Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】2021年12月4日第9回町田康さんと本を読む「いかれころ」三国美千子 於:大磯 カフェ・マグネット

下僕:あー、閣下ー、おいでにならないかなー。ご報告したいことがあるんですけどねー(棒)。って呼んだって出てこないですよね、なんたって気ままなイデアであらっしゃりますからね。ま、こないものはしょうがない。一人で寂しくまとめ記事的な感じで

やっちゃおうかな。昨日の読書会、大磯にて町田康さんと本を読む、まさにこの世の極楽、愉悦の極み。会場の前に貼られていたポスターはこれまでとデザインを一新、なんか高級感でたわぁ。

 

まめ閣下:おい、あいかわらずひどい写真だにゃ。

下僕:あ、出た。

まめ閣下:おいでになった、と言ひたまい。まあ、いいや。無駄口叩かず本題に入ろうではないか。今回の課題図書はなんだったんだい?

下僕:あれま、さくさく進行されますな。イデアになるとなんか事務能力とか向上するんですか?

まめ閣下:そうだなぁ、完璧なイデアとなって昨日でまる二ヶ月・・・って、横道に話を逸らすんではない。課題本は、何であったか、と訊ねておる。

下僕:しゅん。せっかくおいでになったんだからちょっとくらいふざけたっていいじゃないですかぁ・・・ぶつぶつ・・・えっと、昨日の読書会の課題はこちらです。三国美千子著「いかれころ」。

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まめ閣下:あれ、この作品、まえに貴君から話きいたぞ。

下僕:ああ、そうですそうです。これですな。

 第32回三島由紀夫賞について町田さんの選評

まめ閣下:なんだ、今読み返してみるとたいしたこと書いてないな。

下僕:が、がーん。

まめ閣下:それに2年も前に未読っつって「ぜひ読まねば」みたいなことを言っておきながら、どうせ貴君のことだ、今回課題に取り上げられてようやく初読したってところだろ?

下僕:はぁ、まったくもってそのとおりで。いいわけのしようもありませぬ。まあでもね、今回ちゃんと読んだわけですから。さっさっさっと、お話を進めましょうねー。

まめ閣下:まったくしょーもないな。

下僕:今回の読書会も参加者10名というなんとも贅沢なものでした。会場のカフェ・マグネットさんも椅子がふかふかのソファに変わってくつろぎ感増したせいか、講座ではなく町田さんと参加者がいっしょになって本について語り合うという雰囲気がより強くなりました。今回は町田さんの前にアクリル板とかびらびらの塩ビシートとか興ざめするものもなくて。で、開始のあいさつでいきなり「では第183回大磯読書会を」などというくすぐり入れたり、突然大声で河内弁を披露されたりと、笑いで一気に空気を和ませてくださいました。マイクを通さない肉声ですよ。

まめ閣下:あー「康さん病」はそのへんにしておけ。本題に入れ、本題に。

下僕:はいはい。前回「津軽」のときは、用意してきた感想を順番に発表してそれに対してみんな考えたことを述べる、というやり方だったんですが、今回は、開始前にみなさんの原稿に目を通した町田さんがとくに興味深いと感じられた方の読みと疑問点をとりあげて、それについて他の方の意見を聞いていくというような形になりました。

まめ閣下:じゃあ、貴君のいつもの長々しい感想を皆の前で披露するってことはなかったわけだ。よかった、よかった。

下僕:ふんっ、なんですかそれは。たしかに今回は用意していった原稿をまるっと読んだりはしませんでしたが、でも質問されたところに関連する感想があったんで、そこについては原稿読みましたよ。用意していった原稿はせっかくだからまた最後に貼っておきましょう。

まめ閣下:じゃあ、その町田さんがとくに興味深いって感じられた人の話とかさ、作品について昨日の場で交わされた話をさらっと聞かせてくれんかな。わかっておるだろうけれど、イデアには現(うつつ)に留まれる時間は限られておるからな。

下僕:はい、すべては無理なんで、とくに印象深く思ったところを。この作品は、四歳の奈々子の4月から9月くらいの間に体験(&見聞き)したことを、大人になった(たぶん四十年後くらい)奈々子が語るという構造で、四歳と大人になった奈々子の二つの視点があるのはすぐにわかるんですけれど、もっとたくさんの視点があって、それが切れ目なくごっちゃに多層的に書かれていると指摘された方がいました。もっとたくさんの視点というのは、河内の自然、墓のなかにいる今は亡き人々、土地に根ざすもの、などの視点があるのではないか。どろどろした一族の話を描きながら感情に寄りすぎずドライに述べている部分はそういう視点なのではないか、と。客観的視点というのは、奈々子が語っている話なのに親も祖父母も呼び捨てで語られるところにも出てる、と町田さんも指摘されてました。一族・家族の間の混沌を書いているので読みにくかったり感情移入してつらかったりした方も何人かいらっしゃったのですが、淡々と客観的に書かれているおかげでわたしはむしろ非常におもしろく読めました。

