Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【読書会】2022年6月4日「おばちゃんたちのいるところ」松田青子

・幽霊譚を元ネタにフェミニズム的視点でライトな語り口で展開される短編集

・「おばちゃん」の素晴らしさ

・短編はいかに書かれるべきか

 

 

まめ閣下:下僕よ。昨日は遅くまで賑々しくやっておったのー。

下僕:あ、閣下ではありませんか! ようやくおいでくださいましたね。

まめ閣下:何度言ったらわかるんだ、予はイデアであるから姿はなくともつねに在る。

下僕:はいはい、でもね、こちらにわかる形で現れていただけませんと。

まめ閣下:だからそれはー、貴君の精進がたりないのだよ。つねに高い次元で精神を活動させておればイデアというものはつねに感じられるはずなのである。

下僕:はぁ、それはたとえばお線香焚いたりですか。

まめ閣下:は? お線香?

下僕:いえね、昨日の読書会で取り上げた短編集のなかにそういう話が登場するものですから。

まめ閣下:ふむ。貴君にしてはなかなか機転のきいた前ふりじゃあにゃいか。さっそく昨夜のみなの話をまとめて聞かせてくれるかにゃ。

下僕:はい、昨日の課題はこちらの作品、松田青子さんの「おばちゃんたちのいるところ」でございました。世界幻想文学大賞も受賞した連作短編集でございます。

まめ閣下:相変わらず安定の下手写真である。どれどれ。ふうん、著者紹介を見ると他にも多々受賞歴があって海外でも評価されているみたいだにゃ。

下僕:はい。この作品は、昨日の読書会でみなさまの意見をまとめると、「幽霊譚を元ネタにフェミニズム的視点でライトな語り口で展開される短編集」という感じになりました。死んだ人も生きてる人も一緒にそれぞれの特性を生かしてさまざまな仕事をしている不思議な会社というのが展開される物語のハブになっていて、はっきり書かれてはいない場合もあるけれど共通の登場人物や繋がっていくモチーフがあるという、いわばゆるく繋がる連作になってます。全編通じて読むと、母に突然死なれて茫然自失すっかり生気を失っていた茂という青年が、この会社に非正規で働き始めて徐々に生きる気力を取り戻し、最後のお話のなかではやはり具体的には書かれていないけれど営業職みたいな感じになっていて、一応、成長というか回復の物語もひっそりとある。

まめ閣下:幽霊譚を元ネタに、っていうのは。

下僕:どの短編にも「皿屋敷」とか「子育て幽霊」とか、知ってる人ならみんなすぐにわかるような古典の怪談がベースになっていて、そのストーリーにのっかって独自の物語世界が展開していく。参加者の大半は、元ネタにあまり詳しくなかったんですが、

まめ閣下:おほんっ、貴君がその代表だな。

下僕:そりゃ当然でございますよ。えー、ですが、とっても詳しい方がお一人いらっしゃいまして、元ネタがわからないと本当にはわからないんじゃないかというわれわれの不安に対して、その方が言うには「わからなくてもまったく問題なく楽しめるんじゃないか。だから海外や古典を知らない若い人にも受けるんでは」とのことでした。言い換えると、パロディとしてはさほど深くはない。幽霊譚に詳しい別の方は、アジアでは一般に女性の幽霊譚が多くその死に方によって幽霊が分類されるくらいあって、そういう話がずっと語り継がれているのも、その非業の死を憐れむという情緒的な共感があってのことかもしれずアジア的なのかもしれないとおっしゃっていましたね。

まめ閣下:だからこそ世界で支持されたというわけかにゃ。

下僕:はい。どの作品にも根底にはフェミニズム的視点が感じられるのですが、口に出せない恨み辛みを、わざとラノベっぽくも感じられる軽い文体にして語ることで一見とっつきやすく見せている。でもその実、鋭利な刃物を隠し持ってるヤバい書き手じゃないか、と感じる方もいらっしゃいました。

まめ閣下:なんであれ思想的なものの出し方って小説では難しいんではないか。

下僕:はい。あまりに直截に語ってしまってはもう小説ではなくなりますし、普遍的な一大テーマみたいなものはもともとそんなにスパっとすっきり出せるものではないでしょう。本のなかではわりと昔から現代に至るまでの女性の「削られ方」「野生の剥ぎ取られ方」が描かれているし、作者と同年代である「ロスジェネ世代」の方などはとくに「わかりすぎてさらっと何のひっかかりもなく読めてしまった」とおっしゃってました。その辺りは、読み手の世代とか性別とかでベースとなる価値観というか世界観が違ってしまうと「わかる」と感じる振れ幅が大きいのかも、とおっしゃってる方もいましたね。また、古典の時代よりは女性も少しは生きるのが楽になったというふうにも読める、とか、幽霊譚ではあるけれど死ぬのも(死んでしまった人のほうは)悪くないよね、楽しいよね、みたいな、肯定も感じられる、という意見もありました。

まめ閣下:予は大いに楽しんでおるぞ。

下僕:ならよろしいんですけどね。残されたほうはやはり哀しく寂しいものでございますよ。まあそれはおいておいて、タイトルにある「おばちゃん」という語の持つパワーというかすばらしさについても語ってる人がいましたよ。生まれたときからいろいろ生きづらいものを背負わされている女性が、「おばちゃん」という存在になったときに、ようやくそれから解放される。自分がそろそろ「おばちゃん」かなと思い始めたときに気づくその素晴らしさ。それはほんと、よくわかりますよね。

まめ閣下:そういや、貴君もいつのまにか立派な「おばちゃん」になったにゃあ。

下僕:ふんっ、ほっといてください。21年も一緒にいるんだからそりゃ当然でございましょうよ。

まめ閣下:上にある「短編はいかに書かれるべきか」ってのは何だ?

