Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】第163回芥川賞受賞作「首里の馬」高山羽根子「破局」遠野遥

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まめ閣下:下僕よ。昨日は昼過ぎからずーっと、例によってあの四角い板に向かってくっちゃべっておったようだにゃ。

下僕:いい加減おぼえてくださいよ、閣下。あれはパソコンという機械の画面で、わたくしはただ板に向かって話していたわけじゃなくてオンラインでつながっている人たちと会話をしていたのでございますよ。昨日は、恒例の小説塾の日でしたからね。

まめ閣下:ふん、そんなことはよくわかっておる。ただいつもより時間が長かったなと思ってな。

下僕:あ、はい。この一年半ほどで塾生の数も増えて作品数も1回の授業に収まり切れない状態になってきたので、ちょっと開催方式を変更したんです。まぁ、詳しいことはここでお話してもしょうがないので割愛しますがね。で、変更のかいあって生徒作品の講評が終わってからも少し時間がとれるようになったので、今回は芥川賞受賞作について話し合いました。なにせこの塾の講師N氏は、高山さんの通った小説教室の講師でありますしね。昨年の候補作「居た場所」も、この小説塾で取り上げました。そういえばあのときの内容は閣下がおまとめくださったのではありませんか!

まめ閣下:そうだったかにゃ? もうそんな些事は憶えておらんにゃ。で、今回の作品評はどうだったんだ?

 

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下僕:「首里の馬」についてのN氏評は非常に高いものでしたね。ここまで書ければ見事、現時点での集大成ともいえる作品だとべた褒めでした。沖縄の首里にある私設の資料館という設定、オンラインで繋がる顧客にクイズを出すという不思議な仕事という設定、このふたつまではまあ書けるだろう。でもそこに「宮古馬」が出てきて作品世界が大きく動き出す。これは普通書けない、と。未名子という名前は、「未だ名前のない」という意味がこめられているとN氏は言ってましたが、その主人公が情報を集める資料館で働き、「情報」が「記録」され「記憶」となり「普遍的なもの」「歴史」に繋がっていく、という作品世界が見事に描き出されている、とおっしゃっていました。

まめ閣下:N氏にしてはめずらしいことなのかな?

下僕:はい、そうですね。でも高山さんのことは以前からずっと推していらっしゃったから。「居た場所」までは、草稿段階でN氏の教室に提出されていたらしいんですが、それ以降の作品は出版されてから読むという感じになっていたようで、この作品の完成度の高さに驚きもひとしおだったようです。

まめ閣下:貴君はそれで、どう感じたのかにゃ?

下僕:はい。最初はなんとなく説明的な入り方だなと思ったりもしたんですが、途中からこの作品は素晴らしい、と、興奮して一気に読み終えました。実は、「居た場所」は徹底的に具体的な情報を排除して書かれているようなところがあって、わたくしのごとき愚鈍な読み手にはちょっとわかりにくいところがありまして、それは決して作品自体の魅力を損なうものではないのですが、いまひとつ深く理解し心に響くというところまでいけなかったというのが正直なところでした。読解力のテストを受けているような。あえて壁を作って乗り越えられる読者だけ来たらいい、と言われているような感じを受けておりました。それが、今作では読者に対して「開かれた」印象があります。地名も具体的に出てきているし、クイズの顧客たちの状況(どこの地域でどういう団体に人質になっているかとか)や、順さんの過去に類似するカルト的な集団というのも、現実に即して推測できるようなヒントが十分与えられていますし。わかりやすくなった分、物語にどっぷり浸ることができました。未名子を始めクイズの顧客たち、順さんなど登場人物それぞれの深い孤独が美しいほどで、今のわたくしには心地よかったです。だからこそ、馬という生きて体温もある存在へ覚えるほのかな愛着というのが際立ってみえ心に響いた。たくさんの人たちのそれぞれの孤独を描きながら、ひとつの大きな物語に収れんしている。これは作家自身に「大きな世界観」があってこそ生み出せるもので、作家の器の大きさを示していると思いました。余談ですが、主人公の前職がテレホンオペレーターだったというのが、もう一人の受賞者の遠野遥さんのデビュー作「改良」とも通じていて、なんというか、これが今という時代の象徴なのかしらなんて思ったりもして。

 

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まめ閣下:その遠野氏の作品のほうはどうだったのかにゃ?

下僕:わたくしは非常に面白く読んだんですよね。文藝賞受賞作「改良」を読んで、若いけれど小説の構造というものをよく知っている巧みな書き手ではないかと思っていたので、一見すると平易な文章で描き出されていく主人公の内面のなさも作者の企みがあってのことだろうと思って読み進めました。主人公陽介は、自分の感情を言葉に表さない。感情はあるけれどみないようにしているのか、本当に感情を抱けないのか。快不快、肉体で感じられるものだけがある。陽介の行動規範は、「マナー」や「父親から言われた」こと。他者にどう受け止められるかが基準になっていて、その基準に対して「なぜそうなのか?」「本当にそうなのか?」と自問することはない。おそらくこういう人は実際に近くにいたら「実に感じのいい青年」と感じるのではないかなと思いました。それに対して友人の「膝」は、ごく普通の一般的情緒を持つ人物として描かれている。別れた彼女麻衣子が自分の幼児期の恐ろしい体験を語るところから小説が一気に加速していく感じを受けました。「改良」のときの公衆トイレで暴行されるシーンと同様、すごく怖いんです。で、内面がないなりにうまくバランスをとっていたはずの陽介のバランスがだんだん崩れていく。指導していた後輩たちが自分について言っている陰口を偶然耳にして、そのとたんにハンバーガーが選べなくなる、とか。頭痛とか吐き気とか、体調の異常としてその変化は現れてくる。その苦しさが、警察官に取り押さえられるラストでようやく楽になる、見上げた青空にカタルシスを覚える。という構造も上手いなと思いました。出てくる女性たちは二人とも怖いし。とにかく主人公のこんな人物造詣を作り上げるなんてすごいや、と思っていたんですが。

まめ閣下:ですが?

