Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2023年5月20日『三匹の蟹』他・大庭みな子

・動物の一種としての人間という視座

・観察眼の鋭さ

・広島での戦争体験がもたらしたもの

・今読まれるべき作家

・蟹とはなにか


下僕:おや、閣下ではありませんか。どうしたんです、アザラシが水面に顔出すみたいに、ぽっかりと現れたりして。

まめ閣下:ようやく気づきおったか余はさっきからずっとぽっかりと現れてはすうっと消えるってのを繰り返していたんだがにゃ。観察力のないやつだ。

下僕:お、さっそく大庭みな子ですか。そりゃ『トーテムの海辺』でしょ。

まめ閣下:昨日は久しぶりに我が館に大勢集まって、賑々しくやっておったのぅ。なかなか有意義な話だったようだからちょっとかいつまんで教えてくれ。

下僕:聞いていらっしゃったのなら、あらためて報告する必要はないんじゃありませんか。

まめ閣下:余は貴君のこんにゃく頭っぷりを心配しておる。つるつる滑ってなかなかしみこまないこんにゃくみたいに、なにもかもすーぐ忘れてしまうではないか。

下僕:はぁ、返す言葉もございませんな。ではさっそく。昨日の課題図書はこちら、大庭みな子さんの短編集『三匹の蟹』です。収録されている7作のうち、表題作と『青い狐』『トーテムの海辺』を取り上げました。

まめ閣下:ずいぶん古ぼけた本ではないか。紙がすっかり茶色く変色して。大昔に買って読んでおったのか。

下僕:いえ、これはつい先日入手したもんです。今回課題になったので購入しようと思ったらもう中古しか手に入らなくなってたんですよ。

まめ閣下:絶版になってるってことか。

下僕:そうなんでしょう。こんな有名作品まで・・・と思うと愕然といたします。まあ、それはさておき、作品についての話を進めましょう。

まめ閣下:しかし貴君は大庭作品を読んだことはなかったんだったかにゃ?

下僕:もう十年以上前に小説教室の課題で『三匹の蟹』を読みました。講師が選ぶ「日本文学の読むべき作品」の一つだったんです。でもそのときにはどこがすごいのか正直あんまりよくわからなかった。たしかに描写の美しさはあるけれど、アメリカで暮らす人妻がホームパーティを抜け出して行きずりの男と一夜を過ごす話なんてべつにめずらしくもないんじゃないの、って感じを受けたんですよね。で、今回は、どこがすごいのか、技巧的な部分から分析してみようかと思ったんです。

まめ閣下:ふーん、技巧かぁ。

下僕:まあ、ちょっとだけ我慢して聞いてください。構造としては、冒頭部分が作品中の現在、行開け後がその前の晩の回想となっております。まあそんなに珍しいわけではありません。この冒頭部分が詩のように美しい海辺の描写で始まるんですが、語り手が誰なのか最初はっきりわからない。でも鴎が「眼をじっとこちらに向けて」という表現が出てきて、ああ「こちら」ということはこれは一人称の語りなのかとわかる。その後由梨という名前が出てきますが、三人称視点ではなく由梨の視点で書かれるのかなと思う。舞台がどこかというのもしばらく書かれず、バスに乗って「L市」というのとバス代が「85セント」というところで外国の話なんだとわかる。あまり情報を提示しないタイプの幻想的な話か、と思っていると、行開け後の回想部分はまったく別の作品のような印象になります。娘との会話、続々とやってくるブリッジパーティのお客たちとの会話が続くんですが、この会話がなんとも演劇的、なにか芝居を観てるような印象を受ける。それはここの場面が由梨の視点ではなくていわゆる「神視点」であることも関係あるのかもしれません。互いの互いに向ける批判的な感情も描かれます。会話は辛辣でウィットに富み皮肉たっぷりで、あからさまに自由恋愛が語られ、饒舌なおしゃべりであるのに本当の意味のコミュニケーションはない。この場面を読んでで自分も逃げ出したくなった、と言う方もいました。それが、由梨が家を出る場面からまた由梨視点で語られるようになります。ひとりであてもなく車を走らせて夜の遊園地に入る。そこでたまたま開催されていたアラスカ・インディアンの民芸品の展覧会になんとなく入って出たところで桃色シャツを着た係員と出会う。この男といろいろあって一晩を一緒に過ごすことになるわけです。そのいろいろあって、ってところもあまり劇的なことはない。会話もほとんどない。「どうして黙っているの」「喋ることなんか無いもの」という会話が何度か繰り返されます。男の曖昧な誘いを断りもせず由梨はふらふらとつきあっている。由梨はただ男のことを観察している。動物を観察するように、行動によって内面を推測する。しかしなんでこの男と一夜をともにしてもいいと思っちゃうんだろうと、不思議に思いつつ読んでくと、由梨の昔の友だちの短い回想が入り、日本に帰ったところでアメリカ帰りは嫌われるだろう、という独白があって、ふいに「男の感じているむなしさと悲しさは由梨に伝わって、其処で優しい和みのようなものになった」という一文が出てきます。あ、なるほどと思いました。由梨はアメリカの暮らしに疲れて飽き飽きしている。なにかしゃべっていないとその人は存在しないことになる社会、言葉を交わすほどに虚しくなる関係。それでたまたま目についた「三匹の蟹」というネオンのついた場所に誘われる。由梨がそこで男と一晩を過ごしたことははっきりとは書かれないけれど、最後の文に「『三匹の蟹』は海辺の宿にふさわしい丸木小屋であった。そして、緑色のラムプがついていた」と書かれていて、ああなかに入ったんだとわかる。そして冒頭のシーンに繋がるわけです。車で一緒に来たはずの男の姿はなく、由梨はバスで昨夜自分の車を止めた場所に戻ろうとしている。財布のなかから20ドル紙幣が消えていて、ポケットのなかから口紅のついたくちゃくちゃの1ドル札が出てくる、というのでどんなことがあったのか読者は推測するというわけです。

まめ閣下:まあそれはそれで普通の解説であるが、もうちょっと発見があったんだろ?

下僕:はいはい。やはりすごく巧いなあとは思ったんですが、一大センセーションを巻き起こしたデビュー作って書かれてるのにひっかかりまして。何がセンセーションだったの? と、リービ英雄さんの解説を読んでみたんですね。そしたら群像新人賞芥川賞を受賞したときの三島由紀夫やら丹羽文雄とい大先生がたの批評が抜粋されていて、そのほとんどが「日本人妻が『アメリカ人』、あるいは『外人』と『姦通』したことに『衝撃』の大半があったように見える」って。ダメじゃん、先生方! そこじゃないよね、衝撃は、と大いに叫んでしまいました。じゃあ何なのかというと、まだよくわからないまま、残りの二作を読み始めました。『トーテムの海辺』を読むうちに、はっと気づいたんです。大庭みな子さんの独自性っていうのは、動物観察的な視座ではないのか。自分もまた動物の一種としてすべての動物と等しくこの世に存在していてるという感覚。海外暮らしをしていると、この動物的感覚が強まるというのはわたくしも実感としてあります。言葉が不自由なわけですから生き物としての感を研ぎ澄ませてよく相手を観察して判断する必要がある。それはあとがきとして書かれた文章のなかにはっきりと書かれていました。以下、引用します。

・・・・・・黙って彼らの話に耳を傾けていただけだ。彼らの話す言葉は異国の言葉だったので、わたしは森の中で出遭った動物の目をじっとみつめて、その心を探りながら、あまりよくわからないあやふやな推測で彼らの言おうとする話の道筋を追うしかなかった。

 だが、今になって思えば、不可解な言語に囲まれて、想像力で相手を理解しようとすることは、文学そのものだったような気がする。・・・・・・

 

まめ閣下:にゃんだ、猫と同じじゃにゃいか。

下僕:そうなんですよ、閣下。犬猫が人間を理解するように人間も人間を理解しようとすればいい。これはわたくしには一大センセーションを巻き起こしました。賛同の嵐です。この『トーテムの海辺』はおそらくご自身の体験にかなり近いところで書かれた話だろうと思うんですが、すごく共感できる文章がたくさん出てくるんです。『三匹の蟹』のときはさらっと読み流していた、アラスカ・インディアンの神話のモチーフが、大庭さんにとって非常に大切なものであったこともわかります。神話のなかでは人も動物も等しい存在であり恋に落ちたりもし、死者もまた陽気にそこらをうろうろしている。そこでは、人間と動物、生きているものと死んでいるものは地続きで、それを分断したのが実は言語なのではないか、と指摘される方もいて、はっとさせられました。さらに、最近注目されているマルチスピーシーズ人類学というものに通じるとも。そういう点では今読まれるべき作家なのではないだろうか、とおっしゃっていました。

まめ閣下:うむ、それはいい視点にゃ。なんでも人間が一番という考えはこの世を滅ぼすものである。(おほん)

