Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2020年12月5日「砂漠が街に入りこんだ日」グカ・ハン

母国語以外の言語で書くこと。

世界に紛れ込んだ異物としての自分。

言語、国境、性別、年齢、セクシャリティ、あらゆる境界を飛び越えようとする試み。

 

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まめ閣下:おい、なんか冒頭に文章が出ておるが。あれはなんだ?

下僕:あ、気づいちゃいました? ははは、実はブログ記事の紹介をSNSにあげると、自動的に冒頭の部分が表示されちゃうんで、結果どの記事も閣下とわたくしのなんともゆるいベシャリだけが表示されるというなんか締まらない感じになっていたので、ちょっと変えてみました。せっかくいい本を紹介をするのに、アホな導入ではね、読もうと思う人が減ってしまうかもしれないし。

まめ閣下:貴君が考えたのかい?

下僕:はい。この本からわたくしが感じ取ったものを思いつくままあげておきました。

まめ閣下:ふうん。しかしこれでいいか? ていう疑問もある。

下僕:まあいいではございませんか、ちょっと変わったことやってみたって。

まめ閣下:それもそうだ。じゃ、さっそく本の話を聞かせてもらおうじゃにゃいか。昨日は何人くらいあの板のなかに集まったんだ?

下僕:何度いったらわかるんです? あれはPC。参加者は7名でした。このご時世ですからオンラインですよ。

まめ閣下:おほん、そんにゃことはわかっておる。著者の名前にあまりなじみがないけれど、どこの国の人なんだい? この前のラッタウッドなんちゃらよりは短くておぼえやすそうだが。

下僕:韓国人女性なんですが、作品はフランス語で書かれてます。ラッタウッドさんは、タイ系だけど英語を母国語とするアメリカ人で英語で作品を書いてますが、この方の場合は母国語は韓国語です。フランスに留学して6年目にこの作品を書いたんだそうで、それだけでも衝撃ですね。フランス語以外に翻訳されたのは、韓国語じゃなくて日本語が最初らしいです。まぁ、この辺りのことについては後に回して、作品自体をさくっと紹介しましょう。

 これは短編集で8作が収録されています。「砂漠が街に入りこんだ日」というタイトルの作品はなくて、ただ最初の作品「ルオエス」がまさにそういう話で。書き出しがめちゃくちゃかっこいいんですよ。

「砂漠がどうやって街に入りこんだのか、誰も知らない。とにかく、以前その街は砂漠ではなかった。

 砂漠はいつやってきたのだろう?」

というふうに始まっているんですが、わたくしなんぞはそこでもうすっかり引き込まれてしまいました。ルオエスは、架空の街の名前で、韓国ソウルの綴りSEOULを逆から書いてLUOESというのは、わかる人はすぐにぴんときたようです。しかし、あくまで具体的な場所を特定させるようなヒントは与えられません。この一作だけでなく、それはどの作品においても共通していて、読み手が自由に考えるようになっている。だから読んでいて「なんとなく韓国っぽさを感じた」と言う人もいましたし、「砂漠という言葉に引きずられて中東を想起した」人もいたし、創作の場となった「フランスっぽい」という人もいました。ただ「ルオエス」に関しては、男尊女卑が強い韓国に生まれた女性の息がつまるような感じが切実に描かれているという方もいました。

 8作の短編集ですが、やはりこの最初の作品がキーになっている感じがあります。わたくしなんぞは、このルオエスというのは第1章で、舞台設定と謎が提示され、その後の章で物語が進んでいくひとつの話なんだと思って読んでいってしまったので、何篇か読み進んで「あれ? おかしいな。いつまでたっても話が繋がらないぞ」なんて首を傾げてしまったくらいで。

まめ閣下:貴君は、ほんとに愚じゃな。

下僕:まあそうおっしゃいますな。本の最後にある「訳者あとがき」を読むとわかるんですが、8作それぞれ独立した作品ではあるのですが、「実はそれぞれの物語は独立しているように見えて、ゆるやかにつながっている印象を与える、少なくとも部分的にはルオエスを舞台にしているのではないかという気がしてくる」と書いてます。一篇を除いて「わたし」という一人称で書かれていて、年齢も性別も異なってはいるんですが、ひとりの語り手と考えることすらできるかもしれない、と。だから、わたくしが最初に抱いた印象は、作者が意図したことだったと思われるんです。

まめ閣下:ほほう。

下僕:フランス語を訳す際には一人称も属性に合わせて「僕」「俺」「うち」など使い分けるのが普通だけれど本作に関しては意図的に、語り手の属性に関わらず「私」という一人称に統一したと訳者の原正人さんが書いてます。男でもあり女でもあり幼児でもあり中年でもある、ひとりの人物の語る物語。多重人格、ある集団の集合的な人格を想定してもいい、と。そんななかでたった一篇、「あなた」という二人称小説が出てくる。その意味を考えるのもまた面白い、と。

 で、昨夜の参加者のなかには現在フランスで暮らしている方がいて、フランス語で書かれたものであれば、原文を当たれば形容詞や動詞の変化などどこかで必ず、性別や単数複数があきらかになるはずだけれど、日本語で読む限りそういう部分が極力隠されていると感じたとおっしゃっていました。それは訳者の意図なのかどうか。そこまで翻訳の自由が許されるのだろうか。それもまた興味深いところですよね。一人称のJeは、あきらかに単数なんですけど、「あなた」であるVousは、ひょっとしたら複数である可能性がある。「君」にあたるTuであればこれは単数ですが。英語ならYouは単数でも複数でもありえますよね。二人称複数が主体の小説ってどういうふうにとらえたらいいのか。この作品はセウォル号沈没事件を想起させる、と原さんも書いていて、となるとセウォル号に乗っていたたくさんの人たちの視点で書かれているのか。一人の方が、たいていの小説は書き手がいて主人公(もしくは語り手)がいて、その距離感を図りつつ読者は外側から見ている感じなのだけれど、この「あなた」で書かれる小説は、いきなり自分が名指しされ舞台の上に引きずり上げられてしまった感じがしてちょっと嫌だと感じたと言っていました。「まだ三作しか読んでないのよ、あなたのことそんなにしらないのに、そんなに深くつきあう心の準備ができてないの」って感じたそうです。なるほどねぇ。二人称小説は「客観的距離をとった私語り」ではないか、とわたくしは思っていたのですが、この作品については、複数の二人称という視点、臨場感というか巻き込み感? のすさまじさ、という意見にはたしかにうならされましたね。

まめ閣下:ふむ。以前予が貴君を呼ぶときに「諸君」という複数形を用いていたのと通じるものがあるな。

下僕:え? あれは単に「騎士団長」にかぶれた閣下の一過性のものだと。

まめ閣下:あ、おほん。その、人称以外に特別な話はないのか。

下僕:もちろんいろいろありますよ。人称というか、「私」で語られている物語もずっと読んでいかないと性別がわからないものが多く、場所もわからないし、年齢もまちまちで案外これまでの読書のやり方だと捉えにくい。でもそれを意図してあえて書いている。そこに、この作者の「母国語でない言語で書く」というのに繋がるものがあると思ったんですよね。インタビューのなかで作者は、母国語はあまりに多くのものと結びついていてあまりに重く感じられ、それゆえに母国語で書き出すことはできなかった、って語っているんです。母国語だと目の前に広がる可能性が広大すぎてかえって自由が奪われる。拙い外国語で書くことは、その制約ゆえに創作意欲を後押しする、と。この話は、村上春樹さんが「風の歌を聴け」の、最初の章を英語で書いてみることによって書き上げることができたというのと似ていると指摘された方がいました。また、年齢的にパソコンに馴染みがなく今不慣れなパソコンでよちよち書いているけれど、その時間がかかる感じがかえって書くのにはいいように思う、という方がいました。手書きのほうがより深く思索して書けるというのにも通じるのかな。

まめ閣下:「なんでも自由に書け」って言われるとかえって書けないってやつか。

下僕:まあそういう場合もありますよね。テーマ、枚数、締め切りがあったほうが書きやすい。

まめ閣下:でもそれがなぜ、属性の明確でない・境界をとりはらうボーダーレスに繋がっていくと思うんだ?

