Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

2019年9月9日・10日 対談 最果タヒx町田康 @ラジオエルメス

 

 

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まめ閣下:なぁ、おい。諸君。

下僕:なんでございますか。

まめ閣下:なにかひとつ、やるべきことを忘れているのではないか。

下僕:忘れている? 何のことでございますかね?

まめ閣下:この前のラジオ、内容をまとめるとかなんとか言ってなかったか。

下僕:あ、いや、はぁ。

まめ閣下:思い出したらさっさとやりたまへ。

下僕:それがねぇ、なかなか内容が濃くて難しいんでございますよ。一生懸命聴きながらとったメモを今も見返してはおるんですが。

まめ閣下:全部要約しようとしてるからできないんじゃないのか。

下僕:はぁ。

まめ閣下:それは諸君が内容をきちんと理解しておらないから、できないのだ。全部を簡潔にまとめられるような話ではないし、そもそも会話というのはまとまらないものなのじゃないかね? 変に捻じ曲げて薄ーくして、全部まとめたような気になっておってもしかたなかろう。

下僕:至極ごもっともでございます。

まめ閣下:そもそも諸君はオツムの出来がアレなのであるから、多くは求めてあらない。自分のために、大事だと思うことだけちゃんと残しておけばいいではないか。

下僕:あい、では、そのお言葉にしたがって、備忘録みたいな感じでやらせていただきますです。まずはこれを貼っておきます。この対談についての最果タヒさんのツィート:

「読書から離れていた十代の私を、本の世界に引きずり戻したのは町田さんの『告白』です。町田さんの作品を読むことで見える、言葉が人の脳から出てくる感じ。生っぽさ。書く快楽と読む快楽が、極限まで一致するような文体が、私には言葉の本質として映っています。人は誰もが言葉を読むし、書きます。だから、言葉を読む間も、誰もが脳内でどこかその言葉を書いているつもりなのかもしれない。町田さんの作品を読んだ時の、書くことと読むことが一致する快感は、私の頭の中で、今も最重要の指針として、在り続けています。」

 

というわけで前半は、最果さんが町田さんに小説の言葉についていろいろ訊ねるわけです。以下印象的なやりとりを。

最果さん 小説を読めなくなったきっかけというのが、たぶん小説が語られている言葉の「しらこさ」にあったんじゃないか。昔から人にサービスするためにしゃべることができなかった。「告白」を読んで、文脈を超えたところにある言葉に気づいた。小説は通常登場人物が話者になるものだけれど、町田さんの小説は出来事自体がしゃべっている、世界がしゃべっていると感じた。落語の語りに近い、でも読むものとして存在している。つまり、発声する快楽に基づくものでないもの。詩は、快楽を軸にして登場人物の意識の流れで世界を書いてきた。 世界からの反射というか。変換する速度がすごく速い。物語は異物だった。書く側と読む側の速度が違う感じがする。町田作品は世界自体が言葉ではないかと思うけれど、それはどうやってるんでしょうか? 

町田さん 「説明するための言葉が物語には必要なので、おそらくそれが最果さんが本が嫌になった原因じゃないのかな? 説明のためにはあらかじめ意味が限定された言葉を使って進んでいく必要があるから」
「歌詞を書くときは、一人でやる自分の世界とは違う。人の都合が入ってくる。曲を書く人とか。そういう制約の中で、快楽があるように作るのが歌詞。意味を絶対的なものに据えると快楽がなくなるし、快楽を絶対的なものに据えると何を言っているのかわからなくなって、意味がないことに人間はどこまで耐えられるかの実験になってしまう。舌にのせる快楽と人に伝わる意味、どちらかひとつ、二者択一ではなくてふたつが相互に絡み合うもの
最果さん 「音楽の言葉がもっとも自由と思っていた。意味がとんでも誰も気にしない、瞬間で終わっていく。快楽に身を寄せやすい。英語でもいいし、メロディあるからなんかわかる気になる」
町田さん 「音楽には、ただ疼痛のような快楽がある。歌詞だけ聞いてるかというと、ちがう。楽器の演奏が空間を埋めているわけで、これは意識的にやるもの、そこまで感情に寄っていない。自分が歌詞を書くときには、まったく自分というものがない。自分ならではのもの・作家性というのはない。」

