Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】2021年6月12日町田康さんと本を読む第7回「津軽」太宰治@大磯・カフェマグネット

・一冊の本について話す気楽な会

・読書に正解はない、読んで感じたことを自由に語る

・このタイミングで太宰を課題に選んだ理由はとくになくて「早く決めないといけなかったから」と町田さんはおっしゃっておりましたが、ふと気づくと読書会の翌日は太宰が玉川上水に入水した日。やはり作家っていうのはこの世じゃないところと通じてて、なにか呼ばれるものがあったのではないかしらん。

f:id:RocknBungaku:20210613094728j:plain

 

下僕:閣下、閣下、閣下。

まめ閣下:なんじゃ、うっせぇな。そんなに何度も呼ばんでも聞こえておる。

下僕:だって、だって、だって、

まめ閣下:〽ぼくんち、ケーキ屋なんだもん!!

下僕:ケーキ屋けんちゃん? ふっるー。だいたい閣下なんでそんな古い歌知ってるんですか。まだ二十年しか生きてないのに。

まめ閣下:それは下僕から脳内伝達で、・・・ってこの話この前もしたよな? 何度もおんなじこと言わせるでない。もう、いいから、さっさと本題にはいらんか。

下僕:はーい。昨日は例の大磯での読書会だったんです。コロナ禍でもうしばらくは開催されないと思ってたんですが。なななんと、参加人数を10名に制限しての開催。申込受付開始と同時に定員の3倍くらいのメールが来たそうです。先着順10名のなかに入れたことは非常にまったく最高にウルトラ超ラッキー! だったんでございますよ。

まめ閣下:ほう、くじ運の悪い貴君にしては珍しいことだな。

下僕:はい、まことに。苦節○十年、やっとオレにも運が向いてきたか!

まめ閣下:いや、これで幸運使い果たしたんだとおもうぞ。

下僕:そ、そんな不吉なこといわないでくださいよ。

まめ閣下:もう、いいから本の話に入ったらどうだ。

下僕:はい、はい。昨日の課題図書はこちらです。太宰治の「津軽」。大好きな作品について町田さんとともに語れるんですから、そりゃあ興奮もいたしますよね。なんちゃって、実はだいぶ昔に読んで、好きだった、面白かったということはおぼえていたんですが内容はかなり忘れてしまっていて、課題として取り上げていただき、また新たな気持ちで読むことができましたよ。

まめ閣下:物は言い様じゃな。貴君の場合、その、記憶力にいささか難あり、つーか、かなり残念な記憶力しか所持しておらないからな。しかしまあ、何度読んでも常に新鮮に読めるっていうのはある意味お得ではある。

下僕:ふん。(鼻息)

 

f:id:RocknBungaku:20210613094655j:plain

まめ閣下:で、どうだったんだ、肝心の読書会は。

下僕:はい、今回は少人数だったので全員がじっくり感想を語る時間があり、さらにその感想について他の参加者も自由に発言して意見交換しましょうと町田さんが提案されたので、というか、以前から町田さんはそういう読書会をやりたいと思っていらっしゃったんだけど、これまではどうしても定員が30人超とかになってしまうから普通の講座みたいになって自分一人が先生になってしゃべってしまう形式になるのが不満だったようでして。で、参加者のほうもそのくらいの人数だとやはり発言をためらいがちになって、活発な意見交換とか難しかったんですよね。その点、昨日の読書会は最高でありました。わたくしなんぞはついつい話が長くなってしまって・・・

まめ閣下:なんだ、やっちまったか。

下僕:はぁ。わたくしひとりのせいではないはずでござりまするが・・・17時終了の予定が例によって例の如く18時まで延長に・・・

まめ閣下:ふぅ、まったく。

下僕:でもね、いい作品はどうしてもみんな語りたいことがたくさんあるじゃないですか。それに疑問に思ったことを出し合って、それについて自分はこう思ったとかを語るのが読書会の魅力ですから。わたくしが疑問に思った点についても、いろんな方がそれぞれの読みを話してくださって、ああそういう見方もあるかと気づかされたり。多面的に読めることになるんですよね。

まめ閣下:それは貴君が個人的にやってる読書会でも常に言っていることだにゃ。

下僕:はい。わたくしが読書会をやるようになったのは、こちらの大磯の読書会(第5回・課題は吉村萬壱さんの「前世は兎」)に参加して、町田さんの読書会に対する熱い思いに触れたからなんですよ。そして今回ようやく、町田さんが思い描いたような会になった。町田さんも「こういう形ならこれからもっとちょくちょくやりたい」とおっしゃってましたよ。

まめ閣下:はは、そりゃまた熾烈な申込の戦いが繰り広げられるというわけだにゃ。おい、しかし、なかなか本の内容に進まないのはどういうことだ。

下僕:ああ、えっと、みなさんの意見、同じところに感じ入ったり、それぞれ違っているところもあり、まとめきれないというのが本当のところでありまして。なかでも「太宰は津軽においてウィルスのような存在である」という説を出してきた方があって、衝撃的でしたがそれがなかなか説得力に満ちていて。詳しい話は他の方のご意見ですのでここには書きませんが、

まめ閣下:とか言って、理解がおよばなかったんであろう、貴君のこんにゃく頭では。

下僕:ぎ、ぎくっ。町田さんが「これはちゃんとした論文にしてどっかに出したらどうか」っておっしゃってましたよ。誰も考えたことがないようなものだったから。

まめ閣下:他の方々の意見は書きづらかろうが、貴君の読みは予に報告したっていいだろうよ。

下僕:長いですよ。

まめ閣下:まぁ、手短にな。

下僕:わたくしの話はあとで閣下にはかいつまんでお聞かせするとして、町田さんがどう思ったかということだけ。この旅は太宰の「子ども返り(退行・幼児化)」の旅ではなかったか。そこそこ名の売れた作家になってようやく故郷に帰ったものの、皆は志賀直哉ばっかり持ち上げて自分のことはさっぱり。名を上げて少しは見直してくれたんじゃないかと期待して実家に帰れば、やはりなんだか身の置き所がない。地元の人からはいまだに「津島の家の(ドラ)息子」という眼でしか見られない。作家としても男としてもダメという刻印を押された感がある。俺はダメだ。でも俺がダメになったのは本当に俺のせいなのか?という思いがある。俺が悪いんじゃなくて家族や家が悪いんじゃないのか。それで罪がなかったころの自分を育ててくれた女中のたけに会いに行く。使用人たちと心やすく過ごすうち自分は女中の子、使用人の側の人間なんだと考え、これまでの失敗を捨てて再出発しようとするという話なんでは、と。完全に幼児に戻って、天真爛漫無邪気に放ったのが有名なこの文末。

「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」

最後の唐突な終わり方は、さすがに「力尽きた」んではなかろうか、とおっしゃってました。(例によって記憶は甚だ怪しいのでありますが)


***わたくしの拙い感想文を写真の下に貼り付けておきますんで、ご興味ございましたらチラ見でもしてくださいませね。話が長くてすんまへん。

 

 

