Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

2019年9月28日 講演「意味と響き、音と言葉について」町田康@明治神宮 参集殿

まめ閣下:なんだか諸君は今日はずいぶん慌ただしく過ごしていたんじゃないのかね? 朝からバタバタとちっともじっとしておらなかったではないか。何度も出かけて帰ってきたと思ったらまたすぐ出かけてまた帰りは夜中か、と思っておったら今日は早かったけどな。

下僕:あい、明日は例の会がございますのでその準備やらなにやらありまして。でも午後のお出かけはこちらでございました。

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まめ閣下:なになに、「第40回全日本短歌大会」? 諸君が短歌に興味があったとは初耳だにゃ。

下僕:あいや、まったく門外漢ですよ。百人一首はやりますがね。ほら、式次第、よく見てくださいよ。講演、講師・町田康先生ってあるでしょう。

まめ閣下:なんだ、また「康さん病」か。

下僕:まぁそういやな顔しないで。演題がいいではないですか。

まめ閣下:なになに。「意味と響き、音と言葉について」。最近わりとこのテーマで話しているような気もしにゃいではにゃいが。

下僕:まぁ、もともと歌手であり詩も書いてきて、今も作家だけでなくバンドで歌ってる方ですから、きっとご自身にとって根源的・中心的なテーマなんですよ。

まめ閣下:まあよい。で、話の中身はどうだったのかにゃ。

下僕:はいはい、まずこちらがレジュメでございます。今回はわりときっちりレジュメがありましたし、ちゃんと時間内に最後までお話を終えることができましたよ。

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まめ閣下:最後は駆け足だったんじゃなく?

下僕:今回はなんかきっちり構築された予定通り充実の内容でお話されていたのではないかと。それなりに寄り道もあったんですけどねぇ。時間超過もなしで。やればできるんですねぇ。まあわたくしはどこまで超過していただいても大歓迎ではございますがね。

まめ閣下:おほん、諸君もそれに倣って予定通りかっちり話を進めたらどうかね。

下僕:はいはい。最初はロックのリズムに日本語の歌詞を乗せる難しさについて。これはこれまでもあちこちでまとめてるんで、過去の記事読んでもらったらいいかと。ロックはもともと英米オリジンのものを輸入したものだから音楽自体は比較的それらしくできても英語みたいに日本語をのせるのはやはり母音が多い構造上難しいですよねって話。伝統的な七五調みたいなのにすると調子はいいけれど演歌っぽくなっちゃう。日本語の歌詞にしたとたんに、親戚とか近所のおっさんの顔とか浮かんできてしまって、ロックの風情がでない、要は意味がわかりすぎてかっこ悪、ファッショナブルでない。となると、意味とか無視して音として聴こけるように詞を書くという方法に行きつく。つまりロックっぽい歌詞というのは「南蛮鴃舌」というものになっていきがち。自分でもそんなやってみたけどどうもピンとこなくておもろなかった。それでどうなったかというと、別にロックでなくていいやん、風情いらんやん、ということになった。別のやり方で始めようとなった。これってつまり、「汝、我が民に非ズの音楽」ですよね。
で、今実際に町田さんがどうやって歌詞を作っているかって話になりました。詞が先か曲が先かというのはたいていは作詞家と作曲家の力関係で決まるんだけど自分一人で両方やる人なんかもいる。そういう人はどうするか。椎名林檎なんかは曲を書いてるときは詞のことは考えない、手ごころくわえてしまうからと言っていた。詞を先に書くようなときは曲のことは考えない。自分がやりいいように加減してしまっていいものにならないからということでしょうね。町田さん自身も以前はギター弾きながら歌詞書いたりもしていたけれど、あんまりおもろくなかった。それで今は作詞のみ、バンドの他のメンバーが作った曲に詞をつけるという作業をしている。曲先というやつで、これは曲のほうが力関係として上にあるわけですからもらったメロディをいじらずに詞を書くわけです。最初のうちはメンバーもまあ、やりやすいような曲を出してきてたのに、だんだん言葉をのせるのが難しい曲をよこすようになってきたんで、やったろやないかって気になった。やり方としては、もらった曲のメロディを憶えて脈絡とか考えずに適当に言葉を当てはめていく。デモテープでメロディを歌ってる〽たりらりら~、とか〽らららら~、とかいう仮歌ってのが意外に重要で、この母音と違う言葉をはめようとしてもうまくいかない。そうやってまあメロディに言葉を当てはめて、リズムだけ合っている言葉が並んでいくけれど、そのままだと意味のない言葉の羅列でどこかで先に続けていけなくなる。そうなったらどうするか。全体を眺めて、核となる言葉というのがいくつかみつかったら、そこから景色や物語が見えてくる。そうしたら、核と核の間を埋めていく、繋いでいく。言ってみれば小説的作法。(詩には間を埋めるという作業が無くて核の言葉だけ。)それをメロディに合わせていかなければということで、選択肢は狭まっていくけれど言い換えればそれは焦点が定まってくることである。たまに核と思ったのが間違っていることがあってどうしても物語が立ち上がらず、その時は最初からやり直す。