下僕:作者はおそらく、生まれ育ったときから周囲に違和感を抱いていて、自分のことも異物のように思っていた。だから国を捨てて異国で生きることを選んだ。でもそこで同化するわけではなく、異なる存在として世界を見て生き続ける。そうして見えてくるものを書く。自分が異物ということは、他の何にも属さないということです。属性、つまり既存の枠から自由な存在ということでもあります。だから、そういう書き方になるんじゃないか。わたくしはそう感じました。

 あと、現代性の話になりました。幻想的な設定や描写であるのにかかわらず、この作品に登場する物や行動が、若い人ならあーわかるわかる、と肌で実感できるものだと。「同じこと自分もやってた」とか、人それぞれに自分の体験となぞらえられる部分があったりもします。そういう細部に描かれるモチーフの現代性もありますが、もっと大きく、属性から自由というのは、セクシャリティジェンダーというものに囚われない考え方に通じててとても現代的だと感じます。だから、これまでの読み方だとすんなり読めないと感じる人もいたのではないでしょうか。それで、文学における時代性の話になりました。昔の作品でも今読むと結構ポリコレ的に「アウト」なの多いよね、とか。文学作品に限らず、映画でもドラマでも漫画でも。「のだめカンタービレ」でさえ今観ると「あ、ちょっとそれは」と思う箇所もある、という話しも出て。そういう時代性にどこまで対応して小説を書くべきか難しいと悩む人も。ただ、いろいろ「アウト」なところがあっても面白いものはやっぱり面白いんだよねって話にもなりまして。まあちょっとグカ・ハンから話は逸れてしまいましたが、この作品にはモチーフだけでなく、いろんな形で現代性の発露があるな、と思った次第であります。

 技術的にも、鮮やかなモチーフの使い方(「放火狂」のなかのマッコウクジラなど)や、シリアスなものを上手にぼかして受け入れやすくする方法、不快感の表現など、かなりはっとさせられるものがあるという指摘がありました。

 「Luoes」で始まり、最後が「放火狂」で終わるのは見事な呼応だし、ひとつの物語世界をきちんと構築していると感じた人が多かったです。

まめ閣下:にゃるほど、またいろんなことを学んだわけだにゃ。

下僕:はい、課題にしてもらわなければ出会わなかった本ですが、というか、だからこそなのかな、今回もまた実り多い読書会でございました。でも今日は腰が痛いです・・・。

まめ閣下:また持病の腰痛が出たか。

下僕:いつものじゃなくて、ぎっくりですよ! 何日か前にわたくしが七転八倒していたの、ご存知ないですか!!

まめ閣下:(。´・ω・)ん? そうであったかにゃ?

下僕:もう、まったく。下僕があんなに苦しんでいたのに。ひどい閣下でございますね。

【講座】2020年11月28日「清水次郎長伝 語り口の文学Ⅱ」町田康 <オンライン>

 

www.nhk-cul.co.jp

 

下僕:閣下、閣下、起きてくださいましよ。ねぇ、ちょっと、ちゃんと聞いてましたか?

まめ閣下:な、なんじゃ、うるさいなぁ。ふわぁあああ。

下僕:もう。せっかく町田さんの講座を家で一緒に受講できるチャンスだったっていうのに、なんで寝てるんですか。

まめ閣下:あ? そりゃしかたない。予は猫である。寝るのが仕事じゃ。とくに予は夜中ずっと絶叫ライブを開催しておるのだから、昼間は体力を温存しておかねばならんのだ。だいたいだな、そういうものを予にかいつまんで報告するのが、下僕の務めではにゃいのか。

下僕:もう。わかりましたよ。じゃ、さっそく報告いたしましょう。

まめ閣下:なるべく簡潔ににゃ。例の病はやめておけ。

下僕:あー、おほん。今回の講座は、もともとは4月に生で開催されるはずだったものですが、疫病の影響で延期になってて、ようやくウェブ開催となったものです。

まめ閣下:生って。講座も生講座とかいうのかい? どうせなら生まぐろとかのほうがみんな食いつくんじゃないのかにゃ。

下僕:もう、かきまぜないでくださいよ。簡潔にとか言ってるくせに。

まめ閣下:ははは、すまんすまん。しかしなぜに「清水次郎長伝」なんだ? 文学っていうより浪曲とか浪花節じゃないのかね。

下僕:はい、だから「語り口の文学」なんでございますよ。浪曲浪花節というのは音曲であって耳から入って来るもの。それが文学に与える影響を考える、といいますかね。冒頭で町田さんは「語りの尊さ」というものについて解説。人が口で言ったことを信じるかどうかっていうのはその語りに人格的説得力があるかどうかというのがポイントになる、と。本か何かで読んで知識として知っていることであっても、そこにちがう理解が生じる。たとえ同じ語彙であっても、読んで知っていただけのものと語りで知った語彙は、その内包するものが違ってくる。たとえば、廣澤寅蔵の浪曲で聞いて覚えた「おともだちさんにござんすか」の「おともだち」という語を、子母澤寛の「駿河遊侠傳」という本の中で目にしたときに、それがその場だけのたとえではなくて当時「同業者」を意味する語として普通に用いられていたという時代的背景も知ることができる。浪曲などは「芸能」ではあるけれど、当時の気配というものをより明確に伝える力があり、同じ言葉を文章で目にしたときにその背後にある気配をも感じとる力につながっている、という話しから講座は始まりました。

 4,50年前には、浪曲浪花節に限らず伝統的文化全般がダサい、唾棄すべきもので、何事によらず「和製」というのはかっこわるいもの、パチモンみたいなイメージがあった。でもあるとき聞いてみたら、ええもんだった。言葉が古くてわかりにくかったりするけれど、浪花節にしても浪曲にしても、音楽・物語・おもしろさ(笑い)・会話とナレーションという多要素の複合体としてのおもしろさがあり、語りのリズムや拍子というものも、文章に生きてくる。いい文章というのは、やはりリズムがいいのである。

 だからぜひ聴いてみることを勧める。しかし長い。検索したら部分的にも聞くことが可能ではある。しかしとなるとストーリーがつかみにくい。もちろん、ストーリーがわかってしまったらもうおもろないか、というとそんなことはなくて、エンタメでも文学でも、展開がわかってても何度でもおもしろいというのが本物である。結果を知りたくて聞いたり読んだりするわけではないのだから。でも、そうやってあちこちを切れ切れに聞く場合には、あらかじめ全体の話の流れを知っていたほうが楽しめるであろう、ということで、後半は清水次郎長伝とはどういう話しであるか、というお話になりました。