 

f:id:RocknBungaku:20210613094826j:plain

太宰治著「津軽」について

 この作品は故郷の津軽を実際に訪ねて綴った紀行文の形式をとっています。序編には、故郷とはいえこれまで自分が知っていた場所はほんのわずかでありこの機会に今まで知らなかった津軽を歩いてみたいと書かれています。実際初めて訪れる地についても書かれてはいますが、全体を通して読んでみるとそれは決して「縁もゆかりもない未踏の地にめずらしいものを見にいく旅」ではなく、太宰の心の故郷と呼ぶべきところに繋がる場所をたどっていく旅だと感じました。

 序編に書かれているように、太宰は津軽に対して「汝を愛し、汝を憎む」という両価的感情を抱いています。また家族に対しても同じような感情を抱いている、というか故郷と家族は分かちがたいものなのかもしれません。憎しみというのはもともと愛情から派生しているものですから、この作品は太宰が抱くさまざまな形の愛について書かれたものだと、読み終えてから感じました。太宰自身が序編の終わりに「私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。(中略)私はこのたびの旅行において、主としてこの一科目を追究した」と書いています。

 紀行文としての楽しさももちろんあります。とりわけ旅のあちこちで供される食材の豊かさは、とても終戦の一年前のこととは思われませんでした。とくに蟹田で出てくるものはどれも、行って食べてみたいと思わされました。

 本編の出だしは紀行文らしく軽やかに、自分の身なりの滑稽さ(紺色に染めたのに変色してむらさき色になってしまったジャンパーに緑色のゲートルとか)や古い知人たちとの酒宴の様子が面白おかしく書かれています。

 酒宴ではなんと言っても、世慣れた紳士然としていたSさんが自宅で酔って太宰を過剰にもてなそうとする場面から「Sさんは、処女の如くはにかんで、「いいえ、まだ」と答えたという。叱られるつもりでいるらしい。」に至るまで、腹を抱えて笑ってしまいました。「決して誇張法を用いて描写しているのではない」と書いていますが、そのみごとな書きぶりには作者のエンターテイナーとしての才能をみせつけられます。また、Sさんの逆上したようなもてなしぶりを「津軽人の愛情の表現」と評していますが、東北にいる自分の親戚の顔をいくつも思い出して、津軽に限らないよなあと思いました。

 酒に振り回されるエピソードがたびたび出てきて、酒飲みであることの哀しさ愚かしさがこの作品のもう一つのテーマなのかもしれないと思われたほどです。最初に(「二 蟹田」)、酒は泥酔などして礼を失しない程度ならいいのだ、自分はアルコールには強いのでよその家でごちそうになって乱に及ぶような馬鹿ではない、と言うようなことを書いておいたのは、その後につぎつぎ繰り広げられる酒ゆえの愚行をより面白おかしく読ませるための前ふりだったようにさえ思われました。実際、そのすぐ後に、宴会で言わなくてもいいことを言ってしまって「甚だいやしいことを、やっちゃった」と書いていますし、旅の最後の「五 西海岸」では、「このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を廃す気持ちにはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜらる」と書いています。そういうところがまた太宰らしくてかわいいと、読者は思わされてしまうのです。

 「三 外ヶ浜」では古い友人であるN君との旅が書かれますが、ここでもまた酒飲みの哀しさ愚かしさを表すエピソード(本覚寺でのN君の思いも寄らぬ長話、衝動的に買ってしまった鯛など)がこれでもかと描かれています。すべてを通してN君への愛情が感じられ、「この友人を愛している」という一文は、太宰にしては珍しく裏を読む必要はないのだろうと感じました。

 前半は古いつながりの人たちと会い大いに飲んで旧交を温める様子を面白おかしく綴っているわけですが、「四 津軽平野」から様子が変わってきます。序編から四章の冒頭に長々と書かれる津軽の歴史に至るまでが、「大河が海に流れ込む直前に奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなっている」かのように、本題に入るのをためらって遠回りしていたのではないかとさえ思われました。とうとう金木の生家を訪ねることになるからです。勘当に近い扱いを受けていた長兄との対面に、太宰は緊張し身の置き所がないような感じを覚えます。父親代わりとして太宰を支え数々の不始末の尻ぬぐいもしてきた長兄を、太宰は煙たい存在だと感じているのがはしばしから伝わってきます。でも鹿の子川溜池を皆で訪れたとき他の者たちと気安く交われない長兄を目にして「兄は、いつでも孤独である」と書いているところに、常に厳しい家長としてふるまわなければいけない長兄に対し気持ちを寄せているのがわかります。「五 西海岸」で「長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし」と書いているように、これはこれで愛の形なのだろうと思わされました。

 金木の家ではまた、嫂や姪たち、子どものころから世話をしてくれていたアヤとともに楽しい時間を過ごし、修練農場や岩木山などこれまで知らなかった金木の魅力を発見します。家族に抱く複雑な感情とは違って、T君、アヤ、中畑さん、それにたけなど子どものころに世話をしてくれた人たちに対して太宰は愛情を隠すことなく描いています。

 母親代わりに自分を育ててくれた女中のたけに修治が会いに行くのが、この旅の、そしてこの作品のクライマックスです。二人がほぼ三十年ぶりの再会を果たすまでに、太宰はたくさんの障害を用意します。(小泊に着いたものの住所がわからない、人に聞いて訪ねて行っても留守、近所の人に尋ねてようやくたけが運動会に行ってることがわかる。)その苦難を乗り越えて国民学校にたどり着いたとき目にする運動会の描写がお伽話の世界のように美しく、ああこれでようやく思いが叶うのだと感じました。ところが太宰はまたしても障害を用意します。なりふり構わず必死に探し回っても人が多すぎてたけを見つけ出すことができません。あきらめてもう帰ろうかと学校を出て、帰りのバスの時間までどこかで何か食べようと思って宿屋へ入っても断られる。どこまでもついていない、修治の前に次から次へと現れる障害に読者ははらはらさせられ続けます。だからこそ、今生のいとまごいにと再びたけの家の前に行ってようやくたけの娘と顔を合わせるというところで、読者も拳を振り上げて喜ぶのです。ところが作者はそう簡単に話を進めてくれません。娘の案内でようやく会えたというのに、たけはさほど驚いた様子もなく淡々としています。それでも無言でたけのそばに腰を下ろしているだけで修治は満足し安心しきってしまいます。「胸中に一つも思う事がなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちのことを言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい」という描写で、どれほど幸福を感じているかがわかります。三十年ぶりに会うたけの姿を黙って観察して、モンペの柄にまで他のアバとは違うと贔屓目になってしまう修治がかわいく思えます。餅を勧めても食べたくないという修治に、たけが「餅のほうでないんだものな」と酒飲みであることを察した様子で、しきりにふかしているたばこを目にとめて「たばこだの酒だのは、教えねきやのう」と言われて、修治は咎められたように感じたようですが、わたしはこのたけの物言いに、東北人らしいおおらかなユーモアのようなものを感じました。

 その後二人は運動会を離れて竜神様の桜を見に行きます。その桜の下で、にわかにたけが堰を切ったようにしゃべりだします。どんなに自分が修治を恋しく思い会いたいと願ってきたか、せつせつと語る言葉に、読んでいるこちらも声を上げて泣いてしまいました。ああ、この津軽の旅は修治が心の母を訪ねる旅だったのか、と感動の嵐のなかで作品は終わります。

