Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2022年10月1日「すべての月、すべての年」ルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳

・「外さないルシア・ベルリン」

・死と生、清と濁、弱さと強さ、相反するものを等価に描写する手つきの鮮やかさ

・実人生をいかに作品の素材にするか。ねじ曲げるのではなく変容させること。

・小説における「ほんとうのこと」とは。ほんとうのことが人の心を打つ。

 

 

下僕:♪かっかかっかかっかー、かっかかっかかっかー

まめ閣下:なんだ、騒がしい。

下僕:あ、出た! いや、おいでくださった。

まめ閣下:余はイデアであるからつねに存在しておると毎回しつこくいうてるではないか。それにそのへんな歌みたいなのやめろ。下品である。

下僕:だって閣下を召喚するための合図みたいなのがまだ確立してないからしかたないじゃないですか。あ、そういえばこの前夜中にひっそりと帰宅されていたでしょう? 廊下に猫砂が落ちてましたよ。

まめ閣下:それなー、余ではない。イデアは猫砂など必要とはしないのであるから。おおかた貴君のふだんの掃除が雑でどこか奥の方に入り込んでいた砂がなんかの拍子に出てきたのであろう。

下僕:えー、だって閣下が肉体を失ってからもうすぐ一年になるんですよ。いくらなんでもそんなこと・・・

まめ閣下:ええぃ、もうそういう無駄なしゃべりはやめてさっさと昨日の読書会の報告を始めたらどうだ。何度もいうようだが、イデアである余が貴君の目に見える形でいられる時間は限られておる。

下僕:そうでした、そうでした。お会いするとついうれしくなっちゃって、すんません。ではさっそく、昨夜の課題図書はルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳「すべての月、すべての年」であります。

まめ閣下:お、このおにゃごは知っておるぞ。ずいぶん前に貴君たちの読書会で「掃除婦のための手引き書」っての取り上げていたんではないか?

下僕:はい、こちらでございますね。2019年の11月だから、もう3年前になりますねー。われわれの読書会第1回目の課題図書でありました。それから回を重ねること、昨日のが14回目。ちょっと感慨深いものがあります。今回とりあげたのは、アメリカでは2015年に出版された「A Manual for Cleaning Women」のうち、日本語訳版「掃除婦のための手引き書」(2019年)に収録されていなかった残りの半分、つまり2冊合わせてようやくアメリカで出された短編集1冊の全作が出たというわけです。

まめ閣下:それにしても2冊合わせたらすごいボリュームにゃ。最初から1冊でいくというのはまあいろいろ難しかったのであろう。

下僕:翻訳は時間がかかりますしね。でも両方読めてよかったです。ちまたで耳にするっていうか目にする評判も、1冊目同様にかなり熱いです。

まめ閣下:昨日集まった人々の感想はどうだったのかにゃ?

下僕:やはり1冊目のときと同様、ごく短い作品から中編までどの作品のどこをとっても外れがない、「外さないルシア・ベルリン」と表現されていた方がいました。どの作品にもそれぞれの魅力がある。まあ一冊目のほうが内容のバラエティに富んでいる感はありますが。それは読み手にとって初めてのルシア・ベルリン体験だったので、強烈でびっくりしちゃってたってこともありますよね。今回はちょっと慣れて、少し冷静になって読めた部分はあると思います。みなさんそれぞれに印象に残った作品があって、同じ作品がある人にとってはものすごく楽しめたのがほかの人にはちょっときつかったというのもありました。みんなの印象に残った作品をすべてあげると目次全写しになっちゃうからやめときますが、この読書会のメンバーだからこそかな、と思われるのは「視点」ですね。創作における一人称視点と三人称視点の手法の考察なんですが、ラストで三人称「ヘンリエッタ」が「わたし」にすりかわるという。一読したときは技巧的な作品だなという印象だったんですけど、よくよく考えるとこれこそがルシア・ベルリンの作品の書かれ方を端的に表してるのかもって思いました。

まめ閣下:ん、どういうことかにゃ?

下僕:そのことについては後ほどくわしく。まずはみなさんの感想で印象に残っているのをあげると、一つの作品に生と死が等価に扱われていてその手つきが鮮やかというのがありました。生と死だけでなく、清らかさと汚さとか相反するものが等しく描かれてある。多くの作品にアルコールやドラッグの中毒というのが底にあって、それが作品のひりひり感につながっているわけですが、そういうものに依存してしまうのは弱さなんだけれど同時に主人公の生物としての強さというものがあって、作品を魅力的にしてるという意見でした。作品によって(著者がモデルと思われる)視点人物の名前はいろいろ変わるんだけれど、妹や叔父さん、いとこ、元恋人などは同名でいくつかの作品にも登場してきたりして、それをたどっていくのもおもしろかった。同じ人物だろう人が出てくるのに、作品同士は微妙に整合してなくて、一読では「これがあの作品のあの人」ってのがわからなかったりもする。どの作品も人物の描き方が悲惨な状況にいる人も含めてとても生き生きしているのは、おそらく観察眼の鋭さによるものでしょう。1冊目に比べると、2冊目に入っている作品はあきらかに著者がモデルだろうと思われるものがほとんどで、ことごとく「美人」で「いい女」でちょっとそこはどうなのかと感じますが、写真見たらさもありなん、こんな人がこの環境にいたらそりゃ男たちは放っておかないよな、と納得してしまう部分もありますって人もいました。自分がこの作品のなかのこの人だったらきっと同じことをするという共感を持った人も。

まめ閣下:写真の威力か。そんな外見で作品まで判断していいのか。

下僕:いや、そういう単純な話じゃないんですがね。でも分かちがたい部分もあるような。著者の実人生を素材に書いてるんだなと思わせる作品が多いですから。全体から、武田百合子さんを連想したという人もいるし、フリーダ・カーロの作品をイメージしたという方もいます。

まめ閣下:ふうん。つまり非常に魅力的である、ってことだな。実人生を素材にってことは、私小説ってくくりでいいのかな?

