Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

読書「ノラや」内田百閒 ’中公℮ブックス

まめ閣下、いかがお過ごしですか。

 わたくしは、この少し長めの旅の間、常にとは言いませんが気がつけば閣下のことを考えています。考えている、という言い方は的確ではないかもしれません。思っている、というべきでしょうか。閣下は常に下僕の心のなかに存在しているのだけれど、水面の浮きみたいに時々ぷかりと浮かんで姿を現したり水中に沈んで表面からは見えなくなったりしているみたいです。

 この旅の間、内田百閒先生の「ノラや」という本を読んでいました。(キンドル版なので、ひょっとすると単行本の「ノラや」には収録されていない作品も収録されているのかもしれません。)ノラというのは百閒先生の家に段々に入り込んできてその家で暮らすようになった野良猫の子です。最初は猫というものにさして特別な情を抱いていなかった先生が、ノラと暮らすうちに特別な存在となっていく様子がまずいいのです。今の時代のペットの溺愛というのとはちょっと違うんですが、とにかく心をかけてやっているんですよね。その様子が、親子というんじゃなくて、子どもに慣れていない老人がどこかの子供を預かっているみたいな、どうう接したらわからないのだけれど距離を置いてつきあっていくうちにだんだんと馴染んでいって、情愛が深まっていく感じが、とてもいい。キャットフードなんてない時代で、ノラに与えている食べ物が、筒切りにした鯵とかお寿司屋さんの玉子焼きとか、グワンジー牛乳というブランド物(?)の牛乳とか、ちょっと特別なものだったりして。

 でもそんなふうに大事な存在になったノラがある日突然出かけて行ったきり帰ってこなくなってしまうんです。それからの先生の心配ぶり、不在を嘆き悲しむ様子は本当に痛々しい。毎日ノラを思っては所かまわず子どものように泣き、風呂の蓋の上でノラが毎晩そこが好きで寝ていたからとひと月も風呂に入れなくなったり、毎日のように届けてもらっていたお寿司をノラを思い出すからと1年以上もとらなかたり、「阿房列車」ではあれほどあまのじゃくで気難し屋みたいな先生が、とびっくりするような変貌ぶりなんですけれど、笑うことなんかできません。むしろ読んでいるほうも一緒になって涙したり気をもんだり、今日は帰るか、明日は帰るか、と胸をドキドキさせ胃を痛くしながら読み進みました。新聞に猫探しの広告を出したり、折り込みチラシを何度も入れたり、ひょっとしたら外人の家に迷い込んで飼われているのではと英字の広告も作ったり。それを見て「似た猫が死んでいたから埋めた」という情報が入れば、人をやって掘り返して確かめたり。猫が嫌いな人からしたら「なんだ猫ごときに大げさな」とか「大の大人がなに馬鹿なことを」と笑うのかもしれないんですけれど、笑い事じゃないですよね。家族が突然いなくなったらどんなことだってやりますよね。死に物狂いです。
 ノラと入れ替わるように、顔立ちも柄もよく似た猫(尻尾が短くて先が丸まってるのだけがノラと違う)が先生の家の辺りに現れるようになって次第に家のなかへと入ってくるんですが、最初のうち先生はその猫に対しては「ノラを思い出してしまうから」と言って冷淡にしてるんですよ。だんだん家のなかに入り込んで飼い猫のようになっていくんですが、ノラに対する扱いを超えないように、と、お寿司屋の玉子焼きはあげないとか、あえてちょっと差別してるんです。他人からしたら、そんなにそっくりなんだったらその子でいいじゃない、って思うかもしれないですけど、それは断じて違う。ノラはノラしかいない、他の猫はどんなに似ていても代わりにはなれない。これ、人間の子どもだったら絶対そうですよね。猫だっておんなじです。でもその尻尾の短いの(のちに「短い」のドイツ語でクルツと名づけられます)を決してかわいく思ってないわけじゃないのです。その情愛の深まる様子もまたいいのです。

 ノラは必死の捜索にもかかわらず5年たってもみつからないまま。入れ替わるようにやってきたクルツは、そのままずっと先生の家の猫として5年以上暮らし、最後は家族に見守られて病死します。そのときの先生の悲しみ、嘆きもまた甚だしい。

 ここには、二通りの別れが書かれています。行方知れずになってしまって会えない苦しみ、明確に再会がかなわないとわかっている死別の苦しみ。どちらがより苦しいか、と比較するのは意味のないことだと思いますけれど、やはりきっちり見送ってあげられたと感じる別れのほうがちょっとだけ納得ができる部分があるのでしょうね。あの子は道に迷って帰れなくなっている、早くみつけてやらなければかわいそうだ、といつまでも心を焦らせ続けるのは本当につらいことだと思います。

 閣下だってもう18歳ですから、下僕としては別れのときのことを考えないわけではありません。だからこの本を涙なしで読み進めることはできませんでした。しかし、クルツが亡くなった後のことを書いた「クルの通ひ路」という作品が、寒くて暗い部屋に差し込むひとすじの光のように、ほのかに温かく感じられたのです。死んでしまったクルが、帰ってくることだってある。そのときはほんのかすかなしるしがある。残されたものがみなその感覚を自然であたりまえのこととして共有しているんです。別れは決して絶対的なものではないんだ、って思えます。
「庭の隅の地の底で、姿はもうなくなってゐるに違ひないが、一たび生を享けたものに、その跡が遺らぬ筈はない。玄関前の、塀際の支那鉢のあたりで、猫の小鈴の音がするのは、クルや、お前か。お前の鈴の音だらう。」という最後の文章に、涙腺がやられてしまいました。

 最後の一篇では、すっかり年月がたち先生も高齢になってしまわれたせいか、ノラが家を出て行った日付の記憶が違ったりしているのですが、それでもノラやクルツに対する思いは少しも薄らいだりしていないのです。

 はっ、閣下、ひょっとしたら今閣下は、百閒先生がノラを思うような気持で、「下僕よ、どこで迷っているんだ、早く帰っておいで」と心配されているのではありませんか。下僕は迷ってなんかおりません、もうすぐ帰りますから、どうか心安くしていてくださいませ。あー、どうやったらそれをお伝えできるのか。脳内伝達がうまく届けばいいのですが。ひょっとするとノラもこんな気持ちで、どこかの家の庭先から百閒先生に脳内伝達を試みていたのかもしれませんね。

 

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