下僕:インタビュー読んだら、どうもなんだかそれが作家の「地」みたいなんですよね。ナチュラルに人間はそういうもんだと思って書いてるみたい、と感じてちょっと愕然としましたよ。わりと自分に近いところで書かれた主人公。まあそれはそれでちょっと怖いですが。

まめ閣下:おほん、おぬしはやっぱり愚であるな。インタビューなんて本当はどうかわからんというのを何度言ったらわかるのかにゃ? 言ってもいないことを勝手に書かれている場合もあるし。つぎはぎされて本来の意図とは違う文脈になっていることも多々。さらに言えば、作家が自身のことについて語ることほど作り話である可能性が高いものってのが常識じゃにゃいか。

下僕:ああ、たしかにそうでございました。じゃ、そこまで企てている可能性もあるというわけでしょうか。

まめ閣下:そりゃわからんけどな。とにかく、なんでもかんでも書かれていることをばかみたいに信じないことが大事である。

下僕:ああ、そうそう。こういう人物造詣についてN氏は「みんなこれが新しいとかいうけど、三島が書いてるよね」とおっしゃってました。言われてみればそんな気も。

まめ閣下:ふむ。N氏の言うことだから、インタビューなんかよりは確かなんじゃにゃいのかな。

 

[読書会]2020年7月11日「老妓抄」岡本かの子

下僕:ねぇねぇ閣下、しばらくぶりにブログ更新しましょうよ。週末にオンラインで読書会やったんで。

まめ閣下:おっ、ようやくその怠惰な腰をあげたのか。

下僕:だってやりたくても材がないんですよ。疫病がいつまでもだらだら居座ってやがるもんでね。

まめ閣下:本はせっせと読んでおるようだが。

下僕:うーん、本に関してはですねー、わたくしめの愚な感想だけつらつら書いてもねぇ、なんかいまひとつじゃないですか? そんなもん、誰も読みたくねぇよって言われそうで。

まめ閣下:このブログだって然り。

下僕:まぁそう言ってしまえば身も蓋もござんせんが。でもなんていいましょうか、自分一人の考えをばぁーって言いつのるっていうんじゃなくて、外側から何らかの刺激を受けてそれによってまた自分のなかで生まれたもの、みたいな形じゃないとおもしろくないって思うんですよね。動かない水面だけ見ていたら退屈だけれど、投げ込まれた石によって生み出された波紋は面白いでしょう。

まめ閣下:何を言いたいのかちっともわからんが、まあ話を進めたまえ。

下僕:はいはい。今回の読書会で取り上げましたのは、こちらでございます。

 

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下僕:岡本かの子さんについてわたくし無学ゆえこのたび課題に取り上げられるまでまったく存じ上げませんで、恥ずかしい限りであります。その作品の素晴らしさはもちろん、岡本太郎さんのお母様であり、岡本一平氏の妻であるというのでも有名らしいですね。

まめ閣下:まぁ、貴君の無学は今に始まったことではないからの。

下僕:はぁ、すみません。で、今回はこの短編集のなかから、表題作の「老妓抄」、「鮨」「東海道五十三次」「家霊」「食魔」の5作を取り上げました。参加者は8名、それぞれに作品ごとに感じたことや好きな表現、とくに好きだった作品なんかを述べ合うというのはいつもどおりでございました。自分と同じような感じ方もあれば、まったく違う読み方もあっていつもながら刺激になります。課題を提案してくださった方ともう一人、岡本かの子のディープな読者がいらっしゃって、そういう話も興味深かったですね。

まめ閣下:そういうさ、なんていうか表層的な、っつーか何か言っているようで実のところ何にもいっていないみたいな話はべつにいいんではないかの。

下僕:ぎ、ぎくっ。す、すいません。ざっくりまとめようとするとそうなってしまうんですかね。じゃ、じゃあ、わたくしの感想を中心に述べて、そこに他の人の話などで得られたものを加えるって感じでいきましょうか。

まめ閣下:うむ。

下僕:古い作品ゆえの言葉づかいがなにせ素敵なんですよ。今はあまり見聞きしないような言葉や、時々読み方すらわからないような単語も出てきたりして、それだけで異世界に飛ばされます。またあちこちにハッとするような素晴らしい表現や描写があって、そういうところにまず魅了されました。たとえば「老妓抄」最初のほうに出てくる、「こうやって自分を真昼の寂しさに憩わしている」なんてのとか。それと老妓の複雑な人物造詣。「若い女の造詣は案外おとなしくて普通」という方も何人かいらっしゃいましたが、わたくしは「鮨」に出てくる鮨屋の娘・ともよなんかも、商売屋の子どもらしくちょっとすれたような人を見透かすような視点があると感心しました。その視点はすなわち書き手のものであって、決して通り一遍ではない、深く人を見る目に透徹したものを感じました。もちろん「鮨」の一番の魅力は、母親が食べ物を嫌がる息子に鮨を握って食べさせるシーンなんですが。この作品だけでなく、今回の作品のほとんどに、「何ものかになりそうだったのに、結局何にもなれないでいる男性」というのが出てきている、という指摘があり、わたくしもそれは感じました。その最たるものが「食魔」の主人公でしょう。これ、モデルが魯山人ではないかと言われていてみなさんそれをご存知か知らなくても読んだらすぐにピンときたとおっしゃっていて、わたくしはまたびっくり。またしてもわが無学を恥じることになりましたよ。しかしまあ読書においては、予備知識がないことも案外いい側面があったりもしますよね。まっさらな心で読めるというか。

まめ閣下:またそうやって都合のいいように言うなあ。

下僕:はは、すみません。しかしかの子さんは有名人ゆえ、いろんな情報をすでにもっていた方々は、「ぶっとんだ天才」「派手で奇抜な人物」というイメージだったらしく、実際作品を読んでみると「案外普通・まともなんだ」と驚いていらっしゃいましたよ。わたくしはどの作品に出てくる人も、あんまり「普通」とは思えませんでしたが。そういうところも、読書の面白さですよね。

で、「食魔」。最初はちょっとこの主人公の人物造詣があまりに身近にあるもののように思われて(つまり自分の近くにもそっくりな感じの人がいたぞというひりひりした感触)読むのがつらいほどだったのです。しょせんニセモノでしかないのに、自分を買いかぶって大きく見せようとして、つねに他者を見下そうとしたり傲岸不遜な態度に出たりする、嫌な奴。でも内実、無学ゆえのおのれの空疎さをよく自覚している。芸術に対して痛いほどひりひりとした憧憬を抱いているけれど、どうやっても自分はそこに到達できないというのも、認めたくはないが知ってしまっている、というような。

それが、霰の降りしきる庭の闇をみつめながら過去の回想にふけるあたりから、ぐっと普通の人間的な、よくわかる話になっていきます。最後のほうになって、どうして主人公の現状に至るのか、いくつかの謎がとかれるように明らかになっていくのは物語としての高揚がありました。芸術に対して強く憧れを抱きなんでも器用にそれなりにこなしている主人公ですが、料理以外ではどうやっても本物になりえない。芯の部分に空疎なものがあることを自認しそれに苦しんでいる。でも病気で死にかけている友人にせがまれ、その癌の瘤に主人公が人面を書かされるシーン、けっこうグロテスクだし主人公も嫌で苦しみながらそれをやるんですが、わたくしはこの主人公が最も真の芸術というものに近づいた瞬間だったと感じました。回想のなかで、どうも岡本夫妻ではないかと思われる画家とその妻が登場し、彼の作品や料理について批評をする。その批評を穿ってしかとれないひねくれた心が、長い回想を経てそこに込められた真実について認め始めるという展開、また最後にたどり着くのが、幼いころから苦しめられて憎んできた仏教の境地である「無常」であり「不如意」を受け入れるというところも、物語として非常にうまくできていると思いました。まあ、こういう人物像はわたくしが感じたもので、魯山人がモデルだとか知っていたら、そういう人物像をわたくしが主人公に抱いたかどうかは怪しい。知らないからこそ、文章から受ける印象だけで読むことができたものだったと思いますね。

