Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

第32回三島由紀夫賞について町田さんの選評

まめ閣下:このまえの、三島由紀夫賞の選考会議はリアルタイムでネット中継があったらしいではないか。下僕は観たのか?

下僕:それが閣下、わたくしまったく知りませんで。あとから知ってがっくりと肩を落としましたよ。で、ネットでいろいろ検索したところ、発表会見の動画を見つけました。選考委員代を表して町田さんが選評を述べていらっしゃいます。

まめ閣下:(またか、という顔つき)それじゃ、まぁ見てみようじゃないか。うん?な、長いな。

下僕:町田さんの部分は、前半の27分くらいまでですよ。

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まめ閣下:三島賞の受賞作は三国美千子さんの「いかれころ」という作品だったんだな。下僕は読んだか?

下僕:あいにく、未読で。

まめ閣下:じゃあ、選評を聴いてもいまひとつピンとこないのではないかな?

下僕:はい、詳細な部分は具体的にどういうことなのかはっきりつかないところがあって、これはちゃんと読まなくちゃな、と思いましたよ。でも、町田さんの個人的意見として語られている部分には大変納得するところがありました。

まめ閣下:これまで講座で聴いてきたような内容があったみたいだな?

下僕:ええ、頭のなかで結びつく部分が。

まめ閣下:たとえば?

下僕:方言で書かれている部分については、子どもの視点で描いているがゆえに音として聞いたものをそのまま書いているものであって、ローカル色を出すためであるとかいわゆる文学的ではない言語を用いることでなにか効果を狙った、技巧としての方言ではない。ということとか。

まめ閣下:最後の質問にも、「作品全体にこの作者の文章に対する腹の座り方というのを感じた」とも言ってたな。

下僕:そうそう、こういう言葉でこういう内容のことを自分が書けばある程度小説になるんではないか、というようなところではなく高い志を持って意識的に文章を書いている、決して楽をして書いていないと褒めていたところ、これまで聞いてきた内容と重なりました。

まめ閣下:あとは?

下僕:なにより今回、はっとしたのは「現代性」についての話でした。

まめ閣下:ああ、記者の人からの「舞台が昭和後半である作品が今書かれることの意義については選考の場で取り上げられませんでしたか?」みたいな質問についてだな。

下僕:ええ。それに対して町田さんは、個人的な意見として、小説で描かれるべきなのは人間の意識である、この作品のモチーフとなっている桜の木の老衰とひとつの家の崩壊を重ね合わせてみると、物語としての普遍性が感じられる、と。

まめ閣下:「現代性」という言葉自体についても語ってたな。

下僕:はい、そこでございますよ。小説における「現代性」とは、いったいなんであるか? 町田さんのお話をわたくしなりに解釈いたしますと、
「現代というものを小説で書こうとするなら、そこで書かれるべきなのは現代に生きる人の気持ちである。ところが、小説に出てくる現代性と一般的に言われているのは小道具ばかり。幻想的世界、異国情緒、時代小説におけるたとえば「江戸情緒」、そういうのはすべて小道具である。「~性」というのはすなわち「~風味」「~っぽい」ということで、本質ではない。どの時代を舞台にしたとしても、人間として普遍的なものがあるのではないか。それが描かれているなら舞台はどの時代であろうとも現代に通じる。」

というような意味だったと思いまする。

まめ閣下:たしかに、文学とはそういうものだろうな。夏目漱石を出すまでもないが、現代の猫だって明治の猫だって、猫は猫であるぞ。

下僕:たしかに、ねこまんまやめざしを食べているとか、モンプチドライやちゅーるを食べているとか、猫の本質とさほど関係ない話ですね。

まめ閣下:でも予が食べるのは高級キャットフードだけだ。人間の食べるような下賎なものはまったく口に合わん。

下僕:え、そういう小道具にはこだわらないんではなかったんですか?

まめ閣下:それはそれ、これはこれ。