Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2023年5月20日『三匹の蟹』他・大庭みな子

・動物の一種としての人間という視座

・観察眼の鋭さ

・広島での戦争体験がもたらしたもの

・今読まれるべき作家

・蟹とはなにか


下僕:おや、閣下ではありませんか。どうしたんです、アザラシが水面に顔出すみたいに、ぽっかりと現れたりして。

まめ閣下:ようやく気づきおったか余はさっきからずっとぽっかりと現れてはすうっと消えるってのを繰り返していたんだがにゃ。観察力のないやつだ。

下僕:お、さっそく大庭みな子ですか。そりゃ『トーテムの海辺』でしょ。

まめ閣下:昨日は久しぶりに我が館に大勢集まって、賑々しくやっておったのぅ。なかなか有意義な話だったようだからちょっとかいつまんで教えてくれ。

下僕:聞いていらっしゃったのなら、あらためて報告する必要はないんじゃありませんか。

まめ閣下:余は貴君のこんにゃく頭っぷりを心配しておる。つるつる滑ってなかなかしみこまないこんにゃくみたいに、なにもかもすーぐ忘れてしまうではないか。

下僕:はぁ、返す言葉もございませんな。ではさっそく。昨日の課題図書はこちら、大庭みな子さんの短編集『三匹の蟹』です。収録されている7作のうち、表題作と『青い狐』『トーテムの海辺』を取り上げました。

まめ閣下:ずいぶん古ぼけた本ではないか。紙がすっかり茶色く変色して。大昔に買って読んでおったのか。

下僕:いえ、これはつい先日入手したもんです。今回課題になったので購入しようと思ったらもう中古しか手に入らなくなってたんですよ。

まめ閣下:絶版になってるってことか。

下僕:そうなんでしょう。こんな有名作品まで・・・と思うと愕然といたします。まあ、それはさておき、作品についての話を進めましょう。

まめ閣下:しかし貴君は大庭作品を読んだことはなかったんだったかにゃ?

下僕:もう十年以上前に小説教室の課題で『三匹の蟹』を読みました。講師が選ぶ「日本文学の読むべき作品」の一つだったんです。でもそのときにはどこがすごいのか正直あんまりよくわからなかった。たしかに描写の美しさはあるけれど、アメリカで暮らす人妻がホームパーティを抜け出して行きずりの男と一夜を過ごす話なんてべつにめずらしくもないんじゃないの、って感じを受けたんですよね。で、今回は、どこがすごいのか、技巧的な部分から分析してみようかと思ったんです。