課題を提案された方によると、かの子さんが活躍されていた時代は文壇でも芸術界でも「女なんて」と馬鹿にされていた時代で、どこに行っても「一平の妻」という扱いしか受けなかった。作品の評価も、「よく作ったものだ。だが女がこんなこと知りえないだろう。」という目で見られていたのではないか。ということでしたね。全集の丸谷才一さんの解説も、今読むとそういう目線が感じられる、と。しかしかの子自身は、パリに遊学してその時代集まっていた芸術家たちのデカダンを自分の身で感じ取って書いていたのだ、わからなかったのはむしろ日本の男どものほうじゃないのかな、と。そして「食魔」の主人公は魯山人がモデルと言われてはいるけれど、その心情的な描写には、彼女自身の、芸術に対する飢えにも似た切々たる思いのすべてを詰め込まれているのではないか、という言葉にいたく共感いたしました。小説を読む喜びというのは、素晴らしい描写や文体を楽しむというのもあるけれど、一番はやはり筆者の思考の流れを、読み進むことによって一緒に体験するというところにあるんではないでしょうか。作者にはおそらく最初からそのような考えを描こうという意図はなかったものが書くうちに形となって流れ出てくる、それが小説であって、その過程をともに楽しむのが読書である、とわたくしは思いましたよ。

まめ閣下:にゃるほど。なかなか新鮮な読書だったようだにゃ。

下僕:はい。古いからこそ新鮮な発見もありますね。さらに、知らなかったからこその発見もありますよ。

まめ閣下:うーむ、確かに情報というのは時に目を曇らせてしまうこともあるが、貴君のはただの勉強不足、単なる怠惰であると思うがにゃ。

 

 

【読書会】2020年5月30日 レイモンド・カーヴァー「大聖堂」ほか

まめ閣下:下僕よ。昨日も何やらにぎやかだったな。一人で四角い画面みたいなのに向かってなにをべらべらくっちゃべっておったんにゃ?

下僕:やだ、閣下。あれはパソコンではありませんか。わたくしめが毎日毎日黙々と作業している機械でございますよ。

まめ閣下:それはわかっとるわ。それで何をやっていたのかと訊いておる。

下僕:今流行りのオンライン会議ってやつで、読書会やってたんじゃありませんか。課題図書はこちらの短編集から、「ささやかだけれど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂(カセドラル)」の三作品を取り上げました。

 

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まめ閣下:カーヴァーといえば貴君が先日、「非常事態をくぐりぬける文学とは」と言って紹介しておったやつじゃな?

下僕:さいで。しかしあの記事を書いたころと、今の心持ちはだいぶん違っておりますね。4月の上旬は今から思うとけっこう追い詰まった感じがありました。この先どうなるのかまったく予測できない不安みたいなのが強かった。たぶん今よりずっと暗い未来を予測していたからでしょう。読書会の課題に推薦させていいただいたのはあのすぐ後くらいだったんじゃないかな。

まめ閣下:他の人たちは課題についてどう言ってた?

下僕:昨日の参加者は全部で7人、そのうちカーヴァー作品をこれまで1作でも読んだことがあった人はわたくし以外にお一人だけでしたが、みなさん課題として読めてよかったとおっしゃってました。気に入っていただけたようです。

まめ閣下:どんな話が聞けたのかにゃ?

下僕:作品ごとに感想を述べあったのですが、やはり翻訳が村上春樹さんであるということが全体としてかなり大きな影響を与えてましたね。翻訳者ってこんなに前面に出ていいもんなのかな、というとまどいもありました。あまりに「村上春樹的」すぎると。井戸、ジャック・ロンドンの「焚火」など春樹作品にも登場しているモチーフも出てきてるし、話の展開も春樹作品を思い出させるものがありすぎて。どっちが先かという話しになると刊行年などでみれば春樹作品のほうが先のようですけれど、単なる偶然の一致にしたらあまりに重なりすぎていて、それこそ「井戸の横穴で」とか「地下深くの水脈で」通じてしまったのだろうか、みたいなそれこそ春樹ワールドがまた広がってしまって。カーヴァーに限らず春樹訳のものは、どうしても村上春樹作品みたいになってしまうんですよね。そう感じるのは、読者がすでに作家としての村上春樹の文体に慣れ親しんでしまっているせいなのかもしれないですけれど。「風の歌を聴け」に登場する架空の作家デレク・ハートフィールドが実はカーヴァーとフィッツジェラルドを掛け合わせて作ったとかいう説もあるらしく、ひょっとすると若き日の村上春樹氏が原書で読んだカーヴァー作品に影響を受けたんではという推測もとびだしました。その辺りちゃんと年表を調べてないからいいかげんなこと言ってますけど。

まめ閣下:ふうん。まあそれは置いておくとして。作品ごとの感想はどうかにゃ?

下僕:じゃ、まず「ささやかだけれど、役に立つこと」から。これはわたくし的にはイチオシ作品だったんですがね。何度読んでも泣いてしまうという。しかし、そこまで感動はしないかな、という人のほうが多かった感じです。この作品は、比較的恵まれた生活を送っている夫婦が突然子どもを失ってしまうという前半と、その子の誕生ケーキの注文を受けたパン屋と夫婦の間にちょっとしたボタンの掛け違いから生じた感情的な対立を乗り越えていく後半に大きく分かれるんですが、その掛け違いのところにイライラさせられてしまう人もいましたね。「どうして最初にもっとはっきり言わないんだ」と。でもまあ小説としてはすごくちゃんと作られていて、豊かな暮らしを送る白人夫婦がこういう事態になるまでは、ごく自然に「自分たちとは違う種類の人々」を切り捨てて当然という生き方をしていたことが細かい描写によって示されている。たとえば妻はパン屋に不愛想な応対をされて反感を覚える。それは常に他の人から一目置かれて大切にされるのが当然だと考えていたからではないか。肌の色や外見、話す言葉などで看護師を分類し明らかに自分たちと違うようにとらえている夫婦が、息子の危機を通じて黒人家族に心を添わせていくことや自分たちと同じカテゴリーだったはずの医師に対して反感を感じていく様子などが決してあからさまではなく示されているのがよい。息子の死のやつあたり的にパン屋への敵意を募らせるけれど、パン屋にそれを真正面からぶつけて、パン屋もそれをきちんと受け止め彼らに自分の生活というものがどういうものかを語るのを聞くうちに、彼の焼いた甘いシナモンロールを口にする。匂いがわかるようになる。それまではかたくなに不快に感じていた「食べること」が、パン屋と向き合うことでようやくできるようになった。それが「パン屋」であることがとても重要に思える。パンは人が生きる糧のシンボルであるから、という意見もありました。そこでパン屋が話すことは、単に自分がどういうふうに仕事をしてそれに対してどういう感情を抱いてきたか、というようなことなんですよね。子どもを亡くした夫婦にはおそらく何も共感できるようなところのない話。それが凍りついていた夫婦の心を溶かしていくっていうのがわたくしにとってはとても胸を打つわけなんですけれど、この作品だけでなくカーヴァーは他の作品もやたら「しゃべる話」だな、と感じた方がいました。たしかに、誰かに何かをしゃべることで成り立っていく作品が多いですね。その方は、オチのない話を人に聞いてもらおうとするのは甘えだと思うのだけれど、カーヴァーの作品に出てくる人たちはそういう話を他者にすることであるいはそれを聞くことで、何かを癒されている。つまり話すことそれ自体が「ささやかだけれど、役に立つこと」なのかもしれない、と言っていて、はぁなるほど、と思いましたね。