 作品の最後の部分には、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった」と書かれていますが、これは例によって額面通りに受け取ってはならない太宰の言葉なのです。実際にはかなりの脚色や創作があったことが解説にも書かれています。

 しかしこの作品に描かれているかなりの出来事が創作だとしても、この作品の魅力は何にも代えがたいものです。実体験をそのまま書いているように見せかけて、実は念入りに創作の手を加え素晴らしく面白い作品にしてしまうのが太宰治という作家だと思いました。

 ひとつ、気になったところがあります。「三 外ヶ浜」では、津軽について書かれた文献をいくつか紹介してたいていは津軽がこの国の歴史や文化のなかで軽んじられてきたことを嘆いていますが(余談ですが三馬屋を襲った津波の前に起こったとされる超常現象が非常に美しく町田作品を彷彿とさせられました。)、佐藤理学士が書いた奥州産業総説のなかの「文芸復興直前のイタリヤにおいて見受けられたあの鬱勃たる擡頭(たいとう)力を、この奥州の地に認めなければならぬ。」以下の言説には大いに喜んでいる様子があります。この章の最後のところ、外から幼い女の子が手鞠歌を歌っているのが聞こえてくる場面で、佐藤理学士の言説がまた出てきます。歌を聴いて、「たまらない気持ちになった」という部分にわたしはちょっとひっかかりを覚えました。「たまらない気持ち」というのは、深く感動を覚えたということなのか、もっと複雑な、両価的感情がここにもあるのか。中央の人に未だに蝦夷と軽蔑されているこの地にもこのような美しい発音の爽やかな歌声が聞こえてくることに感動を覚えたというのはわかります。が、佐藤理学士の言説自体が、現代のわたしから見ると「底の浅い中央礼賛」のように思われてしまうのです。太宰は心から佐藤理学士の言説を喜ばしく感じていたのだろうか、と疑問に思いました。「明治大帝の教育」うんぬんという言葉が出てきているところを見ると、軍事的に大事な場所だから詳細には書けないというのが何度も出てくるのとあわせて、その時代、ひょっとするとそういうふうにしか書けなかったのでは、と穿って考えたりもしました。しかし「五 西海岸」にもまたこの佐藤理学士の言葉が登場します。歴史の自信がないがゆえに卑屈になってよその人のことを「卑しきもの」など蔑んでしまいがちな津軽人に対しての強力なエールとして捉えているのがわかります。

 今でこそ地方の独自性とか個性が尊ばれるようになってきましたが、考えてみるとついこの間まで自分も、東京こそが文化の発信地であり日本全国すべからく東京を追いかけ模倣していくべきだと考えていたような気がします。時代による価値観の変化を感じました。

 

【読書会】2021年6月6日「トーベ・ヤンソン短編集」

・言葉の意味とは。理解とは。

・小説の言葉とは。

・それにつけても「読書会」ってすごいわ。

f:id:RocknBungaku:20210607151045j:plain

下僕:閣下、昨日の読書会も白熱しましたね。

まめ閣下:ん? 予にはただの世間話にしか聞こえなかったが。

下僕:あ、そうか。閣下は読書会本編が終わってから参加されたんでしたね。

まめ閣下:なんで肝心のところに予を入れぬのかにゃ。

下僕:いいじゃないですか、懇談会は楽しまれたんですから。だって閣下は自由気ままに突然絶叫ライブを始めちゃったりするから。

まめ閣下:それが猫というものじゃにゃいか。魂の叫びは止められにゃい!

下僕:はいはい、すみませんでした。じゃあ、いつものようにいいとこどりで閣下にもご報告いたしますよ。

まめ閣下:いつも「いいとこどり」してるとも思わんが。

下僕:あー、こほん。始めますよ。昨日の課題図書はこちら。トーベ・ヤンソンは多種多様な短編を数多く残しているのですが、そのなかからいくつかのテーマに沿って選んだ短編集です。今回課題となったのは、<創作><旅><老いと死の予感>の3テーマで14作品です。

まめ閣下:トーベ・ヤンソンって言ったら「ムーミン」の作家ではにゃいかな?

下僕:はい、さすがよくご存じで。閣下が「ムーミン」を知ったのは、テレビアニメで? それとも原作の方ですか?

まめ閣下:そりゃあ、テレビアニメに決まっておる。

下僕:えっ、つまりそれは、ある一定以上の年齢ってことですね? たしか閣下は今二十歳ですよね? ムーミンのアニメ版を観ていた世代だとすると、年齢詐称じゃありませんか?

まめ閣下:ば、ばかをいうでない。これはつまりあれだ、下僕からの脳内伝達。下僕が見聞きしたことを予に脳内で伝えているというこのブログの前提を忘れてもらっては、困る。

下僕:うーん。ムーミンのアニメについてお伝えしたことはなかったと思いますが、まあいいや。

まめ閣下:とにかく、トーベ・ヤンソン短編集。たくさんの作品を取り上げたんだにゃ。

下僕:はい。すごく短いものが多いので。しかし案外読むのはたいへんでしたよ。わたくしだけかもしれませんが。

まめ閣下:貴君のごとき愚の巨人には難しすぎる内容ってことか。

下僕:愚の巨人。ま、それはたしかに当たっておりますが。なんというか、すんなりと読み込めなくて、先に進むのに時間がかかったんですよね。なんでだろうと思っていたんですが、昨日みなさんの話を聞いていて、ああそうか、ってわかったんです。たぶん文章がそこに書かれている言葉の表面の意味だけの連なりではないというか、複層的というか。ほら、我々が日常的に接している文章ってのはさくさく読めてすぐに意味がわかるって種類のものじゃないですか。ネットの情報、雑誌の記事。小説にはそうではないものもありますが、エンタメなんかだとするする読めることが大事だったりしますよね。トーベ作品はそういう見地からいうと小説の文章ではなく詩に近い。もちろんストーリーもちゃんとあるし風景描写や生活のディテールも素晴らしいし決して抽象的ではない。人物造形も豊かで、ユーモアにあふれた作品もある。でもなんだろう、一文を消化するのに時間がかかるっていうか、読んでも消化しきれないまま次に行くという感じ。言葉の表面だけを追っていたら見落としてしまうことがすごく多い。

まめ閣下:ふむ。なんか難しい感じだにゃ。

下僕:それがそうじゃないんですよ。面白い。でもさっと読んでしまうとわからないものも多い。まあそれこそが短編の本領というものなのかもしれないですが。

なんでそれに気づいたかというと、昨日の参加者8名はみなさんこの作品を気に入っていたんですけど、なかにお一人ものすごく心を掴まれた方がいて。その方の熱い語りを聞いていて、なるほどと。仮に名前をFさんといたしましょう。Fさんは今回の課題には入っていなかった「嵐」という作品に大いに目を啓かれたようなんです。なかに出てくる「夜」とか「夢」とか「クリスマスツリー」とかの単純な言葉にも、自分が今まで考えもしなかったものが含まれているのではないか。われわれが日々理解し認識しているものはすべて言葉を通してであるはずなのに、同じ言葉であってもそこには人それぞれにちがったものがあるのではないか。ズレがあって当然であるはずのものを、われわれはあえて素知らぬ顔をして「言葉の最大公約数的意と理解に媚びて」いるのではないか、と考えたらしいんです。うーむ、ちゃんと説明できてる自信はないんですけど。