下僕:そこがねー、わたくしは違うと思うんですよ。たしかに経歴を見ると作品とかぶる部分は多いんですけどね。でも病院で高齢者の生活歴を聞く活動もしてるので、そういうところからヒントを得たものもあったんじゃないでしょうか。この本の中で一番長い作品「笑ってみせてよ」というの、読了したときわたくしはもうこれ大好きっと燃えあがったんですが、なんでそんなに好きなのかと考えたとき、自分の好きな系譜、「ティファニーで朝食を」とか「ボニーとクライド」とか「グレート・ギャッツビー」を想起したからだなと。まあよくよく考えてみると、エンタメとしてストーリー的にはかなり盛っているんじゃないか。それはルシア・ベルリン作品としては本来の魅力からは外れるんじゃないかという気にもなったんですが。しかしグレート・ギャッツビーから、あ、そうだフィッツジェラルドではないか、と気づきました。おなじタイプの書き手なんではないか。村上春樹さんが「ザ・スコット・フィッツジェラルド」という著書のなかで、「彼は経験したことしか書くことのできない作家だった。彼は実人生を徹底的にフィクショナイズすることに腐心した。そしてそれを幾分誇張してーあるいはまったく誇張しないでー小説にひきうつした。」って書いてるんですよね。

まめ閣下:フィクショナイズ。

下僕:はい、それについてはちょっと長い話になります。この読書会にあたって、わたくし、ルシア・ベルリンが翻訳小説にしては異例のヒットとなっていてとくに若い読者たちに熱く受け入れられているようなのはなぜなのか、と考えてみたんです。

まめ閣下:愚は愚なりに。

下僕:まあそうですな。まず圧倒的なリーダビリティ。これは岸本佐知子さんの生き生きした現代的な訳文のおかげもおおいにあるでしょう。あとは素材。こんな世界があるのかとびっくりしてしまうような、それがどうも実体験らしいぞ、と。あと著者とおぼしき登場人物の魅力(人間に対する情の濃さやユーモア、絶望、諦観、強さなど)、もちろん場面の切り取り方のうまさもありますよね。普通のひとが自分の体験したことをただ書いてもこういうふうにおもしろくはなりませんから。

まめ閣下:そうだ、前回の読書会のときには「ルシア・ベルリンの小説はちゃんと「牛が床屋に行ってる」」って話になってたな。

下僕:はあ、そうでございましたな。さっきのフィッツジェラルドの話に戻りますが、ルシア・ベルリンの作品も同様に、実人生をもとに書かれているけれど徹底的にフィクショナイズしてると感じます。だから「私小説」とは呼べないとわたくしは思います。

まめ閣下:まあ「私小説」というくくり方自体が難しいもんにゃ。どれだけ実体験に寄せて書くかという違いだけで創作であることに変わりはない。

下僕:そうですよね。今回1冊目をざっと見直してみてみつけたんですが、本人がこのように言ってました。「実際のできごとをごくわずか、それとわからないほどに変える必要はどうしても出てくる。事実をねじ曲げるのではなく、変容させるのです。するとその物語それ自体が真実になる、書き手にとってだけでなく、読者にとっても。すぐれた小説を読む喜びは、事実関係ではなく、そこに書かれた真実に共鳴できたときだからです。」

まめ閣下:しごく名言じゃ。

下僕:ですよねー。つい先日、阿波しらさぎ文学賞の受賞イベントの動画をみたんですが、選考委員の吉村萬壱さんと小山田浩子さんがこれから賞をめざす人たちには「ほんとうのことを書いてほしい」とおっしゃっていたんです。ここでいう「ほんとうのこと」というのは、現実にあったことそのまんまという意味ではなくて、「書き手のなかに現実として立ち上がったもの」ということです。どんなに荒唐無稽なものであっても、それが書き手のなかにリアルに存在するものであればそれはほんとうのことである。そういうほんとうのことこそが人の心をつかむというような話をされてました。あ、それだ、と思いました。ルシア・ベルリンがこんなにも多くの人の心をつかむのは、「ほんとうのこと」が書いてあるからなんだ、と。それがあまりに「ほんとう」だから、読者はそれがすべて筆者の人生に実際に起こったことのように感じてしまうけれど、そこはちょっと違う。でも小説的にはほんとうのこと。

まめ閣下:しかしそれって、非常にオーソドックスっていうか、少なくとも今風ではないような。

下僕:そうなんですよ。昨日の読書会でも「作品を読んでいるともっと古い時代の人なのかと思ってしまっていた」と多くの人がいっていました。けれど亡くなったのは2004年、68歳でまだ若かった。「911も見たってことだよね」と考えるとちょっと驚くくらい、作品は古きよき文学を思わせる。それこそフィッツジェラルドとは50年くらい違ってるのに。でもだからこそ若い読者には新鮮なのかも。こういう作品が熱烈に支持されるということはわれわれ年を重ねた書き手にもちょっと光明が差すような。

ね、そうでしょ、閣下。え、あれ? もう行ってしまわれたのかぁー(しょぼん)。また来てくださいねー。