まめ閣下:にゃるほどな。じゃあ次の作品は?

下僕:はい、「僕が電話をかけている場所」です。これはアルコール依存症の治療施設のようなところで主人公が知り合った男性の「話を聞いて」考えることが軸になっている作品ですね。最初の読書会でとりあげたのが、ルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引き書」だったんで、どうしてもみんなそれを連想したようでした。ルシアに比べると少し軽いというかうす明るい感じに書かれているように思われる。アル中の人たちにはどうしても甘えがあるように思えて「しっかりしろ」って思ってしまうという方もいました。依存症というのはなにか原因があってなってしまうというものでもなく、そして一度依存症になってしまったら全快はしない、という人があり、翻訳者の「解題」ではラストは「回復の予感がある」とされているけれど、この後には回復などはなく絶望しかないのでは、というのがわたくしの意見です。しかしその救いのなさこそがある読者にとっては救いになるとわたくしは思いました。また、友人JPが井戸に落ちてそこから空を見上げるシーンが印象的で、JPの奥さんであるロキシーが煙突掃除人だったことも象徴的であるということ、ロキシーがとても魅力的で、眩しい存在、外の世界の象徴のように感じられたというのはみなさん言ってましたね。あと、このなかにジャック・ロンドンの「焚火」やたばこの火など、「火」がたびたび登場してくるんですが、それは「動物的衝動」を表しているのではないかという方がいました。治療者であるマーティンはそれを制御できる人として描かれているが、主人公もJPもそれができない。ジャック・ロンドンもまた火によって破滅した人ではなかったか。また、主人公が突然大家が訊ねてきた日のことを思い出す場面で「自分があんな人間でなくてよかった」というような台詞をはくところがあるけれど、こんなふうに他者と比較することによってしか自分の幸福を確かめられない生き方というのはおそらくとても苦しいのではないか、それが依存症にもつながっているのではないか、という方がいました。ああ、あとですね、この話のもっとも素晴らしいところは最後の部分、主人公がガールフレンドに電話をかけようと考えている場面に突如ジャック・ロンドンの「焚火」が想起され、火について考えて、すぐにまた女房に先に電話をしようという考えに移る、その意識の流れの描き方、唐突なものを何のひっかかりもなく組み込んでいてそれがまた自然に感じられるところが素晴らしいと褒めている方がいましたよ。回復の希望とかそういうことを書いてるんじゃない、意識の流れを欠いているのだ、と。なるほどー小説とは意識の流れを書くものよねと思いました。この最後の場面は、春樹さんの「ノルウェイの森」思い出すよねって言う人がいました。「ささやかだけれど、」も「パン屋再襲撃」を思わせるし、とか。まあまたそういう話になるときりがないんですけど。 

まめ閣下:ふうん。聞いているほうもきりがない感じになってきたぞ。

下僕:はいはい、じゃ最後の「大聖堂」の話に移りましょう。表題になっているこの作品がみなさんの評価が一番高かったですねー。こんなことフィクションで思いつくものかな? というくらい突飛な設定にまずびっくりしたという人も。自分の妻が長年つきあっている盲人に対してあからさまな嫉妬心を抱く夫の差別的発言が激しすぎてむしろすがすがしいほど。そんな夫が盲人と一緒にいるうちに心持ちに変化が出てくる様子、あからさまに描かれていないところがいい。こんなトンデモ発言しつつ大麻とか吸いながらテレビ見ている人たちの話でいったいどう「大聖堂」と繋がるのか、と思っていたらまさかこういう展開、と驚いた人あり。盲人ロバートと10年来親しく付き合っている妻と、今日初めて会ったばかりの夫。その関係はあきらかにまったく違うのだけれど、長く付き合ってきたはずの妻のほうがじつはロバートを大事にするあまり盲人扱いしていて残酷かもしれない、何も知らないがゆえに無神経な質問をしたりする夫のほうが実はロバートにとっては安らぎになったりしている。夫は、いっしょに大聖堂の絵を描くことによってロバートと聴覚だけでなく触覚でひとつの絵を共有するに至るというのが象徴的だという意見におおいに頷きました。ラストの逆転が鮮やか、奇跡が訪れた瞬間というのを見事に描き切っている。また、自分は普段いったい何をみているんだろうと自問した人もいて、この話を読んで自分も目を閉じて大聖堂を描いてみたという人が二人もいたことに驚きましたよ。すごくないですか? 一番驚かされた意見は「これは小説家が作品を描くということのメタファー」というものですね。「見えていない人(読者)にいかに伝えるか」という悩みを作家というのは常に抱えているから、と。目の前が突然開かれたように感じました。最後は読者に伝わったときの感動を描いている、と。うわぁ、と思ったけれど、その「見えていない読者の手をとってともに絵を描く」というのは具体的にどういうことなのか、それについても書いてほしいものだと欲深く思ったりもしました。

まめ閣下:うぉほん、諸君、欲をかいてはいかんよ。予はそういう俗から離れた存在であるからあまり縁がないけれど、なんだ、ほら、うちに間借りさせておるあの三毛柄の小うるさい娘っ子なんざ、誰も盗らんというのにがつがつ急いで食べてはしょっちゅう吐き戻しておるではないか。

下僕:はぁ、あれはそういうことなんでございましょうか。

まめ閣下:まったく見ておれん。貴君がしっかり礼儀作法を教えてやらんからああいうことになるのにゃ。

下僕:はぁ、そうおっしゃる閣下だってさきほどからずいぶんゲロンチョゲロンチョされておるではありませんか。

まめ閣下:こ、これは、ちがう。毛玉だ。身だしなみに気を使い、つねに身づくろいを丁寧にするあまり、ときどき毛玉が腹にできてな。そもそも、そんなことにならぬようきちんと健康管理をするのが下僕の役目、下僕が怠慢だからこのような・・・

下僕:はいはい、わかりました、わかりました。とりあえず、かんぱーい!