町田さんは現在、Cakesというサイトで「BL古典セレクション 東海遊侠伝 次郎長一代記」というのを連載中。なので、くわしくはこれを楽しむといいかと思います。

 

cakes.mu

 また、次郎長について書かれたものは硬軟とりまぜてたくさんあるようでして、先に紹介した「駿河遊侠傳」のほか、天田愚庵の「東海遊侠傳」なども資料としてあげられていました。他にも静岡県立図書館に所蔵されている手書きの「安東文吉 基本資料」やら「全資料集」やら、かなりマニアックな資料がたくさん出てきまして、やはり相当調べたうえで小説にしているのだな、と深く感じ入りましたよ。

まめ閣下:〽旅ゆけーばー、駿河のくーにーに、茶のかおーりー

下僕:あれ? 閣下もそんなのご存知なんですか? 19年しか生きてないのに。でもどうやら「駿河の道に」らしいですよ。

まめ閣下:え、そうにゃのか? ま、どっちでもいいわにゃ。

下僕:あ、そうそう大切なことをもうひとつ。本日は、ウェブ開催ということで、町田さんのご自宅からシブい和服姿での講座でありました。最近はもっぱら和装のようですな。これからはパンク野郎の衣装は和服ってことで。

まめ閣下:だから貴君のその「病」は・・・。

 

 

 

 

【読書会】2020年10月3日「観光」ラッタウット・ラープチャルーンサップ

下僕:ねぇ、閣下、今まで知らなかった素晴らしい作家に出会うって本当に幸せなことですねぇ。

まめ閣下:にゃ、にゃんじゃ、藪から棒に。

下僕:いえ、昨夜はほら、小説仲間たちで定期的にやってる読書会でしてね。その課題図書がこちらで。

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下僕:今回、課題として提案されるまでまったく知らない作家の作品でした。

まめ閣下:ふん。なんという人だ?

下僕:え? それ訊くんですか? えっと、えっと、ラッタッタ? ウッド? チャラ? チャンプルー? ・・・サップ・・・とかいう・・・うんと。

まめ閣下:な、なんと申した? もう一度言ってみい。

下僕:え、だからー、ラッタッタ・・・うーっむ、とにかく一生おぼえられなさそうな長いお名前であります。

まめ閣下:おいおい、それでよいのか。

下僕:えー、すんません、おいおいおぼえていきますよ。この方、タイ系のアメリカ人でして、タイの方ってお名前がみんな長すぎるらしいですね。だから普通は名前と全然関係のないあだ名で呼び合うらしいですよ。キュウリ、とか。

まめ閣下:なんじゃ、そのキュウリってのは。

下僕:ほら、野菜の。

まめ閣下:そうじゃなくて。まぁ、もうよい、さっさと本の話に行ってくれ。

下僕:はいはい。とてもとても語りたい作品ばかりなので、そうさせていただきます。これは短編集でして、収録作品7作のうち今回は「ガイジン」「徴兵の日」「観光」「プリシラ」「こんなところで死にたくない」の5作を取り上げました。苗字は長すぎるのでファーストネームで呼ばせていただきますが、ラッタウットさんは1979年シカゴ生まれ。ということで、まだ若い作家、と思ったんですが、計算したら今41歳、そんなに若くもないか。ただ、才能が作家として認められたのはずいぶん早かったようです。2004年若干25歳で「ガイジン」をイギリスの文芸誌で発表したとあり、それがデビューなのかな。今回のどの作品を読んでも、みずみずしく若い才能が弾けて迸っているようで、眩しいほどです。推薦してくれた方以外は全員初読の作家でしたが、多くの方がもう「大好きっ」てなってしまってました。少年の目で見たものを書いている作品が多くて、軽い語り口なのに緊張感があり、ひりひりしてひやひやして最後はすうっと胸がすくカタルシスがあると評した方も。5作のなかで特に好きな作品というのも、けっこう人それぞれ分かれていて、作品の多様性というものを感じます。わたくしは「ガイジン」「徴兵の日」「プリシラ」が特に好きでしたが、「こんなところで死にたくない」が大好きという人が複数名、表題作「観光」が素晴らしいという人も複数名、しかしそれらの作品が、切実でつらい現実が描かれていて読み返すのはつらいという方もいたりして。そういう多様な意見が聞けるのが読書会のよさですね。

まめ閣下:ふぅん。それぞれの作品についてちょっとずつ教えてくれにゃいか。

下僕:じゃ順番に行きましょうか。

「ガイジン」世界中から観光客が集まるタイの観光地で暮らす少年とそのペットである豚のクリント・イーストウッドの話です。短編とはこうあるべき、こうかかれるべき、というような、ある種理想の短編。書き出しでぐっとつかまれてしまう。書き出しとラストの文章のすばらしさは全作に共通してる。豚のクリントに対するいとしさが読んでいるうちにどんどん高まって最後の一文で愛が溢れて胸がいっぱいになっちゃった、って人も。ドライな書きぶりと、居場所があるようでないような感じが片岡義男を思わせるって人もいましたね。わたくしは、自分が日本人観光客としてアジアのリゾートを訪れたときに感じてしまううしろめたさが裏付けされたように感じました。

「徴兵の日」終始現在形で語られていく中で、時おり、作品の時勢の未来(つまり書いている時点)から過去を振り返って語る視点が挿入されて、その部分が非常に印象的。主人公と友人のそれぞれの「みじめさ」を書いていて、研ぎ澄まされた瞬間を摘まみ上げる名手だと感じた。徴兵のくじ引きで普段キティとあだ名で呼ばれている女装愛好者が本名で呼ばれるシーン、本当の名前というものの物語的な重さをあたらめて考えた、という人も。くじ引きのシーンはちょっとショーのようで、エンターテインメントの観客として楽しむこともできてそういう意味では文学的ではないかと最初は感じたという方も。まあたしかにこの作品は文体とか技巧のすばらしさで読ませるようなところもあるのかな、と思いました。でもやはり経済力の違いで友人を裏切ることになる主人公のやましさやせつなさが垣間見えてこれもひりひりする作品ではあります。

「観光」網膜剥離が進行してもうすぐ目が見えなくなるという母と旅行に出る青年の話です。原文のSightseeingという単語のなかに「光」はないけれど、作品自体に光を感じ、「観光」という日本語にするとそこには「光」があって、視力を失っていく母の状況とも呼応して美しい。まあSightという言葉自体が視覚の意味でもありますけどね。行ったことがないはずなのに、その情景が鮮やかに目に浮かぶ。非常に映像的。冒頭市場で売り子とやりあってサングラスを手に入れるシーンが生き生きと素晴らしく、そのサングラスも海の上で失くしてしまうという展開が母にはいずれいらなくなるものであるというのもあってせつない。目的地にたどり着いていないところで話が終わるのがいい。外国人観光客がこないようなしけた宿、そこから泳いでいった砂州というのも、寄る辺なさの象徴のように感じる。母の未来を悲観する息子に、母が「わたしは死ぬわけじゃない。ただ目が見えなくなるだけ」というのが、人間の尊厳を伝えていて、強さが美しいと思える。

