Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2024年2月17日『孤独の発明』ポール・オースター著 柴田元幸訳 於オンライン

・まったく様相の異なる第一部「見えない人間の肖像」と第二部「記憶の書」

・個と普遍を往還しつつ深まり展開していく思索

・創作論であり芸術論であり「宣言の書」であるかもしれない

・知の巨人の思考過程を垣間見せてくれる

 

 

下僕:閣下ぁ、閣下ぁ~

まめ閣下:(カッコウカッコウ

下僕:ん? 郭公が鳴いている? いやこだまでしょうか?

まめ閣下:なにをぼけておる、余がせっかくつきあってやっておるのに。

下僕:あ、出た。

まめ閣下:出た、じゃない。余はイデアであるから常に存在しておるって、いったい何度言ったらわかるのかにゃ。

下僕:はい、設定はそうですが。でも久しぶりにこの場に現れてくれると、やっぱりうれしいもんで。

まめ閣下:つーか、もう最近は読書会のまとめしかお呼びがかからんではないか。他の講座とかイベントとか行ってないのかね。

下僕:いや、そういうわけでもないんですが。やっぱりオンラインでアーカイブがあったりするとなかなか難しいんですよ。どの程度のことまで書いていいのかなって判断が。さわりだけっていうのもねぇ。このブログはもともと自分のための備忘録みたいなもんですから、きちんと内容について残しておかなかったら意味ないですし。

まめ閣下:だがしかしそれではすぐに忘却の彼方に流れていってしまうではないか。なんといっても貴君のこんにゃく頭では。もったいないのぅ。

下僕:おっしゃるとおりなんですが。ま、とりあえず今は昨夜の読書会のまとめやりましょう。また今回もなかなかの難敵でしたよ。

まめ閣下:ポール・オースター『孤独の発明』だな。1982年に出ている。訳者あとがきには、それまで詩人・翻訳者として活動していた著者が散文作家として出発した一冊と紹介されておる。この後に発表した小説三作品がオースターの名を世界に知らしめることになる・・・

下僕:そうなんです、それは押さえておくべき点だと思います。冒頭にも書いたんですが、第一部と第二部の様相がまったく変わっていて、最初読んだときにはこれは別の作品が一緒に収められているだけなのではないかと思ってしまいました。どう繋がるのかわからなった。第一部は散文、自分の家族を書いた私小説みたいな書き方をしているのでわかりやすい小説です。書かれている内容も、突然死んだ父について遺品を整理しつつ理解をしようとする話ですから、小説としてもよくある題材ともいえます。この父は生きているときから「非在の人間」で、著者はある意味ずっと父を探し続けていた。だから今こそ父について書かなければ、という強いモチベーションに駆られてこの第一部「見えない人間の肖像」を書き始めるわけです。でもなかなか書けない。考えることと書くことのあいだに裂け目があると痛感するんです。書くことで癒やされるかと思ったのに、傷口はどんどん開いていく。父を埋葬するために書き始めたのに、言葉にすることで父は生きていたとき以上に「ますます生かされて」いく。父を理解するには、自分自身が土のなかの絶対的な暗闇に入っていかねばならないのだ、と思うわけです。

まめ閣下:村上春樹の「井戸に潜る」的な。

下僕:まあそういうことでしょう。で、第一部で語られるファミリーヒストリーは、物語としても波瀾万丈で野次馬的にもおもしろく読める。記憶の中の父親の人物像がすごくよく描けている、まさに「非在の人」。あまりにうまく描写されているせいか、読むのがつらいエピソード満載とおっしゃる方もいました。機能不全の家族を見事に描いていてそれを読むうちに作者に対する信頼が生まれてきて、ちょっと難解な第二部も「まあポールが言うなら聴くよ」という気持ちで臨めたという方もいました。

まめ閣下:そんなに第二部は難物なのかね。

下僕:えっと、書かれていることが断片的なんです。第二章全体がその一からその十三まである構成ですし、そのなかも断片的記憶や引用、そこから紡がれていく思索が一見ぶつ切りみたいに入ってくる。第一部がごく普通の散文形式で綴られていたので、え、これはいったい何だってわたしなぞは驚いちゃいました。哲学的といいますか。「物語の効能を語っているのにいっこうに物語にする気がない」と言う方もいて、共感、笑いました。実験的アプローチで非常に楽しく読んだという方もいらっしゃいましたし、文化的・思想的・民族的背景(オースターはユダヤ系)まで読み取って深く楽しまれた方もいらっしゃいました。わたしも最初はとまどいましたが、わかろうとするんじゃなくてとりあえず作者の思考の流れに乗っていけばいいんだとなりまして。保坂和志の小説的思考塾じゃないですが、小説は説明じゃない、思考の流れだって。それにのって自分もまた考えること、読書の醍醐味ってこれだよねと思いました。

 ただ、第一章とどう繋がっていくか、一見バラバラに見える第二章全体が全体としてどこを見据えているのか、これはメモをとりながらでないと理解できないなと気づいて二読目はメモとりつつ読み進めました。これでようやく作品のぼんやりした輪郭が見えたというか。とりあえず気になったところを全部書き写していったら、ノート8ページ超えてしまって。どうせ話はまとめられないから、昨日の読書会では第二部についてはノートの抜粋を読ませていただきました。(写真:ノートの一部)

 