下僕:なんだかちょっとしゃべり疲れてしまいましたよ。

まめ閣下:なんだ、だらしがない。もう少しだ、がんばれ。

下僕:はい、はい。そうだ、タイトルにある「蟹」とはなんぞや、という疑問を抱かれた方が多かったですね。『トーテムの海辺』では死肉を食らう忌み嫌われる存在とアラスカ・インディアンの村からきた村長が語りますし、『三匹の蟹』にはキリスト教モチーフが隠れているのでは、という方も。蟹はキリスト教では「キリストの復活」の意味があるそうです。そこから登場人物を数えてみたら13人だった、これは最後の晩餐では、と推測されていて、わたくしにはまったく思いもよらない読みで大いに驚かされました。読書って本当に個人個人の体験で、読むことは創作活動なのだと実感しました。また、大庭さんが広島で戦争を体験したことに注目して、そこからつねに死というものを近くに感じ考え続けていたのだろうという方の話にも大いに頷かされました。『三匹の蟹』が書かれたのはちょうどベトナム戦争のころで、井伏鱒二が『黒い雨』を書いたように、戦争体験者として書かざるを得ないものがあったのではないかという意見もありました。この作品から戦争というのは、わたしにはあまりつながらなかったのですが。あと、観察ということに関して言えば、こういう古い時代の作品に関して言うならば、圧倒的に女性作家のほうが観察眼が鋭いと感じる、と指摘される方がいて、わたしも納得しました。それはやはり女性の立場が弱かったせいだと思いますね。子どもと同様に、周囲をよく観察していないと生きていくのが難しかったのじゃないでしょうか。

まめ閣下:それは生き物としての基本じゃ。

下僕:『青い狐』は最初、なんか幻想的で夢のようでなんともつかみどころがない話のように感じたのですが、そういう視座やアラスカ・インディアンの神話的な見方で紡がれた物語だとするとわかるような気もしました。で、そうか、大庭みな子わかったぞ、って意気揚々と調子に乗って『首のない鹿』を読んだのです。そしたら・・・ぎゃ、ぎゃふん、でありました。とにかく描写に圧倒されて。動物的視点だけじゃないわ、やっぱ手強いわ、簡単にはいかんわ、と尻尾を垂れ深く項垂れたという次第。

まめ閣下:うん、また最初から読み直した方がいいにゃ、はんぺん頭よ。

下僕:今度は、はんぺんですか・・・

まめ閣下:多孔質、スカスカってことにゃ。

下僕:そういえば閣下がいなくてみんな寂しがってましたよ。

まめ閣下:なにを言うか。余はイデアである。つねに存在しておる。昨日もあの場におったのだ。見えないのは信心が足りないからにゃ。

下僕:ん、信心? イデアってそういうもんでしたっけ?

 

 

 

 

 

【読書会】2023年2月23日「大江健三郎自選短篇」より 於Malucafe&On-line( ハイブリッド)

・完璧な小説というものは存在する

・体験をフィクショナイズする力のとてつもなさ

・多様な文体を生み出し使い分け、言葉の選択、構成の巧みさ

・何を書くか、ではなく、いかに書くか

・大江という作家の目・耳・頭を借りて世界をみられる喜び

・以前の作品の捉え直しや改稿、テーマを抱いて連作する姿勢

 

 

まめ閣下:久々の読書会であったな。

下僕:ええっ? 今日はなんと単刀直入な。いつものくだらないしゃべりはやらないんで?

まめ閣下:昨日の読書会、話すべきことがたくさんあるであろう。

下僕:はい、なんてったって大江健三郎ですからね。大家中の大家、ラスボス感ありますな。

閣下:いいから、さっさとやらないか。

下僕:では、さっそくやりましょう。「あの場で自分が論戦を再構成したものを、もういちど記憶のひずみと時間のもたらしたズレとに影響されながら、のべなおすことにほかならない」のでありますが。

閣下:ぷっ、さっそく『頭のいい「レイン・ツリー」』からの引用か。

下僕:お、さすがですな。じゃ、これは? 「記憶に残っている内容を、記憶に残っている文体のまま再現することにする。」

閣下:『河馬に噛まれる』であろう。もう、いいから、本題に入れ、本題に。

下僕:ちぇっ、わっかりましたよー。昨日はこの『大江健三郎自選短篇』というのが課題本だったんですが、なにせこの厚さ、レンガみたいなんで、とりあえず『セヴンティーン』と『静かな生活』の2篇をとりあげ、他の作品については自由に語るという形にしました。

閣下:諸君らは大江作品くらい、たいてい読んでいるだろう? なにせ小説書くものの集まりであるのだから。

下僕:はぁ、それが。かつて数作品読むには読んだ、けれど難しかった、苦手だった、お腹いっぱいになって以後は読んでない、というのがおおかたで。わたくしなんぞは、恥ずかしながら若いころにはまったく読まず、時折文芸誌などで目にする文章はなんだか観念的で難解で、長らく敬遠してたんですよね。

閣下:まったくもう、だから貴君は。

下僕:みなまでおっしゃらずとも、文学的素地の貧しさはじゅうじゅう自覚しておりますよ。それが、十年くらい前か、教室の課題で『空の怪物アグイ―』を読み、文体にコマされてしまったんですよ。

閣下:なんだ、下品な。

下僕:だって、春樹さんがそう言ってたんです、短編小説の文体は読者をたちどころにコマすものでないとダメだって。まあこれも「記憶に残っている内容を、記憶に残っている文体のまま再現することにする。」ってやつですが。

閣下:わかった、わかった。で、それから嵌まってしまった、というわけか。

下僕:それがそれ以降はやはり読まなかったんですよね。

閣下:ぶっ、ほんっとに怠惰なやつよの。

下僕:まあしかたないじゃないですか、つねに読まなきゃいけないのをたくさん抱えてるんで。でもおかげで今回、ほとんど白紙の状態で作品に臨めたのはかえってよかったと思いますよ。課題の2作を読むつもりが最初から読みふけってしまって、初期の作品群は全部読んでしまいました。あ、この本は、初期、中期、後期と、年代順に分けられてるんです。自選ですから、ご本人がそのように分類したんでしょうね。

閣下:なるほど。とりわけ初期作品は強烈であろう。

下僕:はい、まさに暴力的なほど身体的、五感を掴んで捻り切られるみたいな。それも不快のほうです。排泄、不潔、性、残酷、とにかく「嫌ぁー!」と逃げ出したくなるような描写もあって、若いころ苦手と思った人の多くはそこでしょうね。わたくしもそうだった記憶があります。でも今回は読めたし、ものすごい引力を感じました。

閣下:年の功ってやつか。

下僕:ま、そういうことかも。そんなわたくしの感想を申しますと、課題の『セヴンティーン』は、17歳のころってこういう青臭すぎるところあるよねー、自意識過剰、強すぎる性衝動で動かされてるところ、でもちょっとこの主人公は過剰すぎるかな、と思いつつあちこち笑ったりして読んでいたら、ラストに向かってたたみかけるように、まさかの極右に走ってしまうという展開に驚愕しました。読後に見たWikiの解説だったか、「オナニストからテロリストへ」って言葉があって大爆笑しちゃいましたよ。でもなんで右翼? この時代の若者、とくに知的な人たちはみな左翼をきどってたんじゃ、と不思議に思ったんですよね。それにタイトルにあるように、主人公の17歳という設定もちょっと不思議でした。これが出たとき作者は26歳で、体験をもとに書くなら大学生になるはず。ラスト近くに運動中に亡くなった女子学生が出てきて、あ、これって樺美智子さんのことだ、とひらめきまして、その経歴も調べました。東大生で、亡くなったのは1960年6月22歳のときで、大江とはほぼ同年代、学生の大多数が学生運動に走っている流れのなかでわざわざ右翼のテロリストになっていく主人公を書いたのは、時流への反発なのか批判精神なのかなとも考えました。ちなみに樺さんは20歳の誕生日に共産党に入党したということで、右と左は違いますが、この作品の設定に共通するところがあります。その後、収録されている「河馬に噛まれる」という作品がこの作品のとらえ直しだというのを知り読んでみたところ、大江さん本人は左にも右にもなりきれず、どっちつかずで、左派の人たちからは嘲弄されるような立場でいたようです。本作も、右翼を決して礼賛しているわけではなく、むしろ批判的にちょっとコミカライズして書いている。まあそんな感じでいつもながらぼんやりとした感想を抱いて臨んだ読書会でしたが、やっぱりすごい、他の方の読みに大いにはっとさせられました。

閣下:ふんふん、それは?