 

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2020年5月20日 オンライン合評会に思う。文学はロックにゃ。

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下僕:はぁ、閣下。もう五月ですね。

まめ閣下:今ごろにゃにを言っておるのだ、もう五月も下旬ではないか。

下僕:そうなんですよ。新型コロナウィルスってやつのおかげで自粛生活ってのを続けているうちに、あれ?って気づいたらいつのまにか五月も終わろうとしていました。一年で一番好きな季節なのに、なんていうことでしょう。

まめ閣下:おかげでこのブログもネタがなくて3月からめっきり更新が滞っておるからにゃ。

下僕:はあ、そうでございますねえ。予定していた講座なんかはのきなみキャンセルになってしまって、閣下以外には誰とも話をしないような日々が続いておりましたからねぇ。

まめ閣下:でも貴君は、先月の末くらいからぼちぼち、オンラインでなにやら集会的なものをやっているようではないか。

下僕:ああ、はいはい。たんなる飲み会もありますが、読書会とか小説の合評会とか。以前から仲間内でやっていたものもあるし、こういう事態になって「ちょっとやってみるか」というお試し的なものもあり。つい先日は、講師を招いての小説塾も開催いたしましたよ。

まめ閣下:そういう意味では、家に閉じこもっているわりには文化的交流はあるんではないかにゃ。

下僕:はぁ、まあそうですね。小説塾なんかは、内容的にはまったくリアルでやるのと変わらないですしね。授業の後の懇親会がちょっと盛り上がりませんけれども。

まめ閣下:そうか? いつも結構賑々しく日付を跨いでまでしゃべりまくっているように見えるけどにゃ。

下僕:はぁ、そうですね。誰もが雑談に飢えているっていうのがありますよね。一見無意味なようで実は雑談というのは人間にはけっこう必要なものではないかと思いますね。雑談に限らず、不要不急のものこそが生活を豊かにするのではないでしょうか。

まめ閣下:貴君の場合、なにもかもが不要不急のものばかりのような気もするが。

下僕:むむ、それは否定できませぬな。でも閣下、わたくしこのひと月ほど、そうやって塾生や昔からの小説仲間の作品をたくさん読ませていただいてあらためて感じたことがあるんですよね。

まめ閣下:うん?

下僕:塾にしても合評会にしても、参加しているのはどの方も長年書いている方ばかりで、もうプロとしてデビューしてる人もいるし地方の文学賞を受賞している方や大きな文学賞の最終に何度か残った経歴のある方などで、提出される作品も当然かなりの水準にあるんですよね。でも非常に僭越ながら言わせていただけば、個人的には必ずしも面白いと思えるものばかりではないというのが正直なところです。

まめ閣下:それは単に好みの問題ではないのかにゃ?

下僕:まあ言ってしまえばそうなのかもしれないですけれどね。

まめ閣下:たとえばどういうものが面白くないのかにゃ?

下僕:なんと言いますかね、頭の中だけで作られた作品というのは、どんなに上手にできていてもあまり面白く思えません。

まめ閣下:頭の中だけで作られた作品?

下僕:はい。周到にプロットを立てて計画通りに書かれたようなやつとか。そこまでいかなくてもすべて作者のコントロール下におかれたようなものは、どんなに読みやすくてもそれっきりかなと。

まめ閣下:ふん。じゃあ、逆にどういうのが面白いんだ?

下僕:そりゃ当然、なんとしてもこれが言いたい、これを書かずにはいられないという衝動に導かれたものですよ。愛とは死とは人生とは、みたいなシリアスな話じゃないんですよ。すっごい馬鹿な話でもどうしても誰かにそれをしゃべりたくてしょうがないってものがあるじゃないですか。話ではなくても、へんてこな言葉でも。「あじゃびじゃいじゃあ」とか「どぅびどぅばっ!」とか意味のない言葉を発したくてたまらないようなときがあるでしょう。迸るものが。

まめ閣下:んなもん、ないわっ。

下僕:いや、閣下にはありますよ。ありすぎですよ。毎夜毎夜の絶叫ライブ。あれこそがすべてでございましょう? あれって別にわたくしに何かを訴えるために叫んでいるわけじゃないですよね? ただただ大声出したいんですよね? わたくしが傍に行って「どうされました? 何か御用ですか?」とか呼びかけたってお構いなし、ただひたすら空に向かって吠えまくっていらっしゃるじゃないですか。あれが「衝動」ですよ。やむにやまれぬ情動。自分でもどうすることもできない、ただただこれを書かずにはいられないのだと突き動かされる思い。それがない作品はつまらない。

まめ閣下:ふん、そんなことか。それは前々から予が言っておるではないか。文学はロックにゃ、と。

下僕:まっことその通りでございます。人の頭でこさえられるものなど、しょせんはちっせぇもんですよ。書いている本人の思考の枠を超えたところで書かれたものこそが、文学になりえるんではないかと。

まめ閣下:しかしあまりに衝動だけでつっぱしった作品は読めないぞよ。

下僕:たしかに。ほとばしる思いをいかに伝えるか、そこらへんは経験で補っていくことができますけどね。ただただ小手先の技術だけで衝動がないまま書かれた作品ほどつまらないものはないですね。「これなら書けるだろう」って書いたらダメなんですよ。

まめ閣下:うん、わかった、わかった。なんかしらんが、今日はほとばしっておるな。

下僕:ええ、あとね、こういうご時世ですから結構みなさんこの疫病を作品中に書いてくるんですよね。

まめ閣下:ほほう。

下僕:わたくしは、それっていいことだと思うんです。今書けることは何でも書いておいたらいいと思う。

まめ閣下:でも貴君はたしか、震災直後に震災の話を書いて大作家の先生に「なんでもすぐに書いたらいけない」と窘められたとぼやいていたではないかにゃ?

