Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【イベント】2021年10月17日「かくのごとき物語ありや否や」熱海未来音楽祭@起雲閣

・音楽と文学、芸能によって伝えられる「祈りと物語」とは

・祈りとはなにか。祈りと願いの違い。

・なぜ人は物語を必要とするのか

 

 

まめ閣下:おい、貴君。余になにか報告があるのではないか。

下僕:わっ。閣下、ふいに現れたらびっくりするじゃないですか。かれこれ二週間ぶりですね。

まめ閣下:あのな、何度も言っておるように余はイデアである。時間や空間を超越した存在。いつでもおるといえばおるし、呼ばれたって出てこないときゃあ出てこない。

下僕:なんだ、それじゃ今までと変わりないじゃないですか。猫らしいといえば猫らしい。

まめ閣下:しかし今は完全なるイデアと化したために現に姿をみせておられる時間は短い。さっさと報告せんと霧消してしまうのだよ。

下僕:さすが、ホンモノのイデアになられてから騎士団長ぶりがあがりましたね。いや、報告ねぇ、ちょっと悩ましいんですよ。最近、有料アーカイブでしばらく観れるイベントが増えたもんでね。どのくらい内容に踏み込んだらいいものか、と。アーカイブ終わってからにしたほうがいいかなとか。熱海音楽祭のアーカイブ観られるようになるのってちょっと先なんですよね。

まめ閣下:しかしそれを待っていたら、貴君のニワトリ頭では記憶はすぐに霧消してしまうではないか。それにだね、どうせ貴君の述懐能力ではイベントの魅力をあますところなく伝えるなんてこたぁ最初から無理で、誰も「あー、これ読んだから別にアーカイブとか観なくていいわぁ」なんてこたぁ思わんのじゃないか。むしろだれかひとりでも「ん? こいつなんか言ってるからちょっと実物観てみるかな」って思ってもらえたらいいってくらいに思ったらよかろう。

下僕:はぁ、そうですかね。

まめ閣下:もともとこれって貴君の残念な記憶力をあとで補うためのものだったんじゃね? 自分のためのメモっちゅうか。あんまり大勢の人に読んでもらうつもりもなかろうよ。

下僕:そっすよねー。じゃ、自分の胸や頭に響いたこと、おぼえておきたいって思ったところだけご報告するといたしましょうか。

まめ閣下:うむ。

 

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下僕:第三回熱海未来音楽祭、今年のテーマは「祈りと物語」でした。伊豆山の災害もあったし、必然というような部分もあり、これまでの回よりも明確に焦点が絞られた感じがありました。10月2日にプレイベント、いや宵宮ってのがあって、能楽師の安田登さん、町田康さん、巻上公一さんの鼎談とパフォーマンスが行われてたんです。こちらはアーカイブで観たんですけど、鼎談のなかで祈りと願いは違うというお話がありました。もともと「いのり」とは「い」という接頭語と「のり」の合わさった言葉で「のり」には祝詞という意味も呪いという意味もある。最近では祈りと願いの区別がされなくなっていて、みんな「みなさまのご健康をお祈りします」などという使い方をしているけれど、これは祈りじゃなくて願望である。神社にお参りして「なになにしてください」なんて祈っているのは実は違ってて、それはたんに願い事である。祈りというのは、そういう言語化以前のものであり、手を合わせた瞬間に心にあるものが祈りである、というようなお話をされていたように、えっと例によってはなはだ記憶があやしくてもうしわけありませんが、思うんです。メモとかとってなくて、すんません。

まめ閣下:もっかいアーカイブ観たらどうだ。

下僕:いや、その二回観たんですけどね。もうこっちは終了しちゃって。とにかく素晴らしいお話とパフォーマンスでいっぺんに受け止めるの難しいほどで。で、たしか、祝詞とか真言とか、外国のものでも、言葉自体に意味がないものも多いっていう話になって、ただ声に出すと響くものがある、と。これは能とか音楽にも通じるものであると。