下僕:まずこれは、思想的に右か左かはどうでもよく、なんであれ「狂信」が思考停止を生み、個人の懊悩から解放された人が至福を覚えるという話だ、と。ああ、そうだ、まさにそうだよ! と膝を打つ思いでした。もうひとつ、17歳の謎も、他の方の読みで解決しました。これが出たのは1961年、戦後16年です。もうじき17歳を迎える戦後日本の精神を描いたものだろう、と。主人公は実のところ確固たる思想もなく左から右へ極端に揺れるし、狂信によって幸福に至るし、さらに主人公の父、アメリカ的自由主義を標榜してはいるが、子どもに対して強権も振るわないが体を張って叱ることもなくただ冷笑している、これは戦前の家父長制が崩れたのちの日本の父親というか権威の姿ではないか。すごい、そうだ! と興奮しました。こうやって自分一人では到達できない理解が得られるのが読書会の素晴らしさだとつくづく実感しました。

閣下:すごいな、それは。しかし話が長くないかね? ちょっと何か息抜き、ブレーク的なものを投入したらどうか。

下僕:はぁ、じゃあこれはどうです? 昨日集まった本たち。

 


閣下:はは、レンガ本の群れだ。しかしなんかブレークというよりは胸焼けが。

下僕:そうですか、じゃあ、これなんかどうです? 会場となったマルカフェさんの極上デザート。

 

 

閣下:おお、これは美しい。

下僕:でしょ、今回は軽いお食事もいただいての読書会でした。

閣下:よし、じゃあ本題に戻って、二つ目の課題『静かな生活』に入ろうではにゃいか。

下僕:こちらは中期の最後のほうの作品です。この短編集では初期と中期の収録作品の間が16年も開いてるんです。初期の最後が『アグイー』、長男の誕生が影響していると思われる作品です。それから中期の『レイン・ツリー』のシリーズまで何も書いてないわけじゃないんですがここには収録されていない。長男の誕生以降の作品、作者自身に近いところで書くようになったものをを中期と、ご自身の中で分けられたのかなと思いました。自分の経験、生活をもとに書くというといわゆる私小説という枠組に入れてしまいがちで、大江さんについても中期以降は私小説作家という印象をもたれているかもしれないですが、やはりそうじゃない、初期作品と同じように、実体験をちいさな核あるいは素材あるいは背景にして、まったく別の世界を構築してるんだなというのが『静かな生活』を読むとよくわかりました。これは作家の娘の視点で、障がいをもつ兄との生活を書いた作品ですが、この視点で語ることで、柔らかい語り口になりまた無垢な存在である兄へのまっすぐな愛情を書くことができた。これが親の視線ではこういうふうには書けないと思いました。自分ではない若い娘の視点とするために、計算されつくした文体で書かれてます。具体的なヒントはなにひとつないにかかわらず、最初の6行でこれが若い女性の語りだとすぐにわかる、とおっしゃっている方も。この語り手に作者の現実の娘を重ね合わせてちょっと不快感を覚えた方もいるようですが、他の著作で大江さんがこれはまったく書く架空の語り手を設定したと語っていることを教えてくださった参加者がいました。この語り口を生み出すのにいろいろ工夫したらしい。

閣下:文体の多様さ、と冒頭で貴君が書いたことのひとつだな。

下僕:はい、作品によって本当にがらりと文体が変わる。『セヴンティーン』も冒頭の数行で過剰な自意識を持つ主人公の精神のありよう、作品世界まできっちり提示されている、と指摘された方も。作品中の時間の流れが、自意識にとらわれた内向的なところはゆっくり長く書かれていて、思考停止になってからは早く短いとか、指摘されている方もいて、なるほど、と。また、どの作品にも言えることですが、とにかく構成がすばらしい。情報を提示する順番も、あえて謎を残したり、限定された情報だけを提示して読み手のなかにトラップをしかけたり、とにかく巧みだとみなさんおっしゃっています。なかでも『飼育』を評価する方が多かったです。素材も文章も構成も、何もかもが完璧な小説だと。

閣下:あれは本当にすごい小説にゃ。予は決して生け捕りにはされたくないと思ったぞ。

下僕:(ガクッ)えー、まじめな話に戻ってもいいですか。言葉の選び方も巧みで、たとえば性器の呼び方をとっても、初期作品では「セクス」が「性器」になり、中期の『静かな生活』では「キン」になり、とか、長男の呼び名を「イーヨー」妹を「マーちゃん」にしていることなど、それぞれちゃんと効果が考えられているという指摘もありました。『静かな生活』ですが、実人生に近づけて書くという点では『アグイー』から四半世紀たったからこそ書ける部分もあったのだろうと思います。『セヴンティーン』が人間の弱さを書いているとすれば『静かな生活』は人間の強さを感じた、という方もいました。中期以降の作品は、より実人生を想起させるものが多くなっていますけれど、たとえ同じ場所にいて同じものを観たり体験したりしても、だれでもこんなふうに書くことはできないだろう、小説というのは何を書くかではなく、いかに書くか、大江作品は、大江という類まれな作家の目と耳、頭を借りて世界を見られるという喜びを与えてくれる、という方がいて、激しく同意しました。

閣下:書き直し、改稿についても話があったみたいだにゃ。

下僕:はい、表紙からして自筆の『アグイー』の改稿ですからね。あとがきで、初期の数作品がさまざまな書き直し・捉えなおしから派生していることに言及していて、本当に、書くこと、それによって思考を深めること世界を正確に捉えようとすること、に真摯に向き合っているのが伝わってきました。あとがきの最後の段落を写しておきます。

私は若い年で始めてしまった、小説家として生きることに、本質的な困難を感じ続けてきました。そしてそれを自分の書いたものを書き直す習慣によって乗り超えることができた、といまになって考えます。そしてそれは小説を書くことのみについてではなく、もっと広く深く、自分が生きることの習慣となったのでした。」

これって、なぜわれわれは小説を書くのかってことにも深くつながっているように思います。

閣下:ふうむ、昨日の会でみなが語ったことの半分もまとめられていないようではあるが、まあ充実した会であったことは、この長さによって推測してもらえるであろう。

下僕:はい、分量によって内面の時間の流れる速度があらわされておるのであります。

大江健三郎さんは2023年3月3日、亡くなられました。読書会の余韻も覚めやらぬタイミングで、非常に驚き衝撃を受けました。しかしご存命中に、読書会のため真剣に作品と向き合う時間ができたことは得がたき幸運だったと思います。いたらない読者としては未読の作品がまだたくさん残っていることは、幸せなことだと感じております。素晴らしい贈り物を残してくださったこと心より感謝いたします。>

 

 

 

下僕:さてさて、昨日の会場、マルカフェさんです。本当に素敵な空間で、お料理もなにもかも素晴らしかったですね。

まめ閣下:それにあそこには、ちっちゃくて猫みたいだが猫じゃないけむくじゃらのものらがおるであろう。

下僕:マメちゃんとドリルちゃんですね。昨日も時々参加して、とくにマメちゃんからは熱烈大歓迎を受けましたよ。

閣下:名前からして人格者もとい犬格者と決まっておる。

下僕:全然いばってなくて、同じ名前の某閣下とはだいぶ違いますがね。

閣下:(しらんふり)それに昨日はリモート参加もあったな。

下僕:はい、時差のある国からの参加でした。コロナ以降しかたなく始めたオンラインですが、世界中どこからでも参加できるという利点もありますよね。今回は初の試みとしてリアルとオンラインのハイブリッドで。思えば3年前、やはりこちらで開いた読書会が、我々の最後の対面読書会となっていましたから、パンデミックからの苦闘の日々をちょっと思い出したりもしましたよ。やはりリアルで話すのは、オンラインにはない良さがたくさんあるなーと、みなさん口々におっしゃっていました。マルカフェさんの居心地の良さもあって、最後はなんだか離れがたく、いつまでもダラダラ居残ったりして。

ああー、閣下ともリアルでお会いしたいですよ。イデアとか脳内伝達じゃなくて・・・

そういえば3年前はまだ閣下はこんなことしてらっしゃいましたねぇ。いろんなことがありましたね。

 



 

 

【読書会】2022年10月1日「すべての月、すべての年」ルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳

・「外さないルシア・ベルリン」

・死と生、清と濁、弱さと強さ、相反するものを等価に描写する手つきの鮮やかさ

・実人生をいかに作品の素材にするか。ねじ曲げるのではなく変容させること。

・小説における「ほんとうのこと」とは。ほんとうのことが人の心を打つ。

 

 

下僕:♪かっかかっかかっかー、かっかかっかかっかー

まめ閣下:なんだ、騒がしい。

下僕:あ、出た! いや、おいでくださった。

まめ閣下:余はイデアであるからつねに存在しておると毎回しつこくいうてるではないか。それにそのへんな歌みたいなのやめろ。下品である。

下僕:だって閣下を召喚するための合図みたいなのがまだ確立してないからしかたないじゃないですか。あ、そういえばこの前夜中にひっそりと帰宅されていたでしょう? 廊下に猫砂が落ちてましたよ。

まめ閣下:それなー、余ではない。イデアは猫砂など必要とはしないのであるから。おおかた貴君のふだんの掃除が雑でどこか奥の方に入り込んでいた砂がなんかの拍子に出てきたのであろう。

下僕:えー、だって閣下が肉体を失ってからもうすぐ一年になるんですよ。いくらなんでもそんなこと・・・

まめ閣下:ええぃ、もうそういう無駄なしゃべりはやめてさっさと昨日の読書会の報告を始めたらどうだ。何度もいうようだが、イデアである余が貴君の目に見える形でいられる時間は限られておる。

下僕:そうでした、そうでした。お会いするとついうれしくなっちゃって、すんません。ではさっそく、昨夜の課題図書はルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳「すべての月、すべての年」であります。

まめ閣下:お、このおにゃごは知っておるぞ。ずいぶん前に貴君たちの読書会で「掃除婦のための手引き書」っての取り上げていたんではないか?