下僕:ああ、この読書会は全員小説を書いている側の人たちなんで、何を読んでもそういう視点から離れられないんでございましょうね。今回の課題は、ゆるく繋がる短編連作という形式なので、どうしても個々の話が単独の短編として成立しているのか、という疑問があったりもして。文体というのも、短編はこれでいいのか。もちろん↑に語ったように意図されての軽さだと思います。しかし短編には短編独特の文体が必要、という教えなぞも我々は受けておりー研ぎ澄まされた最小の言葉で深い意味を伝えるというようなー。そこから各人がこれぞ短編の魅力と思うことがらの話へと移っていきました。まあその話はまた今度。

まめ閣下:にゃんだ、また怠惰な。

下僕:ちょっと課題から外れるからですよ、もう。とにかく、小説というのはまあ読者を選ぶものとかあって当然で、読書というのは当然ながら、娯楽、楽しみでありますから好きなタイプを選んでいくのが自然な行為ではありますが、小説講座なんかでは「普段自分からは手に取らない種類の作品を読むことが大事」と教えられます。今回はそういう点でもいい読書会であった、とおっしゃる方もいらっしゃいました。わたくしはあまり難しいことはわからないですけど、軽い読み物としてけっこう楽しみました。とくに好きだったのが、「愛してた」という作品に登場するお線香。これを焚くと生前愛していた方が現れるっていうんですよ。それでその人は死んでしまったミケという猫に会いたいって思うんです・・・そこで泣いてしまい・・・はしなかったんですが、このお線香わたくしも欲しいって思っちゃった。

まめ閣下:それが今回の話の枕じゃにゃ。

下僕:はい、でもね、よく考えたらわたくし、そんなもの不要ですよね。このブログに何か書かなくちゃって思ったときには、そのお線香焚いているようなものじゃないですか。だからどうか閣下、いつまでもわたくしが何か話をしたいときには「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」って登場してきてくだ・・・あれ? あれ? 閣下? えーっ、突然消えないでくださいよー。

 

 

 

【イベント】2022年4月30日十三浪曲寄席EXTRA 町田康 x 浪曲II 「パンク侍、斬られて候」於シアターセブン

・小説「パンク侍、斬られて候」を浪曲化。「これはカバーバージョンだ」(町田康

浪曲はブルースだ

浪曲は節回しとリズム

・台詞になってはダメ、歌ってもダメという難しさ

・なぜ浪曲に惹かれるのか

まめ閣下:おい、下僕よ。

下僕:あ、閣下! なんだかちょっとお久しぶりではありませんか。

まめ閣下:それは貴君が伏せっておったからであろう。ひと月も病に伏せっておったくせに、昨日はなんだ、突然遠出などしおって。まだ満足にまっすぐ歩けもしないようだから、予は心配しておったのだぞ。

下僕:はあ。まだ体感的には常に震度2くらい揺れ続けてはおるんですが、でもまあなんとか一人で歩けるくらいには回復、そこにたまたまこの公演チケットをお譲りくださるという方が現れましてね。客席数が40くらいの公演だったんで、瞬殺でソールドアウトになってたんであきらめていたものでしたが、こりゃあもう行けと神様が言ってるんだと解釈して大阪まで日帰りで行って参りましたよ。それがこちらの公演であります。

まめ閣下:まったく。もはや安定のヒドい写真だにゃ、二枚とも。なあ下僕よ。

下僕:まっこと返す言葉もござんせん。

まめ閣下:ま、しかたない。で、どうだった、公演は。

下僕:いやいや、浪曲ってのは初めてライブで観ましたが、予想以上におもしろかったです。うちは父親が浪曲好きで、時々レコードなんか聴いてたんですけどね、そのころわたくしはちっともその良さがわからなくって。節回しやなんかにはなじみはありましたけど、実際に一席通して聴いたことはなかった。今回のは原作を読んでいるから筋はわかりますけど、あの長編をどう浪曲にするのかと興味津々でおりましたが、前後編できちんと聞き所のあるエンタテイメントに仕立てられ、浪曲ならではの節にのせて三味線との掛け合いも見事で、これはなんというか、音楽のライブに近いものだな、と思いました。

まめ閣下:落語や講談とも違って。

下僕:そうそう。落語は話芸、講談も読み物・話の筋を聞かせる芸。浪曲は音楽的要素があってそっちが強めなんだなと感じました。実際に、昨日のトークで京山さんが「浪曲って実際には内容はあまりない」とおっしゃってました。筋というよりも、あるおもしろい場面を切り取って節やリズムに乗せていかにおもしろく聴かせるか。

まめ閣下:そうなると「パンク侍」は長編で、けっこう複雑な筋があるんではないか。

下僕:はい、まさに京山さんが今回の創作にあたって悩まれたのはそこだったようです。この作品のどこを使うか、それをどう加工するか、キャラクターをどう際立たせるか。

まめ閣下:にゃるほど。それはどうだった?

下僕:前半はやはり作品の冒頭の印象的なところから入ってましたね。でもベタで作品の順番そのまま行くんではなく、その後の展開に応じて必要なところで最低限の情報を入れる、みたいな。あ、そういえば、わたくし、今回は前編のみの口演なのかとばかり思っておりまして、「ちょうど時間となりました~続きはまたのお楽しみ」みたいなお決まりの最後の節で、「ん、もうっ。ほんとその通り!」なんて憤っておったんですが、なんと! トークの後に! 後編もちゃんと口演されたのでありました!!