最果さん 「入り込みすぎて書いたものは、情景はっきり覚えていすぎて、自分の気持ちでなくなった瞬間に水道管みたいなボーンボーンってただ響くような、いい詩ができる」

町田さん 「そういうふうに考えると物語は白々しい。物語は作者がコントロールしないとできない、説明でなりたっている。解決しないと気色悪いというのがあって、読む人を納得に導く必要がある。物語と言うのは因果、つまり原因と結果・道筋を書いていくものであるから、読者は川べりに座ってただ川が流れていくのを見ていてもおもしろくない。読者は川下りをやりたいのである、変わっていく景色を見たいのである。」

最果さん 「納得したいというのは、日常に納得がないからじゃないのか? 多くの人に物語がなぜ求められるのか? 日常に物語のような納得が実はないからではないか?」
町田さん 「納得できないことがあるから物語を要する。根源的な謎、一番大きいのは死。なんで人は死なねばならんのか、納得いってない。だから物語が必要。だから「あー罰当たった」とかなんでもいいから理由に落とし込む。作者には2種類あって、書くときに面白いの作りましたよ面白い景色見えますよ、って作られたものは、白々しいし飽きてくるアトラクションみたいなもの。もう一つは、別のことやるタイプ、自分が納得したいから、自分がわからないから、わかりたくてやる人。だから結論わからんまま書く。小説も物語で、作らないといけないけどね、作ろうとして作るとしらこい。出てくる人の心を作者は全部わかっちゃうようなのは。自分がなんでそこで逡巡するのかわからないからそこを書く、というようなのは納得いくレベルが高い。そんなふうにして書いても、やっぱり最後までわからない、というような。」
最果さん 「小説は物語の顔をしていて不気味だと感じる。詩を書いてる者からすれば、自分が納得とかできないのに人を納得させようとかやばくない?」 
「説明にしないように、頭のなかをしゃべる言葉とかぐるぐるのままで書く。でもそれって登場人物のなかから世界を見ているだけで、世界を作っていない。「湖畔の愛」を読んで、自分が暮らしている部屋やテレビでやってることすべてが言葉で書かれてる気がした。語る側の快楽で書かれてなくて、読む側の快楽。そのなかに言葉の快楽がある」
言葉は石ころ、思ってもみない形をしている。その言葉を無数の人が読む。言葉を投げ込んだらその人なりの波紋ができる。その人は波紋を読む。自分はその波紋ができるだけきれいな〇になることを目指していた。町田さんはいろんな方向から石を投げて世界を作っている。そしたら一個ずつがきれいな〇を描いていても、いろんな方向から投げられたら それは小説じゃなくね? と思った。声にする快楽や意味の快楽があって、詩は言葉が勝手に意味を拾ってくるもの。自分の快楽で拾った言葉も、読んだ人の印象の蓋を開けてその言葉はそこでまた意味を勝手に拾ってくる。そんなことをしたら、物語もむちゃくちゃになるのでは? 昔、小説を詩のノリでかいたら編集者にしんどいですって言われた。」 
町田さん 「捨て石をどこまでやるか。狙ったところにいく石とダメだった石と、どこまで許容できるか。「宿屋巡り」には、言葉がまったくわからない場所に行って会話する場面が原稿用紙2、3枚続くところがあるんだけど、編集者に「わかりますか?」って訊いたら「わかる」と言われた。通じたんですね。通じようと思って書くと、音が出て通じる。通じたいときは通じようとして書けばいい。勝手にできる言葉には響く残響がある。どういうふうに響くかは(受け取る)その人次第。」
「言葉を自由に使ってるつもりでも使えていない。言葉はひとつでなりたっていない、一つの言葉は外の言葉につながっているし響いている。ずっと使っていた言葉の意味があるときふいに「ああこういうことだったんだ」とわかる瞬間がある。年寄りが何気なくつかった瞬間とか、誰かが音で言ってくれたときとか。文学のなかで読んでいて、意味よりの文脈の中で標本のようにとりだして自分のなかに埋め込んでしまっていた言葉、わかったような気になっていた言葉がつながる瞬間がある。」
「書くのも、音楽でいうところのミックス、みたいな作業だと思っている。全部の楽器がバランスよく響くようにバランスをとる。使いたい言葉いくつかあるわけでしょ。最果さんは、どの語彙を使うかどうやって決める?」
最果さん「意外、と思う言葉を使うことが大事
町田さん 「小説でも、自動的に出てくる言葉はつまらない。10代で小説おもろないと思ったのは、多くの文学が自動的な文学だったからでは? 常に更新していないと自分の言葉は死んでいく。
最果さん 「10代の反応スピードは速い。いくらでも受け身がとれる。高速で技を決めてくるものしか許せなかった。」
町田さん 「言葉は本来理路整然としてないもの。それを言葉にせざるを得ないから、自動的に出てくる言葉を使いがちだけれど、そうしていると意識も自動的になってしまう。それに抗うためには詩を書くとか、常に言葉を書くしかない。
最果さん 「「告白」で、最後「全部嘘でした」って言うけど、そしたら頭のなかの声まで消えた。言葉にしたら洗脳してしまう部分がわかった。話すのは相手がいる。その人に対して言葉にする時点で、それは嘘になる。でも頭の中で考えている時点で言葉に変換されてしまう。頭の中に言葉がない状態が想像できない。しかし自分の場合人と話す言葉は乏しくて、その違和感が小説を書くときの違和感に直結している。人に聞かせる言葉が乏しい。」
町田さん 「話し言葉というのは物語性薄い。空気を作っている。それをずっと書いていくというのはどうだろう。何もない、日常の、苦手な会話を書けばおもしろい作品になるんじゃないの? 独白は最果ワールドになっちゃうから、「 」つけて。」
最果さん 「たしかに「 」つけると、生きてる、人間って感じする。」
町田さん 「会話ばっかりだと話が進んでいかない。そこが楽しい。でも物語のなかの会話は、意味のある会話になっちゃってるからつまらない、しらける。
町田さん 「言葉のミックス、話してる時も入る、方言、敬語、統一されてない言葉。そのミックスの塩梅が大事、頭のなかでも本能的にも決まったものがある。そのバランスのまま書くのが正直なんじゃないか。でも読んだ人がどうとるかはわからない。」
自動的な言葉を避けて衝撃のあるものに置き換えていくのがミックス。古文現代語方言など混ぜる。速度というよりは音量のバランスかな。文章もリズムをとったり、息継ぎを入れるなど、直感的にその場の判断でやっている。」