下僕:はい、こちらでございますね。2019年の11月だから、もう3年前になりますねー。われわれの読書会第1回目の課題図書でありました。それから回を重ねること、昨日のが14回目。ちょっと感慨深いものがあります。今回とりあげたのは、アメリカでは2015年に出版された「A Manual for Cleaning Women」のうち、日本語訳版「掃除婦のための手引き書」(2019年)に収録されていなかった残りの半分、つまり2冊合わせてようやくアメリカで出された短編集1冊の全作が出たというわけです。

まめ閣下:それにしても2冊合わせたらすごいボリュームにゃ。最初から1冊でいくというのはまあいろいろ難しかったのであろう。

下僕:翻訳は時間がかかりますしね。でも両方読めてよかったです。ちまたで耳にするっていうか目にする評判も、1冊目同様にかなり熱いです。

まめ閣下:昨日集まった人々の感想はどうだったのかにゃ?

下僕:やはり1冊目のときと同様、ごく短い作品から中編までどの作品のどこをとっても外れがない、「外さないルシア・ベルリン」と表現されていた方がいました。どの作品にもそれぞれの魅力がある。まあ一冊目のほうが内容のバラエティに富んでいる感はありますが。それは読み手にとって初めてのルシア・ベルリン体験だったので、強烈でびっくりしちゃってたってこともありますよね。今回はちょっと慣れて、少し冷静になって読めた部分はあると思います。みなさんそれぞれに印象に残った作品があって、同じ作品がある人にとってはものすごく楽しめたのがほかの人にはちょっときつかったというのもありました。みんなの印象に残った作品をすべてあげると目次全写しになっちゃうからやめときますが、この読書会のメンバーだからこそかな、と思われるのは「視点」ですね。創作における一人称視点と三人称視点の手法の考察なんですが、ラストで三人称「ヘンリエッタ」が「わたし」にすりかわるという。一読したときは技巧的な作品だなという印象だったんですけど、よくよく考えるとこれこそがルシア・ベルリンの作品の書かれ方を端的に表してるのかもって思いました。

まめ閣下:ん、どういうことかにゃ?

下僕:そのことについては後ほどくわしく。まずはみなさんの感想で印象に残っているのをあげると、一つの作品に生と死が等価に扱われていてその手つきが鮮やかというのがありました。生と死だけでなく、清らかさと汚さとか相反するものが等しく描かれてある。多くの作品にアルコールやドラッグの中毒というのが底にあって、それが作品のひりひり感につながっているわけですが、そういうものに依存してしまうのは弱さなんだけれど同時に主人公の生物としての強さというものがあって、作品を魅力的にしてるという意見でした。作品によって(著者がモデルと思われる)視点人物の名前はいろいろ変わるんだけれど、妹や叔父さん、いとこ、元恋人などは同名でいくつかの作品にも登場してきたりして、それをたどっていくのもおもしろかった。同じ人物だろう人が出てくるのに、作品同士は微妙に整合してなくて、一読では「これがあの作品のあの人」ってのがわからなかったりもする。どの作品も人物の描き方が悲惨な状況にいる人も含めてとても生き生きしているのは、おそらく観察眼の鋭さによるものでしょう。1冊目に比べると、2冊目に入っている作品はあきらかに著者がモデルだろうと思われるものがほとんどで、ことごとく「美人」で「いい女」でちょっとそこはどうなのかと感じますが、写真見たらさもありなん、こんな人がこの環境にいたらそりゃ男たちは放っておかないよな、と納得してしまう部分もありますって人もいました。自分がこの作品のなかのこの人だったらきっと同じことをするという共感を持った人も。

まめ閣下:写真の威力か。そんな外見で作品まで判断していいのか。

下僕:いや、そういう単純な話じゃないんですがね。でも分かちがたい部分もあるような。著者の実人生を素材に書いてるんだなと思わせる作品が多いですから。全体から、武田百合子さんを連想したという人もいるし、フリーダ・カーロの作品をイメージしたという方もいます。

まめ閣下:ふうん。つまり非常に魅力的である、ってことだな。実人生を素材にってことは、私小説ってくくりでいいのかな?

下僕:そこがねー、わたくしは違うと思うんですよ。たしかに経歴を見ると作品とかぶる部分は多いんですけどね。でも病院で高齢者の生活歴を聞く活動もしてるので、そういうところからヒントを得たものもあったんじゃないでしょうか。この本の中で一番長い作品「笑ってみせてよ」というの、読了したときわたくしはもうこれ大好きっと燃えあがったんですが、なんでそんなに好きなのかと考えたとき、自分の好きな系譜、「ティファニーで朝食を」とか「ボニーとクライド」とか「グレート・ギャッツビー」を想起したからだなと。まあよくよく考えてみると、エンタメとしてストーリー的にはかなり盛っているんじゃないか。それはルシア・ベルリン作品としては本来の魅力からは外れるんじゃないかという気にもなったんですが。しかしグレート・ギャッツビーから、あ、そうだフィッツジェラルドではないか、と気づきました。おなじタイプの書き手なんではないか。村上春樹さんが「ザ・スコット・フィッツジェラルド」という著書のなかで、「彼は経験したことしか書くことのできない作家だった。彼は実人生を徹底的にフィクショナイズすることに腐心した。そしてそれを幾分誇張してーあるいはまったく誇張しないでー小説にひきうつした。」って書いてるんですよね。

まめ閣下:フィクショナイズ。

下僕:はい、それについてはちょっと長い話になります。この読書会にあたって、わたくし、ルシア・ベルリンが翻訳小説にしては異例のヒットとなっていてとくに若い読者たちに熱く受け入れられているようなのはなぜなのか、と考えてみたんです。

まめ閣下:愚は愚なりに。

下僕:まあそうですな。まず圧倒的なリーダビリティ。これは岸本佐知子さんの生き生きした現代的な訳文のおかげもおおいにあるでしょう。あとは素材。こんな世界があるのかとびっくりしてしまうような、それがどうも実体験らしいぞ、と。あと著者とおぼしき登場人物の魅力(人間に対する情の濃さやユーモア、絶望、諦観、強さなど)、もちろん場面の切り取り方のうまさもありますよね。普通のひとが自分の体験したことをただ書いてもこういうふうにおもしろくはなりませんから。

まめ閣下:そうだ、前回の読書会のときには「ルシア・ベルリンの小説はちゃんと「牛が床屋に行ってる」」って話になってたな。

下僕:はあ、そうでございましたな。さっきのフィッツジェラルドの話に戻りますが、ルシア・ベルリンの作品も同様に、実人生をもとに書かれているけれど徹底的にフィクショナイズしてると感じます。だから「私小説」とは呼べないとわたくしは思います。

まめ閣下:まあ「私小説」というくくり方自体が難しいもんにゃ。どれだけ実体験に寄せて書くかという違いだけで創作であることに変わりはない。

下僕:そうですよね。今回1冊目をざっと見直してみてみつけたんですが、本人がこのように言ってました。「実際のできごとをごくわずか、それとわからないほどに変える必要はどうしても出てくる。事実をねじ曲げるのではなく、変容させるのです。するとその物語それ自体が真実になる、書き手にとってだけでなく、読者にとっても。すぐれた小説を読む喜びは、事実関係ではなく、そこに書かれた真実に共鳴できたときだからです。」

まめ閣下:しごく名言じゃ。

下僕:ですよねー。つい先日、阿波しらさぎ文学賞の受賞イベントの動画をみたんですが、選考委員の吉村萬壱さんと小山田浩子さんがこれから賞をめざす人たちには「ほんとうのことを書いてほしい」とおっしゃっていたんです。ここでいう「ほんとうのこと」というのは、現実にあったことそのまんまという意味ではなくて、「書き手のなかに現実として立ち上がったもの」ということです。どんなに荒唐無稽なものであっても、それが書き手のなかにリアルに存在するものであればそれはほんとうのことである。そういうほんとうのことこそが人の心をつかむというような話をされてました。あ、それだ、と思いました。ルシア・ベルリンがこんなにも多くの人の心をつかむのは、「ほんとうのこと」が書いてあるからなんだ、と。それがあまりに「ほんとう」だから、読者はそれがすべて筆者の人生に実際に起こったことのように感じてしまうけれど、そこはちょっと違う。でも小説的にはほんとうのこと。

まめ閣下:しかしそれって、非常にオーソドックスっていうか、少なくとも今風ではないような。

下僕:そうなんですよ。昨日の読書会でも「作品を読んでいるともっと古い時代の人なのかと思ってしまっていた」と多くの人がいっていました。けれど亡くなったのは2004年、68歳でまだ若かった。「911も見たってことだよね」と考えるとちょっと驚くくらい、作品は古きよき文学を思わせる。それこそフィッツジェラルドとは50年くらい違ってるのに。でもだからこそ若い読者には新鮮なのかも。こういう作品が熱烈に支持されるということはわれわれ年を重ねた書き手にもちょっと光明が差すような。

ね、そうでしょ、閣下。え、あれ? もう行ってしまわれたのかぁー(しょぼん)。また来てくださいねー。

 

 

 

 

【読書会】2022年6月4日「おばちゃんたちのいるところ」松田青子

・幽霊譚を元ネタにフェミニズム的視点でライトな語り口で展開される短編集

・「おばちゃん」の素晴らしさ

・短編はいかに書かれるべきか

 

 

まめ閣下:下僕よ。昨日は遅くまで賑々しくやっておったのー。

下僕:あ、閣下ではありませんか! ようやくおいでくださいましたね。

まめ閣下:何度言ったらわかるんだ、予はイデアであるから姿はなくともつねに在る。

下僕:はいはい、でもね、こちらにわかる形で現れていただけませんと。

まめ閣下:だからそれはー、貴君の精進がたりないのだよ。つねに高い次元で精神を活動させておればイデアというものはつねに感じられるはずなのである。

下僕:はぁ、それはたとえばお線香焚いたりですか。

まめ閣下:は? お線香?

