Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講師のいる読書会】2021年2月28日「推し、燃ゆ」宇佐見りん

第164回芥川賞受賞作を、元編集者で現在多数の小説教室で講師を務めるN氏と読んで語る会で語られたことなど。ひょっとするとあんまり大きな声では言えないようなこともあるかもしれませんが・・・。

 

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まめ閣下:おい、下僕よ。予になにか報告すべきことがあるんではないのかにゃ。

下僕:うう、なんかわざとらしい感じですね。昨日の集いはオンラインでしたから閣下だって一緒に背後でお聞きになっていたんではありませんか?

まめ閣下:だから貴君は愚だというんだ。この会話の目的を忘れたのか。貴君のおつむの出来がいまいちであるから、せっかく学んだことをすーぐに宇宙の彼方まで飛ばしてしまってあとかたもなく忘れてしまうっていうんで、このような場所で予に報告するという形でまとめておけばちっとは有益なんではないか、と、そういう話で始まったんであったろ。

下僕:あ、さいでしたっけ?

まめ閣下:ほら、もう忘れておるではないか。なんとかならんのか、そのお粗末な記憶力は。

下僕:それを言われてしまうともう返す言葉がありませんよ。ほんとにねー、このごろつとに短期記憶っていうのが失われてきましてね。

まめ閣下:これってもう2年くらいやっておるんじゃないのか。もはや短期記憶とかいうもんじゃないと思うがにゃ。まあ、いい。話を早く始めたまえ。ああ、なるべく簡潔にな。下手の長話だけは受け入れがたいからにゃ。

下僕:はいはい、わかりましたよ。昨日の課題図書は、こちら。つい先月、芥川賞を受賞した作品であります。宇佐見さんは今年22歳、「かか」という作品で文藝賞を受賞してデビュー、「かか」は三島由紀夫賞も受賞、二作目の本作品で芥川賞受賞ということで、文芸の世界では破格の超エリートコースを驀進しているということになりますね。今回の選評を読んでも、選考委員のみなさんから高い評価を受けての受賞だったことがわかります。

まめ閣下:ほう。若いのにたいしたものじゃにゃいか。

下僕:この作品はSNSや「推し」という今時の若者ならではのカルチャーを題材に取り上げていたので発表直後からネットで若い人たちを中心に話題になっていました。しかしながら、そういう題材をとてもその若さとは思えない実力ある文体で描いたことが選考委員の方々にも高く評価されていたようです。

まめ閣下:ふうん。評価も高いし、話題も沸騰、本も売れて、文句のつけようのない作品じゃないか。

下僕:ま、そうですよね。

まめ閣下:貴君はどう思ったんだい?

下僕:はい、SNSや推しなど取り上げている材はたしかに今風ではありますが、小説の骨の部分は非常に古風っていうかオーソドックスな主題の作品だなあとまず感じました。新しさは感じなかった。これはデビュー作の「かか」でも感じたことでありますが、中心にあるのは、少女以上大人未満の女の子が抱える生きづらさですよね。家族の問題、とくに母への愛着と確執、同年代の人々のなかや社会との関わりで抱く苦しさ、そこにどう対処していくか、などこれまでの文学がさんざん取り組んできたこと、普遍的なテーマだと思いました。そしてみなさんおっしゃっているように卓越した筆力。文体の完成度の高さ、リズムのよさ、感性を深いところでつかみ取って言葉にする技術の高さには驚きました。最近の若い書き手には珍しい身体性を文章に感じました。「推し、燃ゆ」という作品については、冒頭の二文、「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」が、名キャッチコピーだなと。これでこの作品の未来が決まったように思いました。

じつはわたくし、「かか」のほうは受賞後すぐに途中まで読んではいましたが独白の口調がちょっとつらくなって投げ出していたのです。しかし今回の読書会のためにちゃんと読み直してみたんです。「推し・・・」を読了してからは不思議にするすると読めました。一気に読了して、あれれ、と思いました。この二作って実はおんなじ話じゃないの? って。若い女性のSNSや推しのいる日常を描きつつ、根本にあるテーマは非常にオーソドックス。しかし作品のパワーとしては、「かか」のほうが圧倒的なものがあるなぁというのが実感でした。

まめ閣下:はは、まあ言うのは勝手であるからにゃ。で、N氏はなんと言ってたんだい?

下僕:はい。もちろん、書き手の技術の高さ、文章のよさというのは選評にさんざん書かれているとおりだと、認めてました。宇佐見さんがご自身でおっしゃっているように中上健次の影響を感じさせる文体で、現代のネットの世界を描いたというミスマッチが高評価を受け話題ともなり売れたんだろう、と。N氏はそこにひっかかりを覚えたようです。それを「文学的偏差値が高い」と評価していた選考委員もいた。たしかに、この書き手はかなりよく文学というものを知っていて、意図的にかなり計算したうえでこれを書いたのではないか、と。そもそもネットの世界や「推し」や「推しを推す」という行為自体が、疑似現実である。「推し」というのは実体ではなく「推すものたち」によって解釈され作り直された存在であり、SNSなどではそれら「推すものたち」もまた同様にフィクショナルな存在なのである。それを描くのが中上健次の文体でいいのだろうか。中上の文体というのは肉体の言葉であり極北にあるものである。疑似現実を描くのであれば本当なら別の文体でなければいけないのじゃないか。文学をよく知っている書き手が、計算の上で中上の文体を「使っている」という感じがしてしまった。また主人公の「あかり」についても、書き手は共感・一体感というよりは一段高いところから突き放して見ているような距離感があり、これにも「使っている」という印象をもってしまった、とのこと。

まめ閣下:うーん、なかなか手厳しいな。

下僕:まぁ、N氏ですからね。中上さんの担当もされていた方ですし。でも宇佐見さんの実力はもちろん高く評価していて、「この作品でなくてもいずれ受賞する人だったろう」と。N氏個人的には、今回は乗代雄介さんの「旅する練習」に受賞させてほしかった、とのことでした。

この先はまああくまで小説の一般的な話として聞いていただきたいのですが、昨日わたくしがはっとさせられたのは、「文学的偏差値なんて低い方がいいんですよ」って発言です。計算高さ、何かを「使っている」感じ、つまり道具にしているってことでしょうか、そういうのには作家としてのモラルの低さを感じてしまうってN氏はおっしゃっておりましたよ。

まめ閣下:ふぅむ。モラルねぇ。ま、文学的偏差値に関しては貴君は心配する必要はにゃいな。低いほうがいいってんなら自信もっていいにゃ。

下僕:くくっ。しかしね、どんな作品でもいろんな意見がありますよね。至極順当に思われる今回の芥川賞だって選評読んだだけでも選考委員によってまったく違う読み方をされたりしていますし。でも評価はされている。それでいいんじゃないでしょうかね。

