Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2022年1月22日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第4回 於NHK文化センター青山

・偏屈とは ー 古典をやるメリット

・古典の現代語訳について ー 翻訳か創作か

・人間の営みはすべて「翻訳」である

・オートマチックな言語を捨てよ

・文学の言葉にこだわりたいわけ

 

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まめ閣下:下僕よ。

下僕:あ、閣下、降臨。

まめ閣下:降臨ではない。貴君の目には見えたり見えなかったりするけれど、余はつねに存在するものである。それが証拠に、昨日の講座についてはソクラテスのネコ二オンとして貴君とともに見聞きしておったので内容については深く理解いたした。

下僕:閣下、ネコ二オンは五沙弥先生、ソクラテスはダイモニオン(デモ二オン)ですよ。

まめ閣下:まあそういった些事はどうでもいい。おそろしく素晴らしかった講座の熱が冷めないうちに語り合おうではないか。っていうか、貴君のはんぺん頭から記憶がだし汁に溶け出してしまわんうちに。

下僕:こんにゃくから今度ははんぺんですか、もう。はんぺん、美味しいですけど。

まめ閣下:いいから、さっさと始めようではにゃいか。

下僕:今回、閣下は一緒にお話をお聞きになってるわけだから、とくに心に響いたところを話し合うってことでいいんですかね。

まめ閣下:うん、講座はラジオでも順次放送されておる。詳しいことはそっちでちゃんと聞いて貰ったらよかろう。アーカイブで結構長期間に聞けるみたいだからにゃ。

下僕:閣下、聞いて貰ったらって誰に対しての発言ですか。なんだか我々の与太話に読者とか想定してるみたいな。先日閣下は、「こんなものを読んだからと言って、放送を聞かなくてもいいなんて思う人はおらない」とか言ってませんでしたか? えへへ。

まめ閣下:あーおほん。さて昨日の講座は、このプログラムの10~12回放送分、全4回の講座の最終日であったな。

下僕:すごかったですね。とくに12回放送分。毎回2時間、その後の質疑応答を入れるとだいたい2時間半、それを4回続けてきたからこそ到達できた、語り得たことだったと感じました。

まめ閣下:最終放送分の話に行く前に、順を追ってとくに心に響いたことを述べたまへ。貴君は文字にしておかんとすーぐに忘れてしまうからな。

下僕:はい、その通りで。というわけで、冒頭の見出しにしてみましたよ。10回分「なぜ古典に惹かれるか」のなかで、昔と今に対する世間の物の見方の違和感を乗り越えるために「偏屈になる」と決めたってあったじゃないですか。わたくしもかねがね、自分は偏屈にしか生きられないしこの先もますます偏屈になるしかないだろうとかんがえてたので、うれしかった。

まめ閣下:貴君はともかく、町田さんの言う「偏屈」というのは具体的に言うと。

下僕:いわゆる世間のブーム、熱狂に背を向けることですね。どうしてかというと、熱狂そのものがもつ嘘くささを感じ取っていたし、多くの人が熱狂するようなことがらにそもそも興味がもてないというのもあり、また熱狂化することへの反発もあったとのこと。それに熱狂は流行り物で一時的なものですからすぐに色褪せる、時代が先に進んでいくことへのむなしさも感じたということでしたよね。熱狂の渦のようなバブル時代、バンドブームが起こったりして、それに背を向けて何をしていたかというと町田さんは「時代劇」を観ていた。積極的に選び取って観ていたというわけでもないからなかにはくだらない物もあって、時々むなしさを覚える。それを乗り越えるためにちゃんとした時代考証の専門書やら古典の小説を読む、着物着て話する人がみたくて落語を聞く、なんかしているうち、自分がもともと持っていた「昔の物が好き」という考えが肯定できるようになった。物書きになって古典にかかわるようになって、さらに魅力がわかるようになった。「古典なんてやって何のメリットがあるの?」と問われたら、この「流行もんから身を遠ざけられた」というのをあげるって言ってましたね。