プリシラ」バンコックの貧民街に住む少年とカンボジアからやってきた難民少女プリシラとの交流を書いた物語。故国を離れるときまだ幼子だった娘の歯をすべて金歯にした歯科医師の父親の思いが切実。クメール・ルージュのことなんてこんなふうに書かれたものを未だかつて読んだことがない。痛くて切ない話だけれど、プリシラのキャラクターの明るさや力強さもあってどこかに軽やかな光を感じる、という方も。わたくしは、この作品のラストがあまりに痛くてつらくて、ブルーハーツの「〽弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く」というのを思い出してしまいました。みんな社会的弱者なんです、弱さのレイヤーのなかでより弱いものを叩くしかない。でもそれをプリシラなら軽々と飛び越えてくれるかもしれない、そんな幻想も見せてくれるのが救いなのかな。

「こんなところで死にたくない」脳卒中で半身不随になった父親が、タイ人と結婚してタイで暮らしている息子夫婦のところで暮らし始める話です。この作品だけは、視点人物は老人で他の作品の少年視点というのと違ってます。父親が遭遇している様々な困難、料理が辛すぎるとか部屋が暑すぎるとか、どこかユーモラスで何度も笑ってしまった、という人も。毒舌のなかにもやさしさを感じたという方もいました。最後のバンパーカーをぶつけ合うシーンはカタルシスもありよくできているけれど、ちょっと既視感あるかな、という人も。アジア人妻に対するアメリカ人の老人やその他の人々の視線に、身につまされるものがあるとおっしゃる方もいました。その人は自分が妻の立場で読んでいましたが、自分が介護される立場になって読んでいる人もいて、やはり息子の奥さんから「あーんして」なんてやられたくないって言ってて、それにはわたくしも同感であります。これも読む人によっては切実すぎる現実でつらい、と感じた作品のようでしたが。推薦された方は、小説的造りがカーヴァーの「大聖堂」を思い出すと言ってました。「大聖堂」のほうは経験の豊富な作家の手による完璧さがあるけれど、こちらのほうには、書き手の若さゆえのベタなところがある、と。ひょっとするとそのベタなところが既視感だったりするのかも。ウェル・メイドってことですかね。

まめ閣下:にゃるほど。で、貴君はこの作家のとくにどういうところがいいって思ったんだ?

下僕:はい。それ、わたくしもいろいろ考えてみました。まず、文体が素晴らしい。でもひょっとしたらこれは、古屋美登里さんの翻訳が素晴らしいのかもしれません。とにかく自然で、最初からこの言語で書かれた小説のようでした。小説そのものの話をすると、この「観光」というタイトルの短編集で見る限り「ガイジン」というのが作家自身が抱えている根本的なテーマなのかなという気が。母や父、子や孫であっても、しょせんはstranger、つまり異人、見慣れぬ人、であるというのも書かれているし、自分自身がタイにルーツを持つアメリカ人として生きてきたということも、つねに自分のうちに「異なるもの」と向き合っていかざるを得ないという背景も関係しているのでしょう。そしてこの作品集の冒頭に「ガイジン」という作品が入っていることも、彼にとってこれがコアな作品であることを示しているのではないか。まさにデビュー作にすべてがある、って本当ですね。タイトルは「観光」だけど表紙は、この作品なんですよ。よく見ると豚が泳いでる。

まめ閣下:あ、ほんとだ。

下僕:これ、言われるまで豚って気づかなかった人がほとんどです。わたくしも含めて。あとね、これは非常に個人的な感想なんですけど、どうしてこんなに惹かれるのかなって考えたときに、わたくしの大好きな「カポーティみ」があるように思ったんです。つねに弱い存在の側におかれている、自分自身も弱いものであるし、周囲にいるより弱いものの側によりそっている。そういう視点を感じたんです。力がなくて、感じること以外になにもできなくて、せつなくて。そしてこの文章の巧みさよ。まだ若いし生きてるし、これからが楽しみな作家です、って言ったら、なんと行方不明だっていうじゃないですか!

まめ閣下:え?

下僕:2010年の時点なんですが、文庫のあとがきのところに、エージェントも連絡がつかないって書かれているって他の方が教えてくれて、衝撃を受けてしまって。天才だから早く死んじゃってるかもしれない。なんてことだ、と騒いでいたら、他の方が最近の動向を検索して探し出してくださいました。2018年にインタビュー受けていたようです。ちょっとホッとしました。

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まめ閣下:おお、よかったじゃないか。ん? この隣りの女性は誰かにゃ?

下僕:誰ですかね? インタビュアーにしては距離が密すぎますよね? 奥様かな。まあそんなことはどうでもいいじゃあありませんか。とにかく、この素晴らしい才能の持ち主がまだ生きているという幸福をかみしめ、この先にまた作品を読ませていただけることを強く強く希望いたします! 

【イベント】2020年10月2日「詩そして即興」熱海未来音楽祭プレオープニングライブ@起雲閣

まめ閣下:おい下僕よ。貴君、昨日はどこへ行っておったのかな。ずぅうううっと屋敷にばかり詰めておると思っていたのに、最近また夜間の外出が多くなったような気がするのだがにゃ。

下僕:あ? ばれちゃいましたか? 春先から半年以上、疫病のせいでまあとにかくいろんなイベントがのきなみ中止とかになってたんですがね、ここにきてぼちぼち、開催されるようになってきたんですよ。もちろん客席数減らしたり検温やら消毒やら万全の対応をとっての開催です。やっぱ生で観られるのはうれしいもんです。配信ももちろんうれしいんですけどね、やっぱり生の魅力を100%味わえるというものではないですからねぇ。

まめ閣下:で、昨夜も深夜に帰宅と。数日前もなんだか日付変わってから帰宅したんじゃなかったかにゃ?

下僕:あ、おほんおほん。昨夜は遠出してたので遅くなったんですよ。熱海までこのイベントを観に出かけてまいりました。

 

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下僕:なんと東京を出るのは8カ月ぶりで、普段乗っている電車の逆方向に数駅行っただけですでに旅行気分になりました。移動するだけでなんでこんなに楽しいんでしょうねぇ。車窓からの景色、稲刈りの終わった田んぼには曼珠沙華が咲き乱れ、河原には山羊がくつろいでいて・・・

まめ閣下:あー、まあその楽しい旅気分ってのも、音楽祭のプレイベントに高揚する気分がもたらしたもの、つまりまた「康さん詣で」の復活というわけであろう。

下僕:あはは、さすが閣下、鋭い推理力。なんでそんなにすぐにおわかりになりますのん。

まめ閣下:んなもん、だれでもわかるわ、あほんだら。貴君ほど単純な者はそうそうおらん。

下僕:あれ? 閣下、ちょっと康さん入ってません?