下僕:はい、たしかにそうでございました。でも、それからずっと考えてきたんですが、書けるときになんでも書いておいたらいいんですよ。作品の良しあしという評価はまた別な話でして。だってね、書かないでいたら忘れてしまうんです。どんな経験もびっくりするぐらい忘れてしまう。コロナに比べると、震災の話はなかなか書く人がいなかった。書いていたのかもしれないけれど、文学にならなかった。みんな腰が引けていたんじゃないでしょうか。それでどうなったかといえば、もうみんな震災のこと忘れているじゃないですか。忘れたわけでもなく、よくわからないままの人もいる。わたくしが書いた作品を読んだ方が、「こんなことがあったなんて知らなかった」という感想をくださって、わたくしはびっくりしました。その人は外国にいたわけじゃない、この国で暮らしていたんですよ。それで知らなかったのか、と。保坂和志さんが、「文学は記憶のクラウド」というようなことをおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。もし、たくさんの人が震災のことをどんな形でも書いておいたら、それだけ多くの記憶、データが人類に残されるんですよね。もちろん優れた文学として後世に残るものばかりではないでしょうけれど、決して無駄ではないとわたくしはあらためて思いました。

まめ閣下:お、おう。貴君、なんだか今夜はいつになく熱いではないか。

下僕:なんかしゃべりたいことが溜まっておりました。知らないうちに抑圧されておりましたかね。ああ、そうして季節ばかりが進んでいく。

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2020年4月7日 非常事態をくぐりぬける文学とは

下僕:閣下、とうとう東京に今夕非常事態宣言が出るそうですよ。

まめ閣下:でも外出禁止とか交通機関の封鎖とかの強制力のあるロックダウンではないからにゃ。食料や日用品の買い物、散歩などは制限されないと言うではないか。

下僕:とはいえ、やはり気鬱ですよ。初めてのことで実際どういうことが起こるのかわからないから不安になります。昨日、小麦粉を切らしてスーパーに行ったらもうなんというか、すごい感じになってました。買いだめする人たちでごった返していて、ここが一番感染リスク高いんじゃないかって思いました。棚はあちこち空っぽになってるところもあり小麦粉も手に入りませんでした。

まめ閣下:困ったことだにゃ。買いだめはやめたほうがいい。商品の供給はこれまでどおりあるのに、みんなが一斉にいつもよりも大量の品物を購入することで物流が追い付かなくなってしまうのにな。結果的に品薄になって、本当に必要な人が買えなくなる。貴君もずいぶんとトイレ紙の不足についてぼやいておったではないか。

下僕:はい、いまだにわが住まいの近辺の店にはトイレ紙ありませんよ。開店前に並ばないと入手できないみたいです。つまりこの体験があるから、またみんな食料を買い溜めしてるんじゃないかという気もしますね。供給は途絶えない、在庫はふんだんにありますっていくら言われても実際に手に入らない期間がこれだけ続くとね。食料の場合はトイレ紙より危機感ありますよね。トイレ紙は自宅にいるならウォシュレットとタオルでなんとかしのげますからね。

まめ閣下:しかし生産自体は途絶えないわけで、供給が追い付かなくさせているのは消費者の行動に起因するわけである。いわば自分の首を自分で絞めておるのではないかにゃ。

下僕:ある調査によると、トイレ紙などの買いだめ行動に走った人は全体の20%に満たないようですよ。それでこの混乱が引き起こされてしまう。食料品が不足するような事態になったらもっと多くの人が買いだめに走るかも。そしていよいよ供給ができなくなったら、配給制とかになるんですかね。まったく戦時中じゃありませんか。

まめ閣下:まあある意味ウィルスとの戦いのさなかではある。

下僕:はぁ、まったく気鬱です。日々、憂鬱が増し増しです。家にいる時間が増えてこれまでの積読本がようやく一気に減らせるだろうと思っていたのに、案外これが読めないんですよね。気持ちが読書に向かわないんです。

まめ閣下:不思議なものだにゃ。

下僕:やはり精神的に集中が難しいのかなって思います。思い返せば東日本大震災の後も、わたくしはしばらく読書ができなかった。とくに小説が読めるようになるのにはだいぶ時間が必要でした。フィクションの世界に没入できないというか。それまで好ましく思っていたものが嘘っぽくみえたり受け付けられなくなったりして、難しかったです。そのころパラダイムシフトって言葉がよく使われましたけど、自分自身の問題として一番そこに実感しましたね。このコロナ禍を無事切り抜けられたときにもきっと同じような世界の変容やパラダイムシフトがあるだろうと考えておりましたら、辻仁成さんが日記にわたくしが考えていたようなことを書いていらっしゃいました。

「人間はこの新型コロナウイルスの出現で、今後間違いなく、価値観を変えることを余儀なくされるということだけは間違いないようだ。これまでぼくらが享受してきたような文明による幸福感、贅沢感、価値観を一度放棄せざるを得ない時代がやって来る、もしくは既にやって来たということかもしれない。新しい価値観はこれまでの世界の経済の動きや政治の仕組みや人類の幸福感までをも変質させる物凄い強制力を有しており、この恐ろしいほどの変化によって人類は、全ての方向の変更を迫られ、全ての価値観の喪失を命じられ、あらゆる幸福感を組み直さなければならない時代へと押しやられるのかもしれない。その全く想像もできなかった価値観の中で、人類はこれまでとは違う生き方を模索することになるのだろう。」

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まめ閣下:にゃるほど。これはまさに大震災後に経験したことだったにゃ。

下僕:ほんとうにそうでございました。

まめ閣下:それでも貴君は結局本を読み小説を書き始めたわけではないか。書き始めるのが早すぎた、なんでもすぐに書けばいいというものではないと、某大作家先生からお叱りを受けていたような・・・。

下僕:ははは、そうでしたね。しかし書かずにはいられなかったのですよ。しょうがないではありませんか。ただ書けるものは非常に限られましたね。「今自分が書けることはこれしかない」って必死にしがみついた感じでした。

まめ閣下:それで読書のほうはどんなだったかにゃ?

下僕:やっぱり最初に手に取ったのは村上春樹でしたかね。阪神淡路大震災後の短編集、「神の子どもたちはみな踊る」だったと思います。今こうしてぱらぱらめくってみて当時どういう気分でそれぞれの作品を読んだんだっけって考えますが、「かえるくん、東京を救う」を今読んだら泣いてしまうかもしれないって思いました。

 

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まめ閣下:文庫の表紙もカエルにゃ。猫はカエルを食べると病気になるから食べないほうがいい。

下僕:そうなんですか?

まめ閣下:そうにゃ。マンソンっていうやっかいな虫に寄生される。

下僕:ほほう、それは要注意ですね。で、本の話に戻ってもいいですか?

まめ閣下:むろん。

下僕:次に読みふけったのはカーヴァーでした。春樹さんの翻訳だったので手に取ったのですがすっかり魅了されました。長編を読む体力がまだなかったから短編ばかりでちょうどよかった。夏の間、ただひたすらカーヴァーを読んでた。

 

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下僕:あんまり明るい話はなくて、でもしみじみ心に沁みる。なかでも「ささやかだけど、役にたつこと」は、この前の3月11日に読み返して号泣してしまいましたよ。こういうなんというかつらいことがあった後って、やっぱり明るいだけの話は読めなくて、どこかつらいものを欲するところがありますね。ディストピア小説がいつもより読まれるのもそれなのかもしれません。でもカーヴァーはつらいだけじゃないんですよ。絶望の暗い森のなかに一筋の光が差し込む光景が見える。これからわたくしが書くものも、少なからずそういうものしかないような気がします。

まめ閣下:そういうのが書けるといいにゃ。で、最近は何を読んでおるのだ?

