Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

読書会まとめ ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引き書」

まめ閣下:下僕よ、今朝も怠惰なる下僕よ。

下僕:また怠け者呼ばわりですか。今朝はいささか頭が痛いんで、ちょっとくらいだらだらしてても許してくださいよー。

まめ閣下:おおかた飲みすぎであろう。「しらふで生きる」とこのところ毎日のように口では言っておるようだが。昨日はまた大勢で賑々しくやっていたような。

下僕:ご明察。少し飲みすぎました。やっぱり午後3時から飲んじゃいけませんね。

まめ閣下:そういえば昨日諸君はおかしなTシャツを着ておったが、そのような心構えの現れだったのかにゃ?

下僕:背中に「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」…ってほどは飲んでませんよ、失礼な。

まめ閣下:そうか? ほんならさっさと報告したらどうかな。昨日の集まりの本来の目的は飲み会じゃなかったんだろ?

下僕:は、たしかに。読書会でございました。課題図書は今話題の、こちら。

 

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下僕:ルシア・ベルリンの短編集「掃除婦のための手引き書」

まめ閣下:なかなかカッコいいおにゃごではないか。著者の写真か?

下僕:はい、そのようです。作品を読んでいても、おそらくきれいな人だったんじゃないかなって思いましたよ。作品はほとんど実体験をもとに書かれているようなんですが、一人の人生にしてはあまりに振れ幅が大きいというか、バラエティに富んだというか、まあいろんな体験をしているようでして、これらの話がとても同じ一人の人の人生だったとは思われないんですよね。書き方も、所謂私小説という感じでは書かれていない。いろんな視点で、自分の体験を細かく切り取って、小説として加工して出しているという感じです。アメリカの短編作家ということでカーヴァーを思い出しました。作品の底にあるのが透徹した絶望であり、それをくぐりぬけたからこそ見える光が感じられるという点も共通してるかな、と。そういう意味ではわたくしの大好きなカポーティにも通じる部分があるような気がします。作家としての目がいい、声がいい。参加者の一人は、作品の根底にある孤独と、瞬間を捉える視点が、江國香織に通じると思ったといってました。

まめ閣下:短編集と言ったが、いくつの話が入ってるのかにゃ?

下僕:24編です。見開き2頁で完、ていうものすごく短いのもあるし。

まめ閣下:それぞれ独立した話なんであろう?

下僕:はい。独立はしているんですが、家族やなんかはいろんな作品に登場しますよ。そこは著者自身の経験をもとに書いてるから。一人の人の生きざまを描いた長編を読んだわけではないのに、いくつも読むうちに一人の女性の人生が鮮やかに立ち上がってくるという感じですかね。それもおそろしく多面体で。

まめ閣下:どの作品が好きとか、参加者で言い合っておったようだが。

下僕:わたくしはだんとつで「さあ土曜日だ」ですね。あとは「どうにもならない」とか「エンジェル・コインランドリー店」とかアル中の主人公が出てくる話はどれもいいですが。

まめ閣下:身につまされるからであろう。昨日も「どうにもならない」を読んで諸君を思い出したって人がいたじゃないか。

下僕:いましたいました。でもわたくしそこまでやばくないけどなぁ。だってわたくし「髪の毛が痛い」ってのはまだ経験したことないんですから。

まめ閣下:一生経験せんでよろしい。

下僕:どれも面白く読んだのですが、他の人たちの好きな作品というのを興味深く聞きました。「わたしの騎手(ジョッキー)」という超短編が人気があって少し驚きました。とにかく一編の詩のように美しい、と。ただ、作中「3ページもかかって女の人の着物を脱がせるミシマの小説」ってところは、「これは三島じゃないんじゃないか」と感じる人も。たしかに長々とそういう描写するのは三島じゃない気が。谷崎なんかのほうがそれっぽいですよね。「ソー・ロング」「ママ」「バラ色の人生(ラ・ヴィ・アン・ローズ)」の名前もあがりました。「ソー・ロング」は、息子とかつての夫への愛があふれる物語、「ママ」に描かれている母の描写、これこそが愛である、最後の否定的な一行も含めて、という意見を聞いて、本当にその通りと思いました。「バラ色の人生」のお嬢様時代のやんちゃぶりがキュートでジェーン・オースティンの姉妹を思い出すとか。映画「ベニスに死す」を思い出したという方もいました。「喪の仕事」「エルパソの電気自動車」を挙げた人もいました。作品自体のよさはもちろん異文化の興味深さを感じたようです。「ソー・ロング」については、音楽好きの方が、作中に出てくるジャズ界の名手たちのいわゆる「The Moment」であっただろうライブを聴いたというのを本当に羨ましいと言って、村上春樹がこれを読んだらどういう感想を持つのか知りたい、と。たしかに春樹訳でも読んでみたいという気もします。

