・「変」な小説
・「写生文」である
・「探偵」の意味
・前近代的日本的自我と近代的西洋的自我
・漱石の新しさ

下僕:秋のお彼岸が過ぎて長くつらい夏がようやく終わったと思ったら突然冬、みたいな冷え込みですねぇ。
まめ閣下:にゃ、それタイトルに掛けた枕のつもりか。
下僕:いや、そういうわけでは。ただ、この本を読了したのもちょうど彼岸明けというタイミングで、なんかタイムリーな感じ感があったんで。
まめ閣下:感じ感(溜息)。そもそもこのタイトル自体にはあんまり意味がないんではないか。漱石先生の前書きによれば。
下僕:「この作を公けにしたる時の緒言」でありますね。新聞の連載にあたって、元日から始めて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない」って書いてます。なんかゆるーい。まぁ、大病から復活してきたところで、リハビリみたいな感じだったのかもしれません。最初から「こういう話を書こう」と考えての作品ではなく、「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長編を構成するように仕組んだら新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうか」という意見を持っていた、と書いてます。だから連載を始めるにあたって、まだどんな話になるかはわかんないけどとりあえずタイトルは必要だし、って決めたようでございますね。
まめ閣下:9ヶ月にわたる新聞連載だからにゃぁ。
下僕:そして実際読み始めてみるとたしかに短篇の積み重ねで、話としてはもちろん何日か連続していくのもあるんですが、いくつも面白いエピソードはあるんだけど、全体を通して見ると「結局あの話、あんなに詳しくしなくてよかったんじゃね?」「最初のあの人、途中から消えちゃったよね?」「結局誰が主人公だったの?」「つまりどういうあらすじだったのか?」みたいな疑問がいくつも出てくるんですよ。最初から「長いひとつの物語」を紡ごうとして書いたらこうはならないだろう、という。これがもし長編小説なんとか賞の公募だったらまず落とされちゃうでしょう、みたいな。
まめ閣下:なんだ貴様は、えらそうに。
下僕:まあまあ。いや、でもそこはさすがなんですよ。とにかくおもしろく読ませる。冒頭からリズムよくたたみかけるような文章で、文というよりは咄という調子のよさがあってぐっと引き込まれ、『坊っちゃん』の冒頭も名文ですが、やっぱり漱石先生文章がとびきりうまいなぁ、と。ところどころに独特の面白い表現がちりばめられているし。
まめ閣下:どうせあれだろう、「薬罐頭をつかむと同じ事で」とか。
下僕:閣下もそういえば前からそんなことをわたくしにおっしゃっていましたな。あれはやはり猫つながりで漱石先生のオマージュで?
まめ閣下:いや、しらぬ。天才同士、しらず通じるものがあったのであろう。
下僕:あ、こんな文章も好きでございました。「彼は眠いときに本を読む人が、眠気に抵抗する努力を厭いながら、文字の意味を判明(はっきり)頭に入れようと試みる如く、呑気の懐で決断の卵を温めている癖に、ただ旨く孵化らない事ばかり苦にしていた。」
まめ閣下:なんだ、それは。意味がわからん。
下僕:あぁ、これは語り手の敬太郎が学校を出て求職中の身ではあるものの、あまり真剣にやっていない、悩んではいるがどこか呑気なところがあることを表現している箇所の一部でして。延々とこの調子で書いている。イマドキの「タイパ」の真逆で、惚れ惚れしますよ。
まめ閣下:ふん。眠いときに本を読む人というのは、まさに貴君のことではないか。
下僕:はは、たしかに。とくにこの作品の最初のほうは読んでいるとすぐ眠くなりましたね。でもこれはわたくしだけじゃなくて、読書会に参加された他の何人かもおっしゃってましたよ。眠くなるのは決しておもしろくないからじゃないんですよ。話がどこにいくのかわからないってのもあるんじゃないですかね。後半に入ってから、いくつかドラマティックな展開が出てきてからはけっこう一気読みしましたよ。
まめ閣下:なんだ、ちゃんとドラマ展開もあるのか。
下僕:はい。かといってそれがこの作品の大きな筋かというと、そうじゃない。
まめ閣下:なんだ、ちがうのか。
下僕:まぁ、大事な構成要素ではあるけれど。
まめ閣下:貴君の話も要領を得んな。