まめ閣下:おいおい、もうほんとうに貴君は。そのオツムの出来の悪さ、写真の下手さと同じくらい安定しとる。まあ、聴けないとあきらめたものが聴けて、喜びもひとしおでよかったの。

下僕:そう、そういうポジティブシンキングでね。

まめ閣下:おめでたい、というんじゃよ、日本語では。Speak in Japanese.

下僕:(耳を素通り)トークはこんな感じでありましたー。写真撮影OKで、SNSなどにどんどん載せてください、と主催者の方が言ったとたん、みなさん写真撮りまくってましたね。

まめ閣下:トークではどんな話があったのかにゃ。

下僕:まず今回「パンク侍」がどうして浪曲化されたのか、という経緯。これは「男の愛」というもともと浪曲だった清水次郎長を小説化した町田さんの作品の出版インベントでお二人が対談されたときに、町田作品のなかで何か浪曲にできそうなものはと聴かれて、京山さんが思いついたのが「パンク侍」だったこと。実際やってみたら、さっき話したみたいにかなり大変だったようです。やはり短いもののほうが浪曲にはしやすい、と。それで、なんと、次は浪曲向けの作品を町田さんが書き下ろしましょう! ということになりました。

まめ閣下:おおー、すごい展開ではないか!

下僕:はい。「ええっ! ほんとにいいんですか!」と驚く京山さんたちに、町田さんは「何より自分がおもしろいと思う浪曲が聴きたい」と。それに、もともと浪曲好きの町田さんは、自分の書いた物が浪曲の節で語られるのはやはりたまらないらしいんです。

まめ閣下:浪曲のどういうところに町田さんは惹かれておるのかにゃ。

下僕:もちろん節も好きだし、語り口の芸が好きというのもありますが、なにより「浪曲には人間の根底にあるシンプルないつわりない感情があるから」だそうです。人間の哀しみなどいつわりのない生の感情が観念というフィルターを通さずに語られている。ロックなどの音楽はある種の建前であり観念的である。しかしそのロックの源となったブルースにはそういう観念的なものがない、浪曲にも同じものを感じる、と町田さんがおっしゃったとき、京山さんが「僕、ブルースが好きなんです!」ととても喜んでいらっしゃいました。浪曲もある程度決まりはあるなかで即興でプレイするみたいなところがあって似ていると感じていた、とも。実際観てみて三味線との掛け合いなんて、まさにジャムセッションって感じました。あと、ちゃんと芸として成立しているのに現在はちょっとすたってるところも、ギラギラとした商業主義に走ってない感じでいいとおっしゃってました。

まめ閣下:そのー、関係者の面前で「すたってる」って言っちゃったのか(笑)。それで町田さんはこの浪曲版「パンク侍」はどう感じたって?

下僕:まず、映画化されるよりうれしかった、と。心象風景の美しさで読ませる小説であれば映像化も楽しみだろうけれど、口調で読ませるような作品は、浪曲の節にのせて聴いてみたいと思っていたそうです。今回口演を聴いて、自分が書いた部分と京山さんが浪曲として作った部分が区別がつかないほど見事に融合されていたと思った。これは自分がやっている「宇治拾遺物語」とか「ギケイキ」と同じような、「カバーバージョン」と言える。今回の京山さんの公演では、飛び上がったり踊ったりというアクションや演出があって、生の芸そのものの味を楽しむことができた、とのことでしたよ。

まめ閣下:なるほど、大満足、という感じかな。

下僕:はい。わたくし、浪曲のことは素人でまったくわからないことばかりだったんですが、今回京山さんのお話を聞いて、浪曲の創作についてへぇ、そうなのか、といろいろ勉強になりました。さきほども申し上げたように、どこを使ってどう加工するかという構成の部分ももちろんありますが、あとはやっぱり節を決めるのが大変なんだそうです。浪曲は台詞になってはダメで、でも歌ってしまってもダメなんだそう。どこをどういう節で語るのか。節回しにもパターンがあってそれを使うのか、あらたに自分で作るのか。こうしようと考えていても、実際演じると変わってしまうこともあってそのときはどうするか。こうやって考えると、浪曲はジャズのようでもありますね。

まめ閣下:遠路はるばる行ったかいがあったの。

下僕:あ、そうだ。これは昨日会場で配られた京山幸太さんのインタビューの一部なんですが、京山さんの町田さん愛が溢れる箇所があったので一部載っけておきます。

まめ閣下:ーー好きですやん(笑)

下僕:(笑、笑)

【読書会】2022年3月12日「ここはとても速い川」井戸川射子

*おそろしく完成度の高い作品

*選び抜かれたモチーフ

*研ぎ澄まされた言葉

*細部のリアルさ

*「川」が象徴するもの

*子どもの社会的脆弱性と生きづらさのなかにも喜びを見いだす力

*わたくしもまた、抗いがたい速い川に立たされているのではないか?

 

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下僕:あぁ、どーしたらいいのかなぁ。困っちゃったなぁ。

まめ閣下:こほん。

下僕:あー、こんなとき、閣下がいらっしゃったなら。迷える下僕を正しく導きたもうことでしょうのに。

まめ閣下:えー、こほん。こほん、こほん。こほん。

下僕:変ですね。なんだかさっきから妙な咳払いのようなものが聞こえるような気が。耳鳴りでしょうか。こだまでしょうか。

まめ閣下:げぇえええほっ、げほっ、げほっ、うぉっほん!

