Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2022年6月4日「おばちゃんたちのいるところ」松田青子

・幽霊譚を元ネタにフェミニズム的視点でライトな語り口で展開される短編集

・「おばちゃん」の素晴らしさ

・短編はいかに書かれるべきか

 

 

まめ閣下:下僕よ。昨日は遅くまで賑々しくやっておったのー。

下僕:あ、閣下ではありませんか! ようやくおいでくださいましたね。

まめ閣下:何度言ったらわかるんだ、予はイデアであるから姿はなくともつねに在る。

下僕:はいはい、でもね、こちらにわかる形で現れていただけませんと。

まめ閣下:だからそれはー、貴君の精進がたりないのだよ。つねに高い次元で精神を活動させておればイデアというものはつねに感じられるはずなのである。

下僕:はぁ、それはたとえばお線香焚いたりですか。

まめ閣下:は? お線香?

下僕:いえね、昨日の読書会で取り上げた短編集のなかにそういう話が登場するものですから。

まめ閣下:ふむ。貴君にしてはなかなか機転のきいた前ふりじゃあにゃいか。さっそく昨夜のみなの話をまとめて聞かせてくれるかにゃ。

下僕:はい、昨日の課題はこちらの作品、松田青子さんの「おばちゃんたちのいるところ」でございました。世界幻想文学大賞も受賞した連作短編集でございます。

まめ閣下:相変わらず安定の下手写真である。どれどれ。ふうん、著者紹介を見ると他にも多々受賞歴があって海外でも評価されているみたいだにゃ。

下僕:はい。この作品は、昨日の読書会でみなさまの意見をまとめると、「幽霊譚を元ネタにフェミニズム的視点でライトな語り口で展開される短編集」という感じになりました。死んだ人も生きてる人も一緒にそれぞれの特性を生かしてさまざまな仕事をしている不思議な会社というのが展開される物語のハブになっていて、はっきり書かれてはいない場合もあるけれど共通の登場人物や繋がっていくモチーフがあるという、いわばゆるく繋がる連作になってます。全編通じて読むと、母に突然死なれて茫然自失すっかり生気を失っていた茂という青年が、この会社に非正規で働き始めて徐々に生きる気力を取り戻し、最後のお話のなかではやはり具体的には書かれていないけれど営業職みたいな感じになっていて、一応、成長というか回復の物語もひっそりとある。

まめ閣下:幽霊譚を元ネタに、っていうのは。

下僕:どの短編にも「皿屋敷」とか「子育て幽霊」とか、知ってる人ならみんなすぐにわかるような古典の怪談がベースになっていて、そのストーリーにのっかって独自の物語世界が展開していく。参加者の大半は、元ネタにあまり詳しくなかったんですが、

まめ閣下:おほんっ、貴君がその代表だな。

下僕:そりゃ当然でございますよ。えー、ですが、とっても詳しい方がお一人いらっしゃいまして、元ネタがわからないと本当にはわからないんじゃないかというわれわれの不安に対して、その方が言うには「わからなくてもまったく問題なく楽しめるんじゃないか。だから海外や古典を知らない若い人にも受けるんでは」とのことでした。言い換えると、パロディとしてはさほど深くはない。幽霊譚に詳しい別の方は、アジアでは一般に女性の幽霊譚が多くその死に方によって幽霊が分類されるくらいあって、そういう話がずっと語り継がれているのも、その非業の死を憐れむという情緒的な共感があってのことかもしれずアジア的なのかもしれないとおっしゃっていましたね。

まめ閣下:だからこそ世界で支持されたというわけかにゃ。

下僕:はい。どの作品にも根底にはフェミニズム的視点が感じられるのですが、口に出せない恨み辛みを、わざとラノベっぽくも感じられる軽い文体にして語ることで一見とっつきやすく見せている。でもその実、鋭利な刃物を隠し持ってるヤバい書き手じゃないか、と感じる方もいらっしゃいました。