まめ閣下:どうでもいいから、さっさとイベントの報告せんか。

下僕:あい。熱海未来音楽祭、去年は週末二日間だったんですけどね、疫病禍で今年は開催されないかなと思っていたんですが、イベントの数も種類も増え期間も10月25日まで、配信もあってより規模が大きくなった感じです。詳しくはこちらを。

www.makigami.com

下僕:昨夜はそのプレオープニングイベントということで、詩の朗読と音楽とパフォーマンスが融合するという催しでありました。昨年は海外からアーティストの参加もありましたが、今年はこの状況ですからね。去年の様子はこちら。今回のパフォーマンスというのは、あれは現代舞踏というのでしょうか、肉体を使って表現する方で、なんかすごかったです。
まめ閣下:なんかすごかったって、語彙力なんとかならんか。

下僕:あ、すんません。精進いたします。朗読と即興の音楽の共演は去年同様でありましたが、そこに現代舞踏の方が入って大きな動きというものが生まれましたね。静かな動きなのにダイナミックで。朗読も演奏も基本は場所移動しませんし、派手なアクションないですからね。あ、でも巻上さんのテルミンの演奏はちょっと舞踏っぽいかも。ああいう舞踏みたいなのは、ゆるやかにみえても運動量がすごいんでしょうね。横たわった後に汗だまりができてましたよ。無駄な肉がいっさいない体がうらやましかった。わたくしもやろうかな。

まめ閣下:貴君に舞踏のような身体的表現の才能があるとはまるで思えん。悪いことはいわん、踊りはやめておけ。

下僕:くうー。

まめ閣下:で、その「詩の朗読」のほうはどうだったのかにゃ。お目当ての。

下僕:はい、今年も素晴らしかった。冒頭は石牟礼道子さんの詩で。途中、町田さんがなにか感極まるように声をちょっとつまらせたように見えました。聴いているこちらも、おもわずぐっとなって。でも、その後の朗読が「潮来の伊太郎」で。町田さんの芸能スィッチがぽんって入った感じになりましたね。去年は「昭和枯れすすき」で、心臓を鷲掴みにされちゃいましたが。あとは自作の詩やら萩原朔太郎やら。朔太郎のは、たぶん町田での講演会のときにも取り上げた詩でしたよ。で、町田さんと巻上さんが交互に朗読をやって、最後は二人が別々の詩の朗読を掛け合いのように発する場面は、フリージャズのジャムセッションのような盛り上がりがありました。まあ、あんまりいろいろ言っちゃうと、まだ有料のアーカイブ配信もあるから。

まめ閣下:まぁ、この与太話をそんなに読んでくれる人もおらんと思うけれどな。

下僕:あ、そうそう、今年は出演者の方が靴履いて出てくれたのがうれしかったですね。場所柄、観客はスリッパに履き替えるんですけれど、やっぱり演奏する人とかスリッパだと哀しいものがあるので。町田さんは黒革のスポーツシューズで・・・

まめ閣下:ああ、もうよいよい。予はその”康さん病”的なもんはいらんから。

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【講師のいる読書会】第163回芥川賞受賞作「首里の馬」高山羽根子「破局」遠野遥

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まめ閣下:下僕よ。昨日は昼過ぎからずーっと、例によってあの四角い板に向かってくっちゃべっておったようだにゃ。

下僕:いい加減おぼえてくださいよ、閣下。あれはパソコンという機械の画面で、わたくしはただ板に向かって話していたわけじゃなくてオンラインでつながっている人たちと会話をしていたのでございますよ。昨日は、恒例の小説塾の日でしたからね。

まめ閣下:ふん、そんなことはよくわかっておる。ただいつもより時間が長かったなと思ってな。

下僕:あ、はい。この一年半ほどで塾生の数も増えて作品数も1回の授業に収まり切れない状態になってきたので、ちょっと開催方式を変更したんです。まぁ、詳しいことはここでお話してもしょうがないので割愛しますがね。で、変更のかいあって生徒作品の講評が終わってからも少し時間がとれるようになったので、今回は芥川賞受賞作について話し合いました。なにせこの塾の講師N氏は、高山さんの通った小説教室の講師でありますしね。昨年の候補作「居た場所」も、この小説塾で取り上げました。そういえばあのときの内容は閣下がおまとめくださったのではありませんか!

まめ閣下:そうだったかにゃ? もうそんな些事は憶えておらんにゃ。で、今回の作品評はどうだったんだ?

 

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下僕:「首里の馬」についてのN氏評は非常に高いものでしたね。ここまで書ければ見事、現時点での集大成ともいえる作品だとべた褒めでした。沖縄の首里にある私設の資料館という設定、オンラインで繋がる顧客にクイズを出すという不思議な仕事という設定、このふたつまではまあ書けるだろう。でもそこに「宮古馬」が出てきて作品世界が大きく動き出す。これは普通書けない、と。未名子という名前は、「未だ名前のない」という意味がこめられているとN氏は言ってましたが、その主人公が情報を集める資料館で働き、「情報」が「記録」され「記憶」となり「普遍的なもの」「歴史」に繋がっていく、という作品世界が見事に描き出されている、とおっしゃっていました。

まめ閣下:N氏にしてはめずらしいことなのかな?

下僕:はい、そうですね。でも高山さんのことは以前からずっと推していらっしゃったから。「居た場所」までは、草稿段階でN氏の教室に提出されていたらしいんですが、それ以降の作品は出版されてから読むという感じになっていたようで、この作品の完成度の高さに驚きもひとしおだったようです。

まめ閣下:貴君はそれで、どう感じたのかにゃ?

下僕:はい。最初はなんとなく説明的な入り方だなと思ったりもしたんですが、途中からこの作品は素晴らしい、と、興奮して一気に読み終えました。実は、「居た場所」は徹底的に具体的な情報を排除して書かれているようなところがあって、わたくしのごとき愚鈍な読み手にはちょっとわかりにくいところがありまして、それは決して作品自体の魅力を損なうものではないのですが、いまひとつ深く理解し心に響くというところまでいけなかったというのが正直なところでした。読解力のテストを受けているような。あえて壁を作って乗り越えられる読者だけ来たらいい、と言われているような感じを受けておりました。それが、今作では読者に対して「開かれた」印象があります。地名も具体的に出てきているし、クイズの顧客たちの状況(どこの地域でどういう団体に人質になっているかとか)や、順さんの過去に類似するカルト的な集団というのも、現実に即して推測できるようなヒントが十分与えられていますし。わかりやすくなった分、物語にどっぷり浸ることができました。未名子を始めクイズの顧客たち、順さんなど登場人物それぞれの深い孤独が美しいほどで、今のわたくしには心地よかったです。だからこそ、馬という生きて体温もある存在へ覚えるほのかな愛着というのが際立ってみえ心に響いた。たくさんの人たちのそれぞれの孤独を描きながら、ひとつの大きな物語に収れんしている。これは作家自身に「大きな世界観」があってこそ生み出せるもので、作家の器の大きさを示していると思いました。余談ですが、主人公の前職がテレホンオペレーターだったというのが、もう一人の受賞者の遠野遥さんのデビュー作「改良」とも通じていて、なんというか、これが今という時代の象徴なのかしらなんて思ったりもして。

 

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まめ閣下:その遠野氏の作品のほうはどうだったのかにゃ?

下僕:わたくしは非常に面白く読んだんですよね。文藝賞受賞作「改良」を読んで、若いけれど小説の構造というものをよく知っている巧みな書き手ではないかと思っていたので、一見すると平易な文章で描き出されていく主人公の内面のなさも作者の企みがあってのことだろうと思って読み進めました。主人公陽介は、自分の感情を言葉に表さない。感情はあるけれどみないようにしているのか、本当に感情を抱けないのか。快不快、肉体で感じられるものだけがある。陽介の行動規範は、「マナー」や「父親から言われた」こと。他者にどう受け止められるかが基準になっていて、その基準に対して「なぜそうなのか?」「本当にそうなのか?」と自問することはない。おそらくこういう人は実際に近くにいたら「実に感じのいい青年」と感じるのではないかなと思いました。それに対して友人の「膝」は、ごく普通の一般的情緒を持つ人物として描かれている。別れた彼女麻衣子が自分の幼児期の恐ろしい体験を語るところから小説が一気に加速していく感じを受けました。「改良」のときの公衆トイレで暴行されるシーンと同様、すごく怖いんです。で、内面がないなりにうまくバランスをとっていたはずの陽介のバランスがだんだん崩れていく。指導していた後輩たちが自分について言っている陰口を偶然耳にして、そのとたんにハンバーガーが選べなくなる、とか。頭痛とか吐き気とか、体調の異常としてその変化は現れてくる。その苦しさが、警察官に取り押さえられるラストでようやく楽になる、見上げた青空にカタルシスを覚える。という構造も上手いなと思いました。出てくる女性たちは二人とも怖いし。とにかく主人公のこんな人物造詣を作り上げるなんてすごいや、と思っていたんですが。

まめ閣下:ですが?