下僕:いえね、昨日の読書会で取り上げた短編集のなかにそういう話が登場するものですから。

まめ閣下:ふむ。貴君にしてはなかなか機転のきいた前ふりじゃあにゃいか。さっそく昨夜のみなの話をまとめて聞かせてくれるかにゃ。

下僕:はい、昨日の課題はこちらの作品、松田青子さんの「おばちゃんたちのいるところ」でございました。世界幻想文学大賞も受賞した連作短編集でございます。

まめ閣下:相変わらず安定の下手写真である。どれどれ。ふうん、著者紹介を見ると他にも多々受賞歴があって海外でも評価されているみたいだにゃ。

下僕:はい。この作品は、昨日の読書会でみなさまの意見をまとめると、「幽霊譚を元ネタにフェミニズム的視点でライトな語り口で展開される短編集」という感じになりました。死んだ人も生きてる人も一緒にそれぞれの特性を生かしてさまざまな仕事をしている不思議な会社というのが展開される物語のハブになっていて、はっきり書かれてはいない場合もあるけれど共通の登場人物や繋がっていくモチーフがあるという、いわばゆるく繋がる連作になってます。全編通じて読むと、母に突然死なれて茫然自失すっかり生気を失っていた茂という青年が、この会社に非正規で働き始めて徐々に生きる気力を取り戻し、最後のお話のなかではやはり具体的には書かれていないけれど営業職みたいな感じになっていて、一応、成長というか回復の物語もひっそりとある。

まめ閣下:幽霊譚を元ネタに、っていうのは。

下僕:どの短編にも「皿屋敷」とか「子育て幽霊」とか、知ってる人ならみんなすぐにわかるような古典の怪談がベースになっていて、そのストーリーにのっかって独自の物語世界が展開していく。参加者の大半は、元ネタにあまり詳しくなかったんですが、

まめ閣下:おほんっ、貴君がその代表だな。

下僕:そりゃ当然でございますよ。えー、ですが、とっても詳しい方がお一人いらっしゃいまして、元ネタがわからないと本当にはわからないんじゃないかというわれわれの不安に対して、その方が言うには「わからなくてもまったく問題なく楽しめるんじゃないか。だから海外や古典を知らない若い人にも受けるんでは」とのことでした。言い換えると、パロディとしてはさほど深くはない。幽霊譚に詳しい別の方は、アジアでは一般に女性の幽霊譚が多くその死に方によって幽霊が分類されるくらいあって、そういう話がずっと語り継がれているのも、その非業の死を憐れむという情緒的な共感があってのことかもしれずアジア的なのかもしれないとおっしゃっていましたね。

まめ閣下:だからこそ世界で支持されたというわけかにゃ。

下僕:はい。どの作品にも根底にはフェミニズム的視点が感じられるのですが、口に出せない恨み辛みを、わざとラノベっぽくも感じられる軽い文体にして語ることで一見とっつきやすく見せている。でもその実、鋭利な刃物を隠し持ってるヤバい書き手じゃないか、と感じる方もいらっしゃいました。

まめ閣下:なんであれ思想的なものの出し方って小説では難しいんではないか。

下僕:はい。あまりに直截に語ってしまってはもう小説ではなくなりますし、普遍的な一大テーマみたいなものはもともとそんなにスパっとすっきり出せるものではないでしょう。本のなかではわりと昔から現代に至るまでの女性の「削られ方」「野生の剥ぎ取られ方」が描かれているし、作者と同年代である「ロスジェネ世代」の方などはとくに「わかりすぎてさらっと何のひっかかりもなく読めてしまった」とおっしゃってました。その辺りは、読み手の世代とか性別とかでベースとなる価値観というか世界観が違ってしまうと「わかる」と感じる振れ幅が大きいのかも、とおっしゃってる方もいましたね。また、古典の時代よりは女性も少しは生きるのが楽になったというふうにも読める、とか、幽霊譚ではあるけれど死ぬのも(死んでしまった人のほうは)悪くないよね、楽しいよね、みたいな、肯定も感じられる、という意見もありました。

まめ閣下:予は大いに楽しんでおるぞ。

下僕:ならよろしいんですけどね。残されたほうはやはり哀しく寂しいものでございますよ。まあそれはおいておいて、タイトルにある「おばちゃん」という語の持つパワーというかすばらしさについても語ってる人がいましたよ。生まれたときからいろいろ生きづらいものを背負わされている女性が、「おばちゃん」という存在になったときに、ようやくそれから解放される。自分がそろそろ「おばちゃん」かなと思い始めたときに気づくその素晴らしさ。それはほんと、よくわかりますよね。

まめ閣下:そういや、貴君もいつのまにか立派な「おばちゃん」になったにゃあ。

下僕:ふんっ、ほっといてください。21年も一緒にいるんだからそりゃ当然でございましょうよ。

まめ閣下:上にある「短編はいかに書かれるべきか」ってのは何だ?

下僕:ああ、この読書会は全員小説を書いている側の人たちなんで、何を読んでもそういう視点から離れられないんでございましょうね。今回の課題は、ゆるく繋がる短編連作という形式なので、どうしても個々の話が単独の短編として成立しているのか、という疑問があったりもして。文体というのも、短編はこれでいいのか。もちろん↑に語ったように意図されての軽さだと思います。しかし短編には短編独特の文体が必要、という教えなぞも我々は受けておりー研ぎ澄まされた最小の言葉で深い意味を伝えるというようなー。そこから各人がこれぞ短編の魅力と思うことがらの話へと移っていきました。まあその話はまた今度。

まめ閣下:にゃんだ、また怠惰な。

下僕:ちょっと課題から外れるからですよ、もう。とにかく、小説というのはまあ読者を選ぶものとかあって当然で、読書というのは当然ながら、娯楽、楽しみでありますから好きなタイプを選んでいくのが自然な行為ではありますが、小説講座なんかでは「普段自分からは手に取らない種類の作品を読むことが大事」と教えられます。今回はそういう点でもいい読書会であった、とおっしゃる方もいらっしゃいました。わたくしはあまり難しいことはわからないですけど、軽い読み物としてけっこう楽しみました。とくに好きだったのが、「愛してた」という作品に登場するお線香。これを焚くと生前愛していた方が現れるっていうんですよ。それでその人は死んでしまったミケという猫に会いたいって思うんです・・・そこで泣いてしまい・・・はしなかったんですが、このお線香わたくしも欲しいって思っちゃった。

まめ閣下:それが今回の話の枕じゃにゃ。

下僕:はい、でもね、よく考えたらわたくし、そんなもの不要ですよね。このブログに何か書かなくちゃって思ったときには、そのお線香焚いているようなものじゃないですか。だからどうか閣下、いつまでもわたくしが何か話をしたいときには「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」って登場してきてくだ・・・あれ? あれ? 閣下? えーっ、突然消えないでくださいよー。

 

 

 

【イベント】2022年4月30日十三浪曲寄席EXTRA 町田康 x 浪曲II 「パンク侍、斬られて候」於シアターセブン

・小説「パンク侍、斬られて候」を浪曲化。「これはカバーバージョンだ」(町田康

浪曲はブルースだ

浪曲は節回しとリズム

・台詞になってはダメ、歌ってもダメという難しさ

・なぜ浪曲に惹かれるのか

まめ閣下:おい、下僕よ。

下僕:あ、閣下! なんだかちょっとお久しぶりではありませんか。

まめ閣下:それは貴君が伏せっておったからであろう。ひと月も病に伏せっておったくせに、昨日はなんだ、突然遠出などしおって。まだ満足にまっすぐ歩けもしないようだから、予は心配しておったのだぞ。

下僕:はあ。まだ体感的には常に震度2くらい揺れ続けてはおるんですが、でもまあなんとか一人で歩けるくらいには回復、そこにたまたまこの公演チケットをお譲りくださるという方が現れましてね。客席数が40くらいの公演だったんで、瞬殺でソールドアウトになってたんであきらめていたものでしたが、こりゃあもう行けと神様が言ってるんだと解釈して大阪まで日帰りで行って参りましたよ。それがこちらの公演であります。

まめ閣下:まったく。もはや安定のヒドい写真だにゃ、二枚とも。なあ下僕よ。

下僕:まっこと返す言葉もござんせん。

まめ閣下:ま、しかたない。で、どうだった、公演は。

下僕:いやいや、浪曲ってのは初めてライブで観ましたが、予想以上におもしろかったです。うちは父親が浪曲好きで、時々レコードなんか聴いてたんですけどね、そのころわたくしはちっともその良さがわからなくって。節回しやなんかにはなじみはありましたけど、実際に一席通して聴いたことはなかった。今回のは原作を読んでいるから筋はわかりますけど、あの長編をどう浪曲にするのかと興味津々でおりましたが、前後編できちんと聞き所のあるエンタテイメントに仕立てられ、浪曲ならではの節にのせて三味線との掛け合いも見事で、これはなんというか、音楽のライブに近いものだな、と思いました。

まめ閣下:落語や講談とも違って。

下僕:そうそう。落語は話芸、講談も読み物・話の筋を聞かせる芸。浪曲は音楽的要素があってそっちが強めなんだなと感じました。実際に、昨日のトークで京山さんが「浪曲って実際には内容はあまりない」とおっしゃってました。筋というよりも、あるおもしろい場面を切り取って節やリズムに乗せていかにおもしろく聴かせるか。

まめ閣下:そうなると「パンク侍」は長編で、けっこう複雑な筋があるんではないか。

下僕:はい、まさに京山さんが今回の創作にあたって悩まれたのはそこだったようです。この作品のどこを使うか、それをどう加工するか、キャラクターをどう際立たせるか。

まめ閣下:にゃるほど。それはどうだった?