まめ閣下:Fさん、愚なる下僕を許してやってくれよ。

下僕:Fさんは、わたくしがラストの意味をつかみきれないでいた「森」という作品についてもきっちり評してくださって、「子ども性とその世界が失われてしまうとき」というものをものすごく的確に描いた優れた作品だと絶賛されてました。ごっこ遊びのなかの真実が現実に直面することによって消される、というラストなんだと。

Fさんは、トーベが宮沢賢治と共通するところがあるとも指摘されてました。それについて別のSさんという方も、最後に収録された「雨」という作品に宮沢賢治の「眼二テ云フ」に通じるものを感じたと。死に瀕している人の視点、その瞬間を切り取る鋭さ。

また、「時間の感覚」という作品について、わたくしは単に認知症を患った祖母と祖母を愛するが故気遣うあまり神経質になりすぎてしまう青年の旅の物語で、でも本当は祖母の時間軸のほうがあるべきものではという話、という程度に読んでいたのですが、何人かの方が、語り手が「僕」から途中で三人称の「レンナルト」に変わっていくのには理由がある、信用のおけない語り手であることが示されている、と指摘して、あっ、そうなのかって。

あと「リス」とか「猿」という動物が出てくる作品があって、わたしはどちらも愛憎と簡単に言い切れない複雑な心理的愛着の表現だと読んでいたのですが、Kさんという方が「猿」のほうは「創作・芸術」のメタファーなのでは、とおっしゃって、たしかにそうかも、と。

もうね、うにょにょうにょにょ、わたくしごとき知の小人、いや愚の巨人には眼から鯛のごとき鱗がぼろぼろと削り落とされるようでございましたよ。

まめ閣下:なにを今更、って感じである。予がいつも言っておることではにゃいか。

下僕:はぁ。

まめ閣下:いっぱい作品があったけれど、特に評判がよかったのとかあるのかい?

下僕:ああ、はいはい。一番人気はやはり「雨」。死にゆく人のその瞬間、情景描写の美しさ。あとは孤島で暮らす女性とリスの不思議な関わりを書いた「リス」、美術館で見かけた尻の彫刻がほしくてたまらなくなった男とその恋人を描いた「愛の物語」、これぞまさしく「愛の物語」!って拳を振り上げたくなる。それに煩わしいしがらみをすべて捨て去って船旅に出た男が、結局そこでもやっかいな人々と関わることになるという喜劇「軽い手荷物の旅」。それから課題には入っていなかったのになぜか多くの人が「往復書簡」を上げていました。往復とはいうものの、熱烈なファンと思われる日本人の女の子からの手紙だけで綴られた物語です。ああ、そうそう、Kさんが「愛の物語」のなかのキーアイテムが尻の彫刻であることがすごい、と。それだけでもう読者を面白くてたまらない気持ちにさせる、他でもない尻というものを選ぶ「言葉の経済効率」コスパのよさがここに顕著に表れていて、すごいとおっしゃってましたね。

まめ閣下:にゃるほど。最小の言葉で最大の効果をもつものという意味だにゃ。短詩、詩の言葉にも通じる。予は猫であるからコスパとか経済効率ってのはよくわからんが。

下僕:わたくし、今日になってからFさん絶賛の「嵐」を読みました。本当に詩と小説の複合みたいな、美しく深く心に響く作品だと思いました。でもたぶん、一度読んだだけでは味わい尽くせない、とも。たぶんどの作品もそうなんですよね。短いし、思い立ったらいつでも何度でも読み返せる。そしてそのたびにまったく新しいものとして読めるかもしれない。

今回に限らず、読書会をやって他の人の話を聞くと、もう一度作品を読み返したくなることが多いです。自分だけで読んでいたら決して気づくことがなかったようなこともみつかる。語り合うってことはすごいなって思いました。そしていい作品ほど、誰かと語りたくなるものなんですよね。

まめ閣下:ふんふん。そうやって愚の鱗をこそげ落として、少しは愚の小人くらいにはなれるといいのう。

下僕:それって愚の巨人よりはましなんですかね? 知のミジンコくらいにしてもらえませんか?

まめ閣下:うーん、じゃあ、知のウィルスってあたりじゃどうかな。

下僕:はっ、ひとつ大事なことを言い忘れました。これ、翻訳も素晴らしいです! 冨原眞弓さんとおっしゃるフランス哲学が専門の方のようですが、トーベ・ヤンソン作品も多数手がけていらっしゃいます。この詩のような文章を日本語でごくごくと飲み込むように読ませていただけるなんて、至福でありましょう。

 

【講師のいる読書会】2021年4月18日「パニック」開高健

・求心力より遠心力で描く

・寓意・寓話小説

・人間のきらいな人間

 

f:id:RocknBungaku:20210419141640j:plain

 

下僕:閣下はぐっすりおやすみでしたが、昨日は例の小説塾だったんですよ。で、課題図書でこちらを取り上げました。開高健の「パニック」です。

まめ閣下:お、その話は知っておるぞ。ネズミがいっぱいでてくるおいしそうな話だにゃ。

下僕:あー、ネズミがいっぱいってあたりまではあってますね。ネズミが大発生して地域がパニックに陥るという話ですよ。主人公は地方自治体の役所の山林課に勤めてるんですが、120年に一度、ササが一斉に花を開き実を結ぶと翌年にはネズミが大発生するという史実に注目して、それが近々現実になるだろうという予測を上司に進言しているんですが全く相手にされないでいた。独自に対応策を準備しているけれど役所という組織のなかでうまくいかない。そうこうするうちに、ネズミの大発生が現実のものとなり・・・という話であります。最初、ネズミが大繁殖して引き起こされるパニック、という惹句を読んでわたくしはカミュの「ペスト」を連想したんですよね。やはりこのご時世ですから。でもこの話には感染症のほうは登場しない、ただネズミの大群に恐慌をきたす人々を描いてます。「ペスト」はわたくしちょうど一年ほど前に読みまして、初めて実際に体験するパンデミック下ということもあり深い感銘を受けたわけですが、あちらがネズミが感染源と思われる未知の感染症に自らの意思でたちむかう善意の人々を描き、病や死に直面した人間による哲学的考察の話だとすると、こちらは組織の中でがんじがらめにされた主人公が孤独に状況と戦うという話で、主人公の動機も正義感とか社会や他者のために献身するというよりは、組織のなかのパワーゲームに挑むみたいなスタンスです。組織の中で働くことに対して絶望していて、なんとかそこで生きる楽しみを見いだそうとしている。中心になっているのは役所という組織の腐敗で、これは1957年に書かれた作品ですが、まさに現在のコロナ禍における政権のありようを明確に描いているように思えます。最後は増えすぎて飢えたことで狂ったネズミが集団で湖に飛び込むという形でふいに状況に終止符が打たれる。結局人間は何もできない、自然にたいする人間の無力さが示されます。そしてまた120年後に同じことが起こるのだろうというのも暗示されます。

まめ閣下:なんだ、ネズミどもは勝手に死んじゃうのか。もったいないのぉ。その場に馳せ参じて心ゆくまでネズミどもをもてあそびたいものだにゃあ。

下僕:閣下、もう口ばっかり。飢えてコントロールを失ったネズミの大群に閣下がかなうはずがないじゃあないですか。悠々自適にお暮らしになって、最近じゃあねこじゃらしにすら反応しないんですから。

