Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2023年2月23日「大江健三郎自選短篇」より 於Malucafe&On-line( ハイブリッド)

・完璧な小説というものは存在する

・体験をフィクショナイズする力のとてつもなさ

・多様な文体を生み出し使い分け、言葉の選択、構成の巧みさ

・何を書くか、ではなく、いかに書くか

・大江という作家の目・耳・頭を借りて世界をみられる喜び

・以前の作品の捉え直しや改稿、テーマを抱いて連作する姿勢

 

 

まめ閣下:久々の読書会であったな。

下僕:ええっ? 今日はなんと単刀直入な。いつものくだらないしゃべりはやらないんで?

まめ閣下:昨日の読書会、話すべきことがたくさんあるであろう。

下僕:はい、なんてったって大江健三郎ですからね。大家中の大家、ラスボス感ありますな。

閣下:いいから、さっさとやらないか。

下僕:では、さっそくやりましょう。「あの場で自分が論戦を再構成したものを、もういちど記憶のひずみと時間のもたらしたズレとに影響されながら、のべなおすことにほかならない」のでありますが。

閣下:ぷっ、さっそく『頭のいい「レイン・ツリー」』からの引用か。

下僕:お、さすがですな。じゃ、これは? 「記憶に残っている内容を、記憶に残っている文体のまま再現することにする。」

閣下:『河馬に噛まれる』であろう。もう、いいから、本題に入れ、本題に。

下僕:ちぇっ、わっかりましたよー。昨日はこの『大江健三郎自選短篇』というのが課題本だったんですが、なにせこの厚さ、レンガみたいなんで、とりあえず『セヴンティーン』と『静かな生活』の2篇をとりあげ、他の作品については自由に語るという形にしました。

閣下:諸君らは大江作品くらい、たいてい読んでいるだろう? なにせ小説書くものの集まりであるのだから。

下僕:はぁ、それが。かつて数作品読むには読んだ、けれど難しかった、苦手だった、お腹いっぱいになって以後は読んでない、というのがおおかたで。わたくしなんぞは、恥ずかしながら若いころにはまったく読まず、時折文芸誌などで目にする文章はなんだか観念的で難解で、長らく敬遠してたんですよね。

閣下:まったくもう、だから貴君は。

下僕:みなまでおっしゃらずとも、文学的素地の貧しさはじゅうじゅう自覚しておりますよ。それが、十年くらい前か、教室の課題で『空の怪物アグイ―』を読み、文体にコマされてしまったんですよ。

閣下:なんだ、下品な。

下僕:だって、春樹さんがそう言ってたんです、短編小説の文体は読者をたちどころにコマすものでないとダメだって。まあこれも「記憶に残っている内容を、記憶に残っている文体のまま再現することにする。」ってやつですが。

閣下:わかった、わかった。で、それから嵌まってしまった、というわけか。

下僕:それがそれ以降はやはり読まなかったんですよね。

閣下:ぶっ、ほんっとに怠惰なやつよの。

下僕:まあしかたないじゃないですか、つねに読まなきゃいけないのをたくさん抱えてるんで。でもおかげで今回、ほとんど白紙の状態で作品に臨めたのはかえってよかったと思いますよ。課題の2作を読むつもりが最初から読みふけってしまって、初期の作品群は全部読んでしまいました。あ、この本は、初期、中期、後期と、年代順に分けられてるんです。自選ですから、ご本人がそのように分類したんでしょうね。

閣下:なるほど。とりわけ初期作品は強烈であろう。

下僕:はい、まさに暴力的なほど身体的、五感を掴んで捻り切られるみたいな。それも不快のほうです。排泄、不潔、性、残酷、とにかく「嫌ぁー!」と逃げ出したくなるような描写もあって、若いころ苦手と思った人の多くはそこでしょうね。わたくしもそうだった記憶があります。でも今回は読めたし、ものすごい引力を感じました。