下僕:前半はやはり作品の冒頭の印象的なところから入ってましたね。でもベタで作品の順番そのまま行くんではなく、その後の展開に応じて必要なところで最低限の情報を入れる、みたいな。あ、そういえば、わたくし、今回は前編のみの口演なのかとばかり思っておりまして、「ちょうど時間となりました~続きはまたのお楽しみ」みたいなお決まりの最後の節で、「ん、もうっ。ほんとその通り!」なんて憤っておったんですが、なんと! トークの後に! 後編もちゃんと口演されたのでありました!!

まめ閣下:おいおい、もうほんとうに貴君は。そのオツムの出来の悪さ、写真の下手さと同じくらい安定しとる。まあ、聴けないとあきらめたものが聴けて、喜びもひとしおでよかったの。

下僕:そう、そういうポジティブシンキングでね。

まめ閣下:おめでたい、というんじゃよ、日本語では。Speak in Japanese.

下僕:(耳を素通り)トークはこんな感じでありましたー。写真撮影OKで、SNSなどにどんどん載せてください、と主催者の方が言ったとたん、みなさん写真撮りまくってましたね。

まめ閣下:トークではどんな話があったのかにゃ。

下僕:まず今回「パンク侍」がどうして浪曲化されたのか、という経緯。これは「男の愛」というもともと浪曲だった清水次郎長を小説化した町田さんの作品の出版インベントでお二人が対談されたときに、町田作品のなかで何か浪曲にできそうなものはと聴かれて、京山さんが思いついたのが「パンク侍」だったこと。実際やってみたら、さっき話したみたいにかなり大変だったようです。やはり短いもののほうが浪曲にはしやすい、と。それで、なんと、次は浪曲向けの作品を町田さんが書き下ろしましょう! ということになりました。

まめ閣下:おおー、すごい展開ではないか!

下僕:はい。「ええっ! ほんとにいいんですか!」と驚く京山さんたちに、町田さんは「何より自分がおもしろいと思う浪曲が聴きたい」と。それに、もともと浪曲好きの町田さんは、自分の書いた物が浪曲の節で語られるのはやはりたまらないらしいんです。

まめ閣下:浪曲のどういうところに町田さんは惹かれておるのかにゃ。

下僕:もちろん節も好きだし、語り口の芸が好きというのもありますが、なにより「浪曲には人間の根底にあるシンプルないつわりない感情があるから」だそうです。人間の哀しみなどいつわりのない生の感情が観念というフィルターを通さずに語られている。ロックなどの音楽はある種の建前であり観念的である。しかしそのロックの源となったブルースにはそういう観念的なものがない、浪曲にも同じものを感じる、と町田さんがおっしゃったとき、京山さんが「僕、ブルースが好きなんです!」ととても喜んでいらっしゃいました。浪曲もある程度決まりはあるなかで即興でプレイするみたいなところがあって似ていると感じていた、とも。実際観てみて三味線との掛け合いなんて、まさにジャムセッションって感じました。あと、ちゃんと芸として成立しているのに現在はちょっとすたってるところも、ギラギラとした商業主義に走ってない感じでいいとおっしゃってました。

まめ閣下:そのー、関係者の面前で「すたってる」って言っちゃったのか(笑)。それで町田さんはこの浪曲版「パンク侍」はどう感じたって?

下僕:まず、映画化されるよりうれしかった、と。心象風景の美しさで読ませる小説であれば映像化も楽しみだろうけれど、口調で読ませるような作品は、浪曲の節にのせて聴いてみたいと思っていたそうです。今回口演を聴いて、自分が書いた部分と京山さんが浪曲として作った部分が区別がつかないほど見事に融合されていたと思った。これは自分がやっている「宇治拾遺物語」とか「ギケイキ」と同じような、「カバーバージョン」と言える。今回の京山さんの公演では、飛び上がったり踊ったりというアクションや演出があって、生の芸そのものの味を楽しむことができた、とのことでしたよ。

まめ閣下:なるほど、大満足、という感じかな。

下僕:はい。わたくし、浪曲のことは素人でまったくわからないことばかりだったんですが、今回京山さんのお話を聞いて、浪曲の創作についてへぇ、そうなのか、といろいろ勉強になりました。さきほども申し上げたように、どこを使ってどう加工するかという構成の部分ももちろんありますが、あとはやっぱり節を決めるのが大変なんだそうです。浪曲は台詞になってはダメで、でも歌ってしまってもダメなんだそう。どこをどういう節で語るのか。節回しにもパターンがあってそれを使うのか、あらたに自分で作るのか。こうしようと考えていても、実際演じると変わってしまうこともあってそのときはどうするか。こうやって考えると、浪曲はジャズのようでもありますね。

まめ閣下:遠路はるばる行ったかいがあったの。

下僕:あ、そうだ。これは昨日会場で配られた京山幸太さんのインタビューの一部なんですが、京山さんの町田さん愛が溢れる箇所があったので一部載っけておきます。

まめ閣下:ーー好きですやん(笑)

下僕:(笑、笑)

【読書会】2022年3月12日「ここはとても速い川」井戸川射子

*おそろしく完成度の高い作品

*選び抜かれたモチーフ

*研ぎ澄まされた言葉

*細部のリアルさ

*「川」が象徴するもの

*子どもの社会的脆弱性と生きづらさのなかにも喜びを見いだす力

*わたくしもまた、抗いがたい速い川に立たされているのではないか?

 

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下僕:あぁ、どーしたらいいのかなぁ。困っちゃったなぁ。

まめ閣下:こほん。

下僕:あー、こんなとき、閣下がいらっしゃったなら。迷える下僕を正しく導きたもうことでしょうのに。

まめ閣下:えー、こほん。こほん、こほん。こほん。

下僕:変ですね。なんだかさっきから妙な咳払いのようなものが聞こえるような気が。耳鳴りでしょうか。こだまでしょうか。

まめ閣下:げぇえええほっ、げほっ、げほっ、うぉっほん!

下僕:何やってんですか、汚いなぁ。もう、咳が出るならマスクしてくださいよ。

まめ閣下:ば、ばかもの! 貴君がわざとらしく余に助けを請うているから、しょうがなく現れてやったのではないか。それをなんだ、すぐに気づかないふりなどしおって。

下僕:あはは、ばれてました?

まめ閣下:もうそういう小芝居はいらんから。はよ本題に入らんかい。

下僕:はぁ、それがですね。わたくしどうも最近頭がぼーっとしてしまって。

まめ閣下:貴君のそれは今に始まったことではないと思うが。

下僕:それが以前に輪を掛けてひどいんでございますよ。つい最近も感動して聴いたはずの講演なのにメモを読み返しても内容がもやがかかったように思い出せなくなって。

まめ閣下:そりゃもう年だからじゃないのか。

下僕:いや、わたくしはこれは花粉症ではないかと思うんでございますよ。花粉のせいで頭がぼーっとして思考能力が著しく低下してしまっているのでは。

まめ閣下:貴君は花粉症はないではないか。旧型の人間であるからにゃ。

下僕:でも年齢を重ねてコップの水があふれるように突然花粉症が出るって人もいるようですよ。わたくしもそれじゃないのかなぁ。でないと、こんなにあまりに突然に頭がぼんやりするようになるのはおかしいでしょう。

まめ閣下:あのにゃ、貴君の頭が愚であるのはもうずっと前から余が指摘しておることであろう。今に始まったことではないのだ。こんにゃくを煮すぎると固くなるとかはんぺんを煮すぎるとでろでろになるとかと同じくらい明白なことである。もうそういうことはいいから、今日はいったい何を思い出せなくて困っておるのだ。

下僕:思い出せないってわけじゃないんですよ。ただどうも頭の中に紗がかかったみたいにぼんやりとしか考えがまとまらないんでございますよ。

まめ閣下:ふむ。それはな、話さないからじゃないか。誰かに話してまとめておかんと考えたこと聴いたこと読んだことはすーぐ忘れる、それは貴君の一番の特徴ではないか。

下僕:そうなんですよぅ、だから閣下をお呼びしてたんじゃないですか。昨日の読書会でみなさんから出た感想を忘れないうちにまとめておきたいんですよぅ。

まめ閣下:わかった、わかった。こうして目の前にいて聴いておるから、話したまへ。

下僕:はぁ、よかった。ではさっそく。昨日の課題は井戸川射子さんの「ここはとても速い川」でした。

まめ閣下:お、知っておるぞ。野間文芸新人賞受賞作品だ。選考委員全員一致で選ばれて、そのなかの一人、保坂和志先生が泣いたってことで話題になってたにゃ。

下僕:あれ、よくご存じじゃないですか。

まめ閣下:余はなんでもよく知っておる。それに保坂先生は猫界においても非常に高く評価されておるからな。猫を愛する徳の高いお方である。

下僕:それほんとですか? 猫好きな作家は大勢いらっしゃいますけれど。

まめ閣下:〽ねーこを愛するひーとーはー。徳のたかきひーとー。

下僕:はいはいはい。さぁ、昨日の読書会ですが、参加者はわたくしを含め全7名。みなさんこの作品を高く評価されていました。実は半数以上の方が、最初のうちはなかなか読みにくかった、入っていくのが大変だったとおっしゃっていたのでありますが。

まめ閣下:ほう、それはどうしてだい?