下僕:何やってんですか、汚いなぁ。もう、咳が出るならマスクしてくださいよ。

まめ閣下:ば、ばかもの! 貴君がわざとらしく余に助けを請うているから、しょうがなく現れてやったのではないか。それをなんだ、すぐに気づかないふりなどしおって。

下僕:あはは、ばれてました?

まめ閣下:もうそういう小芝居はいらんから。はよ本題に入らんかい。

下僕:はぁ、それがですね。わたくしどうも最近頭がぼーっとしてしまって。

まめ閣下:貴君のそれは今に始まったことではないと思うが。

下僕:それが以前に輪を掛けてひどいんでございますよ。つい最近も感動して聴いたはずの講演なのにメモを読み返しても内容がもやがかかったように思い出せなくなって。

まめ閣下:そりゃもう年だからじゃないのか。

下僕:いや、わたくしはこれは花粉症ではないかと思うんでございますよ。花粉のせいで頭がぼーっとして思考能力が著しく低下してしまっているのでは。

まめ閣下:貴君は花粉症はないではないか。旧型の人間であるからにゃ。

下僕:でも年齢を重ねてコップの水があふれるように突然花粉症が出るって人もいるようですよ。わたくしもそれじゃないのかなぁ。でないと、こんなにあまりに突然に頭がぼんやりするようになるのはおかしいでしょう。

まめ閣下:あのにゃ、貴君の頭が愚であるのはもうずっと前から余が指摘しておることであろう。今に始まったことではないのだ。こんにゃくを煮すぎると固くなるとかはんぺんを煮すぎるとでろでろになるとかと同じくらい明白なことである。もうそういうことはいいから、今日はいったい何を思い出せなくて困っておるのだ。

下僕:思い出せないってわけじゃないんですよ。ただどうも頭の中に紗がかかったみたいにぼんやりとしか考えがまとまらないんでございますよ。

まめ閣下:ふむ。それはな、話さないからじゃないか。誰かに話してまとめておかんと考えたこと聴いたこと読んだことはすーぐ忘れる、それは貴君の一番の特徴ではないか。

下僕:そうなんですよぅ、だから閣下をお呼びしてたんじゃないですか。昨日の読書会でみなさんから出た感想を忘れないうちにまとめておきたいんですよぅ。

まめ閣下:わかった、わかった。こうして目の前にいて聴いておるから、話したまへ。

下僕:はぁ、よかった。ではさっそく。昨日の課題は井戸川射子さんの「ここはとても速い川」でした。

まめ閣下:お、知っておるぞ。野間文芸新人賞受賞作品だ。選考委員全員一致で選ばれて、そのなかの一人、保坂和志先生が泣いたってことで話題になってたにゃ。

下僕:あれ、よくご存じじゃないですか。

まめ閣下:余はなんでもよく知っておる。それに保坂先生は猫界においても非常に高く評価されておるからな。猫を愛する徳の高いお方である。

下僕:それほんとですか? 猫好きな作家は大勢いらっしゃいますけれど。

まめ閣下:〽ねーこを愛するひーとーはー。徳のたかきひーとー。

下僕:はいはいはい。さぁ、昨日の読書会ですが、参加者はわたくしを含め全7名。みなさんこの作品を高く評価されていました。実は半数以上の方が、最初のうちはなかなか読みにくかった、入っていくのが大変だったとおっしゃっていたのでありますが。

まめ閣下:ほう、それはどうしてだい?

下僕:大阪弁、饒舌な独白体で書かれていること、語り手が小学5年生であることとか。あまり説明されないまま起こったことをいきなりイメージのぶつぎりで語られているところ、誰が誰に語っているものなのか最初は理解が難しい、とか、それぞれに苦手な点があるようでした。わたくしはそういうのはまったく気にならなかったんですけどね。

まめ閣下:大阪弁で子どもの語りの作品といえばこの前の大磯読書会の課題を思い出すな。

下僕:はい。三国美千子さんの「いかれころ」でございますね。でもあちらは4歳の女の子の視点でとらえた世界を大人になってから語っているという設定でしたよね。今回の作品の語り手は小学5年生で、ずっとその少年の視点です。「いかれころ」は血族のどろどろしためちゃくちゃ濃密な関係性を書いていて、今回の作品に描かれる淡く流れ去っていく薄い関係性とはある意味対局にあるともいえますね。まあとにかく、入りにくいと感じる要素多めではあったんですが、でも読み進むうちにそういうことはどこかに飛んでしまうくらいよかった、とみなさんおっしゃっていました。課題にならなかったら途中で投げ出してしまっていたかもしれないけれど、読んで本当によかった、とおっしゃる方も。

まめ閣下:ふうん、そりゃまたどういうわけで。

下僕:上にいくつか挙げてみました。まず作品としての完成度が高いとおっしゃる方が多かったです。モチーフの選び方、日常のできごとのリアルさなど、ほんとうによく構築されていると感じたようです。言葉の研ぎ澄まされ方は、井戸川さんが詩人であることを考えたら当然というか。わたくしなんかは詩人が書いた作品というので最初「文章が難解なんじゃないか」とちょっと身構えてしまったんですが、ちゃんと小説の言葉で書かれていると感じました。ラストで一気に言葉のパワーが炸裂するんですけどね。それがすごくよかった。

まめ閣下:語り手が施設で暮らす少年ということについてはみんなどう言ってた?