まめ閣下:おい、話をまとめるな。

 

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【講座】2021年2月6日「清水次郎長伝 語り口の文学Ⅲ」町田康 <オンライン>

・物語の二分類と物語の作り方

・現実が物語化されそれによって現実が更新されていく

 

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まめ閣下:おい、なんだこの写真は。

下僕:清水次郎長さんの本当のお写真らしいですよ。

まめ閣下:いや、そういう意味じゃなくて。ブレッブレじゃないかって言ってんだがにゃ。貴君の写真はいつも残念だがこんなにひどいのは初めてだぞ。

下僕:じつは今回は特別にこういうのを狙ってやってま・・・せん。

まめ閣下:がくっ。

下僕:いやいや、オンライン講座でちらりと見せていただいた瞬間をスマホで撮るってむずかしいんですよぉ。まぁ、今日のお話の第1部が、物語のなかに描かれた次郎長と現実の次郎長の人となりの違いでしたので、この写真がいいかなって思いましてね。

清水の次郎長は、浪曲だけでなく映画なんかにもなって映像化されてますから、演じた俳優のイメージなんかで想像しがちなだけに、実在の人物であったというのがこの写真で証明になるんじゃないでしょうか。

まめ閣下:えっ、実在の人物だったのか!

下僕:そうなんです。しかし次郎長伝という物語のなかの次郎長像は、現実の次郎長という人とはかなり違うようだ、というところから話は始まりました。次郎長伝は、前回の講座でも紹介されていました天田愚庵の「東海遊侠伝」が元になっているらしく、そこから今にいたる「落ち着いていて貫禄のある大親分」という次郎長像が形作られてきたのですが、ここで描かれた次郎長は実際よりはかなり美化されている、というのも天田愚庵は次郎長の養子でして、明治十七年に次郎長が逮捕されたおりの助命嘆願のためにこれを書いたと。となると、なるべくいい人に書いた方がいいわけですからね。

まめ閣下:しかし次郎長さんはなんで逮捕されたんだい?

下僕:自由民権運動に関わっていたからとか。なぜやくざがそういう運動に関わるのか。アウトロー気取っているやつほど権威に弱い。それにつけ込まれて利用されるけれど、邪魔になったら簡単に処分されるという構図のお話は面白かったです。

まあ、とにかく私たちが今いろんな物語で知っている次郎長というのは、現実の人をモデルにしてはいるけれど、全く違う”キャラクター”として物語には描かれているものだ、というのが前半の肝のようで、そこから後半の話へと繋がっていくのでした。

まめ閣下:して、後半は?

下僕:はい、その前に、ここであえて町田さんは”キャラクター”という言葉を使われました。星飛雄馬、矢吹ジョーなどは実在しないキャラクターであり、清水の次郎長は実在の人物であるけれど、それが物語化されて”キャラクター”になった。物語を読んだ(聞いた)人のなかでそっちが現実になっていき、現実を更新していく、という説明が印象に残りました。

まめ閣下:して後半は?

下僕:はいはい。後半は明確なテーマがございました。「物語の二分類と物語の作り方」であります。まず、「物語とはどう作られていくのか」という話がありました。ざっくりわけて、物語には三種類ありまして、

1)義理と人情の板挟み

2)勧善懲悪

3)敗北者への哀惜(かわいそうという気持ち)

1)はまさに浪曲の作り方でありまして、人間の葛藤する様を描くもの。〽義理と人情をはかりにかけりゃ義理が重たい男の世界~なんて歌声も披露してくださいましたよ。おほほ。

2)は古くさいようにみえるけれど、「落ち着くべきところに落ち着いてほしい、なってほしい方向性を求める」というのは人間の生理のようなもの。ちゃんと解決してほしい、G7のあとにはCが来てほしい、途中で終わるのは気色悪い、というのから逃れがたいものがあるのですね。

3)は判官贔屓といいますか、敗北者をかわいそうと思い、涙を流す快感というのがある。

これらのどれかに則ってエンタメというものは作られている、と。

また、物語というのは大きく次の二つに分類される。

ア)概念中心主義

イ)人間中心主義

太平記」というドラマを例にとって説明するならば、なんでこんなことになったのか、という理由を考えたときに「北条が悪いから」というのがア)であり、「全員頭がおかしいから」というのがイ)である、と。

ア)は、上でいう2)勧善懲悪がわかりやすい。悪という概念を出して、解決するには悪をなくせばいい、原因を決めつけてそれを排除することですっきり解決できる。

これに対してイ)は、誰か何かが悪いと決めつけるのではなくみんながそれぞれに変だけれどそれにはそれなりの理由があって結果的にこういうことが起こってしまったという話であるから、エネルギーに方向性がなく渦巻くカオスになりがち。結果が予測できないし解決できない気持ち悪さもあって娯楽作品としては難しい面もあるけれど、笑いとの相性はよい。

次郎長伝というのは浪曲でありとなれば概念中心主義の作品であるから、明確な”キャラクター”としての次郎長が必要、というのがまぁ結論でありました。

まめ閣下:なるほど。エンタメ論という感じだにゃ。

下僕:しかし町田さんは、人間中心主義のほうが絶対におもしろいとおっしゃってましたね。小説としては奥深いと。きっちり物事を分けてしまう、○○というフォルダーに入れてしまうというのが昔から嫌で、つねに「それってほんとにそうか?」と疑ってきたと。パンクとはそういうものですからね。きっちり話を終わらせる、着地点(納得)のあるものは苦手、ツィッターでうまいこと決め台詞言って「どやっ!」っていきってるみたいでうざい、と。参加者の方からの「でも人間中心主義だと話の収拾がつかなくなりませんか? みな頭がおかしいというんでは」という質問には、「いや、それはつきつめが足りないのだ」というお答え。人間本来の姿をどこまでも深く掘り下げていけば、そこにはおのずとああそれならしかたないなと思うところがあるはず。しかし人間そこまで掘り下げるのは苦しいし、自分自身の負の部分とも向き合い続けることになるのでつらい。だからついリミッターをかけてしまってつきつめきれない。概念中心主義は、一見納得がいくように感じるけれど、実のところはそういう苦しみを避けて人間本来の姿をねじ曲げて既存の型にはめてしまっているのではないか、とおっしゃってました。

それを聞いてわたくし、ああ、これぞ人間中心主義の代表作、と思ったものがございます。

まめ閣下:「告白」だろ。

下僕:あ、なんでわかっちゃったんです?