下僕:大阪弁、饒舌な独白体で書かれていること、語り手が小学5年生であることとか。あまり説明されないまま起こったことをいきなりイメージのぶつぎりで語られているところ、誰が誰に語っているものなのか最初は理解が難しい、とか、それぞれに苦手な点があるようでした。わたくしはそういうのはまったく気にならなかったんですけどね。

まめ閣下:大阪弁で子どもの語りの作品といえばこの前の大磯読書会の課題を思い出すな。

下僕:はい。三国美千子さんの「いかれころ」でございますね。でもあちらは4歳の女の子の視点でとらえた世界を大人になってから語っているという設定でしたよね。今回の作品の語り手は小学5年生で、ずっとその少年の視点です。「いかれころ」は血族のどろどろしためちゃくちゃ濃密な関係性を書いていて、今回の作品に描かれる淡く流れ去っていく薄い関係性とはある意味対局にあるともいえますね。まあとにかく、入りにくいと感じる要素多めではあったんですが、でも読み進むうちにそういうことはどこかに飛んでしまうくらいよかった、とみなさんおっしゃっていました。課題にならなかったら途中で投げ出してしまっていたかもしれないけれど、読んで本当によかった、とおっしゃる方も。

まめ閣下:ふうん、そりゃまたどういうわけで。

下僕:上にいくつか挙げてみました。まず作品としての完成度が高いとおっしゃる方が多かったです。モチーフの選び方、日常のできごとのリアルさなど、ほんとうによく構築されていると感じたようです。言葉の研ぎ澄まされ方は、井戸川さんが詩人であることを考えたら当然というか。わたくしなんかは詩人が書いた作品というので最初「文章が難解なんじゃないか」とちょっと身構えてしまったんですが、ちゃんと小説の言葉で書かれていると感じました。ラストで一気に言葉のパワーが炸裂するんですけどね。それがすごくよかった。

まめ閣下:語り手が施設で暮らす少年ということについてはみんなどう言ってた?

下僕:はい、小学5年生の男の子の独白で最後まで書かれているんですが、それを大人の書き手がやりきるのってすごく難しいはず。でもちゃんと、大人が描く「少年」ではなく、集というひとりの人間の視点で描かれてる。施設というある種特殊な環境での生活を淡々としたタッチで、でも少年だからこそのこまやかな視線で切り取って、生き生きと描いている。生きづらさがあって当然の境遇、でもそのなかにも小さな喜びをみつけて生きている姿もいい。その生きづらさも、ステレオタイプなものではなくて、微妙なところをすくい取ってことごとくステレオタイプをひっくり返して描かれている。普通だったらぜったいそれ危険だろうと思う見知らぬ大学生モツモツとの交流に心をゆるく支えて貰ったりとか。繊細な心の動きの描き方がそのままでとてもせつなく胸をうつ。ひじりという集が弟のようにかわいがっている子が先生からちょっとしたハラスメントを受けていて、それがどういう意味なのか子どもには最初よくわからない。わからないけどなんだか嫌だ、というのがぼんやりと描かれているのもいいと言う方もいました。ハラスメントについては、おおきなドラマっぽいものはおこらない話の中の背骨みたいになっていて、最後、園長先生に訴える場面では集の心の成長を感じさせるし、そこからの言葉の暴発にわたくしは打たれたわけですけど。

まめ閣下:モチーフの選び方ってのは?

下僕:アガパンサスの花で季節の移り変わりをしめしていることとか、実習の先生たちとの交流とか、地域の夏祭りとか。あとなんといってもタイトルにもなっている「川」ですね。川によって非常に多くのことが示されている。たえずうつろい流れていく周囲の人間関係とか。施設で暮らすこどもの寄る辺なさとか。話全体に「川」の雰囲気が流れていて、具体的な川も和歌山での宿泊訓練で溺れそうになって助けられる川と、施設の近くにある淀川の二つが登場するんですが、それもなにか対照的で。和歌山の川はきれいで流れが速くて危険だけれど助けてもらえる川、淀川は近くにあって淀んでいてたぶん誰にも助けてもらえない川。最後、ひじりがお父さんと暮らすようになってひとりになった集が、淀川に棲む亀に餌を投げてやるシーンがね、いいんですよ。自分を重ねてるんだなってわかる。孤独な自分を少しだけ遠いところで見てる、って感じ。心の成長ともとれる。だからせつないけれど読後感がいいとおっしゃってる方もいましたね。ひじりのこと本当に大切にして弟のようにかわいがっていたのに、その別れの場面は描かれない。さらっと、ひじりがいなくなってからの日々が描かれる。そこがまた、集の心情を想像してしまってせつないんですよね。描かないことでより強く響いてくる、という感じ。「最高のパーカッショニストは一番大事な音を叩かない、と村上春樹さんが書いていた」とおっしゃる方がいて、まさにそれー! と盛り上がりましたよ。その方が、「わたくしもまた、抗いがたいとても速い川に立たされているのではないか?、と感じた」とおっしゃったんです。またしても名言! ということで、昨日の名言大臣に認定されました。

まめ閣下:なんじゃ、そりゃ。まあ、優れた作品をみなで楽しめたのだからよかったではないか。

下僕:はい。わたくしはどうもいろいろ分析的に読んだりするのが苦手でして、ただただ話の中に入り込んでしまって「うん、よかった。おもしろかった。せつなかった」みたいな子どもみたいな感想で終わりがちなんですけど、他の方の感想や意見を聴かせていただくと本当にいろんな発見があるんですよね。理解が深まるところもあるし。

まめ閣下:にゃるほどにゃ。はい、みなさん、読書会ってほんとうに素晴らしいですね。それでは、みなさん、次回まで、さよなら、さよなら、さよなら。

下僕:って、淀川長治かーい! あれ? 閣下? 閣下ー! いきなり消えないでくださいよぉー。

 

 

 

【講座】2022年1月22日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第4回 於NHK文化センター青山

・偏屈とは ー 古典をやるメリット

・古典の現代語訳について ー 翻訳か創作か

・人間の営みはすべて「翻訳」である

・オートマチックな言語を捨てよ

・文学の言葉にこだわりたいわけ

 

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まめ閣下:下僕よ。

下僕:あ、閣下、降臨。

まめ閣下:降臨ではない。貴君の目には見えたり見えなかったりするけれど、余はつねに存在するものである。それが証拠に、昨日の講座についてはソクラテスのネコ二オンとして貴君とともに見聞きしておったので内容については深く理解いたした。

下僕:閣下、ネコ二オンは五沙弥先生、ソクラテスはダイモニオン(デモ二オン)ですよ。

まめ閣下:まあそういった些事はどうでもいい。おそろしく素晴らしかった講座の熱が冷めないうちに語り合おうではないか。っていうか、貴君のはんぺん頭から記憶がだし汁に溶け出してしまわんうちに。

下僕:こんにゃくから今度ははんぺんですか、もう。はんぺん、美味しいですけど。

まめ閣下:いいから、さっさと始めようではにゃいか。

下僕:今回、閣下は一緒にお話をお聞きになってるわけだから、とくに心に響いたところを話し合うってことでいいんですかね。

まめ閣下:うん、講座はラジオでも順次放送されておる。詳しいことはそっちでちゃんと聞いて貰ったらよかろう。アーカイブで結構長期間に聞けるみたいだからにゃ。

下僕:閣下、聞いて貰ったらって誰に対しての発言ですか。なんだか我々の与太話に読者とか想定してるみたいな。先日閣下は、「こんなものを読んだからと言って、放送を聞かなくてもいいなんて思う人はおらない」とか言ってませんでしたか? えへへ。

まめ閣下:あーおほん。さて昨日の講座は、このプログラムの10~12回放送分、全4回の講座の最終日であったな。

下僕:すごかったですね。とくに12回放送分。毎回2時間、その後の質疑応答を入れるとだいたい2時間半、それを4回続けてきたからこそ到達できた、語り得たことだったと感じました。

まめ閣下:最終放送分の話に行く前に、順を追ってとくに心に響いたことを述べたまへ。貴君は文字にしておかんとすーぐに忘れてしまうからな。

下僕:はい、その通りで。というわけで、冒頭の見出しにしてみましたよ。10回分「なぜ古典に惹かれるか」のなかで、昔と今に対する世間の物の見方の違和感を乗り越えるために「偏屈になる」と決めたってあったじゃないですか。わたくしもかねがね、自分は偏屈にしか生きられないしこの先もますます偏屈になるしかないだろうとかんがえてたので、うれしかった。