下僕:インタビュー読んだら、どうもなんだかそれが作家の「地」みたいなんですよね。ナチュラルに人間はそういうもんだと思って書いてるみたい、と感じてちょっと愕然としましたよ。わりと自分に近いところで書かれた主人公。まあそれはそれでちょっと怖いですが。

まめ閣下:おほん、おぬしはやっぱり愚であるな。インタビューなんて本当はどうかわからんというのを何度言ったらわかるのかにゃ? 言ってもいないことを勝手に書かれている場合もあるし。つぎはぎされて本来の意図とは違う文脈になっていることも多々。さらに言えば、作家が自身のことについて語ることほど作り話である可能性が高いものってのが常識じゃにゃいか。

下僕:ああ、たしかにそうでございました。じゃ、そこまで企てている可能性もあるというわけでしょうか。

まめ閣下:そりゃわからんけどな。とにかく、なんでもかんでも書かれていることをばかみたいに信じないことが大事である。

下僕:ああ、そうそう。こういう人物造詣についてN氏は「みんなこれが新しいとかいうけど、三島が書いてるよね」とおっしゃってました。言われてみればそんな気も。

まめ閣下:ふむ。N氏の言うことだから、インタビューなんかよりは確かなんじゃにゃいのかな。

 

[読書会]2020年7月11日「老妓抄」岡本かの子

下僕:ねぇねぇ閣下、しばらくぶりにブログ更新しましょうよ。週末にオンラインで読書会やったんで。

まめ閣下:おっ、ようやくその怠惰な腰をあげたのか。

下僕:だってやりたくても材がないんですよ。疫病がいつまでもだらだら居座ってやがるもんでね。

まめ閣下:本はせっせと読んでおるようだが。

下僕:うーん、本に関してはですねー、わたくしめの愚な感想だけつらつら書いてもねぇ、なんかいまひとつじゃないですか? そんなもん、誰も読みたくねぇよって言われそうで。

まめ閣下:このブログだって然り。

下僕:まぁそう言ってしまえば身も蓋もござんせんが。でもなんていいましょうか、自分一人の考えをばぁーって言いつのるっていうんじゃなくて、外側から何らかの刺激を受けてそれによってまた自分のなかで生まれたもの、みたいな形じゃないとおもしろくないって思うんですよね。動かない水面だけ見ていたら退屈だけれど、投げ込まれた石によって生み出された波紋は面白いでしょう。

まめ閣下:何を言いたいのかちっともわからんが、まあ話を進めたまえ。

下僕:はいはい。今回の読書会で取り上げましたのは、こちらでございます。

 

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下僕:岡本かの子さんについてわたくし無学ゆえこのたび課題に取り上げられるまでまったく存じ上げませんで、恥ずかしい限りであります。その作品の素晴らしさはもちろん、岡本太郎さんのお母様であり、岡本一平氏の妻であるというのでも有名らしいですね。

まめ閣下:まぁ、貴君の無学は今に始まったことではないからの。

下僕:はぁ、すみません。で、今回はこの短編集のなかから、表題作の「老妓抄」、「鮨」「東海道五十三次」「家霊」「食魔」の5作を取り上げました。参加者は8名、それぞれに作品ごとに感じたことや好きな表現、とくに好きだった作品なんかを述べ合うというのはいつもどおりでございました。自分と同じような感じ方もあれば、まったく違う読み方もあっていつもながら刺激になります。課題を提案してくださった方ともう一人、岡本かの子のディープな読者がいらっしゃって、そういう話も興味深かったですね。

まめ閣下:そういうさ、なんていうか表層的な、っつーか何か言っているようで実のところ何にもいっていないみたいな話はべつにいいんではないかの。

下僕:ぎ、ぎくっ。す、すいません。ざっくりまとめようとするとそうなってしまうんですかね。じゃ、じゃあ、わたくしの感想を中心に述べて、そこに他の人の話などで得られたものを加えるって感じでいきましょうか。

まめ閣下:うむ。

下僕:古い作品ゆえの言葉づかいがなにせ素敵なんですよ。今はあまり見聞きしないような言葉や、時々読み方すらわからないような単語も出てきたりして、それだけで異世界に飛ばされます。またあちこちにハッとするような素晴らしい表現や描写があって、そういうところにまず魅了されました。たとえば「老妓抄」最初のほうに出てくる、「こうやって自分を真昼の寂しさに憩わしている」なんてのとか。それと老妓の複雑な人物造詣。「若い女の造詣は案外おとなしくて普通」という方も何人かいらっしゃいましたが、わたくしは「鮨」に出てくる鮨屋の娘・ともよなんかも、商売屋の子どもらしくちょっとすれたような人を見透かすような視点があると感心しました。その視点はすなわち書き手のものであって、決して通り一遍ではない、深く人を見る目に透徹したものを感じました。もちろん「鮨」の一番の魅力は、母親が食べ物を嫌がる息子に鮨を握って食べさせるシーンなんですが。この作品だけでなく、今回の作品のほとんどに、「何ものかになりそうだったのに、結局何にもなれないでいる男性」というのが出てきている、という指摘があり、わたくしもそれは感じました。その最たるものが「食魔」の主人公でしょう。これ、モデルが魯山人ではないかと言われていてみなさんそれをご存知か知らなくても読んだらすぐにピンときたとおっしゃっていて、わたくしはまたびっくり。またしてもわが無学を恥じることになりましたよ。しかしまあ読書においては、予備知識がないことも案外いい側面があったりもしますよね。まっさらな心で読めるというか。

まめ閣下:またそうやって都合のいいように言うなあ。

下僕:はは、すみません。しかしかの子さんは有名人ゆえ、いろんな情報をすでにもっていた方々は、「ぶっとんだ天才」「派手で奇抜な人物」というイメージだったらしく、実際作品を読んでみると「案外普通・まともなんだ」と驚いていらっしゃいましたよ。わたくしはどの作品に出てくる人も、あんまり「普通」とは思えませんでしたが。そういうところも、読書の面白さですよね。

で、「食魔」。最初はちょっとこの主人公の人物造詣があまりに身近にあるもののように思われて(つまり自分の近くにもそっくりな感じの人がいたぞというひりひりした感触)読むのがつらいほどだったのです。しょせんニセモノでしかないのに、自分を買いかぶって大きく見せようとして、つねに他者を見下そうとしたり傲岸不遜な態度に出たりする、嫌な奴。でも内実、無学ゆえのおのれの空疎さをよく自覚している。芸術に対して痛いほどひりひりとした憧憬を抱いているけれど、どうやっても自分はそこに到達できないというのも、認めたくはないが知ってしまっている、というような。

