下僕:はぁ、閣下。もう五月ですね。
まめ閣下:今ごろにゃにを言っておるのだ、もう五月も下旬ではないか。
下僕:そうなんですよ。新型コロナウィルスってやつのおかげで自粛生活ってのを続けているうちに、あれ?って気づいたらいつのまにか五月も終わろうとしていました。一年で一番好きな季節なのに、なんていうことでしょう。
まめ閣下:おかげでこのブログもネタがなくて3月からめっきり更新が滞っておるからにゃ。
下僕:はあ、そうでございますねえ。予定していた講座なんかはのきなみキャンセルになってしまって、閣下以外には誰とも話をしないような日々が続いておりましたからねぇ。
まめ閣下:でも貴君は、先月の末くらいからぼちぼち、オンラインでなにやら集会的なものをやっているようではないか。
下僕:ああ、はいはい。たんなる飲み会もありますが、読書会とか小説の合評会とか。以前から仲間内でやっていたものもあるし、こういう事態になって「ちょっとやってみるか」というお試し的なものもあり。つい先日は、講師を招いての小説塾も開催いたしましたよ。
まめ閣下:そういう意味では、家に閉じこもっているわりには文化的交流はあるんではないかにゃ。
下僕:はぁ、まあそうですね。小説塾なんかは、内容的にはまったくリアルでやるのと変わらないですしね。授業の後の懇親会がちょっと盛り上がりませんけれども。
まめ閣下:そうか? いつも結構賑々しく日付を跨いでまでしゃべりまくっているように見えるけどにゃ。
下僕:はぁ、そうですね。誰もが雑談に飢えているっていうのがありますよね。一見無意味なようで実は雑談というのは人間にはけっこう必要なものではないかと思いますね。雑談に限らず、不要不急のものこそが生活を豊かにするのではないでしょうか。
まめ閣下:貴君の場合、なにもかもが不要不急のものばかりのような気もするが。
下僕:むむ、それは否定できませぬな。でも閣下、わたくしこのひと月ほど、そうやって塾生や昔からの小説仲間の作品をたくさん読ませていただいてあらためて感じたことがあるんですよね。
まめ閣下:うん?
下僕:塾にしても合評会にしても、参加しているのはどの方も長年書いている方ばかりで、もうプロとしてデビューしてる人もいるし地方の文学賞を受賞している方や大きな文学賞の最終に何度か残った経歴のある方などで、提出される作品も当然かなりの水準にあるんですよね。でも非常に僭越ながら言わせていただけば、個人的には必ずしも面白いと思えるものばかりではないというのが正直なところです。
まめ閣下:それは単に好みの問題ではないのかにゃ?
下僕:まあ言ってしまえばそうなのかもしれないですけれどね。
まめ閣下:たとえばどういうものが面白くないのかにゃ?
下僕:なんと言いますかね、頭の中だけで作られた作品というのは、どんなに上手にできていてもあまり面白く思えません。
まめ閣下:頭の中だけで作られた作品?
下僕:はい。周到にプロットを立てて計画通りに書かれたようなやつとか。そこまでいかなくてもすべて作者のコントロール下におかれたようなものは、どんなに読みやすくてもそれっきりかなと。
まめ閣下:ふん。じゃあ、逆にどういうのが面白いんだ?
下僕:そりゃ当然、なんとしてもこれが言いたい、これを書かずにはいられないという衝動に導かれたものですよ。愛とは死とは人生とは、みたいなシリアスな話じゃないんですよ。すっごい馬鹿な話でもどうしても誰かにそれをしゃべりたくてしょうがないってものがあるじゃないですか。話ではなくても、へんてこな言葉でも。「あじゃびじゃいじゃあ」とか「どぅびどぅばっ!」とか意味のない言葉を発したくてたまらないようなときがあるでしょう。迸るものが。
まめ閣下:んなもん、ないわっ。
下僕:いや、閣下にはありますよ。ありすぎですよ。毎夜毎夜の絶叫ライブ。あれこそがすべてでございましょう? あれって別にわたくしに何かを訴えるために叫んでいるわけじゃないですよね? ただただ大声出したいんですよね? わたくしが傍に行って「どうされました? 何か御用ですか?」とか呼びかけたってお構いなし、ただひたすら空に向かって吠えまくっていらっしゃるじゃないですか。あれが「衝動」ですよ。やむにやまれぬ情動。自分でもどうすることもできない、ただただこれを書かずにはいられないのだと突き動かされる思い。それがない作品はつまらない。
まめ閣下:ふん、そんなことか。それは前々から予が言っておるではないか。文学はロックにゃ、と。
下僕:まっことその通りでございます。人の頭でこさえられるものなど、しょせんはちっせぇもんですよ。書いている本人の思考の枠を超えたところで書かれたものこそが、文学になりえるんではないかと。
まめ閣下:しかしあまりに衝動だけでつっぱしった作品は読めないぞよ。
下僕:たしかに。ほとばしる思いをいかに伝えるか、そこらへんは経験で補っていくことができますけどね。ただただ小手先の技術だけで衝動がないまま書かれた作品ほどつまらないものはないですね。「これなら書けるだろう」って書いたらダメなんですよ。
まめ閣下:うん、わかった、わかった。なんかしらんが、今日はほとばしっておるな。
下僕:ええ、あとね、こういうご時世ですから結構みなさんこの疫病を作品中に書いてくるんですよね。
まめ閣下:ほほう。
下僕:わたくしは、それっていいことだと思うんです。今書けることは何でも書いておいたらいいと思う。
まめ閣下:でも貴君はたしか、震災直後に震災の話を書いて大作家の先生に「なんでもすぐに書いたらいけない」と窘められたとぼやいていたではないかにゃ?
下僕:はい、たしかにそうでございました。でも、それからずっと考えてきたんですが、書けるときになんでも書いておいたらいいんですよ。作品の良しあしという評価はまた別な話でして。だってね、書かないでいたら忘れてしまうんです。どんな経験もびっくりするぐらい忘れてしまう。コロナに比べると、震災の話はなかなか書く人がいなかった。書いていたのかもしれないけれど、文学にならなかった。みんな腰が引けていたんじゃないでしょうか。それでどうなったかといえば、もうみんな震災のこと忘れているじゃないですか。忘れたわけでもなく、よくわからないままの人もいる。わたくしが書いた作品を読んだ方が、「こんなことがあったなんて知らなかった」という感想をくださって、わたくしはびっくりしました。その人は外国にいたわけじゃない、この国で暮らしていたんですよ。それで知らなかったのか、と。保坂和志さんが、「文学は記憶のクラウド」というようなことをおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。もし、たくさんの人が震災のことをどんな形でも書いておいたら、それだけ多くの記憶、データが人類に残されるんですよね。もちろん優れた文学として後世に残るものばかりではないでしょうけれど、決して無駄ではないとわたくしはあらためて思いました。
まめ閣下:お、おう。貴君、なんだか今夜はいつになく熱いではないか。
下僕:なんかしゃべりたいことが溜まっておりました。知らないうちに抑圧されておりましたかね。ああ、そうして季節ばかりが進んでいく。