 えっと作品に話をもどしますよ。この作品はそういう組織と人間、自然と人間というものをジャーナリスティックな視点で描いた面白さももちろんあるんですが、文章がすばらしいと思いました。表現の巧みさやはっとする美しさは純文学のものでありながら、その文体は乾いていて、ところどころ英米文学の翻訳を読むような印象を与えます。

まめ閣下:だっていわゆる純文学なんだろ、芥川賞作家なんだし。

下僕:はい、この本に収録されている「裸の王様」が芥川賞受賞作で、もう一作「巨人と玩具」も今回参考課題だったんですが、そういう点では同じような印象を受けました。講師のN氏によると、開高さんはもともとは同人誌などで生粋の純文学的作品を書いていたらしいです。それが、サルトルの「嘔吐」を読んで衝撃を受ける。どんなに内面を掘り下げようとしても自分にはこれ以上のものは書けないだろう、と。掘り下げるのには限界があると悟った開高さんは、それまで内側に向けていた力(求心力)を外側へ注ぐ(遠心力)方向へ切り替えた。そうして書かれたのがこの「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」だったということです。

まめ閣下:遠心力? 

下僕:はい。自分の内側に深く深く潜っていくというのではなく、外側、つまり周囲や社会を描くということでしょうか。それがジャーナリスティックで乾いた視線になったのではないかな。外を描くとなると必然的に自分と距離が必要になりますからね。「パニック」はたまたま農学者の方が新聞に書かれたエッセイをみつけて題材にしたものらしいです。「裸の王様」にしても児童画の大家に綿密な取材を重ねて書かれたもので、「巨人と玩具」は開高さん自身の宣伝部にいたというキャリアが書かせたもののように思われがちだけれど、実際は丹念に取材を重ねて書いたはず、とN氏はおっしゃっていました。それゆえに一見リアリティに溢れた物語を描いているように思われるが実はこれらは「寓意・寓話小説」となっている、と。表面に現れている物語には、その裏に寓意が隠されているとのこと。物語に託して自分が真に語りたいことを密かに忍ばせる、という感じでしょうか。

 この3作は発表時期がほとんど同じで怒濤のように執筆されたように見えるけれど、実は開高さんはあまりたくさんの小説は書いていない。エッセイやノンフィクションで培われた文章には乾いた明るさがある。また人間を見る目にも乾いた批判的視線と、でもどうしても突き放せない複雑な心情もあったのでは、とN氏、開高さんが敬愛していた詩人金子光晴の「おっとせい」という詩をあげられました。

  おいら。
  おっとせいのきらひなおっとせい。
  だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで

  ただ
 「むかうむきになってる
  おっとせい。」

というのだけれど、これが開高さんの人間に対して抱いていた感情なのではないか。「パニック」のラストも、人間に対して絶望している主人公が猫に向かってつぶやくのですよね。「やっぱり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」って。

まめ閣下:あぁ、それな。わかるわかる。実に同感だ。予も、猫のきらいな猫であるぞ。

下僕:ああ、それで。うちにこの前までいたあの三毛ジョとは最後まで和解できませんでしたなぁ。

まめ閣下:なに、それは別の話じゃ。あれは全面的にむこうが悪い。っていうか、予は猫の範疇には納まらないものである。おほん。

 

 

【講座】2021年4月17日「清水次郎長 語り口の文学Ⅳ」町田康 <オンライン>

町田康さんが語る「清水次郎長」も4回目、今回は浪曲清水次郎長」からはちょっと外れて、「 」についてのお話。

f:id:RocknBungaku:20210417174415p:plain

 

まめ閣下:ふぁあああ、よく寝た。

下僕:よく寝た、じゃありませんよ、もう。せっかくのオンライン講座なのに、また聞いてなかったんですか?

まめ閣下:おやおや、なんのために貴君がおるのだ。講座の内容をかいつまんで予に報告するのが貴君の仕事ではないか。

下僕:はいはい、わかりましたよ。まあ、今日は手短にいきましょう。

まめ閣下:毎回それを言っておるような気がするがにゃ。

下僕:本日は「 」の自由と効能、というのが講義のテーマでございました。浪曲は節いわゆる〽(庵点)で表されるメロディーと啖呵(?)と言われる「 」でくくられた会話と、ナレーションにあたる地の文で構成されており、小説と似ている。落語の場合は、枕があってその後は会話だけ、地の文にあたるものはない。

まめ閣下:ふむ。でも小説にも歌の部分はないんじゃないのかい?

下僕:はい、わたくしもそう思ったんですが、町田さんによると、一人称の語り(独白体)などが歌にあたるのではないか、とのことでした。

まめ閣下:それで今回の話は「 」でくくられる会話の部分についてってことか。

下僕:はい。地の文(ナレーション)との違いは、「 」の中は人がしゃべっていること。しゃべり方で、性別、階級、職業、性格、感情などをくわしく表すことができる。同じことを地の文でやろうとすると説明がちになってしらける、と。また小説などでは語の統一が基本的には求められるけれど、「 」の中においてはそれもある程度自由にできる。方言も入れられる。また書き手側からしたら、自分以外の話し方にすることもできるという効能がある。ただしこの語り口というのも、そっくりリアルにというわけではなく、一種の虚構であって、標準的欺瞞というものが作られる。広沢虎造清水次郎長で言うなら、登場人物がみんな江戸っ子弁でしゃべっているのは実際にはありえないことだけれど、それを聞いている人は変だとは思わない。

 このように「 」には表現の自由があるわけだけれど、具体的にはどうなのか。たとえば方言などの場合、どの程度音を表現するか。そのまま書いて意味が通るか、音を正確に表現しようとするとひらがなばかりになって意味が通らない、意味をわからせるために漢字を使うとしゃべっている人の個性や特徴が出てこなくなる。その見極めは感覚というかその都度判断して決めるしかない。なんでも「方式」みたいなものをこしらえてそれに当てはめようとするとおもしろくなくなってしまう。

 また「使えない言葉」というものもある。いくら自由と言っても、その時代にはなかったものを出すわけにはいかない。我々は無意識のうちに今の常識にとらわれていて日常何気なく使っているカタカナ語には実は曖昧にしかわかっていないものが多い。日本語に置き換えてみるとあらためて捉え直すことができる。気づくことも多い。
 ただ、「 」の虚構による標準的欺瞞は、陳腐化に繋がる危険性もある。ドラマのなかだけで使われている「田舎風言葉」「百姓風言葉」「やくざ風言葉」「女言葉」など。

 それと「 」には時差ができがち。書いたときには新鮮だった言葉が本になって読まれるころにはもう古くなってるとか、年取った人が書いた若者言葉がどうしてもその人の若い時代の言葉だったり。しかし1度死語になった言葉がのちに息を吹き返すこともあるのは面白い。

