Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2023年7月29日『中上健次短篇集』より 於オンライン

・「体力と生命力をもてあまし制御できかねている若い男」の世界から「神話」の世界へ

・比類なき肉体性と「淫」の描写

・「私小説」と「当事者性」

 

 

まめ閣下:下僕よ、怠惰なるわが下僕よ。惰眠をむさぼるばかりのうすらばかになりさがっているつもりか。為すべき事を為せ。

下僕:あ、閣下だ! お久しぶりのご登場じゃあありませんか!! 会いたかったわぁ!

まめ閣下:だーかーらー、余はイデアである。つねにいたるところに存在しておる、って、何度も言わせるでにゃい。それよりなにより、貴君はさっさと昨日の読書会のまとめをやりたまへ。うすらばか、とんま、はくち、って言っちゃうぞ。

下僕:あ、しまった、中上健次だ。さっそく使ってくるなんて、やっぱり閣下はさすがでございますな。

まめ閣下:べんちゃらはよい。罵倒語の語彙拡張は余のライフワークである。

下僕:ライフワークって。イデアって時空を超えてるんじゃないですか。

まめ閣下:あのなぁ、もうそうやってぐずぐずと愚言を弄して、スペース埋めようとしておってはいかん。なーかーがーみーけーんーじー。

下僕:はいはい、やりますよ、やりますよ。昨日はこちらの、『中上健次短篇集』のなかから『十九歳の地図』『ラプラタ綺譚』『重力の都』の3作を中心にとりあげました。

まめ閣下:ごく普通の厚みの短篇集なのに3作? このまえの大江健三郎はレンガ本だったけど全部やらなかったっけ?

下僕:はぁ、中上健次、暑苦しくって、あ、いや、その手強くてですね。この夏の酷暑のなかでは読書がなかなかはかどらないっていうんでとりあえず。

まめ閣下:にゃんだ、だらしのない。

下僕:でもそう言いながら読み始めてみると、文体の変化のせいか描かれる世界が神話っぽくなるせいか、だんだん読みやすくなってきまして。わたくしは中上健次をちゃんと読むのは今回が初めてだったのですが、以前読んでいた方でも同じようにおっしゃる方がいらっしゃいました。

まめ閣下:貴君の読書歴が乏しいのはもうよぉくわかっておる、主(あるじ)としてなさけないが。しかしこの読書会の人たちはかなりの読み手揃いじゃないのか。中上健次は基礎的素養としてみな読んでいるのじゃないのかね。

下僕:もちろん『枯木灘』『岬』など代表作は読んでいらっしゃる方も多かったですよ。若かりし頃夢中になって読んでいたから今回は「良くも悪くも知りすぎた昔のカレに再会するようでちょっと鬱陶しい、恥ずかしい感じがしちゃった」という方も。少し前には宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』の影響でちょっとしたブームもありましたから、それで読んだ人もいました。しかし苦手意識があってこれまで自ら手に取ることはなかったという方がわたくし以外にもいらっしゃいました。

まめ閣下:その苦手意識ってのは。

下僕:わたしの場合は、なんか文体がゴツゴツしててとっつきにくい、暴力とか性欲とか、ほとばしる男臭さがちょっとやだぁ、と。「路地」を描いた秋幸三部作くらいは読まなければという気持ちはあれどついついこの年になるまで近寄らないできてしまったんです。でもこの短篇集は、とくに『修験』以降、そういうイメージを変えてくれましたね。初期作品の代表である『十九歳の地図』はまさにわたしが苦手意識をもった種類の作品でありましたが、ちゃんと読んでみるとはやり名作なんですよね。作品にほとばしる強烈な体臭を漫画の『男おいどん』的リアル、と表現されている方もいましたが、比喩や表現が巧みで、自他を見る目の鋭さ厳しさはさすがと。タイトルからどうしても大江の『セブンティーン』を連想するんですが、自意識の強烈さは共通するものの、語り手の置かれている環境が大きく異なる。中上のほうはやはり貧しさ、劣悪な環境でやりばのない怒りを鬱屈させていく。それは環境のせいもあるけれど、「若い」「男」という属性の肉体からくる抑えようがない暴力性や怒りであって、(だからこそ女性としては感情移入しがたいものがあるけれど)、これを書かなければ次に進めなかった、という作品ではないか、読みにくいゴツゴツした文体も内容にはよく合っているという評もありました。鬱屈をいたずら電話ではらしている主人公が最後に流す涙が愛おしいという方も数名。この作品の主人公は、ただただ寂しいと心の底から叫んでいる印象があるとおっしゃる方がいて、ああそうだなと思いました。じつはわたしは、作品世界がリアルに描かれているせいで、時代性にばかり目がいってしまって、名簿とか個人情報の取り扱いは、とか、いたずら電話に真面目に対応するなんて、とか、些末なところに気がいってなかなか内容に入っていけないところがありましたね。