まめ閣下:それわからんやつ、おらんのじゃないかにゃ。少なくともこの講座の受講者は。

下僕:はぁ、そうでございますかね。しょしょしょぼぉーーん。

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まめ閣下:こら、またこんなぼけた写真を!

 

 

 

【講師のいる読書会】2020年12月20日「一人称単数」村上春樹

「あなたにはそれが信じられるだろうか?

 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」(「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノバ」より)

「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。(中略)もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」(「謝肉祭」より)

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下僕:閣下、この本はもうお読みになりましたか?

まめ閣下:そりゃ貴君が読んだら予も読んだことになっておる。脳内伝達システムなるものによって。そういう設定になっておるのだ。忘れてはいかん。

下僕:あ、そりゃそうでございました。

まめ閣下:で、それがどうした?

下僕:はい、昨夜は例の私的な小説塾でして。その中でこの本を取り上げたものですからね。普通の読書会とちがって、昨夜は講師がこの本についてきっちり解説してくださって、そのため自分の読み方のいたらなさに気づいたというか、はっとさせられることがいくつもありましたので、ちゃんとまとめておこうかなって思ったんでございますよ。

まめ閣下:にゃるほど。それはよいな。聴かせてくれたまえ。まずは講座の前の貴君の読みを教えてもらおうかにゃ。

下僕:はい。閣下もご存知のとおり、わたくしは一時期かなり熱心な村上春樹読者でありました。でも最近の短編はなんとなく初期の作品と趣を異にしてきている感じがしていて、いまひとつ前のようにのめりこめないでおりました。今回の短編集も、いくつかの作品は「大成した作家だからこそ、書きたいことを好きなように書いて許される」種類のもののように感じました。「スワローズ・・・」や「チャーリー・パーカー・・・」などは個人的な偏愛を綴ったもので、そういうのは誰が書いてもたいてい面白いんですが、それが商業出版されるかというとやはり無名作家では難しいだろう、とか。そのなかで、「クリーム」と「品川猿」には初期の短編の味わいを感じて、いいなあと思いつつ、ラストに後日譚みたいなのがついてくるのが、お話の総括というかまとめてきな感じがしちゃって、短編独特の余韻を消しちゃってるんじゃないかと思いました。「謝肉祭」だけは雑誌掲載時に読んでいていて、そのときはあまり関心しなかったんですけど、作中でおすすめされているルビンシュテインの演奏で謝肉祭を聴いてから再読したら別物のように面白かったんです。でもこれも、最後に大学時代に2回だけデートした女の子のエピソードが語られているのが余計な感じがしました。一番好きだったのは、表題作の「一人称単数」。これはまさに春樹・ワールド。作中にも「私のなかにある私自身のあずかり知らない何かが(中略)目に見える場所に引きずり出されるかもしれない」と、ずばり書かれていて、奇妙で不快な経験をしてその店から出ると、そこはすでに異なる世界になっている。昔の作品愛好者には、まさにこれこれ、って感じでうれしくなりました。村上春樹を一気に有名にした初期の作品は「ぼく」という一人称で語られるもので、その後(一人称視点的な)三人称で書くようにもなったりしたけれど、年齢を重ねてやりたいことをやりつくした今、原点回帰的に書かれた作品集なのかなという気がしました。昔の作品に登場するモチーフを新たに書いていたりしているし、と。

まめ閣下:ほかの塾生たちの意見はどうだったのかにゃ?

下僕:まあいろいろでしたけれど、完成度の高さがやはりものすごいと評価されている人がいました。日本の文芸誌で目にする文学はどうしても狭い感じがしてしまうけれど、村上春樹はやはりそこからすごく自由であると。ビッグ・ネームだからこそなのかもしれないけれど、という意味では、「いちばん醜い女性」なんて表現はハルキ・ムラカミにしか書けないよね、という意見もありましたね。老いを迎え円熟した作家が書いた玄冬小説と読んだ方もいました。

まめ閣下:ふむ。で、講師の読みは。

下僕:はい。まず一言で言うと、「完璧な作品集で大傑作」。やはり村上春樹って天才と思わせられた、とのことです。

まめ閣下:ほぉおお。そりゃすごいな。

下僕:一見、作者個人の過去の回想の物語に見えるけれど、そうじゃない。実体験と思われるところから書き出して、だからこそ細部がびっくりするほど正確に描かれていたりするけれど、そのうえで巧みに創作されたフィクションである。しかし、そのフィクションを「でも実際に起きたことだ」って言ってしまうのが村上春樹である。作者のなかでは「創作」こそが現実であるということなのかもしれない。この作品集をより深く理解するためには、「猫を棄てる」を補助線として読むべき、とおっしゃっておりました。そのラストやあとがきで春樹さんが書いている文章を詳しく読んでいくと、この作品で作者がやろうとしていること、これまでの作品でずっと書いていた世界が明確に見えてくる、と。

まめ閣下:ふむ。

下僕:わたくし、「猫を棄てる」は未読なのでうろおぼえなんですが、講師が読み上げた文中、「私小説」なんていうものは実はちゃんとした定義などないというようなことを言ってるらしいのです。わたし、ぼく、など一人称単数の視点で書かれた作品で、読者が勝手に作者の実体験に基づいて書かれていると思うものが私小説と呼ばれている、みたいな。それがこの作品集のタイトルにつながっているし、実際に、一見、作者自身の回想(私小説)のように思わせて裏切る。しかしそれは裏切っているのではなくて、作者自身のなかでは現実、事実なのである。それが一番よく表れているのは、「チャーリー・パーカー・・・」のラスト。

「あなたにはそれが信じられるだろうか?