まめ閣下:うん、10回分はそういう話だった。11回分はそこから翻訳の話になっていったよな。

下僕:はい、町田さんは古典の現代語訳をやっているだけでなく、グリム童話やチャンドラーの探偵小説なんかも翻訳手がけてるんですね。

まめ閣下:グリム童話は「ねことねずみのともぐらし」だにゃ。

下僕:グリム童話のなかでもあまり知られていない話で、最初読んだとき結末があんまりひどくて理解できなかったって言ってましたね。なんでこんな終わり方なんだ、と愕然としたと。しかしそこで昔の人が書いた昔の話だから野蛮なんだ、だから理解できないんだ、と切り捨ててしまうと先に進まない。そうじゃないはず、今の自分たちでも納得できるものがなにかあるはず、わからないからこそ何かあるよね、と考えてみた。この話については結局、町田さんは原作にない結末を創作したわけですが、後になって原典の意味するところはこうだったんじゃないか、というのが見えてきたっておっしゃってました。古典を訳したりしていると本当にわからない箇所が出てきて、そういうのは元の資料が(書き写したときなどに)間違っているんじゃないか、と考えることもある。実際に間違っていることもあるけれど、それは翻訳という行為においてはちょっと危険な誘惑でもある。

まめ閣下:翻訳としてどこまでが許されるのか、という話だよな。

下僕:そうですね。「なかに込められていること」をわかろうとするのが翻訳だ、とおっしゃってました。今まで誰も通ったことなどないように見える道も、じっと見つめていればかすかに道らしきものが見えてくる、と。

まめ閣下:名言じゃ。

下僕:どうしてもわからないところを突破するのは「気合い」だ!って話もありましたよ(笑)。『解体新書』のフルヘッヘンドの例をあげて。まあしかし考えてみると、現代文でも普通の会話でも人間は同じことをやっている。同じ言葉を使っていてもお互いがそれについて抱いている意味や景色は異なるわけで、いかにそれを乗り越えていくか。そういう意味では人間の営みすべてが翻訳だと言える、と町田さん言ってましたね。恥ずかしながらわたくしも最近文芸翻訳に取り組んでおりまして、翻訳をやってみると、小説を書くのもある意味では翻訳だなと実感したんですよ。自分の内側にあるものをいかにより正確に他者と共有できる言葉に置き換えていくか。

まめ閣下:町田さんの古典の現代語訳にしても、翻訳と創作の境界を飛び越えるようなものだよな。「宇治拾遺物語」とか「ギケイキ」とか。

下僕:その時代にはなかったものや言葉を出すというのが批判されるときもあるようですね。わかりやすくする効果はあるけど古典のもつ情緒や格調が失われる、と。しかしもともと情緒も格調もない作品というのもあるし、作品そのものが伝えたいこと・魅力をより伝わりやすいものにしていくことのほうが大事なんではないか。「ギケイキ」は完全に創作であって、たとえば弁慶の生い立ちなど、より深く人間を理解する上で必要なことと思えば創作している、と。同じく「次郎長伝」も創作であるけれど、これは広沢虎造が語っていた言葉遣いという枠組みのなかで書いている。枠を設けることでよりわかりやすくなる場合もある、という話でしたね。

まめ閣下:そうしていよいよ最終回だ。「これからの日本文学」ってタイトルにはなっているけれど、話の内容としては町田さんがこれからどう書いていくか、ということだったように思うが。

下僕:まさにそうですね。「文学って何? なんのためにあるの?」という質問に対して、読者にとっては「魂の慰安」「娯楽・快楽」「ひまつぶし」、作者にとっては「書くことによって得る興奮・快楽」「時間つぶし」「銭もうけ」というものがあげられるが、この両者が幸福に出会えば(本として)世の中に流通することになる、と。しかしそれだけじゃない。もっと他にもあるんじゃない? と考えると、偶然に、自然に、意図せずに知らぬ間に、文学が現状に影響を与えているということは考えられる。それはつまり日本語やそれを動かすOSに対して、文学の言葉がなんらかの影響を及ぼしている、ということ。今よりももっと強い影響をもっていた時代もあっただろうけれど、テレビの登場などマスコミ(中央)言語によって文学の言語が持つ影響力は衰退してきた。さらに現代はもっとバラバラのネットスラングやらサブカル言語やらいろんな言語(方言)が乱立していて、文学の言葉も一つの方言となっている。そういう存在として細々とでも続くんだからいいんじゃない、という考え方もあるけれど、町田さんは。

