Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2020年12月5日「砂漠が街に入りこんだ日」グカ・ハン

母国語以外の言語で書くこと。

世界に紛れ込んだ異物としての自分。

言語、国境、性別、年齢、セクシャリティ、あらゆる境界を飛び越えようとする試み。

 

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まめ閣下:おい、なんか冒頭に文章が出ておるが。あれはなんだ?

下僕:あ、気づいちゃいました? ははは、実はブログ記事の紹介をSNSにあげると、自動的に冒頭の部分が表示されちゃうんで、結果どの記事も閣下とわたくしのなんともゆるいベシャリだけが表示されるというなんか締まらない感じになっていたので、ちょっと変えてみました。せっかくいい本を紹介をするのに、アホな導入ではね、読もうと思う人が減ってしまうかもしれないし。

まめ閣下:貴君が考えたのかい?

下僕:はい。この本からわたくしが感じ取ったものを思いつくままあげておきました。

まめ閣下:ふうん。しかしこれでいいか? ていう疑問もある。

下僕:まあいいではございませんか、ちょっと変わったことやってみたって。

まめ閣下:それもそうだ。じゃ、さっそく本の話を聞かせてもらおうじゃにゃいか。昨日は何人くらいあの板のなかに集まったんだ?

下僕:何度いったらわかるんです? あれはPC。参加者は7名でした。このご時世ですからオンラインですよ。

まめ閣下:おほん、そんにゃことはわかっておる。著者の名前にあまりなじみがないけれど、どこの国の人なんだい? この前のラッタウッドなんちゃらよりは短くておぼえやすそうだが。

下僕:韓国人女性なんですが、作品はフランス語で書かれてます。ラッタウッドさんは、タイ系だけど英語を母国語とするアメリカ人で英語で作品を書いてますが、この方の場合は母国語は韓国語です。フランスに留学して6年目にこの作品を書いたんだそうで、それだけでも衝撃ですね。フランス語以外に翻訳されたのは、韓国語じゃなくて日本語が最初らしいです。まぁ、この辺りのことについては後に回して、作品自体をさくっと紹介しましょう。

 これは短編集で8作が収録されています。「砂漠が街に入りこんだ日」というタイトルの作品はなくて、ただ最初の作品「ルオエス」がまさにそういう話で。書き出しがめちゃくちゃかっこいいんですよ。

「砂漠がどうやって街に入りこんだのか、誰も知らない。とにかく、以前その街は砂漠ではなかった。

 砂漠はいつやってきたのだろう?」

というふうに始まっているんですが、わたくしなんぞはそこでもうすっかり引き込まれてしまいました。ルオエスは、架空の街の名前で、韓国ソウルの綴りSEOULを逆から書いてLUOESというのは、わかる人はすぐにぴんときたようです。しかし、あくまで具体的な場所を特定させるようなヒントは与えられません。この一作だけでなく、それはどの作品においても共通していて、読み手が自由に考えるようになっている。だから読んでいて「なんとなく韓国っぽさを感じた」と言う人もいましたし、「砂漠という言葉に引きずられて中東を想起した」人もいたし、創作の場となった「フランスっぽい」という人もいました。ただ「ルオエス」に関しては、男尊女卑が強い韓国に生まれた女性の息がつまるような感じが切実に描かれているという方もいました。

 8作の短編集ですが、やはりこの最初の作品がキーになっている感じがあります。わたくしなんぞは、このルオエスというのは第1章で、舞台設定と謎が提示され、その後の章で物語が進んでいくひとつの話なんだと思って読んでいってしまったので、何篇か読み進んで「あれ? おかしいな。いつまでたっても話が繋がらないぞ」なんて首を傾げてしまったくらいで。

まめ閣下:貴君は、ほんとに愚じゃな。

下僕:まあそうおっしゃいますな。本の最後にある「訳者あとがき」を読むとわかるんですが、8作それぞれ独立した作品ではあるのですが、「実はそれぞれの物語は独立しているように見えて、ゆるやかにつながっている印象を与える、少なくとも部分的にはルオエスを舞台にしているのではないかという気がしてくる」と書いてます。一篇を除いて「わたし」という一人称で書かれていて、年齢も性別も異なってはいるんですが、ひとりの語り手と考えることすらできるかもしれない、と。だから、わたくしが最初に抱いた印象は、作者が意図したことだったと思われるんです。

まめ閣下:ほほう。

下僕:フランス語を訳す際には一人称も属性に合わせて「僕」「俺」「うち」など使い分けるのが普通だけれど本作に関しては意図的に、語り手の属性に関わらず「私」という一人称に統一したと訳者の原正人さんが書いてます。男でもあり女でもあり幼児でもあり中年でもある、ひとりの人物の語る物語。多重人格、ある集団の集合的な人格を想定してもいい、と。そんななかでたった一篇、「あなた」という二人称小説が出てくる。その意味を考えるのもまた面白い、と。

