Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2024年5月21日『瘋癲(ふうてん)老人日記』『春琴抄』谷崎潤一郎 於某邸宅

・作品ごとに多彩な文体を使い分ける作家

・社会情勢や政治とは無縁でいられたゆえの明るさ

・小説のおもしろさは「共感」とは別のもの

・まったく隙のない文章

・とにかく天才

まめ閣下:下僕ヨ。オイ、下僕ッチャンヨオ。コッチヘ来テオクレヨウ。昨日ノ読書会ノ話ヲ聞カセテクレヨウ。

下僕:なんですか、さっそくカタカナで喋ったりして。もうすっかり『瘋癲老人日記』じゃあありませんか。

閣下:コレハナカナカノ発明デアルナ。貴君ト予ノ発言ノ区別ガ一目デデキルジャニャイカネ。

下僕:目がチカチカしてかないませんよ。読む人たちからは読みづらいって言われちゃうかもしれませんよ。っつーか、変換が面倒くさくてやってられません。

閣下:ナニヲ怠惰ナ。今日ハモウ此デ行クコト二決メタ。

下僕:ひえぇえ。このカタカナ表記を見てるとわたしくはどういうわけか眠気を覚えてしまうんで。それで今回の課題書を読むのにえらく時間を費やしてしまって。『春琴抄』はだいぶ昔に一度読んでいるはずだからと後回しにしたら時間切れでそっちまでは手が回りませんでした。

閣下:マッタクオ前トイウヤツハ。相変ワラズ愚鈍デアルナ。

下僕:というわけで、今回は皆様のお話を伺って勉強させていただこうという姿勢で臨んだわけでございます。

閣下:デ、皆ノ反応ハ?

下僕:はい、今回の課題図書を提案してくださった方を始め、みなさんたいそう面白かったと。今回は1933年に書かれた作品『春琴抄』と、晩年(1961年~1962年)に書かれた『瘋癲老人日記』を取り上げたのですが、文体が全然違っています。谷崎が作品ごとに文体を大きく変えていたのは非常に有名な話で、各々の作品にふさわしい文体を用いたのだそうです。そしてこの全く異なる文体の二作をとってみても、文章のどこにも隙がない。『瘋癲』なんて耄碌しかけたエロじじいの妄言(失敬!)みたいなことを書いているように見せていても、無駄な描写はどこにもないんです。作者の美意識でつらぬかれていて、つまり非常に芸術性が高いというわけですが、谷崎の場合は話の筋も面白い。

閣下:フム。モウ少シ内容二踏ミ込ンデクレ給ヘ。

下僕:はい、じゃあ『瘋癲』のほうから。これは職業不詳だけれど非常に裕福な生活をしている77歳の老人の日記という体裁をとっている作品で、日記の記述は今閣下が話されているように漢字とカタカナでなされております。冒頭がいきなり歌舞伎の話で、誰それが何の役をやったときはどうだった、こうだったというような話が続いて、その方面に疎いわたくしのような者にはかなりハードルが高い。馴染みの薄いカタカナ表記と相まって、読書にも「タイパ」とか持ち出すような層であれば「あ、これもう無理」ってなっちゃうんじゃないか、今どきの編集者なら「この冒頭要らないよね」っていうんじゃないかってわたくしは思っちゃったわけですが。

閣下:ソレハ、コンニャク頭の貴君ノ意見デアロウ。

下僕:はぁ。実際同じように感じられた方もいらっしゃいましたが、その先に進むにつれ面白くなっていくのではあるのです。二ページ目にしてすでに「異界の扉」が開かれてあっという間に作品世界に連れて行かれた、あとはもう作品内で何が起こっても大丈夫と思えた、とおっしゃる方もいました。わたくしは、その先の、割烹での食事場面あたりから「おっ」となりましたね。なにせ登場人物が老人とどういう関係かが最初はわからず、それぞれがなんとなく一種奇妙な感じがして。鱧をきれいに食べられない颯子(さつこ)というのが息子の嫁であるというのは追々わかってくるんですが、老人はこの颯子に異常なほど性的魅力を感じて執着している。で、その颯子というのも、元ダンサーで美しいスタイルの持ち主というだけでなく、エロ爺さんを適当にあしらいつつ上手に利用しているというのがわかってきた辺りでどんどん面白くなりました。まあその先のエピソードはどれも普通じゃない、老人の颯子の足に対する異常な執着とか、シャワー中に呼ばれて入っていって頼み込んで頸筋を吸わせてもらう場面やら、猫目石を買ってやった見返りに足を嘗めさせろと迫る場面とか。まぁ変態ぶりが大炸裂。ブルジョワならではの暮らしぶりが描かれているんですけど、嘘くさくない、というのも作家自身の実生活を下敷きにして書いている部分が大きいからだと思います。わたしなんぞは、これはほぼ本人の日記なんであろうと思い込んで読んでいたくらいで。でも老人が発作を起こして危篤状態になった後については看護師や医師や実の娘の記録で綴られていて、その内容を読むと、老人の日記の内容から受け取っていたのとは違う印象を受けるんです。医師によれば「老人の病気は異常性欲で、精神病とは言えないが、命の支えである。颯子夫人はその点をよく理解してうまく看護してほしい」といい、老人を上手にいなして自分もまた楽しんでいるように見えた颯子が実は疲弊していたことなどが書かれて、作品に客観性をもたせているのです。単に変態老人の日常生活を書き綴ったわけではなく、意識的に書いているのが明示されている。