下僕:はい、小学5年生の男の子の独白で最後まで書かれているんですが、それを大人の書き手がやりきるのってすごく難しいはず。でもちゃんと、大人が描く「少年」ではなく、集というひとりの人間の視点で描かれてる。施設というある種特殊な環境での生活を淡々としたタッチで、でも少年だからこそのこまやかな視線で切り取って、生き生きと描いている。生きづらさがあって当然の境遇、でもそのなかにも小さな喜びをみつけて生きている姿もいい。その生きづらさも、ステレオタイプなものではなくて、微妙なところをすくい取ってことごとくステレオタイプをひっくり返して描かれている。普通だったらぜったいそれ危険だろうと思う見知らぬ大学生モツモツとの交流に心をゆるく支えて貰ったりとか。繊細な心の動きの描き方がそのままでとてもせつなく胸をうつ。ひじりという集が弟のようにかわいがっている子が先生からちょっとしたハラスメントを受けていて、それがどういう意味なのか子どもには最初よくわからない。わからないけどなんだか嫌だ、というのがぼんやりと描かれているのもいいと言う方もいました。ハラスメントについては、おおきなドラマっぽいものはおこらない話の中の背骨みたいになっていて、最後、園長先生に訴える場面では集の心の成長を感じさせるし、そこからの言葉の暴発にわたくしは打たれたわけですけど。

まめ閣下:モチーフの選び方ってのは?

下僕:アガパンサスの花で季節の移り変わりをしめしていることとか、実習の先生たちとの交流とか、地域の夏祭りとか。あとなんといってもタイトルにもなっている「川」ですね。川によって非常に多くのことが示されている。たえずうつろい流れていく周囲の人間関係とか。施設で暮らすこどもの寄る辺なさとか。話全体に「川」の雰囲気が流れていて、具体的な川も和歌山での宿泊訓練で溺れそうになって助けられる川と、施設の近くにある淀川の二つが登場するんですが、それもなにか対照的で。和歌山の川はきれいで流れが速くて危険だけれど助けてもらえる川、淀川は近くにあって淀んでいてたぶん誰にも助けてもらえない川。最後、ひじりがお父さんと暮らすようになってひとりになった集が、淀川に棲む亀に餌を投げてやるシーンがね、いいんですよ。自分を重ねてるんだなってわかる。孤独な自分を少しだけ遠いところで見てる、って感じ。心の成長ともとれる。だからせつないけれど読後感がいいとおっしゃってる方もいましたね。ひじりのこと本当に大切にして弟のようにかわいがっていたのに、その別れの場面は描かれない。さらっと、ひじりがいなくなってからの日々が描かれる。そこがまた、集の心情を想像してしまってせつないんですよね。描かないことでより強く響いてくる、という感じ。「最高のパーカッショニストは一番大事な音を叩かない、と村上春樹さんが書いていた」とおっしゃる方がいて、まさにそれー! と盛り上がりましたよ。その方が、「わたくしもまた、抗いがたいとても速い川に立たされているのではないか?、と感じた」とおっしゃったんです。またしても名言! ということで、昨日の名言大臣に認定されました。

まめ閣下:なんじゃ、そりゃ。まあ、優れた作品をみなで楽しめたのだからよかったではないか。

下僕:はい。わたくしはどうもいろいろ分析的に読んだりするのが苦手でして、ただただ話の中に入り込んでしまって「うん、よかった。おもしろかった。せつなかった」みたいな子どもみたいな感想で終わりがちなんですけど、他の方の感想や意見を聴かせていただくと本当にいろんな発見があるんですよね。理解が深まるところもあるし。

まめ閣下:にゃるほどにゃ。はい、みなさん、読書会ってほんとうに素晴らしいですね。それでは、みなさん、次回まで、さよなら、さよなら、さよなら。

下僕:って、淀川長治かーい! あれ? 閣下? 閣下ー! いきなり消えないでくださいよぉー。

 

 

 

【講座】2022年1月22日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第4回 於NHK文化センター青山

・偏屈とは ー 古典をやるメリット

・古典の現代語訳について ー 翻訳か創作か

・人間の営みはすべて「翻訳」である

・オートマチックな言語を捨てよ

・文学の言葉にこだわりたいわけ

 

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まめ閣下:下僕よ。

下僕:あ、閣下、降臨。

まめ閣下:降臨ではない。貴君の目には見えたり見えなかったりするけれど、余はつねに存在するものである。それが証拠に、昨日の講座についてはソクラテスのネコ二オンとして貴君とともに見聞きしておったので内容については深く理解いたした。

下僕:閣下、ネコ二オンは五沙弥先生、ソクラテスはダイモニオン(デモ二オン)ですよ。

まめ閣下:まあそういった些事はどうでもいい。おそろしく素晴らしかった講座の熱が冷めないうちに語り合おうではないか。っていうか、貴君のはんぺん頭から記憶がだし汁に溶け出してしまわんうちに。

下僕:こんにゃくから今度ははんぺんですか、もう。はんぺん、美味しいですけど。

まめ閣下:いいから、さっさと始めようではにゃいか。

下僕:今回、閣下は一緒にお話をお聞きになってるわけだから、とくに心に響いたところを話し合うってことでいいんですかね。

まめ閣下:うん、講座はラジオでも順次放送されておる。詳しいことはそっちでちゃんと聞いて貰ったらよかろう。アーカイブで結構長期間に聞けるみたいだからにゃ。

下僕:閣下、聞いて貰ったらって誰に対しての発言ですか。なんだか我々の与太話に読者とか想定してるみたいな。先日閣下は、「こんなものを読んだからと言って、放送を聞かなくてもいいなんて思う人はおらない」とか言ってませんでしたか? えへへ。

まめ閣下:あーおほん。さて昨日の講座は、このプログラムの10~12回放送分、全4回の講座の最終日であったな。

下僕:すごかったですね。とくに12回放送分。毎回2時間、その後の質疑応答を入れるとだいたい2時間半、それを4回続けてきたからこそ到達できた、語り得たことだったと感じました。