まめ閣下:貴君のそういう姿勢がいつも真の読書体験から己を遠ざけておる。

下僕:はい、返す言葉もござんせん。しかしやはりそういうリアルさを「具象画」と表現された方がいて、後の作品とくに『ラプラタ綺譚』などはその具象から離れていっている、「シャガールオペラ座の天井画を思わせる、作者の目指すいちばんいいところが描かれている」というんで、ああなるほどそういうことかと思いました。今のわたくしには具象がうるさく感じられるところがあるのでしょう。

まめ閣下:ふん。絵画などなにもわからんくせに。

下僕:(スルー)で、その『ラプラタ綺譚』は今回ほとんどの人がいちばん好きとあげてらっしゃいました。わたしもそう。これは『千年の愉楽』の第五話なのですが、作品を全部読まなければと思いました。路地の若者をみつめるオリュウノオバという老産婆の視点で語られるのですが、その語りが素晴らしい。方言のリフレインも音楽的で、とくに冒頭、季節の移り変わりで始まっているところが生命の移り変わりにも繋がって、老いたものが若い命のエネルギーを愛でる視線を表現している、という指摘には唸りました。この第五話の作品の主人公・新一郎は美男で義賊のような盗人で、という設定からしてもう「早逝の予感」に満ちている、語り手は産婆であり生死をみつめる巫女的存在でもあり、路地を神話的世界への入り口としている壮大な叙事詩でありファンタジーという評におおいに頷きました。破壊的だし性的な激しい描写もあるんですが、なにせ美しい。

まめ閣下:語りの文学、神話・・・というと今話題の『口訳 古事記』。あー、貴君の康さん病はどうした?

下僕:あ、いや、それは話が長くなりますから今回は割愛。

まめ閣下:にゃんだ、つめたいのー。

下僕:あの、もうすこしなんで中上健次続けますねー。その神話的な感じをさらにすすめたのが最後に納められた『重力の都』です。すでに死んで伊勢の土のなかで腐っていく高貴な「御人」が毎夜現れてその人がもたらす痛みで眠れないという女を、生きた肉体をもった男が肉体によって少しでも女を楽にしたいと思う。並んで納められた『かげろう』という作品と同様に、猥褻・ポルノと呼ばれるレベルの激しい性描写が繰り返されている。でもその描写も尋常じゃなくて。中上作品には、性欲の強い男だけじゃなくて淫乱な女もよく登場しますが、その女の書き方が女性からみても不快じゃないのはなぜか、という話になりました。そしてそれは、「中上作品では男も女も肉体で生きているから」という結論に。頭で生きている大半の男性作家の描く淫乱な女はえてして「男にとって都合のいい女」になっているので気に障る。そしてこの『重力の都』の男は、自分の欲のためというより、徹底して「女をよくしてやりたい」という気持ちで動いている。最後、『春琴抄』を思わせる展開になるのも、自分の歪んだ欲望によるものではなくただただ女の希望を叶えて楽にしてやるため、というのが谷崎とは違うよね、という展開に、またしてもはっといたしました。

まめ閣下:読書会の醍醐味であるな。

下僕:まさに、まさに。ひとりで読んでいたらこんなに深くはいけません。

まめ閣下:いちばん上のところに、いま話題の「当事者性」って言葉があるみたいだにゃ。

下僕:あー、そうでございました。個人的には中上健次といえば自身の出自である「路地」を描いた私小説作家というイメージがあったんで。まあ被差別部落出身ということはご本人も公表されてそれを書いている、まさに「当事者」です。それはたしかに作品に力を与える。しかし「当事者性」はマストではないんじゃないか。書き手が当事者であっても結局はそれをどう描くかが大事だと感じた、とおっしゃる方がいて、わたしもその通りだと思いましたよ。ですけど、今回の短篇集を読んで、少なくともここに納められている作品はいわゆる「私小説」とは違うんじゃないかなという印象を受けました。たしかに作者と思われる、よく似た人物は出てくるけれど、そこで起こることはまったくとはいわないけれど大部分はフィクションなのではないか、他の多くの私小説と呼ばれる作品よりはフィクション性が高いように感じました。そもそも「私小説」ってなんじゃいな、と思うわけでして、まあちょっとこの辺は、もう少し読書会を繰り返すなどして考えていきたいと思っております。

まめ閣下:お、いつになくまじめではないか。感心感心。というわけで、〽ちょうど時間となりました~。ああ、眠い眠い。