じゃあ、言葉で書かれる物語っていうものは何なのか。つい先日の汝、我が民に非ズの実演の際にも町田さんがおっしゃっていたんですが、「ギケイキ」を書いているとき、まさにそれが祈りだったって。この作品は義経の一人語りという形式で義経に心を沿わせて書いているわけですから、時にともに苦しみ激しい痛みに耐えながらひたすらその声を聞き取り手を動かすこと、それが祈りだと感じたと。その点についてはわたくしめも少しばかりわかるんですよね。誰かのことを書いているときってとにかくずっとその人に寄り添って心の声を聞いてるんです。普段やっているところではない深いところで思い出してる。

この日のイベントでは、町田さんは、佐藤正治さんのパーカッションと北陽一郎さんのトランペットと合わせて義経記を原文で朗読されました(弁慶が牛若丸から刀を奪おうとする場面)。第二部では、琵琶奏者の久保田晶子さんが平家語りを、こちらはやや現代語に寄せてされたんです。巻上さんのテルミンや藤原清登さんのダブルベースと共演する琵琶と語りの声がとにかく素晴らしかった。第三部で久保田さん、町田さん、巻上さんのトークがあったんですけど、このなかで町田さんが、もともとは常磐物語のスピンオフ的なものだった義経記がなぜ人気を集めたのか、平家物語にしても、人々はなぜ物語を聞きたがるのかというと、物語には人々の「こうあってほしい」という願望が根底にあるからではないか、とおっしゃいました。そして町田さんは小説を書くときに、話を作るという感覚はなくて、頭の中に響いてくる「語り」がまずあってそれを現しているのだと言いました。それは人々の魂のなかにあるもので、それを現す音楽であり芸能であり文学ではないか、という話をされました。そして久保田さんに、「平家語りをしているときには源平のどっちに心が寄るものなのか」と訊ねました。この日語られたのが那須与一が扇の的を射る場面だったので。それに対して久保田さんは、もちろん場面、場面で、その中心人物の気持ちに感情移入してしまうところはあるけれど、語るときには(俯瞰でみて)「ああやってるな」という感じでやる、とおっしゃいました。「ああ、人間だな」という感じだと。平家物語は、苦しみや悲しみ、自分ではどうしようもないことに翻弄される姿にみなが共感するから好まれるのでしょう、という話もされてました。それを聞いて、作家の視点みたいだなと思いました。町田さんが言った聞こえてきた声を現すことと、久保田さんが語る姿勢、その両方がないとやはり優れた文学にはなり得ないんじゃないかなぁ、なんてわたくしは感じましたよ。

まめ閣下:にゃるほど。物語は祈りであり願望を映すものでもある、と。

下僕:あ、物語とは何か、というのでね、イベントとは関係ないんですが、たまたまみつけたこのお話が、がつんときたので貼っときます。

第5回 すべての場面に関われる人。 | 特集 編集とは何か。10 「新潮」編集長 矢野優さん | 矢野優 | ほぼ日刊イトイ新聞

このなかの矢野さんの言葉、

大切な人が突然いなくなってしまって、
魂のちぎられるような痛みを
感じている人たちが、
心を壊さないために、
死者が帰って来たという「物語」を、
心の底から求めるんです。」

ってとこで、なんかドバッって涙が出ちゃったんです。

小説という営みでは、
死んだ人を思い出す」ということが
きわめて重要なんですね。
追悼するでも、
パッと思い出すだけでもいいんですよ。
死者のことを書く、
死者について話す、
死者にたいして、思いを馳せる‥‥。
それこそが、
物語の起源じゃないかなと思っていて。」

死者を思い出して書く、話す。
「物語」って、そういうことで、
原始時代から続く人間の営みなんです。」

ね、なんかみごとに共振してますよね。まさにこれって祈りじゃないですか。

まめ閣下:にゃるほど。うん、話はわかった。んで、そろそろ時間がきた。では、失敬。またにゃ~。

下僕:あ~、閣下、行っちゃうんですかぁ。また来てくださいね。

・・・・・・って、ほんとのこと言うと、こんなブログもまた祈りの行為のような気がしてるんですよ、閣下。

 

熱海未来音楽祭についてはこちらを:

第3回熱海未来音楽祭2021