 信じたほうがいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。」

 そしてわたくしが気になった、ラストに別のエピソードが付け加えられていることについては、「どの物語も複層的に語られている。決して、表にある主たる物語だけではない。すべてがつながっている。過去のあらゆるできごと、とるに足らないこととして忘れ去ってしまっていたようなものごとが、あるときふっと自分を訪れる、というのが村上春樹作品だ」と。それを作者自身はっきり書いているところとして、謝肉祭の最後の文章を上げました。

「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。(中略)もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。」

 それを聞いて、なるほど、そういうことだったか、と思いました。

 最後の一篇、表題作である「一人称単数」の最後の一文が

『「恥を知りなさい」とその女は言った。

 であることも、非常に示唆的であると講師。小説なんか書く人間はみな恥を知りなさい、と言っている、つまり自己批判ともとれる、と。ああ、たしかになあと思ったりしましたよ。

 また、構成的なことにも触れ「トータルアルバム的にきちんと考えられている」と。

神の子どもたちはみな踊る」のときと同様、雑誌掲載作群の最後に、書下ろしの一作を、表題作とかその作品集の総括的な位置づけの作品を入れていると指摘。書下ろしが入ることで熱心なファンにもきちんとアピールしている、とも。表紙のイラストも、

ベンチの後ろの茂みのなかに「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPが忍ばせてあるところも、巧みだと褒めていました。

まめ閣下:さすが名編集者の視点であるなぁ。そして貴君の読みはまだまだであるのぅ。っていうか、安定して「愚」じゃな。

下僕:はい、ほんと、おっしゃる通りでございます。さっそく「猫を棄てる」を買って読まねばと思いました次第。

まめ閣下:あー、ひとついいかな。熱心な読書欲は素晴らしいと思うけれど、予はその本のタイトルだけは受け入れがたいぞ。

下僕:はぁ、そうでございますよね。でも愛猫家としても名高い春樹さんのこと、このタイトルにも深い意味があってのことでございましょうよ。

まめ閣下:そのくらいわかっておる。わかっておるが、嫌なものは嫌にゃのだ~!

 

【読書会】2020年12月5日「砂漠が街に入りこんだ日」グカ・ハン

母国語以外の言語で書くこと。

世界に紛れ込んだ異物としての自分。

言語、国境、性別、年齢、セクシャリティ、あらゆる境界を飛び越えようとする試み。

 

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まめ閣下:おい、なんか冒頭に文章が出ておるが。あれはなんだ?

下僕:あ、気づいちゃいました? ははは、実はブログ記事の紹介をSNSにあげると、自動的に冒頭の部分が表示されちゃうんで、結果どの記事も閣下とわたくしのなんともゆるいベシャリだけが表示されるというなんか締まらない感じになっていたので、ちょっと変えてみました。せっかくいい本を紹介をするのに、アホな導入ではね、読もうと思う人が減ってしまうかもしれないし。

まめ閣下:貴君が考えたのかい?

下僕:はい。この本からわたくしが感じ取ったものを思いつくままあげておきました。

まめ閣下:ふうん。しかしこれでいいか? ていう疑問もある。

下僕:まあいいではございませんか、ちょっと変わったことやってみたって。

まめ閣下:それもそうだ。じゃ、さっそく本の話を聞かせてもらおうじゃにゃいか。昨日は何人くらいあの板のなかに集まったんだ?

下僕:何度いったらわかるんです? あれはPC。参加者は7名でした。このご時世ですからオンラインですよ。

まめ閣下:おほん、そんにゃことはわかっておる。著者の名前にあまりなじみがないけれど、どこの国の人なんだい? この前のラッタウッドなんちゃらよりは短くておぼえやすそうだが。

下僕:韓国人女性なんですが、作品はフランス語で書かれてます。ラッタウッドさんは、タイ系だけど英語を母国語とするアメリカ人で英語で作品を書いてますが、この方の場合は母国語は韓国語です。フランスに留学して6年目にこの作品を書いたんだそうで、それだけでも衝撃ですね。フランス語以外に翻訳されたのは、韓国語じゃなくて日本語が最初らしいです。まぁ、この辺りのことについては後に回して、作品自体をさくっと紹介しましょう。

 これは短編集で8作が収録されています。「砂漠が街に入りこんだ日」というタイトルの作品はなくて、ただ最初の作品「ルオエス」がまさにそういう話で。書き出しがめちゃくちゃかっこいいんですよ。

「砂漠がどうやって街に入りこんだのか、誰も知らない。とにかく、以前その街は砂漠ではなかった。

 砂漠はいつやってきたのだろう?」

というふうに始まっているんですが、わたくしなんぞはそこでもうすっかり引き込まれてしまいました。ルオエスは、架空の街の名前で、韓国ソウルの綴りSEOULを逆から書いてLUOESというのは、わかる人はすぐにぴんときたようです。しかし、あくまで具体的な場所を特定させるようなヒントは与えられません。この一作だけでなく、それはどの作品においても共通していて、読み手が自由に考えるようになっている。だから読んでいて「なんとなく韓国っぽさを感じた」と言う人もいましたし、「砂漠という言葉に引きずられて中東を想起した」人もいたし、創作の場となった「フランスっぽい」という人もいました。ただ「ルオエス」に関しては、男尊女卑が強い韓国に生まれた女性の息がつまるような感じが切実に描かれているという方もいました。

 8作の短編集ですが、やはりこの最初の作品がキーになっている感じがあります。わたくしなんぞは、このルオエスというのは第1章で、舞台設定と謎が提示され、その後の章で物語が進んでいくひとつの話なんだと思って読んでいってしまったので、何篇か読み進んで「あれ? おかしいな。いつまでたっても話が繋がらないぞ」なんて首を傾げてしまったくらいで。

まめ閣下:貴君は、ほんとに愚じゃな。

下僕:まあそうおっしゃいますな。本の最後にある「訳者あとがき」を読むとわかるんですが、8作それぞれ独立した作品ではあるのですが、「実はそれぞれの物語は独立しているように見えて、ゆるやかにつながっている印象を与える、少なくとも部分的にはルオエスを舞台にしているのではないかという気がしてくる」と書いてます。一篇を除いて「わたし」という一人称で書かれていて、年齢も性別も異なってはいるんですが、ひとりの語り手と考えることすらできるかもしれない、と。だから、わたくしが最初に抱いた印象は、作者が意図したことだったと思われるんです。

まめ閣下:ほほう。

下僕:フランス語を訳す際には一人称も属性に合わせて「僕」「俺」「うち」など使い分けるのが普通だけれど本作に関しては意図的に、語り手の属性に関わらず「私」という一人称に統一したと訳者の原正人さんが書いてます。男でもあり女でもあり幼児でもあり中年でもある、ひとりの人物の語る物語。多重人格、ある集団の集合的な人格を想定してもいい、と。そんななかでたった一篇、「あなた」という二人称小説が出てくる。その意味を考えるのもまた面白い、と。