まめ閣下:あえて文学の言葉にこだわりたい、という気持ちがある。

下僕:そう、それはもう人間としての癖(へき)というか質(たち)というかどうしようもないもので、そもそも欲求なので理由を説明するのは難しい。しかし文学のことばのなかに自分は生き延びたい、その理由をあえてあげるなら以下の3つ:

1.外側の理由 マス(世の中に溢れたもの)への抵抗

世の中にはオートマチックな言葉が溢れている。慣用句やことわざ、はたして本当にそうなのか、その表現でおかしくないのかと考える前に口にしてしまう言葉。それは呪文のようなもので、その言葉が出た途端頭の中が一色(ひといろ)になってしまう、思考が止まってしまうもの。たとえば「多様性は大事」と言われてしまったらその先に話が行かない。そういう言葉を捨てて、自分で考えていくのが文学の言葉。どうしてそれにこだわるのか。それは人間の魂の外側を塗り固めて目に見えるものにしていくのが言葉だからだ。人間はひとりひとり違う魂であってとても寂しい。だから他の人の目に見えるかたちにしてなんとかして伝えよう、そのためには文学の言葉がいる。なぜといえば貧相な言葉では貧相な外見しか作ることはできないから。

2.内側の理由 バリアを突破して行く力

「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子さん)「土の記」(高村薫さん)などは、どこまでも思考をつきつめていくものすごい小説、普通の人間にはできないところまでつきつめていく。なぜ普通はできないかというと、人間にはリミッターというか、その先には行けないというバリアがあるから。もう考えるのが嫌になってしまうのが普通。でもそれを突き破っていく力になるのが文学の言葉だと思う。

しかしながらこの作業はとてつもなくつらい。世の中にはつきつめない表現というのが溢れていて(オートマチックな言語、Jpopの歌詞など)それはそれで人気があるのは、そのなかにいる限り人は傷つかないでいられるからではないか。

3.1と2を合わせたものをやること = 文学の追求

あ、んー、えっと、このあとはなんでしたっけ。

まめ閣下:おいおい、だめではないか。

下僕:すんません、3のところ、ちゃんと理解できてなかったんです。最後の質疑応答のときに質問したかったんですが、いつものぐずぐず癖が出てきて、まにあわなかった・・・・・・

まめ閣下:もう、貴君のはんぺん度合いには。

下僕:あ、でもね、ここんとこはちゃんとメモしましたよ。文学のメリットっていうか、効能みたいなものを問われたら、ってやつかな?

まめ閣下:そんな話あったっけ?

下僕:えっとですね、「この世の熱狂から離脱することができる。この世の外側と内側の両方に軸足をおいてどちらにも傾かず、今この瞬間を全力で楽しめるようになる『かも』しれない」っておっしゃってました。

まめ閣下:それさ、たぶん3の内容だと思うぞ。1と2を合わせたものをやるとどうなるかって話じゃなかったか。

下僕:はぁ、そうかもしれませんね。閣下、さすがでございます。では、板書のお写真などご覧ください。これは「今は昔、」というお話の語り始めについての説明であります。末来となってますが「未来」であります。○で囲まれた記号のようなのは「今」でございます。物語の中では「今」が自由自在に時間軸をスライドできる、というお話でありました。町田、というのは語っているご本人、時間軸をスライドしているようです。ちなみに我々は「町田」のイントネーションを「ーーー」とわりとフラットにやっておりますが、ご本人は「_ー_」と、「ち」にアクセント置いて発音されております。

まめ閣下:にゃんだか話を逸らされたような・・・。まっ、いっか。あんまり長い話になって眠くなってきたぞ・・・