 とにかく虎造の浪曲で、豊かな「 」を聞くことで、いろんなものから自由になっていくことができるであろう、とまぁ、だいたいこんな感じでしたかね。

まめ閣下:なんだ、それで終いかい? 今日はほんとに短いな。

下僕:はぁ、わたくしここひと月ばかり非常にいろんなことがありまして。ちょっと頭脳労働にまわすエネルギーが低下しておるんでありますよ。

まめ閣下:いつにもましてってことかい? 貴君の脳にエネルギーが行き渡らないのはいつものことだと思うがにゃ。

下僕:はぁ、なんとでもおっしゃってくださいませよ。ね、閣下。閣下はこれからも元気で長生きしてくださいませね。

まめ閣下:へ? なんだ、そりゃあ。

 

f:id:RocknBungaku:20210417183133p:plain

 

【講師のいる読書会】2021年2月28日「推し、燃ゆ」宇佐見りん

第164回芥川賞受賞作を、元編集者で現在多数の小説教室で講師を務めるN氏と読んで語る会で語られたことなど。ひょっとするとあんまり大きな声では言えないようなこともあるかもしれませんが・・・。

 

f:id:RocknBungaku:20210301163411j:plain

まめ閣下:おい、下僕よ。予になにか報告すべきことがあるんではないのかにゃ。

下僕:うう、なんかわざとらしい感じですね。昨日の集いはオンラインでしたから閣下だって一緒に背後でお聞きになっていたんではありませんか?

まめ閣下:だから貴君は愚だというんだ。この会話の目的を忘れたのか。貴君のおつむの出来がいまいちであるから、せっかく学んだことをすーぐに宇宙の彼方まで飛ばしてしまってあとかたもなく忘れてしまうっていうんで、このような場所で予に報告するという形でまとめておけばちっとは有益なんではないか、と、そういう話で始まったんであったろ。

下僕:あ、さいでしたっけ?

まめ閣下:ほら、もう忘れておるではないか。なんとかならんのか、そのお粗末な記憶力は。

下僕:それを言われてしまうともう返す言葉がありませんよ。ほんとにねー、このごろつとに短期記憶っていうのが失われてきましてね。

まめ閣下:これってもう2年くらいやっておるんじゃないのか。もはや短期記憶とかいうもんじゃないと思うがにゃ。まあ、いい。話を早く始めたまえ。ああ、なるべく簡潔にな。下手の長話だけは受け入れがたいからにゃ。

下僕:はいはい、わかりましたよ。昨日の課題図書は、こちら。つい先月、芥川賞を受賞した作品であります。宇佐見さんは今年22歳、「かか」という作品で文藝賞を受賞してデビュー、「かか」は三島由紀夫賞も受賞、二作目の本作品で芥川賞受賞ということで、文芸の世界では破格の超エリートコースを驀進しているということになりますね。今回の選評を読んでも、選考委員のみなさんから高い評価を受けての受賞だったことがわかります。

まめ閣下:ほう。若いのにたいしたものじゃにゃいか。

下僕:この作品はSNSや「推し」という今時の若者ならではのカルチャーを題材に取り上げていたので発表直後からネットで若い人たちを中心に話題になっていました。しかしながら、そういう題材をとてもその若さとは思えない実力ある文体で描いたことが選考委員の方々にも高く評価されていたようです。

まめ閣下:ふうん。評価も高いし、話題も沸騰、本も売れて、文句のつけようのない作品じゃないか。

下僕:ま、そうですよね。

まめ閣下:貴君はどう思ったんだい?

下僕:はい、SNSや推しなど取り上げている材はたしかに今風ではありますが、小説の骨の部分は非常に古風っていうかオーソドックスな主題の作品だなあとまず感じました。新しさは感じなかった。これはデビュー作の「かか」でも感じたことでありますが、中心にあるのは、少女以上大人未満の女の子が抱える生きづらさですよね。家族の問題、とくに母への愛着と確執、同年代の人々のなかや社会との関わりで抱く苦しさ、そこにどう対処していくか、などこれまでの文学がさんざん取り組んできたこと、普遍的なテーマだと思いました。そしてみなさんおっしゃっているように卓越した筆力。文体の完成度の高さ、リズムのよさ、感性を深いところでつかみ取って言葉にする技術の高さには驚きました。最近の若い書き手には珍しい身体性を文章に感じました。「推し、燃ゆ」という作品については、冒頭の二文、「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」が、名キャッチコピーだなと。これでこの作品の未来が決まったように思いました。

じつはわたくし、「かか」のほうは受賞後すぐに途中まで読んではいましたが独白の口調がちょっとつらくなって投げ出していたのです。しかし今回の読書会のためにちゃんと読み直してみたんです。「推し・・・」を読了してからは不思議にするすると読めました。一気に読了して、あれれ、と思いました。この二作って実はおんなじ話じゃないの? って。若い女性のSNSや推しのいる日常を描きつつ、根本にあるテーマは非常にオーソドックス。しかし作品のパワーとしては、「かか」のほうが圧倒的なものがあるなぁというのが実感でした。

まめ閣下:はは、まあ言うのは勝手であるからにゃ。で、N氏はなんと言ってたんだい?

下僕:はい。もちろん、書き手の技術の高さ、文章のよさというのは選評にさんざん書かれているとおりだと、認めてました。宇佐見さんがご自身でおっしゃっているように中上健次の影響を感じさせる文体で、現代のネットの世界を描いたというミスマッチが高評価を受け話題ともなり売れたんだろう、と。N氏はそこにひっかかりを覚えたようです。それを「文学的偏差値が高い」と評価していた選考委員もいた。たしかに、この書き手はかなりよく文学というものを知っていて、意図的にかなり計算したうえでこれを書いたのではないか、と。そもそもネットの世界や「推し」や「推しを推す」という行為自体が、疑似現実である。「推し」というのは実体ではなく「推すものたち」によって解釈され作り直された存在であり、SNSなどではそれら「推すものたち」もまた同様にフィクショナルな存在なのである。それを描くのが中上健次の文体でいいのだろうか。中上の文体というのは肉体の言葉であり極北にあるものである。疑似現実を描くのであれば本当なら別の文体でなければいけないのじゃないか。文学をよく知っている書き手が、計算の上で中上の文体を「使っている」という感じがしてしまった。また主人公の「あかり」についても、書き手は共感・一体感というよりは一段高いところから突き放して見ているような距離感があり、これにも「使っている」という印象をもってしまった、とのこと。

まめ閣下:うーん、なかなか手厳しいな。

下僕:まぁ、N氏ですからね。中上さんの担当もされていた方ですし。でも宇佐見さんの実力はもちろん高く評価していて、「この作品でなくてもいずれ受賞する人だったろう」と。N氏個人的には、今回は乗代雄介さんの「旅する練習」に受賞させてほしかった、とのことでした。

この先はまああくまで小説の一般的な話として聞いていただきたいのですが、昨日わたくしがはっとさせられたのは、「文学的偏差値なんて低い方がいいんですよ」って発言です。計算高さ、何かを「使っている」感じ、つまり道具にしているってことでしょうか、そういうのには作家としてのモラルの低さを感じてしまうってN氏はおっしゃっておりましたよ。

まめ閣下:ふぅむ。モラルねぇ。ま、文学的偏差値に関しては貴君は心配する必要はにゃいな。低いほうがいいってんなら自信もっていいにゃ。

下僕:くくっ。しかしね、どんな作品でもいろんな意見がありますよね。至極順当に思われる今回の芥川賞だって選評読んだだけでも選考委員によってまったく違う読み方をされたりしていますし。でも評価はされている。それでいいんじゃないでしょうかね。