閣下:年の功ってやつか。

下僕:ま、そういうことかも。そんなわたくしの感想を申しますと、課題の『セヴンティーン』は、17歳のころってこういう青臭すぎるところあるよねー、自意識過剰、強すぎる性衝動で動かされてるところ、でもちょっとこの主人公は過剰すぎるかな、と思いつつあちこち笑ったりして読んでいたら、ラストに向かってたたみかけるように、まさかの極右に走ってしまうという展開に驚愕しました。読後に見たWikiの解説だったか、「オナニストからテロリストへ」って言葉があって大爆笑しちゃいましたよ。でもなんで右翼? この時代の若者、とくに知的な人たちはみな左翼をきどってたんじゃ、と不思議に思ったんですよね。それにタイトルにあるように、主人公の17歳という設定もちょっと不思議でした。これが出たとき作者は26歳で、体験をもとに書くなら大学生になるはず。ラスト近くに運動中に亡くなった女子学生が出てきて、あ、これって樺美智子さんのことだ、とひらめきまして、その経歴も調べました。東大生で、亡くなったのは1960年6月22歳のときで、大江とはほぼ同年代、学生の大多数が学生運動に走っている流れのなかでわざわざ右翼のテロリストになっていく主人公を書いたのは、時流への反発なのか批判精神なのかなとも考えました。ちなみに樺さんは20歳の誕生日に共産党に入党したということで、右と左は違いますが、この作品の設定に共通するところがあります。その後、収録されている「河馬に噛まれる」という作品がこの作品のとらえ直しだというのを知り読んでみたところ、大江さん本人は左にも右にもなりきれず、どっちつかずで、左派の人たちからは嘲弄されるような立場でいたようです。本作も、右翼を決して礼賛しているわけではなく、むしろ批判的にちょっとコミカライズして書いている。まあそんな感じでいつもながらぼんやりとした感想を抱いて臨んだ読書会でしたが、やっぱりすごい、他の方の読みに大いにはっとさせられました。

閣下:ふんふん、それは?

下僕:まずこれは、思想的に右か左かはどうでもよく、なんであれ「狂信」が思考停止を生み、個人の懊悩から解放された人が至福を覚えるという話だ、と。ああ、そうだ、まさにそうだよ! と膝を打つ思いでした。もうひとつ、17歳の謎も、他の方の読みで解決しました。これが出たのは1961年、戦後16年です。もうじき17歳を迎える戦後日本の精神を描いたものだろう、と。主人公は実のところ確固たる思想もなく左から右へ極端に揺れるし、狂信によって幸福に至るし、さらに主人公の父、アメリカ的自由主義を標榜してはいるが、子どもに対して強権も振るわないが体を張って叱ることもなくただ冷笑している、これは戦前の家父長制が崩れたのちの日本の父親というか権威の姿ではないか。すごい、そうだ! と興奮しました。こうやって自分一人では到達できない理解が得られるのが読書会の素晴らしさだとつくづく実感しました。

閣下:すごいな、それは。しかし話が長くないかね? ちょっと何か息抜き、ブレーク的なものを投入したらどうか。

下僕:はぁ、じゃあこれはどうです? 昨日集まった本たち。

 


閣下:はは、レンガ本の群れだ。しかしなんかブレークというよりは胸焼けが。

下僕:そうですか、じゃあ、これなんかどうです? 会場となったマルカフェさんの極上デザート。

 

 

閣下:おお、これは美しい。

下僕:でしょ、今回は軽いお食事もいただいての読書会でした。

閣下:よし、じゃあ本題に戻って、二つ目の課題『静かな生活』に入ろうではにゃいか。

下僕:こちらは中期の最後のほうの作品です。この短編集では初期と中期の収録作品の間が16年も開いてるんです。初期の最後が『アグイー』、長男の誕生が影響していると思われる作品です。それから中期の『レイン・ツリー』のシリーズまで何も書いてないわけじゃないんですがここには収録されていない。長男の誕生以降の作品、作者自身に近いところで書くようになったものをを中期と、ご自身の中で分けられたのかなと思いました。自分の経験、生活をもとに書くというといわゆる私小説という枠組に入れてしまいがちで、大江さんについても中期以降は私小説作家という印象をもたれているかもしれないですが、やはりそうじゃない、初期作品と同じように、実体験をちいさな核あるいは素材あるいは背景にして、まったく別の世界を構築してるんだなというのが『静かな生活』を読むとよくわかりました。これは作家の娘の視点で、障がいをもつ兄との生活を書いた作品ですが、この視点で語ることで、柔らかい語り口になりまた無垢な存在である兄へのまっすぐな愛情を書くことができた。これが親の視線ではこういうふうには書けないと思いました。自分ではない若い娘の視点とするために、計算されつくした文体で書かれてます。具体的なヒントはなにひとつないにかかわらず、最初の6行でこれが若い女性の語りだとすぐにわかる、とおっしゃっている方も。この語り手に作者の現実の娘を重ね合わせてちょっと不快感を覚えた方もいるようですが、他の著作で大江さんがこれはまったく書く架空の語り手を設定したと語っていることを教えてくださった参加者がいました。この語り口を生み出すのにいろいろ工夫したらしい。