それが、霰の降りしきる庭の闇をみつめながら過去の回想にふけるあたりから、ぐっと普通の人間的な、よくわかる話になっていきます。最後のほうになって、どうして主人公の現状に至るのか、いくつかの謎がとかれるように明らかになっていくのは物語としての高揚がありました。芸術に対して強く憧れを抱きなんでも器用にそれなりにこなしている主人公ですが、料理以外ではどうやっても本物になりえない。芯の部分に空疎なものがあることを自認しそれに苦しんでいる。でも病気で死にかけている友人にせがまれ、その癌の瘤に主人公が人面を書かされるシーン、けっこうグロテスクだし主人公も嫌で苦しみながらそれをやるんですが、わたくしはこの主人公が最も真の芸術というものに近づいた瞬間だったと感じました。回想のなかで、どうも岡本夫妻ではないかと思われる画家とその妻が登場し、彼の作品や料理について批評をする。その批評を穿ってしかとれないひねくれた心が、長い回想を経てそこに込められた真実について認め始めるという展開、また最後にたどり着くのが、幼いころから苦しめられて憎んできた仏教の境地である「無常」であり「不如意」を受け入れるというところも、物語として非常にうまくできていると思いました。まあ、こういう人物像はわたくしが感じたもので、魯山人がモデルだとか知っていたら、そういう人物像をわたくしが主人公に抱いたかどうかは怪しい。知らないからこそ、文章から受ける印象だけで読むことができたものだったと思いますね。

課題を提案された方によると、かの子さんが活躍されていた時代は文壇でも芸術界でも「女なんて」と馬鹿にされていた時代で、どこに行っても「一平の妻」という扱いしか受けなかった。作品の評価も、「よく作ったものだ。だが女がこんなこと知りえないだろう。」という目で見られていたのではないか。ということでしたね。全集の丸谷才一さんの解説も、今読むとそういう目線が感じられる、と。しかしかの子自身は、パリに遊学してその時代集まっていた芸術家たちのデカダンを自分の身で感じ取って書いていたのだ、わからなかったのはむしろ日本の男どものほうじゃないのかな、と。そして「食魔」の主人公は魯山人がモデルと言われてはいるけれど、その心情的な描写には、彼女自身の、芸術に対する飢えにも似た切々たる思いのすべてを詰め込まれているのではないか、という言葉にいたく共感いたしました。小説を読む喜びというのは、素晴らしい描写や文体を楽しむというのもあるけれど、一番はやはり筆者の思考の流れを、読み進むことによって一緒に体験するというところにあるんではないでしょうか。作者にはおそらく最初からそのような考えを描こうという意図はなかったものが書くうちに形となって流れ出てくる、それが小説であって、その過程をともに楽しむのが読書である、とわたくしは思いましたよ。

まめ閣下:にゃるほど。なかなか新鮮な読書だったようだにゃ。

下僕:はい。古いからこそ新鮮な発見もありますね。さらに、知らなかったからこその発見もありますよ。

まめ閣下:うーむ、確かに情報というのは時に目を曇らせてしまうこともあるが、貴君のはただの勉強不足、単なる怠惰であると思うがにゃ。

 

 

【読書会】2020年5月30日 レイモンド・カーヴァー「大聖堂」ほか

まめ閣下:下僕よ。昨日も何やらにぎやかだったな。一人で四角い画面みたいなのに向かってなにをべらべらくっちゃべっておったんにゃ?

下僕:やだ、閣下。あれはパソコンではありませんか。わたくしめが毎日毎日黙々と作業している機械でございますよ。

まめ閣下:それはわかっとるわ。それで何をやっていたのかと訊いておる。

下僕:今流行りのオンライン会議ってやつで、読書会やってたんじゃありませんか。課題図書はこちらの短編集から、「ささやかだけれど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂(カセドラル)」の三作品を取り上げました。

 

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まめ閣下:カーヴァーといえば貴君が先日、「非常事態をくぐりぬける文学とは」と言って紹介しておったやつじゃな?

下僕:さいで。しかしあの記事を書いたころと、今の心持ちはだいぶん違っておりますね。4月の上旬は今から思うとけっこう追い詰まった感じがありました。この先どうなるのかまったく予測できない不安みたいなのが強かった。たぶん今よりずっと暗い未来を予測していたからでしょう。読書会の課題に推薦させていいただいたのはあのすぐ後くらいだったんじゃないかな。

まめ閣下:他の人たちは課題についてどう言ってた?

下僕:昨日の参加者は全部で7人、そのうちカーヴァー作品をこれまで1作でも読んだことがあった人はわたくし以外にお一人だけでしたが、みなさん課題として読めてよかったとおっしゃってました。気に入っていただけたようです。

まめ閣下:どんな話が聞けたのかにゃ?

下僕:作品ごとに感想を述べあったのですが、やはり翻訳が村上春樹さんであるということが全体としてかなり大きな影響を与えてましたね。翻訳者ってこんなに前面に出ていいもんなのかな、というとまどいもありました。あまりに「村上春樹的」すぎると。井戸、ジャック・ロンドンの「焚火」など春樹作品にも登場しているモチーフも出てきてるし、話の展開も春樹作品を思い出させるものがありすぎて。どっちが先かという話しになると刊行年などでみれば春樹作品のほうが先のようですけれど、単なる偶然の一致にしたらあまりに重なりすぎていて、それこそ「井戸の横穴で」とか「地下深くの水脈で」通じてしまったのだろうか、みたいなそれこそ春樹ワールドがまた広がってしまって。カーヴァーに限らず春樹訳のものは、どうしても村上春樹作品みたいになってしまうんですよね。そう感じるのは、読者がすでに作家としての村上春樹の文体に慣れ親しんでしまっているせいなのかもしれないですけれど。「風の歌を聴け」に登場する架空の作家デレク・ハートフィールドが実はカーヴァーとフィッツジェラルドを掛け合わせて作ったとかいう説もあるらしく、ひょっとすると若き日の村上春樹氏が原書で読んだカーヴァー作品に影響を受けたんではという推測もとびだしました。その辺りちゃんと年表を調べてないからいいかげんなこと言ってますけど。

まめ閣下:ふうん。まあそれは置いておくとして。作品ごとの感想はどうかにゃ?