 で、昨夜の参加者のなかには現在フランスで暮らしている方がいて、フランス語で書かれたものであれば、原文を当たれば形容詞や動詞の変化などどこかで必ず、性別や単数複数があきらかになるはずだけれど、日本語で読む限りそういう部分が極力隠されていると感じたとおっしゃっていました。それは訳者の意図なのかどうか。そこまで翻訳の自由が許されるのだろうか。それもまた興味深いところですよね。一人称のJeは、あきらかに単数なんですけど、「あなた」であるVousは、ひょっとしたら複数である可能性がある。「君」にあたるTuであればこれは単数ですが。英語ならYouは単数でも複数でもありえますよね。二人称複数が主体の小説ってどういうふうにとらえたらいいのか。この作品はセウォル号沈没事件を想起させる、と原さんも書いていて、となるとセウォル号に乗っていたたくさんの人たちの視点で書かれているのか。一人の方が、たいていの小説は書き手がいて主人公(もしくは語り手)がいて、その距離感を図りつつ読者は外側から見ている感じなのだけれど、この「あなた」で書かれる小説は、いきなり自分が名指しされ舞台の上に引きずり上げられてしまった感じがしてちょっと嫌だと感じたと言っていました。「まだ三作しか読んでないのよ、あなたのことそんなにしらないのに、そんなに深くつきあう心の準備ができてないの」って感じたそうです。なるほどねぇ。二人称小説は「客観的距離をとった私語り」ではないか、とわたくしは思っていたのですが、この作品については、複数の二人称という視点、臨場感というか巻き込み感? のすさまじさ、という意見にはたしかにうならされましたね。

まめ閣下:ふむ。以前予が貴君を呼ぶときに「諸君」という複数形を用いていたのと通じるものがあるな。

下僕:え? あれは単に「騎士団長」にかぶれた閣下の一過性のものだと。

まめ閣下:あ、おほん。その、人称以外に特別な話はないのか。

下僕:もちろんいろいろありますよ。人称というか、「私」で語られている物語もずっと読んでいかないと性別がわからないものが多く、場所もわからないし、年齢もまちまちで案外これまでの読書のやり方だと捉えにくい。でもそれを意図してあえて書いている。そこに、この作者の「母国語でない言語で書く」というのに繋がるものがあると思ったんですよね。インタビューのなかで作者は、母国語はあまりに多くのものと結びついていてあまりに重く感じられ、それゆえに母国語で書き出すことはできなかった、って語っているんです。母国語だと目の前に広がる可能性が広大すぎてかえって自由が奪われる。拙い外国語で書くことは、その制約ゆえに創作意欲を後押しする、と。この話は、村上春樹さんが「風の歌を聴け」の、最初の章を英語で書いてみることによって書き上げることができたというのと似ていると指摘された方がいました。また、年齢的にパソコンに馴染みがなく今不慣れなパソコンでよちよち書いているけれど、その時間がかかる感じがかえって書くのにはいいように思う、という方がいました。手書きのほうがより深く思索して書けるというのにも通じるのかな。

まめ閣下:「なんでも自由に書け」って言われるとかえって書けないってやつか。

下僕:まあそういう場合もありますよね。テーマ、枚数、締め切りがあったほうが書きやすい。

まめ閣下:でもそれがなぜ、属性の明確でない・境界をとりはらうボーダーレスに繋がっていくと思うんだ?

下僕:作者はおそらく、生まれ育ったときから周囲に違和感を抱いていて、自分のことも異物のように思っていた。だから国を捨てて異国で生きることを選んだ。でもそこで同化するわけではなく、異なる存在として世界を見て生き続ける。そうして見えてくるものを書く。自分が異物ということは、他の何にも属さないということです。属性、つまり既存の枠から自由な存在ということでもあります。だから、そういう書き方になるんじゃないか。わたくしはそう感じました。

 あと、現代性の話になりました。幻想的な設定や描写であるのにかかわらず、この作品に登場する物や行動が、若い人ならあーわかるわかる、と肌で実感できるものだと。「同じこと自分もやってた」とか、人それぞれに自分の体験となぞらえられる部分があったりもします。そういう細部に描かれるモチーフの現代性もありますが、もっと大きく、属性から自由というのは、セクシャリティジェンダーというものに囚われない考え方に通じててとても現代的だと感じます。だから、これまでの読み方だとすんなり読めないと感じる人もいたのではないでしょうか。それで、文学における時代性の話になりました。昔の作品でも今読むと結構ポリコレ的に「アウト」なの多いよね、とか。文学作品に限らず、映画でもドラマでも漫画でも。「のだめカンタービレ」でさえ今観ると「あ、ちょっとそれは」と思う箇所もある、という話しも出て。そういう時代性にどこまで対応して小説を書くべきか難しいと悩む人も。ただ、いろいろ「アウト」なところがあっても面白いものはやっぱり面白いんだよねって話にもなりまして。まあちょっとグカ・ハンから話は逸れてしまいましたが、この作品にはモチーフだけでなく、いろんな形で現代性の発露があるな、と思った次第であります。

 技術的にも、鮮やかなモチーフの使い方(「放火狂」のなかのマッコウクジラなど)や、シリアスなものを上手にぼかして受け入れやすくする方法、不快感の表現など、かなりはっとさせられるものがあるという指摘がありました。

 「Luoes」で始まり、最後が「放火狂」で終わるのは見事な呼応だし、ひとつの物語世界をきちんと構築していると感じた人が多かったです。

まめ閣下:にゃるほど、またいろんなことを学んだわけだにゃ。

下僕:はい、課題にしてもらわなければ出会わなかった本ですが、というか、だからこそなのかな、今回もまた実り多い読書会でございました。でも今日は腰が痛いです・・・。

まめ閣下:また持病の腰痛が出たか。

下僕:いつものじゃなくて、ぎっくりですよ! 何日か前にわたくしが七転八倒していたの、ご存知ないですか!!

まめ閣下:(。´・ω・)ん? そうであったかにゃ?

下僕:もう、まったく。下僕があんなに苦しんでいたのに。ひどい閣下でございますね。

【講座】2020年11月28日「清水次郎長伝 語り口の文学Ⅱ」町田康 <オンライン>

 

www.nhk-cul.co.jp

 

下僕:閣下、閣下、起きてくださいましよ。ねぇ、ちょっと、ちゃんと聞いてましたか?