まめ閣下:最終放送分の話に行く前に、順を追ってとくに心に響いたことを述べたまへ。貴君は文字にしておかんとすーぐに忘れてしまうからな。

下僕:はい、その通りで。というわけで、冒頭の見出しにしてみましたよ。10回分「なぜ古典に惹かれるか」のなかで、昔と今に対する世間の物の見方の違和感を乗り越えるために「偏屈になる」と決めたってあったじゃないですか。わたくしもかねがね、自分は偏屈にしか生きられないしこの先もますます偏屈になるしかないだろうとかんがえてたので、うれしかった。

まめ閣下:貴君はともかく、町田さんの言う「偏屈」というのは具体的に言うと。

下僕:いわゆる世間のブーム、熱狂に背を向けることですね。どうしてかというと、熱狂そのものがもつ嘘くささを感じ取っていたし、多くの人が熱狂するようなことがらにそもそも興味がもてないというのもあり、また熱狂化することへの反発もあったとのこと。それに熱狂は流行り物で一時的なものですからすぐに色褪せる、時代が先に進んでいくことへのむなしさも感じたということでしたよね。熱狂の渦のようなバブル時代、バンドブームが起こったりして、それに背を向けて何をしていたかというと町田さんは「時代劇」を観ていた。積極的に選び取って観ていたというわけでもないからなかにはくだらない物もあって、時々むなしさを覚える。それを乗り越えるためにちゃんとした時代考証の専門書やら古典の小説を読む、着物着て話する人がみたくて落語を聞く、なんかしているうち、自分がもともと持っていた「昔の物が好き」という考えが肯定できるようになった。物書きになって古典にかかわるようになって、さらに魅力がわかるようになった。「古典なんてやって何のメリットがあるの?」と問われたら、この「流行もんから身を遠ざけられた」というのをあげるって言ってましたね。

まめ閣下:うん、10回分はそういう話だった。11回分はそこから翻訳の話になっていったよな。

下僕:はい、町田さんは古典の現代語訳をやっているだけでなく、グリム童話やチャンドラーの探偵小説なんかも翻訳手がけてるんですね。

まめ閣下:グリム童話は「ねことねずみのともぐらし」だにゃ。

下僕:グリム童話のなかでもあまり知られていない話で、最初読んだとき結末があんまりひどくて理解できなかったって言ってましたね。なんでこんな終わり方なんだ、と愕然としたと。しかしそこで昔の人が書いた昔の話だから野蛮なんだ、だから理解できないんだ、と切り捨ててしまうと先に進まない。そうじゃないはず、今の自分たちでも納得できるものがなにかあるはず、わからないからこそ何かあるよね、と考えてみた。この話については結局、町田さんは原作にない結末を創作したわけですが、後になって原典の意味するところはこうだったんじゃないか、というのが見えてきたっておっしゃってました。古典を訳したりしていると本当にわからない箇所が出てきて、そういうのは元の資料が(書き写したときなどに)間違っているんじゃないか、と考えることもある。実際に間違っていることもあるけれど、それは翻訳という行為においてはちょっと危険な誘惑でもある。

まめ閣下:翻訳としてどこまでが許されるのか、という話だよな。

下僕:そうですね。「なかに込められていること」をわかろうとするのが翻訳だ、とおっしゃってました。今まで誰も通ったことなどないように見える道も、じっと見つめていればかすかに道らしきものが見えてくる、と。

まめ閣下:名言じゃ。

下僕:どうしてもわからないところを突破するのは「気合い」だ!って話もありましたよ(笑)。『解体新書』のフルヘッヘンドの例をあげて。まあしかし考えてみると、現代文でも普通の会話でも人間は同じことをやっている。同じ言葉を使っていてもお互いがそれについて抱いている意味や景色は異なるわけで、いかにそれを乗り越えていくか。そういう意味では人間の営みすべてが翻訳だと言える、と町田さん言ってましたね。恥ずかしながらわたくしも最近文芸翻訳に取り組んでおりまして、翻訳をやってみると、小説を書くのもある意味では翻訳だなと実感したんですよ。自分の内側にあるものをいかにより正確に他者と共有できる言葉に置き換えていくか。

まめ閣下:町田さんの古典の現代語訳にしても、翻訳と創作の境界を飛び越えるようなものだよな。「宇治拾遺物語」とか「ギケイキ」とか。

下僕:その時代にはなかったものや言葉を出すというのが批判されるときもあるようですね。わかりやすくする効果はあるけど古典のもつ情緒や格調が失われる、と。しかしもともと情緒も格調もない作品というのもあるし、作品そのものが伝えたいこと・魅力をより伝わりやすいものにしていくことのほうが大事なんではないか。「ギケイキ」は完全に創作であって、たとえば弁慶の生い立ちなど、より深く人間を理解する上で必要なことと思えば創作している、と。同じく「次郎長伝」も創作であるけれど、これは広沢虎造が語っていた言葉遣いという枠組みのなかで書いている。枠を設けることでよりわかりやすくなる場合もある、という話でしたね。

まめ閣下:そうしていよいよ最終回だ。「これからの日本文学」ってタイトルにはなっているけれど、話の内容としては町田さんがこれからどう書いていくか、ということだったように思うが。