 で、昨夜の参加者のなかには現在フランスで暮らしている方がいて、フランス語で書かれたものであれば、原文を当たれば形容詞や動詞の変化などどこかで必ず、性別や単数複数があきらかになるはずだけれど、日本語で読む限りそういう部分が極力隠されていると感じたとおっしゃっていました。それは訳者の意図なのかどうか。そこまで翻訳の自由が許されるのだろうか。それもまた興味深いところですよね。一人称のJeは、あきらかに単数なんですけど、「あなた」であるVousは、ひょっとしたら複数である可能性がある。「君」にあたるTuであればこれは単数ですが。英語ならYouは単数でも複数でもありえますよね。二人称複数が主体の小説ってどういうふうにとらえたらいいのか。この作品はセウォル号沈没事件を想起させる、と原さんも書いていて、となるとセウォル号に乗っていたたくさんの人たちの視点で書かれているのか。一人の方が、たいていの小説は書き手がいて主人公(もしくは語り手)がいて、その距離感を図りつつ読者は外側から見ている感じなのだけれど、この「あなた」で書かれる小説は、いきなり自分が名指しされ舞台の上に引きずり上げられてしまった感じがしてちょっと嫌だと感じたと言っていました。「まだ三作しか読んでないのよ、あなたのことそんなにしらないのに、そんなに深くつきあう心の準備ができてないの」って感じたそうです。なるほどねぇ。二人称小説は「客観的距離をとった私語り」ではないか、とわたくしは思っていたのですが、この作品については、複数の二人称という視点、臨場感というか巻き込み感? のすさまじさ、という意見にはたしかにうならされましたね。

まめ閣下:ふむ。以前予が貴君を呼ぶときに「諸君」という複数形を用いていたのと通じるものがあるな。

下僕:え? あれは単に「騎士団長」にかぶれた閣下の一過性のものだと。

まめ閣下:あ、おほん。その、人称以外に特別な話はないのか。

下僕:もちろんいろいろありますよ。人称というか、「私」で語られている物語もずっと読んでいかないと性別がわからないものが多く、場所もわからないし、年齢もまちまちで案外これまでの読書のやり方だと捉えにくい。でもそれを意図してあえて書いている。そこに、この作者の「母国語でない言語で書く」というのに繋がるものがあると思ったんですよね。インタビューのなかで作者は、母国語はあまりに多くのものと結びついていてあまりに重く感じられ、それゆえに母国語で書き出すことはできなかった、って語っているんです。母国語だと目の前に広がる可能性が広大すぎてかえって自由が奪われる。拙い外国語で書くことは、その制約ゆえに創作意欲を後押しする、と。この話は、村上春樹さんが「風の歌を聴け」の、最初の章を英語で書いてみることによって書き上げることができたというのと似ていると指摘された方がいました。また、年齢的にパソコンに馴染みがなく今不慣れなパソコンでよちよち書いているけれど、その時間がかかる感じがかえって書くのにはいいように思う、という方がいました。手書きのほうがより深く思索して書けるというのにも通じるのかな。

まめ閣下:「なんでも自由に書け」って言われるとかえって書けないってやつか。

下僕:まあそういう場合もありますよね。テーマ、枚数、締め切りがあったほうが書きやすい。

まめ閣下:でもそれがなぜ、属性の明確でない・境界をとりはらうボーダーレスに繋がっていくと思うんだ?

下僕:作者はおそらく、生まれ育ったときから周囲に違和感を抱いていて、自分のことも異物のように思っていた。だから国を捨てて異国で生きることを選んだ。でもそこで同化するわけではなく、異なる存在として世界を見て生き続ける。そうして見えてくるものを書く。自分が異物ということは、他の何にも属さないということです。属性、つまり既存の枠から自由な存在ということでもあります。だから、そういう書き方になるんじゃないか。わたくしはそう感じました。

 あと、現代性の話になりました。幻想的な設定や描写であるのにかかわらず、この作品に登場する物や行動が、若い人ならあーわかるわかる、と肌で実感できるものだと。「同じこと自分もやってた」とか、人それぞれに自分の体験となぞらえられる部分があったりもします。そういう細部に描かれるモチーフの現代性もありますが、もっと大きく、属性から自由というのは、セクシャリティジェンダーというものに囚われない考え方に通じててとても現代的だと感じます。だから、これまでの読み方だとすんなり読めないと感じる人もいたのではないでしょうか。それで、文学における時代性の話になりました。昔の作品でも今読むと結構ポリコレ的に「アウト」なの多いよね、とか。文学作品に限らず、映画でもドラマでも漫画でも。「のだめカンタービレ」でさえ今観ると「あ、ちょっとそれは」と思う箇所もある、という話しも出て。そういう時代性にどこまで対応して小説を書くべきか難しいと悩む人も。ただ、いろいろ「アウト」なところがあっても面白いものはやっぱり面白いんだよねって話にもなりまして。まあちょっとグカ・ハンから話は逸れてしまいましたが、この作品にはモチーフだけでなく、いろんな形で現代性の発露があるな、と思った次第であります。

 技術的にも、鮮やかなモチーフの使い方(「放火狂」のなかのマッコウクジラなど)や、シリアスなものを上手にぼかして受け入れやすくする方法、不快感の表現など、かなりはっとさせられるものがあるという指摘がありました。

 「Luoes」で始まり、最後が「放火狂」で終わるのは見事な呼応だし、ひとつの物語世界をきちんと構築していると感じた人が多かったです。

まめ閣下:にゃるほど、またいろんなことを学んだわけだにゃ。

下僕:はい、課題にしてもらわなければ出会わなかった本ですが、というか、だからこそなのかな、今回もまた実り多い読書会でございました。でも今日は腰が痛いです・・・。

まめ閣下:また持病の腰痛が出たか。

下僕:いつものじゃなくて、ぎっくりですよ! 何日か前にわたくしが七転八倒していたの、ご存知ないですか!!

まめ閣下:(。´・ω・)ん? そうであったかにゃ?

下僕:もう、まったく。下僕があんなに苦しんでいたのに。ひどい閣下でございますね。