まめ閣下:な、なんじゃ、うるさいなぁ。ふわぁあああ。

下僕:もう。せっかく町田さんの講座を家で一緒に受講できるチャンスだったっていうのに、なんで寝てるんですか。

まめ閣下:あ? そりゃしかたない。予は猫である。寝るのが仕事じゃ。とくに予は夜中ずっと絶叫ライブを開催しておるのだから、昼間は体力を温存しておかねばならんのだ。だいたいだな、そういうものを予にかいつまんで報告するのが、下僕の務めではにゃいのか。

下僕:もう。わかりましたよ。じゃ、さっそく報告いたしましょう。

まめ閣下:なるべく簡潔ににゃ。例の病はやめておけ。

下僕:あー、おほん。今回の講座は、もともとは4月に生で開催されるはずだったものですが、疫病の影響で延期になってて、ようやくウェブ開催となったものです。

まめ閣下:生って。講座も生講座とかいうのかい? どうせなら生まぐろとかのほうがみんな食いつくんじゃないのかにゃ。

下僕:もう、かきまぜないでくださいよ。簡潔にとか言ってるくせに。

まめ閣下:ははは、すまんすまん。しかしなぜに「清水次郎長伝」なんだ? 文学っていうより浪曲とか浪花節じゃないのかね。

下僕:はい、だから「語り口の文学」なんでございますよ。浪曲浪花節というのは音曲であって耳から入って来るもの。それが文学に与える影響を考える、といいますかね。冒頭で町田さんは「語りの尊さ」というものについて解説。人が口で言ったことを信じるかどうかっていうのはその語りに人格的説得力があるかどうかというのがポイントになる、と。本か何かで読んで知識として知っていることであっても、そこにちがう理解が生じる。たとえ同じ語彙であっても、読んで知っていただけのものと語りで知った語彙は、その内包するものが違ってくる。たとえば、廣澤寅蔵の浪曲で聞いて覚えた「おともだちさんにござんすか」の「おともだち」という語を、子母澤寛の「駿河遊侠傳」という本の中で目にしたときに、それがその場だけのたとえではなくて当時「同業者」を意味する語として普通に用いられていたという時代的背景も知ることができる。浪曲などは「芸能」ではあるけれど、当時の気配というものをより明確に伝える力があり、同じ言葉を文章で目にしたときにその背後にある気配をも感じとる力につながっている、という話しから講座は始まりました。

 4,50年前には、浪曲浪花節に限らず伝統的文化全般がダサい、唾棄すべきもので、何事によらず「和製」というのはかっこわるいもの、パチモンみたいなイメージがあった。でもあるとき聞いてみたら、ええもんだった。言葉が古くてわかりにくかったりするけれど、浪花節にしても浪曲にしても、音楽・物語・おもしろさ(笑い)・会話とナレーションという多要素の複合体としてのおもしろさがあり、語りのリズムや拍子というものも、文章に生きてくる。いい文章というのは、やはりリズムがいいのである。

 だからぜひ聴いてみることを勧める。しかし長い。検索したら部分的にも聞くことが可能ではある。しかしとなるとストーリーがつかみにくい。もちろん、ストーリーがわかってしまったらもうおもろないか、というとそんなことはなくて、エンタメでも文学でも、展開がわかってても何度でもおもしろいというのが本物である。結果を知りたくて聞いたり読んだりするわけではないのだから。でも、そうやってあちこちを切れ切れに聞く場合には、あらかじめ全体の話の流れを知っていたほうが楽しめるであろう、ということで、後半は清水次郎長伝とはどういう話しであるか、というお話になりました。

町田さんは現在、Cakesというサイトで「BL古典セレクション 東海遊侠伝 次郎長一代記」というのを連載中。なので、くわしくはこれを楽しむといいかと思います。

 

cakes.mu

 また、次郎長について書かれたものは硬軟とりまぜてたくさんあるようでして、先に紹介した「駿河遊侠傳」のほか、天田愚庵の「東海遊侠傳」なども資料としてあげられていました。他にも静岡県立図書館に所蔵されている手書きの「安東文吉 基本資料」やら「全資料集」やら、かなりマニアックな資料がたくさん出てきまして、やはり相当調べたうえで小説にしているのだな、と深く感じ入りましたよ。

まめ閣下:〽旅ゆけーばー、駿河のくーにーに、茶のかおーりー

下僕:あれ? 閣下もそんなのご存知なんですか? 19年しか生きてないのに。でもどうやら「駿河の道に」らしいですよ。

まめ閣下:え、そうにゃのか? ま、どっちでもいいわにゃ。

下僕:あ、そうそう大切なことをもうひとつ。本日は、ウェブ開催ということで、町田さんのご自宅からシブい和服姿での講座でありました。最近はもっぱら和装のようですな。これからはパンク野郎の衣装は和服ってことで。

まめ閣下:だから貴君のその「病」は・・・。

 

 

 

 

【読書会】2020年10月3日「観光」ラッタウット・ラープチャルーンサップ

下僕:ねぇ、閣下、今まで知らなかった素晴らしい作家に出会うって本当に幸せなことですねぇ。

まめ閣下:にゃ、にゃんじゃ、藪から棒に。

下僕:いえ、昨夜はほら、小説仲間たちで定期的にやってる読書会でしてね。その課題図書がこちらで。

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下僕:今回、課題として提案されるまでまったく知らない作家の作品でした。

まめ閣下:ふん。なんという人だ?

下僕:え? それ訊くんですか? えっと、えっと、ラッタッタ? ウッド? チャラ? チャンプルー? ・・・サップ・・・とかいう・・・うんと。

まめ閣下:な、なんと申した? もう一度言ってみい。

下僕:え、だからー、ラッタッタ・・・うーっむ、とにかく一生おぼえられなさそうな長いお名前であります。

まめ閣下:おいおい、それでよいのか。

下僕:えー、すんません、おいおいおぼえていきますよ。この方、タイ系のアメリカ人でして、タイの方ってお名前がみんな長すぎるらしいですね。だから普通は名前と全然関係のないあだ名で呼び合うらしいですよ。キュウリ、とか。

まめ閣下:なんじゃ、そのキュウリってのは。

下僕:ほら、野菜の。

まめ閣下:そうじゃなくて。まぁ、もうよい、さっさと本の話に行ってくれ。

下僕:はいはい。とてもとても語りたい作品ばかりなので、そうさせていただきます。これは短編集でして、収録作品7作のうち今回は「ガイジン」「徴兵の日」「観光」「プリシラ」「こんなところで死にたくない」の5作を取り上げました。苗字は長すぎるのでファーストネームで呼ばせていただきますが、ラッタウットさんは1979年シカゴ生まれ。ということで、まだ若い作家、と思ったんですが、計算したら今41歳、そんなに若くもないか。ただ、才能が作家として認められたのはずいぶん早かったようです。2004年若干25歳で「ガイジン」をイギリスの文芸誌で発表したとあり、それがデビューなのかな。今回のどの作品を読んでも、みずみずしく若い才能が弾けて迸っているようで、眩しいほどです。推薦してくれた方以外は全員初読の作家でしたが、多くの方がもう「大好きっ」てなってしまってました。少年の目で見たものを書いている作品が多くて、軽い語り口なのに緊張感があり、ひりひりしてひやひやして最後はすうっと胸がすくカタルシスがあると評した方も。5作のなかで特に好きな作品というのも、けっこう人それぞれ分かれていて、作品の多様性というものを感じます。わたくしは「ガイジン」「徴兵の日」「プリシラ」が特に好きでしたが、「こんなところで死にたくない」が大好きという人が複数名、表題作「観光」が素晴らしいという人も複数名、しかしそれらの作品が、切実でつらい現実が描かれていて読み返すのはつらいという方もいたりして。そういう多様な意見が聞けるのが読書会のよさですね。