下僕:まさにそうですね。「文学って何? なんのためにあるの?」という質問に対して、読者にとっては「魂の慰安」「娯楽・快楽」「ひまつぶし」、作者にとっては「書くことによって得る興奮・快楽」「時間つぶし」「銭もうけ」というものがあげられるが、この両者が幸福に出会えば(本として)世の中に流通することになる、と。しかしそれだけじゃない。もっと他にもあるんじゃない? と考えると、偶然に、自然に、意図せずに知らぬ間に、文学が現状に影響を与えているということは考えられる。それはつまり日本語やそれを動かすOSに対して、文学の言葉がなんらかの影響を及ぼしている、ということ。今よりももっと強い影響をもっていた時代もあっただろうけれど、テレビの登場などマスコミ(中央)言語によって文学の言語が持つ影響力は衰退してきた。さらに現代はもっとバラバラのネットスラングやらサブカル言語やらいろんな言語(方言)が乱立していて、文学の言葉も一つの方言となっている。そういう存在として細々とでも続くんだからいいんじゃない、という考え方もあるけれど、町田さんは。

まめ閣下:あえて文学の言葉にこだわりたい、という気持ちがある。

下僕:そう、それはもう人間としての癖(へき)というか質(たち)というかどうしようもないもので、そもそも欲求なので理由を説明するのは難しい。しかし文学のことばのなかに自分は生き延びたい、その理由をあえてあげるなら以下の3つ:

1.外側の理由 マス(世の中に溢れたもの)への抵抗

世の中にはオートマチックな言葉が溢れている。慣用句やことわざ、はたして本当にそうなのか、その表現でおかしくないのかと考える前に口にしてしまう言葉。それは呪文のようなもので、その言葉が出た途端頭の中が一色(ひといろ)になってしまう、思考が止まってしまうもの。たとえば「多様性は大事」と言われてしまったらその先に話が行かない。そういう言葉を捨てて、自分で考えていくのが文学の言葉。どうしてそれにこだわるのか。それは人間の魂の外側を塗り固めて目に見えるものにしていくのが言葉だからだ。人間はひとりひとり違う魂であってとても寂しい。だから他の人の目に見えるかたちにしてなんとかして伝えよう、そのためには文学の言葉がいる。なぜといえば貧相な言葉では貧相な外見しか作ることはできないから。

2.内側の理由 バリアを突破して行く力

「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子さん)「土の記」(高村薫さん)などは、どこまでも思考をつきつめていくものすごい小説、普通の人間にはできないところまでつきつめていく。なぜ普通はできないかというと、人間にはリミッターというか、その先には行けないというバリアがあるから。もう考えるのが嫌になってしまうのが普通。でもそれを突き破っていく力になるのが文学の言葉だと思う。

しかしながらこの作業はとてつもなくつらい。世の中にはつきつめない表現というのが溢れていて(オートマチックな言語、Jpopの歌詞など)それはそれで人気があるのは、そのなかにいる限り人は傷つかないでいられるからではないか。

3.1と2を合わせたものをやること = 文学の追求

あ、んー、えっと、このあとはなんでしたっけ。

まめ閣下:おいおい、だめではないか。

下僕:すんません、3のところ、ちゃんと理解できてなかったんです。最後の質疑応答のときに質問したかったんですが、いつものぐずぐず癖が出てきて、まにあわなかった・・・・・・

まめ閣下:もう、貴君のはんぺん度合いには。

下僕:あ、でもね、ここんとこはちゃんとメモしましたよ。文学のメリットっていうか、効能みたいなものを問われたら、ってやつかな?

まめ閣下:そんな話あったっけ?

下僕:えっとですね、「この世の熱狂から離脱することができる。この世の外側と内側の両方に軸足をおいてどちらにも傾かず、今この瞬間を全力で楽しめるようになる『かも』しれない」っておっしゃってました。

まめ閣下:それさ、たぶん3の内容だと思うぞ。1と2を合わせたものをやるとどうなるかって話じゃなかったか。

下僕:はぁ、そうかもしれませんね。閣下、さすがでございます。では、板書のお写真などご覧ください。これは「今は昔、」というお話の語り始めについての説明であります。末来となってますが「未来」であります。○で囲まれた記号のようなのは「今」でございます。物語の中では「今」が自由自在に時間軸をスライドできる、というお話でありました。町田、というのは語っているご本人、時間軸をスライドしているようです。ちなみに我々は「町田」のイントネーションを「ーーー」とわりとフラットにやっておりますが、ご本人は「_ー_」と、「ち」にアクセント置いて発音されております。

まめ閣下:にゃんだか話を逸らされたような・・・。まっ、いっか。あんまり長い話になって眠くなってきたぞ・・・

 

 

【講座】2021年12月25日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第3回 於NHK文化センター青山

・エッセイって言うな! 随筆って言え!

・小説は歌謡曲、随筆はロック

・小説は「役」随筆は「素」

・本当におもろい文章を書くコツ、秘技とは。

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下僕:昨日の講座もおもしろかったなぁ。あぁー、なによりのクリスマスプレゼントだったなぁー。とくにラジオ放送9回目分の「エッセイの面白さ~随筆と小説のあいだ~」ってのがむちゃよかったぁ。でも話す相手がいなーい。

まめ閣下:・・・こほん。

下僕:ん? 今なにか聞こえたような。

まめ閣下:あー、こほん。

下僕:なんだろ、空耳かな。はぁー。

まめ閣下:って、白こいんじゃ、もう。

下僕:え、あら、閣下じゃございませんか。クリスマスでも出るんですね。

まめ閣下:出たんじゃなくて、貴君が呼んだんであろう、もう。それに猫にはクリスマスも正月も関係ないのじゃ。

下僕:え、閣下は猫じゃなくてイデアでしょ。

まめ閣下:ま、まあどっちでも同じだ。ところで無駄なことしゃべってないで昨日聞いてきた話ってのをさっさと聞かせたまえ。

下僕:そうざんすね、イデアの時間は限られてるし。じゃ、さっそく。昨日は連続講座の3回目、この表に記載されている予定表でいうと第7回から9回まで、きちーんと予定通りにお話されました。第7回放送分は影響を受けた(というのも本当なら一概に言えないものなのであるが)作家として井伏鱒二の「かけもち」という作品についてのお話で、第8回分は芸能の影響についてのお話でした。芸能についてはこれまでの講座でも何度か語られていましたよね。たとえば