まめ閣下:おい、話をまとめるな。

 

f:id:RocknBungaku:20210301174956j:plain

 

【講座】2021年2月6日「清水次郎長伝 語り口の文学Ⅲ」町田康 <オンライン>

・物語の二分類と物語の作り方

・現実が物語化されそれによって現実が更新されていく

 

f:id:RocknBungaku:20210206144420j:plain

 

まめ閣下:おい、なんだこの写真は。

下僕:清水次郎長さんの本当のお写真らしいですよ。

まめ閣下:いや、そういう意味じゃなくて。ブレッブレじゃないかって言ってんだがにゃ。貴君の写真はいつも残念だがこんなにひどいのは初めてだぞ。

下僕:じつは今回は特別にこういうのを狙ってやってま・・・せん。

まめ閣下:がくっ。

下僕:いやいや、オンライン講座でちらりと見せていただいた瞬間をスマホで撮るってむずかしいんですよぉ。まぁ、今日のお話の第1部が、物語のなかに描かれた次郎長と現実の次郎長の人となりの違いでしたので、この写真がいいかなって思いましてね。

清水の次郎長は、浪曲だけでなく映画なんかにもなって映像化されてますから、演じた俳優のイメージなんかで想像しがちなだけに、実在の人物であったというのがこの写真で証明になるんじゃないでしょうか。

まめ閣下:えっ、実在の人物だったのか!

下僕:そうなんです。しかし次郎長伝という物語のなかの次郎長像は、現実の次郎長という人とはかなり違うようだ、というところから話は始まりました。次郎長伝は、前回の講座でも紹介されていました天田愚庵の「東海遊侠伝」が元になっているらしく、そこから今にいたる「落ち着いていて貫禄のある大親分」という次郎長像が形作られてきたのですが、ここで描かれた次郎長は実際よりはかなり美化されている、というのも天田愚庵は次郎長の養子でして、明治十七年に次郎長が逮捕されたおりの助命嘆願のためにこれを書いたと。となると、なるべくいい人に書いた方がいいわけですからね。

まめ閣下:しかし次郎長さんはなんで逮捕されたんだい?

下僕:自由民権運動に関わっていたからとか。なぜやくざがそういう運動に関わるのか。アウトロー気取っているやつほど権威に弱い。それにつけ込まれて利用されるけれど、邪魔になったら簡単に処分されるという構図のお話は面白かったです。

まあ、とにかく私たちが今いろんな物語で知っている次郎長というのは、現実の人をモデルにしてはいるけれど、全く違う”キャラクター”として物語には描かれているものだ、というのが前半の肝のようで、そこから後半の話へと繋がっていくのでした。

まめ閣下:して、後半は?

下僕:はい、その前に、ここであえて町田さんは”キャラクター”という言葉を使われました。星飛雄馬、矢吹ジョーなどは実在しないキャラクターであり、清水の次郎長は実在の人物であるけれど、それが物語化されて”キャラクター”になった。物語を読んだ(聞いた)人のなかでそっちが現実になっていき、現実を更新していく、という説明が印象に残りました。

まめ閣下:して後半は?

下僕:はいはい。後半は明確なテーマがございました。「物語の二分類と物語の作り方」であります。まず、「物語とはどう作られていくのか」という話がありました。ざっくりわけて、物語には三種類ありまして、

1)義理と人情の板挟み

2)勧善懲悪

3)敗北者への哀惜(かわいそうという気持ち)

1)はまさに浪曲の作り方でありまして、人間の葛藤する様を描くもの。〽義理と人情をはかりにかけりゃ義理が重たい男の世界~なんて歌声も披露してくださいましたよ。おほほ。

2)は古くさいようにみえるけれど、「落ち着くべきところに落ち着いてほしい、なってほしい方向性を求める」というのは人間の生理のようなもの。ちゃんと解決してほしい、G7のあとにはCが来てほしい、途中で終わるのは気色悪い、というのから逃れがたいものがあるのですね。

3)は判官贔屓といいますか、敗北者をかわいそうと思い、涙を流す快感というのがある。

これらのどれかに則ってエンタメというものは作られている、と。

また、物語というのは大きく次の二つに分類される。

ア)概念中心主義

イ)人間中心主義

太平記」というドラマを例にとって説明するならば、なんでこんなことになったのか、という理由を考えたときに「北条が悪いから」というのがア)であり、「全員頭がおかしいから」というのがイ)である、と。

ア)は、上でいう2)勧善懲悪がわかりやすい。悪という概念を出して、解決するには悪をなくせばいい、原因を決めつけてそれを排除することですっきり解決できる。

これに対してイ)は、誰か何かが悪いと決めつけるのではなくみんながそれぞれに変だけれどそれにはそれなりの理由があって結果的にこういうことが起こってしまったという話であるから、エネルギーに方向性がなく渦巻くカオスになりがち。結果が予測できないし解決できない気持ち悪さもあって娯楽作品としては難しい面もあるけれど、笑いとの相性はよい。

次郎長伝というのは浪曲でありとなれば概念中心主義の作品であるから、明確な”キャラクター”としての次郎長が必要、というのがまぁ結論でありました。

まめ閣下:なるほど。エンタメ論という感じだにゃ。

下僕:しかし町田さんは、人間中心主義のほうが絶対におもしろいとおっしゃってましたね。小説としては奥深いと。きっちり物事を分けてしまう、○○というフォルダーに入れてしまうというのが昔から嫌で、つねに「それってほんとにそうか?」と疑ってきたと。パンクとはそういうものですからね。きっちり話を終わらせる、着地点(納得)のあるものは苦手、ツィッターでうまいこと決め台詞言って「どやっ!」っていきってるみたいでうざい、と。参加者の方からの「でも人間中心主義だと話の収拾がつかなくなりませんか? みな頭がおかしいというんでは」という質問には、「いや、それはつきつめが足りないのだ」というお答え。人間本来の姿をどこまでも深く掘り下げていけば、そこにはおのずとああそれならしかたないなと思うところがあるはず。しかし人間そこまで掘り下げるのは苦しいし、自分自身の負の部分とも向き合い続けることになるのでつらい。だからついリミッターをかけてしまってつきつめきれない。概念中心主義は、一見納得がいくように感じるけれど、実のところはそういう苦しみを避けて人間本来の姿をねじ曲げて既存の型にはめてしまっているのではないか、とおっしゃってました。

それを聞いてわたくし、ああ、これぞ人間中心主義の代表作、と思ったものがございます。

まめ閣下:「告白」だろ。

下僕:あ、なんでわかっちゃったんです?

まめ閣下:それわからんやつ、おらんのじゃないかにゃ。少なくともこの講座の受講者は。

下僕:はぁ、そうでございますかね。しょしょしょぼぉーーん。

f:id:RocknBungaku:20210206160341j:plain

 

まめ閣下:こら、またこんなぼけた写真を!

 

 

 

【講師のいる読書会】2020年12月20日「一人称単数」村上春樹

「あなたにはそれが信じられるだろうか?

