Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2023年10月22日村上春樹訳でカポーティを読む『遠い声、遠い部屋』『ティファニーで朝食を』 於オンライン

カポーティのふたつの時代

・早熟の天才・恐るべき子どもと呼ばれた作家のイノセンス

・「気高い、しかし情けを知らぬ主人」


まめ閣下:下僕よ、おい、だらだらしとらんでさっさと例のやつをやろうではないか。

下僕:あ、閣下。やっとおいでくださいましたね。昨日の読書会のことでしょ。だらだらしてたわけじゃないんですよ、どうやってまとめようかなって思い悩んでごろごろしておったわけでして。

まめ閣下:ごろごろしてたらだめじゃにゃいか。とりあえず指を動かせ。

下僕:はぁ。じゃあまず課題本の紹介です。今回のテーマは村上春樹訳でカポーティを読むっていうことで、有名な『ティファニーで朝食を』と、最近春樹さんが新訳で出した『遠い声、遠い部屋』の2作品を取り上げました。

まめ閣下:また貴君の趣味全開な選書ではないか。押しつけはあかん。

下僕:いえいえ、これはわたくしが選んだというわけではなくて・・・読書会メンバーの話し合いにて決まったものでして。あまりに愛が深すぎる対象はなかなか冷静に語るのは難しく。今回もやっぱりそれを実感いたしました。

まめ閣下:あぁ、やっちまったのかね。

下僕:いかにも。ついついしゃべりすぎ、それも支離滅裂。で、悩んでおるわけでございますよ。どうやってまとめるの、これって。

まめ閣下:にゃにをいまさら。貴君の話が支離滅裂なのはいつものことではにゃいか。まあいいから、とりあえず予になんか報告したまえ。

下僕:はぁ。課題本、わたしはもちろんどちらも既読でしたけど、今回久々に再読いたしました。いつぶりなんだろうと昔の日記を漁ってみたところ、『ティファニー』は2010年にこの春樹訳が初読、『遠い声』のほうは2012年に河野一郎訳で初読でした。その後何かのおりに読み返したかもしれませんが、まあ例によって記憶が・・・

まめ閣下:あぁ、残念なこんにゃく頭よ。

下僕:(スルー)えー、春樹訳の『ティファニー』こそ、わたくしがカポーティに嵌まったきっかけでございました。今でもライフタイムベストの青春小説であります。まあ言わずもがなですが、O.ヘプバーン主演で映画が有名ですが、原作は映画とはまったく別物です。こちらはみなさんにも大好評でございました。あまりにも訳文が春樹っぽくて、ヒロインであるホリー・ゴライトリーの造詣も語り手のぼくも、初期の春樹作品の登場人物っぽくて、とくに会話文などまるで村上春樹にそのまま出てきそうな語りで。ホリー・ゴライトリーというキャラクターを生み出したこと、それこそがこの作品の大きな意義でしょう。奔放で、良識のある人たちからは眉をひそめられるような生活を送っている彼女の内面にある揺らぎのなさ、イノセンス、この人物造詣を春樹さんは「戦略的自然児」と表現してます。幼少期から極貧である意味虐待とも呼べるような目にあってきた彼女が理想とする「ティファニーみたいな場所、なにも悪いことが起こらない場所」がみつかるまで旅を続ける(名詞にTravelingという肩書き?を入れている)という居場所探しの物語、みたいに思われるけれど、本当は違うのではないか。これはカポーティの考える・理想とする「イノセンス」について書かれた作品、ホリーはそれを体現したキャラクター、と読まれた方がいて、大きく頷きました。イノセンスはやがて失われてしまうもの、だからこそ、今のぼくは変わってしまったホリーに会うことに積極的にはなれない、もう失われてしまったことを確信しているから。

まめ閣下:にゃるほど。一番上に出てくる「イノセンス」ってのがそれかにゃ。

下僕:『ティファニー』に限らずカポーティを語る上では切り離せないものですね。それは『遠い声、遠い部屋』のほうのテーマでもある。こちらは13歳の少年ジョエルが主人公なんで、イノセンスといったら「子ども=無垢な存在」みたいな図式を思い描かれそうですが、このジョエルは一般的な意味の無垢とはかけ離れている。恵まれない家庭環境もあってひどく孤独で虚言癖がある一筋縄ではいかない少年です。おそらく作者自身の子ども時代がモデルなんでしょう。

まめ閣下:しかしあれだな、こっちの作品は読みにくい、難しい、と感じた人も多かったんではにゃいのか。

下僕:よくご存じで。そうなんですよ、なんとも読みにくい。わたしも、既読なのに内容もあまりよく憶えていなくて

まめ閣下:それはこの作品に限らずいつものことではないか。

下僕:まあ、そうなんですが、これはとくに憶えていなくて、難しかったという記憶だけがあり訳文のせいだろうかと思っていたのです。だから今回春樹訳が出るっていうんで「これは読まねば」って思ったんですよね。ところが。やっぱり難しかった。

まめ閣下:貴君のおつむの程度の問題ではないのか。

下僕:むむ、それは否めませんが、みなさんもやはり難しかったとおっしゃっていたんで。これはあれだと思いました、原文が難しいんです。あとがきで春樹さんも書いてました。訳者泣かせ。河野訳とそれほど違いはありませんでした。わかりにくいのは訳文のせいだと思っていたなんて、本当に申し訳ない思いがします。原文のタイトル、”Other Voices, Other Rooms”を河野さんが『遠い声、遠い部屋』とされたのは本当に素晴らしいです。これ以外のタイトルはないです。春樹さんも書いてました。