「昔は詩を書くときに推敲の意味わからなかった。中原中也ものすごい推敲してる。なんで? と思った。自分が歌詞書くようになって、意味と響きをどうシンクロさせるか整える、それが推敲だと思った。自分の場合小説は直感的にやっていて、あとからミックスをやり直す(推敲)ことはほとんどない。」
最果さん 「推敲は怖い、悪くなる気がする。最近の詩は韻文じゃないから、読む人のスピードが速すぎて韻文は味わってもらえない。今の人たちはネットなどで頭のなかの黙読増えてるから、流し読みになってる。噛まずに飲み込むようになってる。だから韻文効きづらくなってると思う。それでもよくわかんないけど、リズムとか音とか気持ちよくなるものがある」
小説だったら推敲したくなるような文章は消す。一からやり直す。書くときも読むスピードで書いてる。」
町田さん 「口に出して言いたいことすぐ書いちゃうところがあって、舌先に転がして快感のあることば、例えば「うどん」とかやたら書いたりして。うどん好きなんですねって訊かれるけどそうではない。」
最果さん 「わたしもよく急に変な単語言って驚かれてた。書くようになってそれが収治まった。」 
町田さん 「僕も小説書くようになって楽になった、本読むような人が今まで周りにいなかったときは、文章的な言葉が通じなかった。こっちが語彙をセーブしてしゃべらないといけなかった。わけわからんこと言う、残念な人扱いされてた。でも小説書くようになったら、みんなわかる。元居た世界がひどかったんだって気づいた。」
最果さん 「本好きな人はしゃべってるとわかる。熟語でしゃべる、とか。ずっと、文脈がない・ずらずらっとしゃべってしまうとか言われていたので、書いたら読んでもらえるのがびっくりだった。」
町田さん 「小説を書こうと思った時、とりあえず枠は無しでやろうと思った。ルール無視。これが小説かどうか自分でもわからなかった。終わりは、全体の流れを考えていてこうなったら終わろうというのはあった。できあがったのは当初の構想とはまったく違ったけど、一応、考えてはいた。」
「小説は因果関係の流れ、こうなったらこうなる、というのがある。理屈で説明がつかないことを起こそうとしているわけだから、どうやったらぎりぎり自分が納得できる説明におとしこめるか。そのときに文体がエンジンになった。自分の文章だけを信用していた。この世から外れた人の因果を書くわけだから。人間として不自然なことはしないが。」
最果さん 「文体が動いて先走って連れてってくれる。追いかけていく」
町田さん 「石牟礼道子さんの「苦海浄土」という作品、登場人物の話すのも何を言わすかでなく何を話すか聞く感じ。自動的でない言葉を使っている。実際的には翻訳のようなもので、動物や話せない人、言葉を持たない人の言葉の翻訳をしている。憑依といってもいい、その中間。」