この過程が「響き(メロディ)が言葉を呼び寄せる。言葉から意味が生じる。意味から物語が生まれる」ということなんだとわたくしは理解しました。そのために必要なのが語彙と世界観。語彙といってもただ単語を暗記してるというようなものじゃなくて、自分の身体的感覚から発してきっちり使いこなせる言葉のことで、それはその人の世界観そのものである。

歌の力とはいったいなにか。たとえば河内音頭。譜面を見たり歌詞を読んだりしても絶対にわからない。血が滾って出てくるものが魅力。大岡正平の「俘虜記」のなかの炊事場を作るエピソードも交えつつ(設計図では見えない実際の寸法というのがあるんだという話)、譜面には表れないところ、実際に音と言葉が混じりあって分かちがたくなってこそいい演奏になる、ノリが出てくる。音楽でも、レコーディングのときに、一人一人別録りして完璧なものを積み上げていくやり方と全員一緒に一発録りでやるのとあるけれど、後者のほうにはノリがあるし突然素晴らしいものが生まれてきたりする。その時は必ず音と言葉、意味と響きは二人連れで、というか合体してやってくる。行ったり来たりするうちにだんだんと深まってきて、焦点が絞られてくる。今やってる香港のデモでも歌が歌われてそこに特別な力が生まれているし、古今和歌集の仮名序にも歌の力について書かれている。歌には確かに人間の心に働きかけ意識を変えてしまうような力がある。だから魔力にもなりうる。

歌というのはメロディがあるわけだからひとつの形式である。形式があると自由が失われると考える人もいる。前に「小説教室になんか行ったら型にはめられてしまうんじゃないか?」と質問されたことがあったけれど、型を知ってから壊すのと最初から壊れているのとは違う、と答えた。そもそも人間てそんなに自由だろうか。どうしても避けられない死というものがある以上、そんなに自由はでないし自由がないというのがそれほどおかしな状態でもない。形式によって生まれる自由というものがあり、形式によって越えることができるものがある。それは「自分」である。たとえば歌詞。メロディという制約のもとで生まれてくる詞は、自分という枠を超えて生まれ出てくる。結果的に制約があることによって自分が思いもよらなかった世界が生まれるということ。

わたくし、この最後にとっても共鳴したんです。小説でもそうだな、って思うことがあって。まあみんな何か作ろうとする人はとかくオリジナリティにこだわりますよね。小説も、自分の文体とか、自分の世界観とか、自分らしい作品、とか。でもそうやって自分にこだわってるうちはすっごくつまらないものしか書けないんですよ。自分という小さな器を捨てないと、大きな世界を生み出すことはできないんだよね、ってこのごろ考えていたものだから。 ん? 閣下? もしもし? 起きてます?

まめ閣下:う、あ? ふうわぁああ、話は終わったのかにゃ。

下僕:もう、こんな熱のこもった話をしてるっていうのに、寝てたんですか!

まめ閣下:しかたにゃいじゃないか、予は猫であるから、集中力が長く続かないのだ。

下僕:あ、そういえばこんなすごいお話のさなか、後ろのほうから時折大きな声でくっちゃべる声が聞こえてきて、肝心の町田さんの話があちこち聞き取りにくかったんですよ。講演中、私語はやめてほしいです。お年を召した方たちだったようなので、たぶんロックの話とかわかんなかったのかなって気もしますが。

まめ閣下:そりゃいかん。それよりは寝ているほうが静かで罪がないぞ。

下僕:うーん、眠気はしかたないのかもしれませんが、前のほうに座って居眠りって方もありまして、あれはどうなんでしょうねぇ。

まめ閣下:まぁ、猫だと思えばいいではないか。

下僕:でももったいないじゃありませんか。あのような素敵なお姿を拝見しているというのに。今日もしゅっとしたモノトーンチェック柄の細身のジャケットとジーンズ姿で、途中暑くなったのかジャケット脱いで黒長袖Tシャツ姿になられて。そうそう脱いだジャケットをそのまま床に投げ捨てちゃったのが、わたくしとしては「あ、そんな。そばに椅子があるのに。今わたくしが拾ってそこに」とちょっとおたおたしてしまいましたよ。

まめ閣下:はいはい、勝手にせい。

 

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