まめ閣下:ふぅん。それぞれの作品についてちょっとずつ教えてくれにゃいか。

下僕:じゃ順番に行きましょうか。

「ガイジン」世界中から観光客が集まるタイの観光地で暮らす少年とそのペットである豚のクリント・イーストウッドの話です。短編とはこうあるべき、こうかかれるべき、というような、ある種理想の短編。書き出しでぐっとつかまれてしまう。書き出しとラストの文章のすばらしさは全作に共通してる。豚のクリントに対するいとしさが読んでいるうちにどんどん高まって最後の一文で愛が溢れて胸がいっぱいになっちゃった、って人も。ドライな書きぶりと、居場所があるようでないような感じが片岡義男を思わせるって人もいましたね。わたくしは、自分が日本人観光客としてアジアのリゾートを訪れたときに感じてしまううしろめたさが裏付けされたように感じました。

「徴兵の日」終始現在形で語られていく中で、時おり、作品の時勢の未来(つまり書いている時点)から過去を振り返って語る視点が挿入されて、その部分が非常に印象的。主人公と友人のそれぞれの「みじめさ」を書いていて、研ぎ澄まされた瞬間を摘まみ上げる名手だと感じた。徴兵のくじ引きで普段キティとあだ名で呼ばれている女装愛好者が本名で呼ばれるシーン、本当の名前というものの物語的な重さをあたらめて考えた、という人も。くじ引きのシーンはちょっとショーのようで、エンターテインメントの観客として楽しむこともできてそういう意味では文学的ではないかと最初は感じたという方も。まあたしかにこの作品は文体とか技巧のすばらしさで読ませるようなところもあるのかな、と思いました。でもやはり経済力の違いで友人を裏切ることになる主人公のやましさやせつなさが垣間見えてこれもひりひりする作品ではあります。

「観光」網膜剥離が進行してもうすぐ目が見えなくなるという母と旅行に出る青年の話です。原文のSightseeingという単語のなかに「光」はないけれど、作品自体に光を感じ、「観光」という日本語にするとそこには「光」があって、視力を失っていく母の状況とも呼応して美しい。まあSightという言葉自体が視覚の意味でもありますけどね。行ったことがないはずなのに、その情景が鮮やかに目に浮かぶ。非常に映像的。冒頭市場で売り子とやりあってサングラスを手に入れるシーンが生き生きと素晴らしく、そのサングラスも海の上で失くしてしまうという展開が母にはいずれいらなくなるものであるというのもあってせつない。目的地にたどり着いていないところで話が終わるのがいい。外国人観光客がこないようなしけた宿、そこから泳いでいった砂州というのも、寄る辺なさの象徴のように感じる。母の未来を悲観する息子に、母が「わたしは死ぬわけじゃない。ただ目が見えなくなるだけ」というのが、人間の尊厳を伝えていて、強さが美しいと思える。

プリシラ」バンコックの貧民街に住む少年とカンボジアからやってきた難民少女プリシラとの交流を書いた物語。故国を離れるときまだ幼子だった娘の歯をすべて金歯にした歯科医師の父親の思いが切実。クメール・ルージュのことなんてこんなふうに書かれたものを未だかつて読んだことがない。痛くて切ない話だけれど、プリシラのキャラクターの明るさや力強さもあってどこかに軽やかな光を感じる、という方も。わたくしは、この作品のラストがあまりに痛くてつらくて、ブルーハーツの「〽弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く」というのを思い出してしまいました。みんな社会的弱者なんです、弱さのレイヤーのなかでより弱いものを叩くしかない。でもそれをプリシラなら軽々と飛び越えてくれるかもしれない、そんな幻想も見せてくれるのが救いなのかな。

「こんなところで死にたくない」脳卒中で半身不随になった父親が、タイ人と結婚してタイで暮らしている息子夫婦のところで暮らし始める話です。この作品だけは、視点人物は老人で他の作品の少年視点というのと違ってます。父親が遭遇している様々な困難、料理が辛すぎるとか部屋が暑すぎるとか、どこかユーモラスで何度も笑ってしまった、という人も。毒舌のなかにもやさしさを感じたという方もいました。最後のバンパーカーをぶつけ合うシーンはカタルシスもありよくできているけれど、ちょっと既視感あるかな、という人も。アジア人妻に対するアメリカ人の老人やその他の人々の視線に、身につまされるものがあるとおっしゃる方もいました。その人は自分が妻の立場で読んでいましたが、自分が介護される立場になって読んでいる人もいて、やはり息子の奥さんから「あーんして」なんてやられたくないって言ってて、それにはわたくしも同感であります。これも読む人によっては切実すぎる現実でつらい、と感じた作品のようでしたが。推薦された方は、小説的造りがカーヴァーの「大聖堂」を思い出すと言ってました。「大聖堂」のほうは経験の豊富な作家の手による完璧さがあるけれど、こちらのほうには、書き手の若さゆえのベタなところがある、と。ひょっとするとそのベタなところが既視感だったりするのかも。ウェル・メイドってことですかね。

まめ閣下:にゃるほど。で、貴君はこの作家のとくにどういうところがいいって思ったんだ?

下僕:はい。それ、わたくしもいろいろ考えてみました。まず、文体が素晴らしい。でもひょっとしたらこれは、古屋美登里さんの翻訳が素晴らしいのかもしれません。とにかく自然で、最初からこの言語で書かれた小説のようでした。小説そのものの話をすると、この「観光」というタイトルの短編集で見る限り「ガイジン」というのが作家自身が抱えている根本的なテーマなのかなという気が。母や父、子や孫であっても、しょせんはstranger、つまり異人、見慣れぬ人、であるというのも書かれているし、自分自身がタイにルーツを持つアメリカ人として生きてきたということも、つねに自分のうちに「異なるもの」と向き合っていかざるを得ないという背景も関係しているのでしょう。そしてこの作品集の冒頭に「ガイジン」という作品が入っていることも、彼にとってこれがコアな作品であることを示しているのではないか。まさにデビュー作にすべてがある、って本当ですね。タイトルは「観光」だけど表紙は、この作品なんですよ。よく見ると豚が泳いでる。

まめ閣下:あ、ほんとだ。

下僕:これ、言われるまで豚って気づかなかった人がほとんどです。わたくしも含めて。あとね、これは非常に個人的な感想なんですけど、どうしてこんなに惹かれるのかなって考えたときに、わたくしの大好きな「カポーティみ」があるように思ったんです。つねに弱い存在の側におかれている、自分自身も弱いものであるし、周囲にいるより弱いものの側によりそっている。そういう視点を感じたんです。力がなくて、感じること以外になにもできなくて、せつなくて。そしてこの文章の巧みさよ。まだ若いし生きてるし、これからが楽しみな作家です、って言ったら、なんと行方不明だっていうじゃないですか!

