語っていたにゃ。

下僕:ええ。でもそれって小説でも言えますよね。小説は詩よりは理(ことわり)や思考に寄る部分も大きいですが、重々しいテーマを書こうとしてコスプレみたいになっちゃうってありがちだなぁ、とわたくしも反省いたしましたよ。

まめ閣下:おい、ちょっといいかにゃ。

下僕:はい、なんでございましょう。

まめ閣下:ここまでで3分の1なんだよな? 人の話の枕が長いとかなんとか貴君いっておったけど、この先どんだけ長くなるんだ?

下僕:ぎ、ぎくっ。では残り2回分はやや駆け足で参りましょう。詳細は目次を見ていただくとして、あとの二回は小説家としての「文体」と「笑い」についてでした。町田さんといえばやはりあの独特の「文体」。しかし最近の文学の傾向としては、文体の時代ではないのかも、とおっしゃっていました。むしろニュートラルな(平易な)語りでストーリーとか内容で読ませる作品が主流になってる。でも自分の作品は「文体」そのものを読んで欲しい。時々自分の文体について「癖がある」と言われることがあるが、それは正しくない。「癖」というのは無意識で出るものでやろうと思ってやってるんじゃないこと。自分の場合、文体というのは、より「かっこええ」くなるように、より「伝わる」ように意識してコントロールしている。だから決して「癖」ではない。というところ、「あっ! そうだよ!」って思いましたね。文体を声にたとえることがあるけれど、声は生まれ持ったもの・コントロールしきれないものが大きい。文体は声よりももっといろいろ自分でできる。つまり「文体は意志である」。ほほ、名言がここで登場。ただこの「かっこええ」と自分が思うものというのを批判的にみる必要というのもあって、自分にとっての「かっこいい」だけで塗りつぶされた作品ほど、恥(はず)い、かっこ悪いものになってしまうことも多々ある。どこかに破調というものが必要ではないか。しばしば、どの人称で語るか(おれ、僕、わたし)や漢字にするか開くかなど統一性を持たせないと信頼性が揺らぐみたいに言われるけれど、そんなことはない。ぐちゃまぜでもいい、いろんな要素たとえば方言、時代的にありえないものなど、たくさんの要素もそれが必要であれば入れ込む。ただなんでも入れて散らかってればいいというわけではなく、配合が必要。要素のミキシングに際して、町田さんの場合は常に頭のなかで言語的「ドンカマ」(ガイド音)が鳴っている状態だそうで、これはちょっと簡単にまねできないかもしれないですけど。何を「かっこええ」と考えるかはそれまで自分が読んできたもので培われる。だからそれを疑ってかかることも大事。高級ワインもいろいろ飲んでいる人が1000円のワインを「これいいやん」というのと500円のワインしか飲んだことのない人が1000円のワインを「これいいやん」というのは明らかに違う。経験値を増やさないと何が本当にいいかを判断できるようにならない。

そのうえで、書くときに気をつけるべきこととして、

1)自動的な言葉遣いになっていないか(よく目にする、使い古された表現など)

2)どこまで理解してその言葉を使っているか、自分に問う。背景や経緯をしらずに使っていないか。

3)「オリジナリティ」に拘泥しない。真似や憑依を恐れない。というのは、言葉そのものにオリジナリティというものはないから。それをいかに配合していくか。

まめ閣下:はぁ。いい話をありがとう。では、ここらで消えるよ。

下僕:ちょ、ちょっと待って閣下。まだ終わってないです。もう一つで終わりですから。最後はもちっと短くなります。「笑い」について、です。これも町田作品を語る上では外せないですよね。「おまえ、何やってんねん?」と誰かに訊かれたら「笑いです」と答えると。子どものころから圧倒的にギャグが好きだった。ギャグ漫画VSストーリー漫画ならギャグ漫画、ウェットな人形劇よりドライな笑いの新喜劇。じゃ笑いとは何であるか。「ギャグ」というのはいわゆる「くすぐり」で、なにかしかけて笑わせるもの。「笑いとは緊張の緩和」と桂枝雀さんが言っているけれど、安心と緊張が合わさっておきるものであり、常識や建前からの解放によってももたらされる。例として自著「浄土」のなかから「本音街」をとりあげて、本当に面白いことというのは「本当のこと」である、と説明。普通は口にしないけれど実はみんなわかってたり感じてたりすることを口に出すと常識や建前から解放される。よく「笑えないギャグ」というのがあるけれど、あれは「いまからおもろいこと言いますよ、やりますよ」というのが見えてしまって笑えないものが多い。それはつまり、やる側が、おもしろいことを「変なこと」「頭がおかしいこと」と見下して蔑んでいる。自分は普通の安全な領域にいて、「おもろいこと」ということを一段下に見てるのである。本当の笑いというのは、それを言う人やる人にしてみたら「本当のこと」である。この説明だけでわかっていただくのは難しいかもですが、これは「本音街」読むとよくわかります。読んだときも笑いましたが昨日は町田さんの朗読でまた笑ってしまいました。でも笑いに対する町田さんの考えには、覚悟というか揺るがぬものを感じましたね。しかし笑いもやっぱり経験値が大事なのかなとも思います。人を笑わせるってやろうとすると本当に難しいですからね。

まめ閣下:ふむふむ。よし、ではそろそろ・・・

下僕:ああ、最後にもうひとつだけ。質疑応答で「壺」という語について質問された方があって。子どものころから壺が好きで欲しかった、というエピソードはあちこちで耳にしていて個人的にはよく知ってる話だったんですけれど、最後に「壺に限らず、なにか一つの言葉によって想起するものがそれぞれある。その語によって書き手と読み手がともに照らされる、そういう言葉の使い方をしたい」とおっしゃっていて、こ、これは・・・と胸を打たれましたよ。

って、あれ? 閣下? 閣下ぁ? 消えちゃった。まったくもう、イデアってやつぁ。で、でも、また来てくださいねぇ~!!