まめ閣下:本当だぞ、貴君だって翻訳をやるんだから、よく憶えておくように。

下僕:はい。で、何がそんなに難しく感じさせているのか、とわたくしなりに考えてみました。それは多分にジョエルの内面世界や幻想、心象風景などがいきなり入り込んできて、それらが非常に映像的だったり感覚的な描写で、また文章に詩的な飛躍があることもすんなり読めない理由だと思います。そういうものが現実のストーリーと混在するので、なかなか全貌が掴みにくい。だけどそこはもう、理解しようと思わずに表現自体を楽しむと決めて読み進みました。そうすると、まあ物語の枠組みは非常に明快で、ひと言でいうなら、少年が大人になる話。ラストの一文、「彼は立ち止まって後ろを振り向き、華やぎを欠いた降りゆく暮色を、自分が背後に残してきたその少年の姿を目にした。」ですべて語られてるんですよね。大人になるというのは、華やぎを欠いた暮色、なんとも寂しく薄暗い景色。ここに至るまで、ジョエルは大切なものを次々失っていくわけです。母はすでに亡くなっていて、父はもう人としての意識があるかわからない状態で、この地に来てから親しくしたおじいさんも亡くなり、家族のように身の回りの世話をしてくれていたズーも酷い目にあって心を失ってしまう。たったひとりの友だちだったはずの少女アイダベルも遠くの寄宿学校へ行ってしまう。でもアイダベルのことはジョエル自身が「もう自分には不要」と判断するんですよね。ホリーと同じでアイダベルもカポーティの抱く「イノセンス」を体現した存在だから、ジョエルは自らそれと決別することを決める。「十三歳の少年の内的世界を描くと同時に人生の終焉を描いた作品」とおっしゃった方がいて、このラストは、つまり「イノセント」を失った自分はもう人生を失ったという意味なのかもとも思いました。早熟の天才と呼ばれた作家にとって、大人になるということはつまりもう人生は終わったと感じたのかもしれない。

まめ閣下:ふうん。にゃるほど。一番上に書いた「ふたつの時代」ってのは?

下僕:あ、そうそう。その話をしないといかんですね。春樹さんのあとがきに全部書いてあるんだけど。
「自分の物語をすらすらと自然に紡ぎ出すことができた早熟期と『ティファニー』以降の、大人の作家としてもうひとつ上の台地を目指した時代」。
早熟期の代表が『遠い声』というわけです。さらに解説から。
「いつまでも自分の少年時代の特異な体験を題材として、感覚的な物語を書き続けているわけにはいかない。彼は新しい小説のための新しい題材を求めなくてはならなかったし、その小説に相応しい文体を作り上げなくてはならなかった。」
そのため『ティファニー』を書くのにカポーティはものすごく悩み苦しんだと。
「そのかいあって『ティファニー』は「ちょっとした古典」として生き延びているしそれによってカポーティの地位も確立されたわけだけれど、そこで彼が失ったもの、手放さなければならなかったものは決して少なくなかった。」
「天衣無縫のイノセンスや、文章の自由自在な飛躍、無傷で深い暗闇を切り抜けることのできる自然な免疫力、それらはもう二度と彼の手に戻ってはこなかった。」
わたくしはこの解説すごいなぁ、と思ってあちこち書き写していたんでございます。

まめ閣下:ふむ。なんかすべてを言い尽くされたような。で、最後の「気高い、しかし情けを知らぬ主人」ってのはなんだ? 予のことか。

下僕:ははは、日記に書いたときも公開型だったのでみなさんからそう言われました(笑)。カポーティ自身のことばを書いておきます。
「ある日、私は小説を書き始めた。自分が一生を通じて、気高い、しかし情けを知らぬ主人に鎖に繋がれることになるなどとは露知らず。神があなたに才能を与えるとき、彼はまた鞭をもあなたに与えるのだ。そしてその鞭は自らの身体を厳しく打つためのものである。・・・私は今、ひとりで暗い狂気のなかにいる。」
つまり情けを知らぬ主人っていうのは小説ってことですな。無尽蔵に思われた才能を食い尽くしてからの苦悩、そうして自堕落な生活に溺れていき、思うように書けなくなって破滅してしまった・・・。その人生を思うと胸が痛みますが・・・あ、そうだ、猫。

まめ閣下:なんだ、突然。

下僕:映画の『ティファニー』でも描かれた、ホリーが自分の猫をどしゃぶりの雨のなかで放り出すシーンが原作にもあるんですが、自由にしてやったはずなのにもともと猫を所有なんかしてなかったつもりだったのに、その後自分が失ったものの大きさに気づく場面、読んでいても本当につらい。でも原作では、その後語り手のぼくが、その猫(によく似た猫)が誰かの家に大切に飼われている姿をみつけるんです。本当によかったって思いました。

まめ閣下:そうだ、そうだ、猫を大切にしないやつは地獄行きである。

下僕:あ、そうそう。わたくしの持っている『ティファニー」の表紙と裏表紙には猫のイラストが入ってるんですが、同じ本でも新しい版には入っていないというのがわかりました。この猫。いいでしょ?

 

 

 

下僕:そういえば、『遠い声、遠い部屋』についてはまだ言いたいことがいっぱい残ってるんですよ・・・あ、あれ? 閣下? 閣下? もう行ってしまわれたのですね、しょぼーん。また来てくださいませね。