下僕:じゃ、まず「ささやかだけれど、役に立つこと」から。これはわたくし的にはイチオシ作品だったんですがね。何度読んでも泣いてしまうという。しかし、そこまで感動はしないかな、という人のほうが多かった感じです。この作品は、比較的恵まれた生活を送っている夫婦が突然子どもを失ってしまうという前半と、その子の誕生ケーキの注文を受けたパン屋と夫婦の間にちょっとしたボタンの掛け違いから生じた感情的な対立を乗り越えていく後半に大きく分かれるんですが、その掛け違いのところにイライラさせられてしまう人もいましたね。「どうして最初にもっとはっきり言わないんだ」と。でもまあ小説としてはすごくちゃんと作られていて、豊かな暮らしを送る白人夫婦がこういう事態になるまでは、ごく自然に「自分たちとは違う種類の人々」を切り捨てて当然という生き方をしていたことが細かい描写によって示されている。たとえば妻はパン屋に不愛想な応対をされて反感を覚える。それは常に他の人から一目置かれて大切にされるのが当然だと考えていたからではないか。肌の色や外見、話す言葉などで看護師を分類し明らかに自分たちと違うようにとらえている夫婦が、息子の危機を通じて黒人家族に心を添わせていくことや自分たちと同じカテゴリーだったはずの医師に対して反感を感じていく様子などが決してあからさまではなく示されているのがよい。息子の死のやつあたり的にパン屋への敵意を募らせるけれど、パン屋にそれを真正面からぶつけて、パン屋もそれをきちんと受け止め彼らに自分の生活というものがどういうものかを語るのを聞くうちに、彼の焼いた甘いシナモンロールを口にする。匂いがわかるようになる。それまではかたくなに不快に感じていた「食べること」が、パン屋と向き合うことでようやくできるようになった。それが「パン屋」であることがとても重要に思える。パンは人が生きる糧のシンボルであるから、という意見もありました。そこでパン屋が話すことは、単に自分がどういうふうに仕事をしてそれに対してどういう感情を抱いてきたか、というようなことなんですよね。子どもを亡くした夫婦にはおそらく何も共感できるようなところのない話。それが凍りついていた夫婦の心を溶かしていくっていうのがわたくしにとってはとても胸を打つわけなんですけれど、この作品だけでなくカーヴァーは他の作品もやたら「しゃべる話」だな、と感じた方がいました。たしかに、誰かに何かをしゃべることで成り立っていく作品が多いですね。その方は、オチのない話を人に聞いてもらおうとするのは甘えだと思うのだけれど、カーヴァーの作品に出てくる人たちはそういう話を他者にすることであるいはそれを聞くことで、何かを癒されている。つまり話すことそれ自体が「ささやかだけれど、役に立つこと」なのかもしれない、と言っていて、はぁなるほど、と思いましたね。

まめ閣下:にゃるほどな。じゃあ次の作品は?

下僕:はい、「僕が電話をかけている場所」です。これはアルコール依存症の治療施設のようなところで主人公が知り合った男性の「話を聞いて」考えることが軸になっている作品ですね。最初の読書会でとりあげたのが、ルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引き書」だったんで、どうしてもみんなそれを連想したようでした。ルシアに比べると少し軽いというかうす明るい感じに書かれているように思われる。アル中の人たちにはどうしても甘えがあるように思えて「しっかりしろ」って思ってしまうという方もいました。依存症というのはなにか原因があってなってしまうというものでもなく、そして一度依存症になってしまったら全快はしない、という人があり、翻訳者の「解題」ではラストは「回復の予感がある」とされているけれど、この後には回復などはなく絶望しかないのでは、というのがわたくしの意見です。しかしその救いのなさこそがある読者にとっては救いになるとわたくしは思いました。また、友人JPが井戸に落ちてそこから空を見上げるシーンが印象的で、JPの奥さんであるロキシーが煙突掃除人だったことも象徴的であるということ、ロキシーがとても魅力的で、眩しい存在、外の世界の象徴のように感じられたというのはみなさん言ってましたね。あと、このなかにジャック・ロンドンの「焚火」やたばこの火など、「火」がたびたび登場してくるんですが、それは「動物的衝動」を表しているのではないかという方がいました。治療者であるマーティンはそれを制御できる人として描かれているが、主人公もJPもそれができない。ジャック・ロンドンもまた火によって破滅した人ではなかったか。また、主人公が突然大家が訊ねてきた日のことを思い出す場面で「自分があんな人間でなくてよかった」というような台詞をはくところがあるけれど、こんなふうに他者と比較することによってしか自分の幸福を確かめられない生き方というのはおそらくとても苦しいのではないか、それが依存症にもつながっているのではないか、という方がいました。ああ、あとですね、この話のもっとも素晴らしいところは最後の部分、主人公がガールフレンドに電話をかけようと考えている場面に突如ジャック・ロンドンの「焚火」が想起され、火について考えて、すぐにまた女房に先に電話をしようという考えに移る、その意識の流れの描き方、唐突なものを何のひっかかりもなく組み込んでいてそれがまた自然に感じられるところが素晴らしいと褒めている方がいましたよ。回復の希望とかそういうことを書いてるんじゃない、意識の流れを欠いているのだ、と。なるほどー小説とは意識の流れを書くものよねと思いました。この最後の場面は、春樹さんの「ノルウェイの森」思い出すよねって言う人がいました。「ささやかだけれど、」も「パン屋再襲撃」を思わせるし、とか。まあまたそういう話になるときりがないんですけど。 

まめ閣下:ふうん。聞いているほうもきりがない感じになってきたぞ。

下僕:はいはい、じゃ最後の「大聖堂」の話に移りましょう。表題になっているこの作品がみなさんの評価が一番高かったですねー。こんなことフィクションで思いつくものかな? というくらい突飛な設定にまずびっくりしたという人も。自分の妻が長年つきあっている盲人に対してあからさまな嫉妬心を抱く夫の差別的発言が激しすぎてむしろすがすがしいほど。そんな夫が盲人と一緒にいるうちに心持ちに変化が出てくる様子、あからさまに描かれていないところがいい。こんなトンデモ発言しつつ大麻とか吸いながらテレビ見ている人たちの話でいったいどう「大聖堂」と繋がるのか、と思っていたらまさかこういう展開、と驚いた人あり。盲人ロバートと10年来親しく付き合っている妻と、今日初めて会ったばかりの夫。その関係はあきらかにまったく違うのだけれど、長く付き合ってきたはずの妻のほうがじつはロバートを大事にするあまり盲人扱いしていて残酷かもしれない、何も知らないがゆえに無神経な質問をしたりする夫のほうが実はロバートにとっては安らぎになったりしている。夫は、いっしょに大聖堂の絵を描くことによってロバートと聴覚だけでなく触覚でひとつの絵を共有するに至るというのが象徴的だという意見におおいに頷きました。ラストの逆転が鮮やか、奇跡が訪れた瞬間というのを見事に描き切っている。また、自分は普段いったい何をみているんだろうと自問した人もいて、この話を読んで自分も目を閉じて大聖堂を描いてみたという人が二人もいたことに驚きましたよ。すごくないですか? 一番驚かされた意見は「これは小説家が作品を描くということのメタファー」というものですね。「見えていない人(読者)にいかに伝えるか」という悩みを作家というのは常に抱えているから、と。目の前が突然開かれたように感じました。最後は読者に伝わったときの感動を描いている、と。うわぁ、と思ったけれど、その「見えていない読者の手をとってともに絵を描く」というのは具体的にどういうことなのか、それについても書いてほしいものだと欲深く思ったりもしました。

まめ閣下:うぉほん、諸君、欲をかいてはいかんよ。予はそういう俗から離れた存在であるからあまり縁がないけれど、なんだ、ほら、うちに間借りさせておるあの三毛柄の小うるさい娘っ子なんざ、誰も盗らんというのにがつがつ急いで食べてはしょっちゅう吐き戻しておるではないか。

下僕:はぁ、あれはそういうことなんでございましょうか。

まめ閣下:まったく見ておれん。貴君がしっかり礼儀作法を教えてやらんからああいうことになるのにゃ。

下僕:はぁ、そうおっしゃる閣下だってさきほどからずいぶんゲロンチョゲロンチョされておるではありませんか。

まめ閣下:こ、これは、ちがう。毛玉だ。身だしなみに気を使い、つねに身づくろいを丁寧にするあまり、ときどき毛玉が腹にできてな。そもそも、そんなことにならぬようきちんと健康管理をするのが下僕の役目、下僕が怠慢だからこのような・・・

下僕:はいはい、わかりました、わかりました。とりあえず、かんぱーい!

 

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