まめ閣下:そりゃあ聞かされたほうも気の毒にゃ。

下僕:ええ、そう思いましたが、まとめようとして見失ってしまうもののほうが多いような気がして。正直、考えをまとめることは無理と思ったのもあり。

まめ閣下:ま、貴君のはんぺん頭にはみなあまり期待はしておらないだろう。

下僕:はぁ、でもメモ作ってようやくわかったのが、第一部を書き終えたところに(1979年)と書かれていて、このときはまだ妻と息子と郊外の自宅で書いていたというのがそれまでの状況からわかる。第二部の最初に、1979年のクリスマスイブという記載が出てきて、それはニューヨーク、ヴァリック・ストリート6番地の狭い自室(元の仕事部屋)で、そこで過ごした九ヶ月の間に第二部が書かれたということがわかる。で、このときにはもう妻とは離婚して一人暮らしになっている。第一部でもその構造はあったのですが、第二部はけっこうメタな構造になっていて、書いている自分について、書けないで苦しんでいる自分について、これから何をどう書いていくかのメモ的なものなど、何カ所もでてくる。でも全体としては、第一章で語られた父と自分のファミリーヒストリー、ずっと探し続けてきた父親を理解するために父の遺品から喚起されたことを書き始めたが、なかなか書きあぐねている、第二部では苦しみつつも深い孤独の闇のなかで、記憶とはなにか、書くとはなにか、創造とはなにか、考えを深めていく、その過程が書かれている。巻末に膨大な引用文献のリストがあり断片的記憶に登場するのも詩人や芸術家、思想家、哲学者などで、わたくしのごとき浅学なものにはすぐに飲み込むことは難しいところも多かったのですが、メモに残したところを読み続けていくとなんとなくなぜその話がそこで出てきたのかはわかるような気がしてくる。作品全体に「個別なことと普遍的なことを行ったり来たりしている」とおっしゃった方がいて、なるほどそうだと思いました。

 で、第二章理解のきっかけになったのが、前段で書かれている、その先の記述の方法論的なもの。ひとつは「古典的な記憶法の詳述」ーあらゆるものは何らかの意味においてほかのあらゆるものとつながっているという見地。もうひとつは、それとパラレルをなすかたちで語られる「部屋をめぐる短い省察」。その十三まで何度もいろいろな部屋の話が出てきて、これも部屋というか切り離された空間(孤独)が思索を深めるためには重要なキーなんだな、と思って押さえていくことができました。

まめ閣下:うーん、ここまで聞いてもなんだか茫洋としておるな。要点をまとめて、というのが意味をもたない作品であるとは思うが、貴君の感じたこと、受け取ったものを書き記しておくのは必要ではないのか。

下僕:はぁ、そうですね。ひとことでいうなら、書くというのはどういう行為かをつきつめていく作品と言えばいいかも。重要なモチーフとしてコローディの『ピノッキオ』について何度か語られているんですが、ディズニー版との相違なんかに真の芸術表現についての考え方も出てるかなと思いました。「祖父ー父ー自分ー息子」という血のつながりが作品の背骨みたいにあって、形としては第一部などは私小説と呼ばれることもあるでしょうけれど、オースターは「自分の物語を語るために自分を他者として語る」ことの重要性を書いています。「記憶の物語とは見ることの物語だから」と。見るという行為は対象が自分の外にある必要がある。また、孤独についての考察も作品の中核です。「もっとも大切な創造行為が行われるのは孤独の暗闇において」という記述もある。「あらゆる書物は孤独の象徴」であり、翻訳という行為は「他人の孤独に入り込み、それを自分のものにしようとするよう」とも書いている。一人の時にしか人はものを考えたり書いたりはできないけれど、その孤独は他者とわかちあうことができるものである。「本書のタイトル『孤独の発明』というのは小説のこと、小説は欠落感を埋めるものでもあり孤独によって作り出されるものだから」と指摘された方がいて、なるほどと思いました。第二部で書かれていることは、引用された文章の原典に当たったり出てくる人の作品をちゃんと読んだりすることでようやく理解できるのだろうとは思うのですが、わからないなりにその大いなる知の巨人たち(オースターも含む)の思考に触れることで触発され喚起されるものがある。その感覚は、大江健三郎の『レインツリー』などにも通じると指摘される方がいて、おおそうだ! と思いました。

 そしてそうやって断片的に見える記憶や思索を続けていく先に、その十三で、自分が死ぬ夢を見たことが書かれています。全三回、続き物の夢。死んで夢は終わる。これはすごく暗示的だと思いました。いったんすべての記憶を出し尽くして、死んで、新しく生まれる、みたいな。その後に続く結びの文章は素晴らしい。「何も書かれていない一枚の紙をテーブルに広げて、彼はこれらの言葉をペンで書く」で始まって、「それはあった。それは二度とないだろう」と、第二章前段でも出てきた言葉が繰り返されるのですが、最後に「思い出せ。」がつく。それが作品の終わりです。震えますね。これをとりあげて、「この作品は、この先自分はこうやって書いていく『宣言の書』だと思った」とおっしゃった方がいました。実際にこの作品の後、オースターは世界的に名をはせる作品を続けて書きました。

まめ閣下:にゃるほど。やっぱりみんなしっかり読んでいてすごいにゃ。毎度のことながら貴君ひとりでは決してそんなふうな理解にはたどり着けまい。

下僕:まったくでございます。

まめ閣下:あー、ところでそういえば昨夜は見知らぬもふもふなやつが参加しておったようではないか。

下僕:はは、気になりましたか。あれは読書会メンバー、閣下の大好きなSさん宅のお姫様でして。Sさんが旅行に行かれるというので、週末だけうちにいらっしゃっていたんですよ。なかなかのべっぴんさんでしょ。

まめ閣下:ふん。余は猫は好かん。どうせならSが泊まりに来ればよかったのに。

下僕:来ません!

 (お泊まりあそばしたやんちゃ姫)