まめ閣下:貴君はともかく、町田さんの言う「偏屈」というのは具体的に言うと。

下僕:いわゆる世間のブーム、熱狂に背を向けることですね。どうしてかというと、熱狂そのものがもつ嘘くささを感じ取っていたし、多くの人が熱狂するようなことがらにそもそも興味がもてないというのもあり、また熱狂化することへの反発もあったとのこと。それに熱狂は流行り物で一時的なものですからすぐに色褪せる、時代が先に進んでいくことへのむなしさも感じたということでしたよね。熱狂の渦のようなバブル時代、バンドブームが起こったりして、それに背を向けて何をしていたかというと町田さんは「時代劇」を観ていた。積極的に選び取って観ていたというわけでもないからなかにはくだらない物もあって、時々むなしさを覚える。それを乗り越えるためにちゃんとした時代考証の専門書やら古典の小説を読む、着物着て話する人がみたくて落語を聞く、なんかしているうち、自分がもともと持っていた「昔の物が好き」という考えが肯定できるようになった。物書きになって古典にかかわるようになって、さらに魅力がわかるようになった。「古典なんてやって何のメリットがあるの?」と問われたら、この「流行もんから身を遠ざけられた」というのをあげるって言ってましたね。

まめ閣下:うん、10回分はそういう話だった。11回分はそこから翻訳の話になっていったよな。

下僕:はい、町田さんは古典の現代語訳をやっているだけでなく、グリム童話やチャンドラーの探偵小説なんかも翻訳手がけてるんですね。

まめ閣下:グリム童話は「ねことねずみのともぐらし」だにゃ。

下僕:グリム童話のなかでもあまり知られていない話で、最初読んだとき結末があんまりひどくて理解できなかったって言ってましたね。なんでこんな終わり方なんだ、と愕然としたと。しかしそこで昔の人が書いた昔の話だから野蛮なんだ、だから理解できないんだ、と切り捨ててしまうと先に進まない。そうじゃないはず、今の自分たちでも納得できるものがなにかあるはず、わからないからこそ何かあるよね、と考えてみた。この話については結局、町田さんは原作にない結末を創作したわけですが、後になって原典の意味するところはこうだったんじゃないか、というのが見えてきたっておっしゃってました。古典を訳したりしていると本当にわからない箇所が出てきて、そういうのは元の資料が(書き写したときなどに)間違っているんじゃないか、と考えることもある。実際に間違っていることもあるけれど、それは翻訳という行為においてはちょっと危険な誘惑でもある。

まめ閣下:翻訳としてどこまでが許されるのか、という話だよな。

下僕:そうですね。「なかに込められていること」をわかろうとするのが翻訳だ、とおっしゃってました。今まで誰も通ったことなどないように見える道も、じっと見つめていればかすかに道らしきものが見えてくる、と。

まめ閣下:名言じゃ。

下僕:どうしてもわからないところを突破するのは「気合い」だ!って話もありましたよ(笑)。『解体新書』のフルヘッヘンドの例をあげて。まあしかし考えてみると、現代文でも普通の会話でも人間は同じことをやっている。同じ言葉を使っていてもお互いがそれについて抱いている意味や景色は異なるわけで、いかにそれを乗り越えていくか。そういう意味では人間の営みすべてが翻訳だと言える、と町田さん言ってましたね。恥ずかしながらわたくしも最近文芸翻訳に取り組んでおりまして、翻訳をやってみると、小説を書くのもある意味では翻訳だなと実感したんですよ。自分の内側にあるものをいかにより正確に他者と共有できる言葉に置き換えていくか。

まめ閣下:町田さんの古典の現代語訳にしても、翻訳と創作の境界を飛び越えるようなものだよな。「宇治拾遺物語」とか「ギケイキ」とか。

下僕:その時代にはなかったものや言葉を出すというのが批判されるときもあるようですね。わかりやすくする効果はあるけど古典のもつ情緒や格調が失われる、と。しかしもともと情緒も格調もない作品というのもあるし、作品そのものが伝えたいこと・魅力をより伝わりやすいものにしていくことのほうが大事なんではないか。「ギケイキ」は完全に創作であって、たとえば弁慶の生い立ちなど、より深く人間を理解する上で必要なことと思えば創作している、と。同じく「次郎長伝」も創作であるけれど、これは広沢虎造が語っていた言葉遣いという枠組みのなかで書いている。枠を設けることでよりわかりやすくなる場合もある、という話でしたね。

まめ閣下:そうしていよいよ最終回だ。「これからの日本文学」ってタイトルにはなっているけれど、話の内容としては町田さんがこれからどう書いていくか、ということだったように思うが。

下僕:まさにそうですね。「文学って何? なんのためにあるの?」という質問に対して、読者にとっては「魂の慰安」「娯楽・快楽」「ひまつぶし」、作者にとっては「書くことによって得る興奮・快楽」「時間つぶし」「銭もうけ」というものがあげられるが、この両者が幸福に出会えば(本として)世の中に流通することになる、と。しかしそれだけじゃない。もっと他にもあるんじゃない? と考えると、偶然に、自然に、意図せずに知らぬ間に、文学が現状に影響を与えているということは考えられる。それはつまり日本語やそれを動かすOSに対して、文学の言葉がなんらかの影響を及ぼしている、ということ。今よりももっと強い影響をもっていた時代もあっただろうけれど、テレビの登場などマスコミ(中央)言語によって文学の言語が持つ影響力は衰退してきた。さらに現代はもっとバラバラのネットスラングやらサブカル言語やらいろんな言語(方言)が乱立していて、文学の言葉も一つの方言となっている。そういう存在として細々とでも続くんだからいいんじゃない、という考え方もあるけれど、町田さんは。

まめ閣下:あえて文学の言葉にこだわりたい、という気持ちがある。

下僕:そう、それはもう人間としての癖(へき)というか質(たち)というかどうしようもないもので、そもそも欲求なので理由を説明するのは難しい。しかし文学のことばのなかに自分は生き延びたい、その理由をあえてあげるなら以下の3つ:

1.外側の理由 マス(世の中に溢れたもの)への抵抗

世の中にはオートマチックな言葉が溢れている。慣用句やことわざ、はたして本当にそうなのか、その表現でおかしくないのかと考える前に口にしてしまう言葉。それは呪文のようなもので、その言葉が出た途端頭の中が一色(ひといろ)になってしまう、思考が止まってしまうもの。たとえば「多様性は大事」と言われてしまったらその先に話が行かない。そういう言葉を捨てて、自分で考えていくのが文学の言葉。どうしてそれにこだわるのか。それは人間の魂の外側を塗り固めて目に見えるものにしていくのが言葉だからだ。人間はひとりひとり違う魂であってとても寂しい。だから他の人の目に見えるかたちにしてなんとかして伝えよう、そのためには文学の言葉がいる。なぜといえば貧相な言葉では貧相な外見しか作ることはできないから。

2.内側の理由 バリアを突破して行く力

「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子さん)「土の記」(高村薫さん)などは、どこまでも思考をつきつめていくものすごい小説、普通の人間にはできないところまでつきつめていく。なぜ普通はできないかというと、人間にはリミッターというか、その先には行けないというバリアがあるから。もう考えるのが嫌になってしまうのが普通。でもそれを突き破っていく力になるのが文学の言葉だと思う。

しかしながらこの作業はとてつもなくつらい。世の中にはつきつめない表現というのが溢れていて(オートマチックな言語、Jpopの歌詞など)それはそれで人気があるのは、そのなかにいる限り人は傷つかないでいられるからではないか。

3.1と2を合わせたものをやること = 文学の追求

あ、んー、えっと、このあとはなんでしたっけ。

まめ閣下:おいおい、だめではないか。

下僕:すんません、3のところ、ちゃんと理解できてなかったんです。最後の質疑応答のときに質問したかったんですが、いつものぐずぐず癖が出てきて、まにあわなかった・・・・・・

まめ閣下:もう、貴君のはんぺん度合いには。

下僕:あ、でもね、ここんとこはちゃんとメモしましたよ。文学のメリットっていうか、効能みたいなものを問われたら、ってやつかな?

まめ閣下:そんな話あったっけ?

下僕:えっとですね、「この世の熱狂から離脱することができる。この世の外側と内側の両方に軸足をおいてどちらにも傾かず、今この瞬間を全力で楽しめるようになる『かも』しれない」っておっしゃってました。

まめ閣下:それさ、たぶん3の内容だと思うぞ。1と2を合わせたものをやるとどうなるかって話じゃなかったか。

下僕:はぁ、そうかもしれませんね。閣下、さすがでございます。では、板書のお写真などご覧ください。これは「今は昔、」というお話の語り始めについての説明であります。末来となってますが「未来」であります。○で囲まれた記号のようなのは「今」でございます。物語の中では「今」が自由自在に時間軸をスライドできる、というお話でありました。町田、というのは語っているご本人、時間軸をスライドしているようです。ちなみに我々は「町田」のイントネーションを「ーーー」とわりとフラットにやっておりますが、ご本人は「_ー_」と、「ち」にアクセント置いて発音されております。

まめ閣下:にゃんだか話を逸らされたような・・・。まっ、いっか。あんまり長い話になって眠くなってきたぞ・・・