まめ閣下:ふーん、技巧かぁ。

下僕:まあ、ちょっとだけ我慢して聞いてください。構造としては、冒頭部分が作品中の現在、行開け後がその前の晩の回想となっております。まあそんなに珍しいわけではありません。この冒頭部分が詩のように美しい海辺の描写で始まるんですが、語り手が誰なのか最初はっきりわからない。でも鴎が「眼をじっとこちらに向けて」という表現が出てきて、ああ「こちら」ということはこれは一人称の語りなのかとわかる。その後由梨という名前が出てきますが、三人称視点ではなく由梨の視点で書かれるのかなと思う。舞台がどこかというのもしばらく書かれず、バスに乗って「L市」というのとバス代が「85セント」というところで外国の話なんだとわかる。あまり情報を提示しないタイプの幻想的な話か、と思っていると、行開け後の回想部分はまったく別の作品のような印象になります。娘との会話、続々とやってくるブリッジパーティのお客たちとの会話が続くんですが、この会話がなんとも演劇的、なにか芝居を観てるような印象を受ける。それはここの場面が由梨の視点ではなくていわゆる「神視点」であることも関係あるのかもしれません。互いの互いに向ける批判的な感情も描かれます。会話は辛辣でウィットに富み皮肉たっぷりで、あからさまに自由恋愛が語られ、饒舌なおしゃべりであるのに本当の意味のコミュニケーションはない。この場面を読んでで自分も逃げ出したくなった、と言う方もいました。それが、由梨が家を出る場面からまた由梨視点で語られるようになります。ひとりであてもなく車を走らせて夜の遊園地に入る。そこでたまたま開催されていたアラスカ・インディアンの民芸品の展覧会になんとなく入って出たところで桃色シャツを着た係員と出会う。この男といろいろあって一晩を一緒に過ごすことになるわけです。そのいろいろあって、ってところもあまり劇的なことはない。会話もほとんどない。「どうして黙っているの」「喋ることなんか無いもの」という会話が何度か繰り返されます。男の曖昧な誘いを断りもせず由梨はふらふらとつきあっている。由梨はただ男のことを観察している。動物を観察するように、行動によって内面を推測する。しかしなんでこの男と一夜をともにしてもいいと思っちゃうんだろうと、不思議に思いつつ読んでくと、由梨の昔の友だちの短い回想が入り、日本に帰ったところでアメリカ帰りは嫌われるだろう、という独白があって、ふいに「男の感じているむなしさと悲しさは由梨に伝わって、其処で優しい和みのようなものになった」という一文が出てきます。あ、なるほどと思いました。由梨はアメリカの暮らしに疲れて飽き飽きしている。なにかしゃべっていないとその人は存在しないことになる社会、言葉を交わすほどに虚しくなる関係。それでたまたま目についた「三匹の蟹」というネオンのついた場所に誘われる。由梨がそこで男と一晩を過ごしたことははっきりとは書かれないけれど、最後の文に「『三匹の蟹』は海辺の宿にふさわしい丸木小屋であった。そして、緑色のラムプがついていた」と書かれていて、ああなかに入ったんだとわかる。そして冒頭のシーンに繋がるわけです。車で一緒に来たはずの男の姿はなく、由梨はバスで昨夜自分の車を止めた場所に戻ろうとしている。財布のなかから20ドル紙幣が消えていて、ポケットのなかから口紅のついたくちゃくちゃの1ドル札が出てくる、というのでどんなことがあったのか読者は推測するというわけです。

まめ閣下:まあそれはそれで普通の解説であるが、もうちょっと発見があったんだろ?

下僕:はいはい。やはりすごく巧いなあとは思ったんですが、一大センセーションを巻き起こしたデビュー作って書かれてるのにひっかかりまして。何がセンセーションだったの? と、リービ英雄さんの解説を読んでみたんですね。そしたら群像新人賞芥川賞を受賞したときの三島由紀夫やら丹羽文雄とい大先生がたの批評が抜粋されていて、そのほとんどが「日本人妻が『アメリカ人』、あるいは『外人』と『姦通』したことに『衝撃』の大半があったように見える」って。ダメじゃん、先生方! そこじゃないよね、衝撃は、と大いに叫んでしまいました。じゃあ何なのかというと、まだよくわからないまま、残りの二作を読み始めました。『トーテムの海辺』を読むうちに、はっと気づいたんです。大庭みな子さんの独自性っていうのは、動物観察的な視座ではないのか。自分もまた動物の一種としてすべての動物と等しくこの世に存在していてるという感覚。海外暮らしをしていると、この動物的感覚が強まるというのはわたくしも実感としてあります。言葉が不自由なわけですから生き物としての感を研ぎ澄ませてよく相手を観察して判断する必要がある。それはあとがきとして書かれた文章のなかにはっきりと書かれていました。以下、引用します。

・・・・・・黙って彼らの話に耳を傾けていただけだ。彼らの話す言葉は異国の言葉だったので、わたしは森の中で出遭った動物の目をじっとみつめて、その心を探りながら、あまりよくわからないあやふやな推測で彼らの言おうとする話の道筋を追うしかなかった。

 だが、今になって思えば、不可解な言語に囲まれて、想像力で相手を理解しようとすることは、文学そのものだったような気がする。・・・・・・

 