まめ閣下:え?

下僕:2010年の時点なんですが、文庫のあとがきのところに、エージェントも連絡がつかないって書かれているって他の方が教えてくれて、衝撃を受けてしまって。天才だから早く死んじゃってるかもしれない。なんてことだ、と騒いでいたら、他の方が最近の動向を検索して探し出してくださいました。2018年にインタビュー受けていたようです。ちょっとホッとしました。

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まめ閣下:おお、よかったじゃないか。ん? この隣りの女性は誰かにゃ?

下僕:誰ですかね? インタビュアーにしては距離が密すぎますよね? 奥様かな。まあそんなことはどうでもいいじゃあありませんか。とにかく、この素晴らしい才能の持ち主がまだ生きているという幸福をかみしめ、この先にまた作品を読ませていただけることを強く強く希望いたします! 

【イベント】2020年10月2日「詩そして即興」熱海未来音楽祭プレオープニングライブ@起雲閣

まめ閣下:おい下僕よ。貴君、昨日はどこへ行っておったのかな。ずぅうううっと屋敷にばかり詰めておると思っていたのに、最近また夜間の外出が多くなったような気がするのだがにゃ。

下僕:あ? ばれちゃいましたか? 春先から半年以上、疫病のせいでまあとにかくいろんなイベントがのきなみ中止とかになってたんですがね、ここにきてぼちぼち、開催されるようになってきたんですよ。もちろん客席数減らしたり検温やら消毒やら万全の対応をとっての開催です。やっぱ生で観られるのはうれしいもんです。配信ももちろんうれしいんですけどね、やっぱり生の魅力を100%味わえるというものではないですからねぇ。

まめ閣下:で、昨夜も深夜に帰宅と。数日前もなんだか日付変わってから帰宅したんじゃなかったかにゃ?

下僕:あ、おほんおほん。昨夜は遠出してたので遅くなったんですよ。熱海までこのイベントを観に出かけてまいりました。

 

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下僕:なんと東京を出るのは8カ月ぶりで、普段乗っている電車の逆方向に数駅行っただけですでに旅行気分になりました。移動するだけでなんでこんなに楽しいんでしょうねぇ。車窓からの景色、稲刈りの終わった田んぼには曼珠沙華が咲き乱れ、河原には山羊がくつろいでいて・・・

まめ閣下:あー、まあその楽しい旅気分ってのも、音楽祭のプレイベントに高揚する気分がもたらしたもの、つまりまた「康さん詣で」の復活というわけであろう。

下僕:あはは、さすが閣下、鋭い推理力。なんでそんなにすぐにおわかりになりますのん。

まめ閣下:んなもん、だれでもわかるわ、あほんだら。貴君ほど単純な者はそうそうおらん。

下僕:あれ? 閣下、ちょっと康さん入ってません?

まめ閣下:どうでもいいから、さっさとイベントの報告せんか。

下僕:あい。熱海未来音楽祭、去年は週末二日間だったんですけどね、疫病禍で今年は開催されないかなと思っていたんですが、イベントの数も種類も増え期間も10月25日まで、配信もあってより規模が大きくなった感じです。詳しくはこちらを。

www.makigami.com

下僕:昨夜はそのプレオープニングイベントということで、詩の朗読と音楽とパフォーマンスが融合するという催しでありました。昨年は海外からアーティストの参加もありましたが、今年はこの状況ですからね。去年の様子はこちら。今回のパフォーマンスというのは、あれは現代舞踏というのでしょうか、肉体を使って表現する方で、なんかすごかったです。
まめ閣下:なんかすごかったって、語彙力なんとかならんか。

下僕:あ、すんません。精進いたします。朗読と即興の音楽の共演は去年同様でありましたが、そこに現代舞踏の方が入って大きな動きというものが生まれましたね。静かな動きなのにダイナミックで。朗読も演奏も基本は場所移動しませんし、派手なアクションないですからね。あ、でも巻上さんのテルミンの演奏はちょっと舞踏っぽいかも。ああいう舞踏みたいなのは、ゆるやかにみえても運動量がすごいんでしょうね。横たわった後に汗だまりができてましたよ。無駄な肉がいっさいない体がうらやましかった。わたくしもやろうかな。

まめ閣下:貴君に舞踏のような身体的表現の才能があるとはまるで思えん。悪いことはいわん、踊りはやめておけ。

下僕:くうー。

まめ閣下:で、その「詩の朗読」のほうはどうだったのかにゃ。お目当ての。

下僕:はい、今年も素晴らしかった。冒頭は石牟礼道子さんの詩で。途中、町田さんがなにか感極まるように声をちょっとつまらせたように見えました。聴いているこちらも、おもわずぐっとなって。でも、その後の朗読が「潮来の伊太郎」で。町田さんの芸能スィッチがぽんって入った感じになりましたね。去年は「昭和枯れすすき」で、心臓を鷲掴みにされちゃいましたが。あとは自作の詩やら萩原朔太郎やら。朔太郎のは、たぶん町田での講演会のときにも取り上げた詩でしたよ。で、町田さんと巻上さんが交互に朗読をやって、最後は二人が別々の詩の朗読を掛け合いのように発する場面は、フリージャズのジャムセッションのような盛り上がりがありました。まあ、あんまりいろいろ言っちゃうと、まだ有料のアーカイブ配信もあるから。

まめ閣下:まぁ、この与太話をそんなに読んでくれる人もおらんと思うけれどな。

下僕:あ、そうそう、今年は出演者の方が靴履いて出てくれたのがうれしかったですね。場所柄、観客はスリッパに履き替えるんですけれど、やっぱり演奏する人とかスリッパだと哀しいものがあるので。町田さんは黒革のスポーツシューズで・・・

まめ閣下:ああ、もうよいよい。予はその”康さん病”的なもんはいらんから。

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