下僕:みなさんの一致した意見として、これは「変」な小説であるというのがありました。構成のバランスが変(筋に結果的に大きくは寄与しないと思われる冒頭部分の異様な長さなど)、伏線と思ったものが回収されない、主人公だと思った敬太郎がじつはそうではなく、千代子の幼い宵子の死の回想が入ったり、須永市蔵が「僕」で語る長い自分と千代子の関係を語ったり、叔父の松本が市蔵の出生の秘密を語り、また市蔵が旅先から松本に送ってきた手紙があったり、といろんな語り手が出てくる。で、最終的にはこの話の主人公は友人の市蔵だったとわかるんですが、一番のドラマかと思った千代子と市蔵の恋愛も、最後になってじつは市蔵と母親の問題と判明して。主なドラマは敬太郎がみな誰かから聞いた形で進行しているという構造で、その構造も筋の大要も最終日の一話「結末」で簡単にまとめられてしまう。ふつうの「物語」に慣れている人はみな当惑するんじゃないでしょうか。でもわたしはこれこそが小説だと思ったんですよね。
まめ閣下:これこそが小説。おのれにとっての、ということだにゃ。
下僕:はい。ひとりひとりの人生の時間、流転しながら続いていく時間そのものを精緻に写し取ること。起承転結も因果もなにがどうしてこうなった的原因と結果も必要ない。今小説に一般的に求められるのは物語で、そういうのとは違うのでしょう。
新潮文庫版の解説で、柄谷行人さんがこれは「写生文」であると指摘されていました。写生文は「小説」のように見えるが、近代小説に反するものである、と。漱石自身も、写生文の特徴のひとつとして筋がないことだと言っていて、漱石の最初の作品『我が輩は猫である』が写生文であった。この作品もまた写生文である、と。
敬太郎は最初、「探偵」になりたがっているのですが、そこでいう探偵は『我が輩』の猫のようなものです。罪を犯した犯人を見つけたり善悪を判じるというのではなく、「ただ人間の研究者否人間の異常なるからくりが暗い闇夜に運転する有様を、驚嘆の念を以て眺めていたい」というものです。つまりは観察者であり深い洞察者なんですよね。これは、作家の視点だと、わたしは思いました。そしてまた、漱石自身が思う写生文のもうひとつの特徴は、「他人であれ自己であれ、親が子に対してとるような態度で見ることである。どんなに深刻な苦悩であろうと、それを突き放して見る。だが、ある愛情を以てそうすること、つまり、ヒューモアである。」この作品を通して、それを感じました。幼い子が死んでしまったような深刻な場面(漱石自身の実体験に基づくと思われる)にも、ちらりとおかしみがあったりして。わたしもこういうふうに書きたいと思ったんでございますよ。
まめ閣下:なかなかいいではにゃいか。視線はずっと猫でいけ、観念としての猫で。
下僕:それとそれと、またしても今回、読書会のよさをしみじみ感じたのは、自分にはまったく欠けていた読み方を教えてもらったことです。イギリス遊学で近代化と西洋文化の負の側面に苦しんで神経衰弱にまでなった漱石。人生の大半を文明開化以降の明治時代を生きた人で、外遊もして、だからこそ近代化に対しては負の感情も抱いていた。この作品では、前近代的日本的な自我(家や関係のなかでの自分)と西洋的近代的な自我(個人としての自分)のせめぎ合いを書いていて、実質の主人公である市蔵というのの悩みの源がまさにそれなのだけれど、それを対立で終わらせることなく、最後はなにげない人生の楽しみ、生きることをことほぐことで救いを見いだす、となっているところがすごい。漱石はこの作品を書く前に大病をして、精神的に本当に「彼岸」の先まで行ったのでは、という指摘にうなりました。
明治45年に書かれた作品ですが、あちこちに描かれる町の様子や風俗にまだ「江戸」っぽさが残っているのがわたしは楽しかったし驚きだったんですが、千代子というヒロインの造詣にみられるように、漱石自身の感性は当時にしてはずいぶん新しかったのだなという話になりました。現代に生きているわれわれは、つい昔の人も自分たちと同じ価値観を抱いていたと思ってしまいがちですが、ほんの百年くらい前だって、いやもっと最近だって、頭のなかの「これが普通」はまったく違っていたんですよね。セクハラひとつとってみても。なんにしても、自分にとっての「当然」を疑ってかからないといかんですね。
まめ閣下:おほん、「猫は神、猫を敬え」だけはいつの時代も当然のこと、普遍の真実である。というわけで、例の四角くて黒くて温かいものをすぐに出してくれたまえ。
下僕:はいはい。