閣下:文体の多様さ、と冒頭で貴君が書いたことのひとつだな。

下僕:はい、作品によって本当にがらりと文体が変わる。『セヴンティーン』も冒頭の数行で過剰な自意識を持つ主人公の精神のありよう、作品世界まできっちり提示されている、と指摘された方も。作品中の時間の流れが、自意識にとらわれた内向的なところはゆっくり長く書かれていて、思考停止になってからは早く短いとか、指摘されている方もいて、なるほど、と。また、どの作品にも言えることですが、とにかく構成がすばらしい。情報を提示する順番も、あえて謎を残したり、限定された情報だけを提示して読み手のなかにトラップをしかけたり、とにかく巧みだとみなさんおっしゃっています。なかでも『飼育』を評価する方が多かったです。素材も文章も構成も、何もかもが完璧な小説だと。

閣下:あれは本当にすごい小説にゃ。予は決して生け捕りにはされたくないと思ったぞ。

下僕:(ガクッ)えー、まじめな話に戻ってもいいですか。言葉の選び方も巧みで、たとえば性器の呼び方をとっても、初期作品では「セクス」が「性器」になり、中期の『静かな生活』では「キン」になり、とか、長男の呼び名を「イーヨー」妹を「マーちゃん」にしていることなど、それぞれちゃんと効果が考えられているという指摘もありました。『静かな生活』ですが、実人生に近づけて書くという点では『アグイー』から四半世紀たったからこそ書ける部分もあったのだろうと思います。『セヴンティーン』が人間の弱さを書いているとすれば『静かな生活』は人間の強さを感じた、という方もいました。中期以降の作品は、より実人生を想起させるものが多くなっていますけれど、たとえ同じ場所にいて同じものを観たり体験したりしても、だれでもこんなふうに書くことはできないだろう、小説というのは何を書くかではなく、いかに書くか、大江作品は、大江という類まれな作家の目と耳、頭を借りて世界を見られるという喜びを与えてくれる、という方がいて、激しく同意しました。

閣下:書き直し、改稿についても話があったみたいだにゃ。

下僕:はい、表紙からして自筆の『アグイー』の改稿ですからね。あとがきで、初期の数作品がさまざまな書き直し・捉えなおしから派生していることに言及していて、本当に、書くこと、それによって思考を深めること世界を正確に捉えようとすること、に真摯に向き合っているのが伝わってきました。あとがきの最後の段落を写しておきます。

私は若い年で始めてしまった、小説家として生きることに、本質的な困難を感じ続けてきました。そしてそれを自分の書いたものを書き直す習慣によって乗り超えることができた、といまになって考えます。そしてそれは小説を書くことのみについてではなく、もっと広く深く、自分が生きることの習慣となったのでした。」

これって、なぜわれわれは小説を書くのかってことにも深くつながっているように思います。

閣下:ふうむ、昨日の会でみなが語ったことの半分もまとめられていないようではあるが、まあ充実した会であったことは、この長さによって推測してもらえるであろう。

下僕:はい、分量によって内面の時間の流れる速度があらわされておるのであります。

大江健三郎さんは2023年3月3日、亡くなられました。読書会の余韻も覚めやらぬタイミングで、非常に驚き衝撃を受けました。しかしご存命中に、読書会のため真剣に作品と向き合う時間ができたことは得がたき幸運だったと思います。いたらない読者としては未読の作品がまだたくさん残っていることは、幸せなことだと感じております。素晴らしい贈り物を残してくださったこと心より感謝いたします。>

 

 

 

下僕:さてさて、昨日の会場、マルカフェさんです。本当に素敵な空間で、お料理もなにもかも素晴らしかったですね。

まめ閣下:それにあそこには、ちっちゃくて猫みたいだが猫じゃないけむくじゃらのものらがおるであろう。

下僕:マメちゃんとドリルちゃんですね。昨日も時々参加して、とくにマメちゃんからは熱烈大歓迎を受けましたよ。

閣下:名前からして人格者もとい犬格者と決まっておる。

下僕:全然いばってなくて、同じ名前の某閣下とはだいぶ違いますがね。

閣下:(しらんふり)それに昨日はリモート参加もあったな。

下僕:はい、時差のある国からの参加でした。コロナ以降しかたなく始めたオンラインですが、世界中どこからでも参加できるという利点もありますよね。今回は初の試みとしてリアルとオンラインのハイブリッドで。思えば3年前、やはりこちらで開いた読書会が、我々の最後の対面読書会となっていましたから、パンデミックからの苦闘の日々をちょっと思い出したりもしましたよ。やはりリアルで話すのは、オンラインにはない良さがたくさんあるなーと、みなさん口々におっしゃっていました。マルカフェさんの居心地の良さもあって、最後はなんだか離れがたく、いつまでもダラダラ居残ったりして。

ああー、閣下ともリアルでお会いしたいですよ。イデアとか脳内伝達じゃなくて・・・

そういえば3年前はまだ閣下はこんなことしてらっしゃいましたねぇ。いろんなことがありましたね。