「(母)久美子は常に最初から最後までいらつきまくってる。いったい何に抗っているのか」「(叔母)志保子が結婚を断ったのはなぜか」「志保子もまた抗っている。では何に抗っているのか」「留守中に志保子が雛人形を勝手に片付けたことに久美子が激怒するのはなぜか」「志保子の結納の日だというのに、奈々子にピアノを厳しく稽古させる久美子の心情は」など、いくつかの疑問をとりあげて、みなさんの意見を聞きました。正解というのは当然ないわけですが、他の人がどう思ったかを聞いて自分の考えと摺り合わせることでより深く作品を理解できますよね。

町田さんは、「この作品は家の中の権力闘争の話でもある」とおっしゃってました。曾祖母シズヲを頂点とした一族のなかで、分家させられた久美子が徐々に力を失っていく。一方精神を病んだ志保子は最下層である犬のマーヤに自分を重ね合わせているところがある、と指摘。マーヤはシズヲに怪我をさせたことがきっかけで檻に閉じ込められて死にかけているんですが、この状態を「はっきり言って虐待ですよね(怒)」と結構感情発露させてましたね。また「抗う」という点では、親や親族というのは(遺伝子的に)自分と切り離せないもので、どんなに親に抗ってもそれは自分に抗うことになる面がある、と指摘。あれは嫌だ、あれはよくない、と批判したところで理屈ではのりこえられない血の流れというものがある、というのがこの作品なのでは、ともおっしゃっていました。

またこの作品を読んで町田さんは「たしかに四つぐらいのとき自分が見たり感じたりしたことってこうだったな、と思い出した。言語以外の五感で感じ取っていたこととか子どもだから感じる不条理とか。けれどこんなふうに見事に言語化できるかというと、難しい」と感じたそうです。非常に耳のいい作家、なのではないか、とも。家族のなかで交わされる河内弁は耳から入ってきたものをそのまま音で表現している。だから人によっては全然わからないかもしれない。大阪出身の自分(地域的にはちょっと違う)でもわからないところがあるくらいだから、とおっしゃってました。でもこの作品の河内弁は他のものに置き換えることは不可能。雰囲気とか地域性を出すためとか、何かのための道具ではない。河内弁でなくては書けない作品である、という話で、方言や猫というものを小説に用いる際にこの点は注意しないといけないっておっしゃいました。

まめ閣下:ね、猫?

下僕:はい。猫。わたくしも、なんで猫? って思いました。猫でなければいけない必然性ってことでしょうかね?

まめ閣下:よ、余は猫でなくイデアである。

下僕:いや、べつに閣下のことじゃないと思いますよ。

まめ閣下:しかし、なんか気になるなー。

下僕:まあまあ。最初町田さんは「この作品は人によってはちょっと難しいと感じるかもしれない」とおっしゃっていて、実際に課題図書でなければ読まなかったし読んでもよくわからなかった、面白さは感じなかった、という参加者もいました。「この作品をを、自分の読書経験のどこに位置づけしたらいいのかわからない」とおっしゃる方がいて、それに対して町田さんは「自分も1回目読んだときと2回目読んだときでは違うものが見えてきた。何年かして読み直すとまた違った感想を抱くかもしれないし、他の本を読んだとき、この本を読んだことで何か違う読み方ができるかもしれない」とおっしゃって、読書に対する愛の深さを感じましたよ。

わたしはこの作品の続編「骨を撫でる」が叔父の幸明がメインに描かれていると聞いて、がぜん読みたくなりました。ちょっといいかげんで小ずるくて、男のくせにアクセサリーとかつけてて、なんか他人とは思えないんですよね、ひどく身近にそういう・・・あ、あれ? 閣下? うーん、消えた。

で、でも、また来てくださいねー。

 

 

三国美千子著「いかれころ」について (下僕考)

 

一般に一族ものは登場人物が多く難しいので家系図を作りつつ、また作品舞台に土地勘もないのでGoogleマップを参照にしながら読みました。四歳の奈々子の感性で捉えられた世界の描写がとてもいいと思いました。

 

一 登場人物たちの人となりの描写はすごいと思います。通り一遍の書き割りみたいな人はまったく出てこない。精神を病んだ叔母の志保子やおそらく今なら精神性の不調の名前が付けられそうな母の久美子、鬱屈を抱えた父隆志のほか、祖父、祖母、曾祖母など、たしかに身近にいたらしんどいなあと思われるような人たちですが、どの時代でもどんな家族にも似たような人はいるし、同じような問題はあるよなと思いました。実際、わたしの家も農家ではないですが親戚が多いので、誰かしら登場人物と同じような特徴を備えた人の顔が浮かびました。

 