下僕:先日まで内田百閒先生にぞっこんでした。「阿房列車」シリーズを3巻読了して、とくに最後の「第3阿房列車」にはいきなり夢の猿、狐、気味の悪い乗客など怪しいものがいろいろ出てきて百閒節もいよいよ冴えわたりもう最高なんです。もっと百閒先生を読みたい気持ちが抑えられず、ちょうどあちこちで書評を目にした「小川洋子と読む 内田百閒アンソロジー」を手に入れすぐに読了しました。人気なのか欠品になっていて、中古で買いました。

 

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下僕:各作品の最後に、小川さんの短いコメントがついてるんですけど、これもまた作家ならではの独特な世界で。解説とも紹介とも違う、ひとつの作品ですね。集められた作品には、鉄道おたくや猫狂いの百閒先生ではない世界、それも多岐にわたる世界が広がっていてまた沼にはまりました。ひとつ残念に思うことが・・・

まめ閣下:ん? それはなんだ?

下僕:はい、これはアンソロジーでして、つまりこれまでの作品集からピックアップして編まれたものであるので、これから百閒先生の短編集を買って読もうとするとどうしてもそのなかに見覚えのあるものをみつけてしまう、ということになるのであります。

まめ閣下:ことのほか良い作品を集めているのだからしかたないではないか。

下僕:はい、そうなんですけどね。なんだかちょっとつまみ食いして損しちゃった、みたいな。美味しいってわかってるんだからコースで出てくるのを楽しみに待ってればよかったじゃん、自分、みたいな。

まめ閣下:なんじゃ、そりゃ。

下僕:でもこうしていろんな本を楽しみに読めるのがいつまで続くかな、という不安もあります。震災のときと違って、状況が徐々に悪くなっていってるので、今後どういう精神状況に追い込まれるのか。そしてそのときに自分が読める作品はなんだろう、って思う。

まめ閣下:そうだなぁ。なにせ先行きがわからないからな。

下僕:そうでありますね。でもまたこのように、その時々の感じを閣下とお話していけばいいのですよね。なるべく笑いたいものですが。

まめ閣下:あー何度も言うようだが、猫は笑わんよ。

 

 

 

2020年3月よ。こんなことになるなんてなぁ。

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まめ閣下:おい、下僕よ。また「ブログの更新がされてないようですね」ってはてなから催促が来てるではないか。

下僕:あいすみません。そりゃわたくしだって更新はしたいんですが、いたしかたないものはいたしかたないんであります。

まめ閣下:それは内田百閒であるな。

下僕:あ、さすが閣下。よくおわかりで。

まめ閣下:おほん、そうやって話をそらしてもだめにゃ。なにかしっかり予に報告することはないのか。

下僕:なことおっしゃられてもね、だめなんですよ。

まめ閣下:だめって、にゃにが?

下僕:あのですね、閣下はもとより下界におでかけされないから関係ないかもしれませんがね、今世の中は新型コロナとかいう車の名前みたいなウィルスが原因の疫病が蔓延してて、人が集まると感染拡大の危険があるってことでね、いろんなイベントがキャンセルされちゃってるんです。もちろんわたくしが今月行く予定でいた文芸関係のものもすべてキャーンセル、中止、と・り・や・め。

まめ閣下:なんだそういうことか。ちなみに行く予定だったイベントってのは?

下僕:まず3月6日「文芸フェスティバル2020 春の陣第5夜 筒井康隆先生VS松浦寿輝先生 スペシャル対談」@代官山蔦屋。筒井先生は人生最初に夢中になった作家さんですがまだお姿を生で拝見したことがないので楽しみにしていたんですが。その次は3月11日に法政大学で予定されていた文芸イベント「言葉を知る。言葉を学ぶ。言葉を教える」で、そのシンポジウムに町田康さんも出る予定だったのですが、中止。そして来週こそは、と思っていましたが、3月30日ロフトプラスワンで予定されていた町田さんと奥泉光さんの対談も今朝中止が発表されておりました。

 

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下僕:これでもう3月の予定がすべてなくなってしまったので、閣下にご報告することもないわけなのであります。

まめ閣下:イベントがなくても何冊か本は読んだりしてるわけだし、にゃにか話したらよいではにゃいか。

下僕:あのですねー、このブログを読んでくださる方々っていうのはたぶんわたくしがあちこちで見聞してきた作家の方々のお話とか文学作品に興味があるわけで、文学オタク猫と愚かな下僕の世間話が聞きたいわけじゃないと思いますよ。

まめ閣下:そりゃ貴君の愚なる話には興味はないかもしれんが、予の話を聞きたいという人間は少なからずおるんじゃないかにゃ。

下僕:閣下の話ってなんです? この歳になって腹毛が生えてきた、とか。毛づくろいはあまりしないほうがいい、とか。爪とぎサークルは桶タイプよりすり鉢タイプが好み、とか。そんな話、誰も聞いてくれませんよ。

まめ閣下:そうかにゃあ。じゃ、歌うかにゃ。おわあ、おわぁ、おぎゃあ、おぎゃあ。

 

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下僕:もう、やめてくださいよ。こちとら毎晩その絶叫ライブとやらを聞かされていささか頭がいかれそうなんですから。

まめ閣下:貴君の頭はもともといかれておる。

下僕:あー、もう。わかりました。閣下の見目麗しいお写真を何枚か貼っつけておきますので、これにてごめん。


まめ閣下:ふん、来月はもう少しましな世界になるといいにゃあ。

 

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【講演】2020年2月23日「残響を聴く2 ~町田康が語る朔太郎のことば~」@町田市民文学館ことばらんど

まめ閣下:おいおい、帰ってきたと思ったらまたすぐに出かけたりして、ちょっと落ち着かんかにゃ。

下僕:あ、閣下、すみません。今日、わたくしこのような催し物に行ってきたじゃないですか。それで、最後に読まれた文章をどうしてもちゃんと把握したいと思いまして。帰り道にいろいろ検索して文献の見当がついたので、家に戻ってすぐにまた図書館まで借りに行ってきたんです。

 

 

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まめ閣下:なんだ、常日頃は怠惰な諸君としては珍しく勉強熱心ではないか。

下僕:はぁ、わたくしがまあこのブログで、以前から悶々と抱いている「文学とはなにか」という問いかけへの答えみたいな感じがしたので、ちゃんと書き残しておきたくてですね。

まめ閣下:ふぅむ。まずそれについて聞きたいところだけれど、まあ一応例によって諸君の緩慢なる報告を順序だてて聴いていくことにしようかにゃ。

下僕:へぇ。そう言われちゃったらもう今回はそんなにだらだらやりませんよ。ざっくりいきます。今日の講座は、前半が町田さんによる萩原朔太郎の作品の朗読、後半が朔太郎の創作について町田さんのお話という構成でした。