まめ閣下:なんであれ思想的なものの出し方って小説では難しいんではないか。

下僕:はい。あまりに直截に語ってしまってはもう小説ではなくなりますし、普遍的な一大テーマみたいなものはもともとそんなにスパっとすっきり出せるものではないでしょう。本のなかではわりと昔から現代に至るまでの女性の「削られ方」「野生の剥ぎ取られ方」が描かれているし、作者と同年代である「ロスジェネ世代」の方などはとくに「わかりすぎてさらっと何のひっかかりもなく読めてしまった」とおっしゃってました。その辺りは、読み手の世代とか性別とかでベースとなる価値観というか世界観が違ってしまうと「わかる」と感じる振れ幅が大きいのかも、とおっしゃってる方もいましたね。また、古典の時代よりは女性も少しは生きるのが楽になったというふうにも読める、とか、幽霊譚ではあるけれど死ぬのも(死んでしまった人のほうは)悪くないよね、楽しいよね、みたいな、肯定も感じられる、という意見もありました。

まめ閣下:予は大いに楽しんでおるぞ。

下僕:ならよろしいんですけどね。残されたほうはやはり哀しく寂しいものでございますよ。まあそれはおいておいて、タイトルにある「おばちゃん」という語の持つパワーというかすばらしさについても語ってる人がいましたよ。生まれたときからいろいろ生きづらいものを背負わされている女性が、「おばちゃん」という存在になったときに、ようやくそれから解放される。自分がそろそろ「おばちゃん」かなと思い始めたときに気づくその素晴らしさ。それはほんと、よくわかりますよね。

まめ閣下:そういや、貴君もいつのまにか立派な「おばちゃん」になったにゃあ。

下僕:ふんっ、ほっといてください。21年も一緒にいるんだからそりゃ当然でございましょうよ。

まめ閣下:上にある「短編はいかに書かれるべきか」ってのは何だ?

下僕:ああ、この読書会は全員小説を書いている側の人たちなんで、何を読んでもそういう視点から離れられないんでございましょうね。今回の課題は、ゆるく繋がる短編連作という形式なので、どうしても個々の話が単独の短編として成立しているのか、という疑問があったりもして。文体というのも、短編はこれでいいのか。もちろん↑に語ったように意図されての軽さだと思います。しかし短編には短編独特の文体が必要、という教えなぞも我々は受けておりー研ぎ澄まされた最小の言葉で深い意味を伝えるというようなー。そこから各人がこれぞ短編の魅力と思うことがらの話へと移っていきました。まあその話はまた今度。

まめ閣下:にゃんだ、また怠惰な。

下僕:ちょっと課題から外れるからですよ、もう。とにかく、小説というのはまあ読者を選ぶものとかあって当然で、読書というのは当然ながら、娯楽、楽しみでありますから好きなタイプを選んでいくのが自然な行為ではありますが、小説講座なんかでは「普段自分からは手に取らない種類の作品を読むことが大事」と教えられます。今回はそういう点でもいい読書会であった、とおっしゃる方もいらっしゃいました。わたくしはあまり難しいことはわからないですけど、軽い読み物としてけっこう楽しみました。とくに好きだったのが、「愛してた」という作品に登場するお線香。これを焚くと生前愛していた方が現れるっていうんですよ。それでその人は死んでしまったミケという猫に会いたいって思うんです・・・そこで泣いてしまい・・・はしなかったんですが、このお線香わたくしも欲しいって思っちゃった。

まめ閣下:それが今回の話の枕じゃにゃ。

下僕:はい、でもね、よく考えたらわたくし、そんなもの不要ですよね。このブログに何か書かなくちゃって思ったときには、そのお線香焚いているようなものじゃないですか。だからどうか閣下、いつまでもわたくしが何か話をしたいときには「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」って登場してきてくだ・・・あれ? あれ? 閣下? えーっ、突然消えないでくださいよー。