最果さん 「歴史もの読んだとき、町田さんのは主人公が生身の人間じゃない感じ。理解できない他人に引く感じがある。憑依したら、共感してしまうから、こういうのは書けないと思った。」
町田さん 「いや、憑依される感じ、義経なら義経になる。もともと自分が引かれる感じあるからか。12世紀の人たち、殺人が商売で日常、笑いながらやってる。とはいうものの人間だから根底は変わってない。表面上コーティングされているけれど状況が変わるとすぐそういうふうになる気がする。正しいかどうかはわからないけど本質は耳を澄まして聞き取りたい。」
「元のあるものというのは、最初は古事記のパロディやった。古い日本語が好きだったし、音楽を聴くみたいな感じで意味わからないしすらすら読めない、でも好き。平家物語みたいな語り物もあるし、漢文はリズミック。見てて字の並びとか音楽聞くみたいに好きだったので抵抗なく入れた。これを自分の言葉でなんとかしたいなという気になった。小説でもなんでも、自分の言葉で料理したいなと思うこと」
最果さん 「百人一首を詩にするのをやったけれど、大変だった。わからないところが多すぎた。歌の意味は諸説あるし、自分で見極めるとつまらなくなる。解説になるからつまらない。でも、土台あるせいでよけいにもぐらないといけないのがおもしろいなと思った。」
町田さん 「翻訳と翻案の違いというのがある。どこまでやっちゃっていいのか気になる。たのまれたときに確認して、やっちゃっていいって言われたら好きなようにやる。宇治拾遺物語のときはあんまりやらないで、と言われた。一応翻訳だったから。日本文学全集だし。現代語に置き換えただけだが、やってて面白かった。」

 

下僕:はぁー。やっぱり抜粋みたいになっちゃいました。ここがとくに響いた、ってところ色変えときました。

まめ閣下:なんか納得いかんな。手抜きっぽくね? (←最果さんの語調で)

下僕:たぶん、なんか消化不良なんでございましょうね。だからもうこのまま自分のためのメモとして残しておきますよ。下手にわかったような気になってそれでおしまいにするよりも、わからないものをわからないままにしておいて、ずっと考え続けるっていうのが大事って、保坂和志さんもおっしゃってましたからね。

 まめ閣下:ま、そういうことにしておこう。