 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」(「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノバ」より)

「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。(中略)もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」(「謝肉祭」より)

f:id:RocknBungaku:20201221101138j:plain

 

下僕:閣下、この本はもうお読みになりましたか?

まめ閣下:そりゃ貴君が読んだら予も読んだことになっておる。脳内伝達システムなるものによって。そういう設定になっておるのだ。忘れてはいかん。

下僕:あ、そりゃそうでございました。

まめ閣下:で、それがどうした?

下僕:はい、昨夜は例の私的な小説塾でして。その中でこの本を取り上げたものですからね。普通の読書会とちがって、昨夜は講師がこの本についてきっちり解説してくださって、そのため自分の読み方のいたらなさに気づいたというか、はっとさせられることがいくつもありましたので、ちゃんとまとめておこうかなって思ったんでございますよ。

まめ閣下:にゃるほど。それはよいな。聴かせてくれたまえ。まずは講座の前の貴君の読みを教えてもらおうかにゃ。

下僕:はい。閣下もご存知のとおり、わたくしは一時期かなり熱心な村上春樹読者でありました。でも最近の短編はなんとなく初期の作品と趣を異にしてきている感じがしていて、いまひとつ前のようにのめりこめないでおりました。今回の短編集も、いくつかの作品は「大成した作家だからこそ、書きたいことを好きなように書いて許される」種類のもののように感じました。「スワローズ・・・」や「チャーリー・パーカー・・・」などは個人的な偏愛を綴ったもので、そういうのは誰が書いてもたいてい面白いんですが、それが商業出版されるかというとやはり無名作家では難しいだろう、とか。そのなかで、「クリーム」と「品川猿」には初期の短編の味わいを感じて、いいなあと思いつつ、ラストに後日譚みたいなのがついてくるのが、お話の総括というかまとめてきな感じがしちゃって、短編独特の余韻を消しちゃってるんじゃないかと思いました。「謝肉祭」だけは雑誌掲載時に読んでいていて、そのときはあまり関心しなかったんですけど、作中でおすすめされているルビンシュテインの演奏で謝肉祭を聴いてから再読したら別物のように面白かったんです。でもこれも、最後に大学時代に2回だけデートした女の子のエピソードが語られているのが余計な感じがしました。一番好きだったのは、表題作の「一人称単数」。これはまさに春樹・ワールド。作中にも「私のなかにある私自身のあずかり知らない何かが(中略)目に見える場所に引きずり出されるかもしれない」と、ずばり書かれていて、奇妙で不快な経験をしてその店から出ると、そこはすでに異なる世界になっている。昔の作品愛好者には、まさにこれこれ、って感じでうれしくなりました。村上春樹を一気に有名にした初期の作品は「ぼく」という一人称で語られるもので、その後(一人称視点的な)三人称で書くようにもなったりしたけれど、年齢を重ねてやりたいことをやりつくした今、原点回帰的に書かれた作品集なのかなという気がしました。昔の作品に登場するモチーフを新たに書いていたりしているし、と。

まめ閣下:ほかの塾生たちの意見はどうだったのかにゃ?

下僕:まあいろいろでしたけれど、完成度の高さがやはりものすごいと評価されている人がいました。日本の文芸誌で目にする文学はどうしても狭い感じがしてしまうけれど、村上春樹はやはりそこからすごく自由であると。ビッグ・ネームだからこそなのかもしれないけれど、という意味では、「いちばん醜い女性」なんて表現はハルキ・ムラカミにしか書けないよね、という意見もありましたね。老いを迎え円熟した作家が書いた玄冬小説と読んだ方もいました。

まめ閣下:ふむ。で、講師の読みは。

下僕:はい。まず一言で言うと、「完璧な作品集で大傑作」。やはり村上春樹って天才と思わせられた、とのことです。

まめ閣下:ほぉおお。そりゃすごいな。

下僕:一見、作者個人の過去の回想の物語に見えるけれど、そうじゃない。実体験と思われるところから書き出して、だからこそ細部がびっくりするほど正確に描かれていたりするけれど、そのうえで巧みに創作されたフィクションである。しかし、そのフィクションを「でも実際に起きたことだ」って言ってしまうのが村上春樹である。作者のなかでは「創作」こそが現実であるということなのかもしれない。この作品集をより深く理解するためには、「猫を棄てる」を補助線として読むべき、とおっしゃっておりました。そのラストやあとがきで春樹さんが書いている文章を詳しく読んでいくと、この作品で作者がやろうとしていること、これまでの作品でずっと書いていた世界が明確に見えてくる、と。

まめ閣下:ふむ。

下僕:わたくし、「猫を棄てる」は未読なのでうろおぼえなんですが、講師が読み上げた文中、「私小説」なんていうものは実はちゃんとした定義などないというようなことを言ってるらしいのです。わたし、ぼく、など一人称単数の視点で書かれた作品で、読者が勝手に作者の実体験に基づいて書かれていると思うものが私小説と呼ばれている、みたいな。それがこの作品集のタイトルにつながっているし、実際に、一見、作者自身の回想(私小説)のように思わせて裏切る。しかしそれは裏切っているのではなくて、作者自身のなかでは現実、事実なのである。それが一番よく表れているのは、「チャーリー・パーカー・・・」のラスト。

「あなたにはそれが信じられるだろうか?

 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」

 そしてわたくしが気になった、ラストに別のエピソードが付け加えられていることについては、「どの物語も複層的に語られている。決して、表にある主たる物語だけではない。すべてがつながっている。過去のあらゆるできごと、とるに足らないこととして忘れ去ってしまっていたようなものごとが、あるときふっと自分を訪れる、というのが村上春樹作品だ」と。それを作者自身はっきり書いているところとして、謝肉祭の最後の文章を上げました。

「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。(中略)もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」

 それを聞いて、なるほど、そういうことだったか、と思いました。

 最後の一篇、表題作である「一人称単数」の最後の一文が

『「恥を知りなさい」とその女は言った。

 であることも、非常に示唆的であると講師。小説なんか書く人間はみな恥を知りなさい、と言っている、つまり自己批判ともとれる、と。ああ、たしかになあと思ったりしましたよ。

 また、構成的なことにも触れ「トータルアルバム的にきちんと考えられている」と。

神の子どもたちはみな踊る」のときと同様、雑誌掲載作群の最後に、書下ろしの一作を、表題作とかその作品集の総括的な位置づけの作品を入れていると指摘。書下ろしが入ることで熱心なファンにもきちんとアピールしている、とも。表紙のイラストも、

ベンチの後ろの茂みのなかに「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPが忍ばせてあるところも、巧みだと褒めていました。

まめ閣下:さすが名編集者の視点であるなぁ。そして貴君の読みはまだまだであるのぅ。っていうか、安定して「愚」じゃな。

下僕:はい、ほんと、おっしゃる通りでございます。さっそく「猫を棄てる」を買って読まねばと思いました次第。

まめ閣下:あー、ひとついいかな。熱心な読書欲は素晴らしいと思うけれど、予はその本のタイトルだけは受け入れがたいぞ。

下僕:はぁ、そうでございますよね。でも愛猫家としても名高い春樹さんのこと、このタイトルにも深い意味があってのことでございましょうよ。

まめ閣下:そのくらいわかっておる。わかっておるが、嫌なものは嫌にゃのだ~!