Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】第163回芥川賞受賞作「首里の馬」高山羽根子「破局」遠野遥

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まめ閣下:下僕よ。昨日は昼過ぎからずーっと、例によってあの四角い板に向かってくっちゃべっておったようだにゃ。

下僕:いい加減おぼえてくださいよ、閣下。あれはパソコンという機械の画面で、わたくしはただ板に向かって話していたわけじゃなくてオンラインでつながっている人たちと会話をしていたのでございますよ。昨日は、恒例の小説塾の日でしたからね。

まめ閣下:ふん、そんなことはよくわかっておる。ただいつもより時間が長かったなと思ってな。

下僕:あ、はい。この一年半ほどで塾生の数も増えて作品数も1回の授業に収まり切れない状態になってきたので、ちょっと開催方式を変更したんです。まぁ、詳しいことはここでお話してもしょうがないので割愛しますがね。で、変更のかいあって生徒作品の講評が終わってからも少し時間がとれるようになったので、今回は芥川賞受賞作について話し合いました。なにせこの塾の講師N氏は、高山さんの通った小説教室の講師でありますしね。昨年の候補作「居た場所」も、この小説塾で取り上げました。そういえばあのときの内容は閣下がおまとめくださったのではありませんか!

まめ閣下:そうだったかにゃ? もうそんな些事は憶えておらんにゃ。で、今回の作品評はどうだったんだ?

 

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下僕:「首里の馬」についてのN氏評は非常に高いものでしたね。ここまで書ければ見事、現時点での集大成ともいえる作品だとべた褒めでした。沖縄の首里にある私設の資料館という設定、オンラインで繋がる顧客にクイズを出すという不思議な仕事という設定、このふたつまではまあ書けるだろう。でもそこに「宮古馬」が出てきて作品世界が大きく動き出す。これは普通書けない、と。未名子という名前は、「未だ名前のない」という意味がこめられているとN氏は言ってましたが、その主人公が情報を集める資料館で働き、「情報」が「記録」され「記憶」となり「普遍的なもの」「歴史」に繋がっていく、という作品世界が見事に描き出されている、とおっしゃっていました。

まめ閣下:N氏にしてはめずらしいことなのかな?

下僕:はい、そうですね。でも高山さんのことは以前からずっと推していらっしゃったから。「居た場所」までは、草稿段階でN氏の教室に提出されていたらしいんですが、それ以降の作品は出版されてから読むという感じになっていたようで、この作品の完成度の高さに驚きもひとしおだったようです。

まめ閣下:貴君はそれで、どう感じたのかにゃ?

下僕:はい。最初はなんとなく説明的な入り方だなと思ったりもしたんですが、途中からこの作品は素晴らしい、と、興奮して一気に読み終えました。実は、「居た場所」は徹底的に具体的な情報を排除して書かれているようなところがあって、わたくしのごとき愚鈍な読み手にはちょっとわかりにくいところがありまして、それは決して作品自体の魅力を損なうものではないのですが、いまひとつ深く理解し心に響くというところまでいけなかったというのが正直なところでした。読解力のテストを受けているような。あえて壁を作って乗り越えられる読者だけ来たらいい、と言われているような感じを受けておりました。それが、今作では読者に対して「開かれた」印象があります。地名も具体的に出てきているし、クイズの顧客たちの状況(どこの地域でどういう団体に人質になっているかとか)や、順さんの過去に類似するカルト的な集団というのも、現実に即して推測できるようなヒントが十分与えられていますし。わかりやすくなった分、物語にどっぷり浸ることができました。未名子を始めクイズの顧客たち、順さんなど登場人物それぞれの深い孤独が美しいほどで、今のわたくしには心地よかったです。だからこそ、馬という生きて体温もある存在へ覚えるほのかな愛着というのが際立ってみえ心に響いた。たくさんの人たちのそれぞれの孤独を描きながら、ひとつの大きな物語に収れんしている。これは作家自身に「大きな世界観」があってこそ生み出せるもので、作家の器の大きさを示していると思いました。余談ですが、主人公の前職がテレホンオペレーターだったというのが、もう一人の受賞者の遠野遥さんのデビュー作「改良」とも通じていて、なんというか、これが今という時代の象徴なのかしらなんて思ったりもして。

 

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まめ閣下:その遠野氏の作品のほうはどうだったのかにゃ?

下僕:わたくしは非常に面白く読んだんですよね。文藝賞受賞作「改良」を読んで、若いけれど小説の構造というものをよく知っている巧みな書き手ではないかと思っていたので、一見すると平易な文章で描き出されていく主人公の内面のなさも作者の企みがあってのことだろうと思って読み進めました。主人公陽介は、自分の感情を言葉に表さない。感情はあるけれどみないようにしているのか、本当に感情を抱けないのか。快不快、肉体で感じられるものだけがある。陽介の行動規範は、「マナー」や「父親から言われた」こと。他者にどう受け止められるかが基準になっていて、その基準に対して「なぜそうなのか?」「本当にそうなのか?」と自問することはない。おそらくこういう人は実際に近くにいたら「実に感じのいい青年」と感じるのではないかなと思いました。それに対して友人の「膝」は、ごく普通の一般的情緒を持つ人物として描かれている。別れた彼女麻衣子が自分の幼児期の恐ろしい体験を語るところから小説が一気に加速していく感じを受けました。「改良」のときの公衆トイレで暴行されるシーンと同様、すごく怖いんです。で、内面がないなりにうまくバランスをとっていたはずの陽介のバランスがだんだん崩れていく。指導していた後輩たちが自分について言っている陰口を偶然耳にして、そのとたんにハンバーガーが選べなくなる、とか。頭痛とか吐き気とか、体調の異常としてその変化は現れてくる。その苦しさが、警察官に取り押さえられるラストでようやく楽になる、見上げた青空にカタルシスを覚える。という構造も上手いなと思いました。出てくる女性たちは二人とも怖いし。とにかく主人公のこんな人物造詣を作り上げるなんてすごいや、と思っていたんですが。

まめ閣下:ですが?

下僕:インタビュー読んだら、どうもなんだかそれが作家の「地」みたいなんですよね。ナチュラルに人間はそういうもんだと思って書いてるみたい、と感じてちょっと愕然としましたよ。わりと自分に近いところで書かれた主人公。まあそれはそれでちょっと怖いですが。

まめ閣下:おほん、おぬしはやっぱり愚であるな。インタビューなんて本当はどうかわからんというのを何度言ったらわかるのかにゃ? 言ってもいないことを勝手に書かれている場合もあるし。つぎはぎされて本来の意図とは違う文脈になっていることも多々。さらに言えば、作家が自身のことについて語ることほど作り話である可能性が高いものってのが常識じゃにゃいか。

下僕:ああ、たしかにそうでございました。じゃ、そこまで企てている可能性もあるというわけでしょうか。

まめ閣下:そりゃわからんけどな。とにかく、なんでもかんでも書かれていることをばかみたいに信じないことが大事である。

下僕:ああ、そうそう。こういう人物造詣についてN氏は「みんなこれが新しいとかいうけど、三島が書いてるよね」とおっしゃってました。言われてみればそんな気も。

まめ閣下:ふむ。N氏の言うことだから、インタビューなんかよりは確かなんじゃにゃいのかな。