 朗読されたのは、「地面の底の病気の顔」「竹」「悲しい月夜」「死」「猫」「薄暮の部屋」「卵」「小出新道」「帰郷」「品川沖観艦式」。壇上のプロジェクターに、町田さんが読み上げた一文が逐次表示されていくシステムで、まず耳を澄ませて音を感じ、後から文字を見て意味を捉えるということがやりやすかったです。

 お話の部の最初に、「朗読というのは演芸であって、自分は朗読に関しては”達人”であるから事前の練習とかやらなくてもたいてい立派にやりとげられる。だから今回もそうやって臨んだわけだが、さっきの朗読のなかで、2か所ほど読みながら「ん? これで大丈夫か?」と思ったところがあったので、休憩中に確認してみたら間違っていた。「帰郷」の「長なへに」という部分を「ながなえに」と読んだが正しくは「とこしなえに」であったし、「薄暮の部屋」の「坐るをとめよ」の部分を「坐るを、とめよ」と読んだけれど本当は「坐る乙女よ」であった。やはり練習は大事だ」と告白、会場の空気を和ませました。

 それから朔太郎の経歴についての説明があり、短歌から始まり詩に転じた過程を創作時の時勢順にあげました。

1.「ソライロノ花」

2.「愛憐詩篇

3.「月に吠える」

4.「青猫」

5.「郷土望景詩」

6.「氷島

 1.の時代の作品は、「こころ」とか「ふらんすへ行きたしと思へども」のようなわかりやすい、今でいう”ポエム”風なものだったのが、2.では「ちょっと何言ってるのかわからない、でもそこがおもしろい」という作風に変化していく、として、「夜汽車」という作品を取り上げました。一文ずつ内容を吟味していくのですが、最初ただ読んだだけだと「?」となったところが、繰り返し読み、さらにその詩を書いたころの朔太郎の私生活と照らし合わせていくと、ぼわんと、ふいにそこで書かれた心情が立ち上がってきたのですよ。まず作中に突然「ひとづま」という言葉が出てきて、次にもう一人寄り添うやつ、が出てくる。これはどういうことか。それについての町田さんの解釈は、この詩が書かれたのは、熊本、岡山と高校を移っても勉強がうまくいかず、再び京都の高校を受験することにしたころ。受験のために京都へ向かう列車の様子に材を取って書かれているのだろう。ひとづま、というのが、幼いころから執着していた妹の友だちである馬場なかこだったのでは、と推測。実際にその場に彼女が一緒だったわけではないだろうけど、妄想を詩にしたというか。朔太郎が医者の息子として立派に医院を継いでいたら結婚もできた間柄だったのに学業がそういう残念な状態だったので、なかこは他の人のところへ嫁いでしまったのだけれど、その後も二人の関係は続いたようだったんですね。彼女が嫁いだころに、「スバル」に掲載された朔太郎の以下の短歌:

 心臟に匕首たてよシャンパアニュ栓抜くごとき音のしつべき
 拳もて石の扉を打つごとき愚かもあへて君ゆゑにする

この2首はそのショックを歌ったものだと。その溢れてくる恋情というか感情が短歌に収まり切れなくて詩へ進むことになったのでは、とおっしゃっていました。

 それからさっき朗読した「地面の底の病気の顔」「竹」の前に書いた「竹の根の先を掘る人」という作品にも言及し、それらに共通して書かれているのは、ある病気・疾患への嫌悪や恐怖であると説明。朔太郎は私娼のもとへ通った時期がありそこで得た淋病らしいです。(しかし朔太郎が叔父に語ったことによると、これは「草木姦淫」を犯したことによる罰であるらしい。)なかこへの恋情と同様に、この病について書かれた作品もまた、非常に身体的であり実体のあるものである。朔太郎には「月食皆既」という性的エクスタシーを書いているような作品もあり、「浄罪詩篇」という作品でわかるように姦通罪を犯している苦しみと、病の苦しみが朔太郎の創作の根底にあるのではないか、というような話まできたところで、例によってもう時間が残り少なくなってしまいました。5.6.の時代の作品として朗読した「小出新道」や「品川沖観艦式」などの解説には触れられず、またもや時間切れ。

 しかしこれだけは、という感じで、「朔太郎にとって詩とは、芸術とは。本人はどう考えていたのか」について最後に、大正4年4月27日付の朔太郎の北原白秋への手紙を取り上げました。

 はい、お待たせいたしました。これでございます、これを求めてわたくしは図書館まで自転車飛ばしてきたのでございますよ。

まめ閣下:おお、ようやく出て来たか。予は待ちかねたぞ。

下僕:あいすみません。町田さんが朗読された部分を読み上げますね。

 「僕は芸術というもののほんとの意義を知ったような気がしました。それは一般に世間の人が考えているようなものではなく、それよりもずっと恐るべきものです、生存欲の本能から「助けてくれ」と絶叫する被殺害者の声のようなものです、その悲鳴が第三者にきかれたときその人間の生命が救われるのです。(彼はほとんど無自覚にそれを期待して居る)

 性欲の衝動にたえきれなくなって「助けてくれ」という人もある。飢餓のために叫ぶ人もある、美の憧憬に絶望の極泣き叫ぶ人もある、又私のように疾患の苦痛から悲鳴を上げる人もある。皆それぞれ真実です。そして芸術の価値はその絶叫、真実の度合の強弱によって定まるものと考えます、

 従って「美」とか「性欲」とかに対してその人の全生存本能が傾注された場合に始めて光ある芸術ができるわけです、あなたや私どもの芸術と今の多くの概念者流の芸術との根本的相違がここにあります、(彼ら概念者流は物の表面よりしか見ることができない、

 彼らは真実を求めているのでなくして、真実らしいものをもとめています。」

(漢字かなづかいの一部はわかりやすくしました。)

まめ閣下:にゃんだ、早い話がこれだけ書いとけばよかったんじゃね? 今日はざっくりとか言って、結局いつもどおり長々しくなってしまったじゃにゃいか。

下僕:ははは、それはそのー、町田さんに倣いましてぇ。あ、そうそう、今日の町田さんのお召し物はえらくしゅっとされていて、グレーに白のストライプの入ったちょっとしゃれた感じのジャケットに黒シャツ、シルバーグレーのタイ、黒のスラックスと、フォーマルな感じで決めていらして・・・

まめ閣下:ああ、もうよい、やめやめ。「康さん病」の疾患がでてきておるぞ。

下僕:え、そんなぁ。疾患だなんて。じゃあ、あのせっかくだから図書館で借りてきた本の写真も乗っけて、終わりにしておきますぅー。

 

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