まめ閣下:いろんなところに興味をもつもんじゃな。

下僕:いい小説というのはそういうものでしょう。とにかく今回読書会の課題になるまでこの本を知らない人がほとんどでしたが、読む機会を得られて感謝するという方もいるほどみなさん気に入っていました。昨日集まったのはみんな小説を書く人ばかりですので、書き手としての読み方がやはり出てきて。これを読んで「自分もこういうふうに書きたい」と意欲を燃やしている人もちらほら。収録された作品は読んでいて感情を揺さぶられるものが多いのに、実際の心理描写はほとんどないということも指摘されていましたね。そのあたりが、自分自身を作中の人物として俯瞰でみている感じに繋がり、私小説苦手な人にも受け入れられやすいのかもしれないですよね。あと、深刻な場面を書いててもあちこちに笑える文章が出てくるのもいいです。もうすぐ死ぬ妹が「もう二度とロバをみれないなんて!」って冗談を言って悲しがるとか。笑いってやっぱり客観視したところからしか生まれないって思うんですよね。自分の悲しさやみっともなさを笑いにできるって、小説に限らず大事なことだと思うな。

まめ閣下:だから諸君はバカなことばかりやらかしては明け方に目覚めて「あー、もう嫌だ、死にたい」とか騒いでおるのかにゃ?

下僕:い、いえ、そ、それは・・・おほん、まぁ、話を戻しますと、「小説は何を書くかではなくどう書くかである、とよくいうけれど、この作品集を読んでやっぱり何を書くかっていうのも大事だと思った」という人がいました。ここで書かれている題材は、ありきたりなものはひとつもないと。されども、やはり「どう書くか」というところがさらに重要なのは間違いなく、その「どう書くか」の部分でも飛びぬけている、と。その人によれば車谷長吉が「ただ床屋に行ったことを書くのは日記で、そこで起こったことをそのまま書くのは作文。小説であれば牛が床屋に行かないとダメ」というようなことをおっしゃていたらしいのですが、ルシア・ベルリンの小説はちゃんと「牛が床屋に行ってる」とのこと。

まめ閣下:ははは、予は床屋に行ったことはないぞ。

下僕:そういう話じゃございません。

まめ閣下:まあ、つまりはみんなべたボメだったと。

下僕:はい、しいて言うなら、「掃除婦のための手引き書」というのが短編集のタイトルでいいのか、という疑問があがりましたね。この短編集のなかにはもっと魅力的な作品もあるのに、と。ただ、この装幀。表紙に美貌の著者の写真をどぉーんとのせて「掃除婦」って単語が出ているいうミスマッチな感じが受けてるのかもしれないって意見も出てました。それに収録作品のタイトルだけ眺めてみて、これ以上目を引くものもない気もします。そうそう、出版社への意見として、せめてタイトルだけは原題と発表年を表記してほしいという声があがりました。いくつかの作品、できれば原文で読みたいという気持ちにもなりましたから。

あとね、作中に「これ今ならちょっと問題になりそう」な差別的とも受け取られる表現が出てきたりしてるけど、という話にもなりました。それについては訳者の岸本佐和子さんがあえて時代と前後の文脈に鑑みそのままにしている、と記述してました。わたくしもそれは賛成、そうすべきだと思いましたよ。変に言葉狩りみたいな状況が加速していくのは文学にとって好ましいとは思えませんから。

まめ閣下:あー、そういえば昨日は久しぶりにSが来たので予はうれしかったぞ。

下僕:なんでいきなりそういう話になるんですか。

まめ閣下:でも帰ってしまったぞ。泊っていけばいいのに。

下僕:泊まりません。

まめ閣下:なんで。

下僕:閣下が夜じゅう絶叫ライブを開催するからじゃないですか。うるさくて寝られませんよ。

まめ閣下:なんで。予の美声を一晩中聴かせてやりたいのに。