まめ閣下:にゃんだ、猫と同じじゃにゃいか。

下僕:そうなんですよ、閣下。犬猫が人間を理解するように人間も人間を理解しようとすればいい。これはわたくしには一大センセーションを巻き起こしました。賛同の嵐です。この『トーテムの海辺』はおそらくご自身の体験にかなり近いところで書かれた話だろうと思うんですが、すごく共感できる文章がたくさん出てくるんです。『三匹の蟹』のときはさらっと読み流していた、アラスカ・インディアンの神話のモチーフが、大庭さんにとって非常に大切なものであったこともわかります。神話のなかでは人も動物も等しい存在であり恋に落ちたりもし、死者もまた陽気にそこらをうろうろしている。そこでは、人間と動物、生きているものと死んでいるものは地続きで、それを分断したのが実は言語なのではないか、と指摘される方もいて、はっとさせられました。さらに、最近注目されているマルチスピーシーズ人類学というものに通じるとも。そういう点では今読まれるべき作家なのではないだろうか、とおっしゃっていました。

まめ閣下:うむ、それはいい視点にゃ。なんでも人間が一番という考えはこの世を滅ぼすものである。(おほん)

下僕:なんだかちょっとしゃべり疲れてしまいましたよ。

まめ閣下:なんだ、だらしがない。もう少しだ、がんばれ。

下僕:はい、はい。そうだ、タイトルにある「蟹」とはなんぞや、という疑問を抱かれた方が多かったですね。『トーテムの海辺』では死肉を食らう忌み嫌われる存在とアラスカ・インディアンの村からきた村長が語りますし、『三匹の蟹』にはキリスト教モチーフが隠れているのでは、という方も。蟹はキリスト教では「キリストの復活」の意味があるそうです。そこから登場人物を数えてみたら13人だった、これは最後の晩餐では、と推測されていて、わたくしにはまったく思いもよらない読みで大いに驚かされました。読書って本当に個人個人の体験で、読むことは創作活動なのだと実感しました。また、大庭さんが広島で戦争を体験したことに注目して、そこからつねに死というものを近くに感じ考え続けていたのだろうという方の話にも大いに頷かされました。『三匹の蟹』が書かれたのはちょうどベトナム戦争のころで、井伏鱒二が『黒い雨』を書いたように、戦争体験者として書かざるを得ないものがあったのではないかという意見もありました。この作品から戦争というのは、わたしにはあまりつながらなかったのですが。あと、観察ということに関して言えば、こういう古い時代の作品に関して言うならば、圧倒的に女性作家のほうが観察眼が鋭いと感じる、と指摘される方がいて、わたしも納得しました。それはやはり女性の立場が弱かったせいだと思いますね。子どもと同様に、周囲をよく観察していないと生きていくのが難しかったのじゃないでしょうか。

まめ閣下:それは生き物としての基本じゃ。

下僕:『青い狐』は最初、なんか幻想的で夢のようでなんともつかみどころがない話のように感じたのですが、そういう視座やアラスカ・インディアンの神話的な見方で紡がれた物語だとするとわかるような気もしました。で、そうか、大庭みな子わかったぞ、って意気揚々と調子に乗って『首のない鹿』を読んだのです。そしたら・・・ぎゃ、ぎゃふん、でありました。とにかく描写に圧倒されて。動物的視点だけじゃないわ、やっぱ手強いわ、簡単にはいかんわ、と尻尾を垂れ深く項垂れたという次第。

まめ閣下:うん、また最初から読み直した方がいいにゃ、はんぺん頭よ。

下僕:今度は、はんぺんですか・・・

まめ閣下:多孔質、スカスカってことにゃ。

下僕:そういえば閣下がいなくてみんな寂しがってましたよ。

まめ閣下:なにを言うか。余はイデアである。つねに存在しておる。昨日もあの場におったのだ。見えないのは信心が足りないからにゃ。

下僕:ん、信心? イデアってそういうもんでしたっけ?