二 二つの視点

物語は四歳の奈々子が一族のなかで見聞きし体験した世界を、大人になった(おそらく四〇年くらい後の)奈々子が語っています。それが、よくある「回想」という形でなく四歳の奈々子の世界に留まったまま終わっていて、読み終えたとき「え、ここで終わるのか」と驚きました。最初のほうから、地の文のところどころに大人になった奈々子の視点が入ってきていて、その時点では知り得ない未来(曾祖母シズヲがまもなく亡くなることなど)がちらちらと姿を現していて、終盤近くには、志保子が六〇歳間近で亡くなることや、三十年以上たっても桜は残っていたことや、大人になった奈々子に釣書が全く来なかったことなどが簡潔にまとめられているところがあって、ラストは四十年後の奈々子の世界で終わるのかなと思っていたので唐突な感じを受けました。四歳の奈々子の物語としてはここで完結しているとは思うのですが、回想でなくあくまで四歳の奈々子の見ている世界の話にするのであれば、あえて将来に起こることについての情報を入れ込んだのは、どういう意図があったのかちょっと気になりました。

 

三 五感で捉えた世界

主たる視点人物が四歳で、まだ読み書きを覚える前の奈々子ですから、その世界は、視覚、味覚、嗅覚、触覚など主に五感によって捉えられていて、その豊かな描写に何度もはっとさせられました。牛乳の膜とか卵の白身の食感が嫌いというのなどは、子どもらしいと思ったし、自分は今でもそうだなと共感したり。なかでも耳から入ってくるものが大きな働きをしていると感じました。ピアノの練習をさせられているときの久美子のファルセットとか。河内弁で交わされる生き生きとした会話も、文字ではなく「音」として耳から入ってきたものだからなのでしょう。

 

四、志保子のかご

志保子が常に持ち運んでいる黒いかごが最初から謎の存在として出てきます。いったい何が入っているのかと思っていると、終盤で癇癪をおこした久美子が蹴飛ばして、中身が明らかになります。写真や筆箱などこまごました雑多なもので他の人から見たら価値のないがらくたばかりでした。しかしどうしてそのかごを常に肌身離さず持ち歩いているのか、なぜそれらの物でなければならないのか、理由や由来については最後まで明かされません。これは語り手があえて語らなかったことなのかもしれないと思いました。大人になってからの語り手が「私は何もかも知っていた」と書くように、子どもは大人たちの話をそばで聞いていて大人が思うよりもずっと正確にいろんなことを知っているものです。写真立てに入っていたのが、子犬だったころのマーヤを抱いた久美子の写真(つまりずっと若いころ、たぶん結婚前の久美子)と、隆志と久美子の婚礼の写真というのが何かを暗示しているように思いました。(たとえば、志保子は姉の久美子が幼いころからずっと好きだった、ひょっとすると隆志に対しても特別な感情を抱いていたのかな、とか)

 

五、「黒いかげ」「うす黒いもの」

「うす黒いものはどこにでも、家庭の中にも学校の中にも靴の底の砂みたいにまんべんなく入り込んでいた」(三〇ページ)

子どもの奈々子は、大人たちの会話に出てくる「養子」「セイシン」「カイホー」「恋愛結婚」などの言葉に黒いかげ、うす黒いものを感じています。授業で教わる「差別」というのとは交わらないものだとも感じています。やがて同じうす黒いものが、「女」にも、幼稚園に入ってからいじめを受けるようになった奈々子自身にも、そして「分家」をさせられた久美子にも、あると気づく。

タイトルである「いかれころ」は、久美子が自分自身に対して使った造語ですが、「奇妙で、うす黒さをまとい、後ろ指さされるような、私たち」にこれ以上ないほどぴったりする言葉だ、と感じて奈々子は恐ろしくなるのです。「いかれころ」が意味するものは、志保子や隆志、幸明、死にゆく犬のマーヤも含めて、強い者たち・社会から排除されていく存在のことなのかなと思いました。

 

六.歩道橋から見た景色、「山のむこ」

物語のなかで大事な役割を果たしているのではと思いました。

最初、志保子に連れられて奈々子が歩道橋から彼方の山並みを見る場面(四八ページ)、このときまで奈々子は「山のむこ」には無の世界があると考えています。志保子から大和や富士山やとーきょーがあると聞いてもピンときません。

この歩道橋は、本家と分家の境目の外環状線にかかっています。その後六〇ページで、本家へ行く途中歩道橋を渡るときに同じ風景を目にして「桜ヶ丘のある種の気取りとまがい物っぽさ、村内の秩序と合理性。それらのぐるりを取り囲む山並みの、今にも向こうへ倒れそうな頼りなさ。歩道橋の下には目に見えない水気のものがひたひたして私を高ぶらせた。もし端が割れてパイの窪みの底に落ちてしまったら、三人ともそこで溺れ死んで魚に食べられてしまう」と空想しています。分家と本家の境界線のような歩道橋と、その下にある不穏なものを示してるのかなと思いました。

最後、久美子の運転する車のなかから同じ遠い山並みを見る場面で作品は終わります。山のむこなどないみたいに、うっとりと景色を見て、「この道から見える景色が一番好きやわ」という久美子は、おそらくこの村のなかの世界、本家を頂点とする一統のなかの自分に満足していてその外になにがあるのか知ろうともしない。それに対して、奈々子は返事をせず遠くを見据えて別のことを考えている、という描写は、外の世界に目を向け始めた奈々子の成長を示すものであり、母と娘の決別の瞬間なのかなと思いました。