閣下:ニャルホド。

下僕:またこの老人の人物造詣がまことに素晴らしい。おじいちゃんであることを最大限に利用していて、気持ち悪い! とならないギリギリのところで巧みにバランスをとっているし、とにかく明るい。病気や老衰でアップダウンする健康状態や意識状態自体がスリリング。あとカタカナ表記の効果についても言及されました。カタカナは音がきわだち、鋭く高い音をイメージするし、声のトーンとしては子どもっぽい感じがして、お爺さんの言葉なのになんとなくかわいい感じがする。ということで、この表記以外に考えられない。

閣下:ジャ、ソロソロ『春琴抄』ノホウニモ一寸触レ給ヘ。

下僕:文体に関してだと、こちらは句読点を完全に省いた息の長い文章で書かれていて、やはりリーダビリティという点では難しいわけですが、『瘋癲』でもそうであったように、あえてそういうふうに書いているんですよね。ちゃんと効果を狙っている。この句読点のない文章を読み続けていくことで、作中人物の感情やその世界にいつのまにか引き入れられてしまう。また、これは伝聞というか、ほんのわずかの資料を手にした作家のモノローグという形をとっているんですが、よくぞここまで書けるものだとその技量には嘆息する、とおっしゃる方もいました。こちらも内容的にはサディズムマゾヒズムを孕んだ物語でもあるんですが、登場人物の心情に共感はできなくても、なるほどそういうことかと腑に落ちるように書いてあるのがすごい、と。『瘋癲』の老人も愛嬌はあるけれど、嫌いな身内には冷淡だったりある種のルッキズムに囚われているところなど嫌だと思う点はあるのに、はやりそういう人物もいるんだと納得させられる。それはひとえに人並み外れた技量によるもので、作家本人がたとえどんな変態であろうとこれだけの才能をみせつけられたらもう跪くしかない、とおっしゃる方も。「わたしの10作」には必ず入れる、と。

閣下:ホウ、エライ褒メラレブリデアルナ。

下僕:はやり大作家であるとみなさん認めていらっしゃいました。谷崎はノーベル文学賞の候補にも何度かなっていて、最終候補にも2回ほどなっていたんだそうです。その選考委員をされていたドナルド・キーン氏によれば、「老人の性」についてとりあげた作品はこれまでにはなく、西洋にはもちろん、世界文学でも唯一ではないか、と書いているそうです。西洋だとどうしてもキリスト教というものがあって、日本人の場合は厳密な意味では宗教とは無縁で、性的にもタブーは少なくおおらかで(今は変わってきたけれど)、だからこそ精神的に健康でいられる面もあったのではないか、とおっしゃってる方もいました。それは三島由紀夫も指摘している点です。政治や社会情勢に無関心であったという批判もあるようですが、それは本人がブルジョワでそういうものにあまり関わらずに生きてこられたからでありましょうし、それが作品に突き抜けた明るさをもたらしているのではないかという意見がありました。

閣下:ニャルホド。大イ二盛リ上ガッタヨウデ何ヨリデアル。

下僕:はい、みな、作品のなかの描写やエピソード、人物像などを話し出すと止まらなくなってしまって。それもおもしろおかしく笑いながら。変態だったり残酷だったり意地悪だったりというところも、おもしろい。谷崎自身の女性関係や性的嗜好についてもまあいろいろ話題はつきないわけですが、結局はなんか愛されているというか。ピカソに重ねている人もいて、わたしもなんとなく「ラテン系の男」というイメージを抱いてしまいましたよ。

閣下:ソレハソウト、昨日ノ会場トナッタ屋敷ハ素晴ラシイ所ダッタヨウダナ。

下僕:はい、もう豪邸で。谷崎を語るには相応しすぎる空間でございました。超おしゃれでモダンな建築なのですが、和室もございまして。

 

 

閣下:シカシ其所二ニャントモ相応シカラヌ毛ムクジャラノ何カガオッタヨウダガ。

下僕:あ、そう、猫ちゃんがいたんですよ。これがまあ、すっごくかわいくて人なつっこい猫ちゃんでして。

閣下:フン。卓ノ上二ノッタリシテ、マッタクケシカラヌ輩デアル。

下僕:あ、閣下、ひょっとして妬きもちですか~。笑笑笑