2017年11月4日 町田康 講演会「読むことと書くことの関係」@中央大学多摩キャンパス - Rock'n'文学

なんかに昨日の講座で出てきた話題がいくつかありますね。昨日は、詩人町田町蔵を特集した現代詩手帳という雑誌に書かれたものを読み上げられたりして。実はこれ、前橋文学館で手に取って長時間読みふけりました。すごくいい特集なんですよ。欲しいなぁ。

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まめ閣下:井伏鱒二の作品は、町田さん大磯の読書会でもやっておったんじゃないか。

下僕:はいはい、こちらですね。作品は違いますけれども。
【講師のいる読書会】2019年11月30日 第6回町田康さんと本を読む@大磯 カフェ・マグネット - Rock'n'文学

まあそんなこんなで、その二つの回はちょっと割愛して、9回目の放送分のお話を。

まめ閣下:ま、貴君の場合語り始めたらきりがないからの。

下僕:はい、なにせ最近、閣下は突然消えてしまわれますからね。とくにお話したかったことをしゃべっておかないと。目次にはエッセイと書かれてますが、ご本人が「随筆」と呼べ!っとおっしゃったので以下随筆で。

町田さんが依頼されて文章を書くようになったきっかけは、小説ではなくて日記でした。しかし日記なんてものは他人が読んで面白いもんではなかろうと考え、なんにもない一日に自分が考えたことなどを書いた随筆のようなものになった。当時自分がゆくゆくは小説家になるなんてことは考えてもいなかったとおっしゃっていました。

日記ってのは政治家や有名人が最初から他の人に読まれる前提で書かれたものもありますが普通は誰にも読ませないつもりで書いている。ところが書き始めると不思議なもので、ちょっと自分を飾るというか、かっこつけたりしてしまう。人に読ませるつもりはないとか言いながら、つい誰かの目を意識してしまう。これが自意識というもので、文章を書くようになるとまず誰でも最初に突き当たる壁だと言います。プロの作家というのはこの自意識を完全に脱ぎ捨てた人のことだ、と。

小説と随筆の違いって何か、というのはよく聞かれることだと思いますが、これについてははっきりした結論というものはないけれど、途中はある。それはたとえば歌謡曲とロック。小説はプロが作った楽曲を歌手が歌う歌謡曲のようなもので、随筆は自分の魂の叫びであるところのロックである。歌謡曲は「役」であり、ロックは「素」。たとえていえば森進一の「おふくろさん」とジョン・レノン「Mother」(町田さん、このふたつをしっかり歌って演じてくださいました!)。小説は役を作りそれに演じさせるものであり、随筆はその人そのもの、事実を書くものである。しかし純文学といわれるもののなかには私小説なんてのがあり、これは役と素が一体化したようなものであるけれど、現実にはそれを人が読んで楽しめるものに作り上げる技術を要するからやはり「役」に寄っていると言える。

随筆っていうのは誰が書いても喜ばれるというものではなくて、有名人や特殊人であればどんなささやかな日常の話であってもみんな喜んで読む。特殊人っていうのは一芸や職能に秀でた人とかですね。しかし無名人や一般人が同じことを書いたところで誰も興味すら持たない。雑誌から日記(随筆)を依頼された当時の自分は無名であったがおそらく詩人という特殊人であったのだろう。でもたぶん普通に書いたら誰もおもしろくないだろう、というのは予想していた。じゃあどうしたらいいか。つきつめて考えて出した答えが「本当のことを書く」。自分がその日どこへ行って何をやったとかじゃなくてそのときの本当の気持ちや考えたことを書く。何もない日でも人間は必ず何か思っているし言葉でなく五感によっても何かを捉えている。人間というのはたいてい変なことを考えているものだから、それをそのまま書く。これがおもしろい文章を書くコツ、秘技である。

ただし「本当」というのが難しい。なぜなら文章に書こうとしたときに例の「自意識」というのが立ちはだかるからである。ええかっこしたり世間一般で言うところの「普通」という意識・呪縛にがんじがらめにされてしまって、本当のことなど書いてしまったら社会から批判拒絶糾弾されるのではという恐怖にかられてしまう。それを乗り越えて「本当」にたどりつく必要があるのである。そのためには

1.自意識を取り払う。

2.そうすると書くのが楽しくなる。

3.楽しくなってすいすい書いていくうちに、本当に考えていることにたどりつく。

4.それをきちんと書き続けることで技術が身につく。

5.そうこうしているうちにまた自意識が出てきて悩まされる。→1に戻る。

というようなことをとにかく延々と繰り返していくことしかない。文章という舟にのればやがては「本当」にたどり着く水路に入れるかも、運ばれていくことができるかも、と考える、ひょっとするとそれは呪術のようなものかもしれないって、最後の方はやや駆け足でおっしゃってて、わたくしのこんにゃく頭ではすっと理解するのが難しかったであります。

まめ閣下:まったく貴君は一番肝心なところを。しかしこんにゃく頭、ってのはもう自分でも認めたのか。ははは。

下僕:あ、それは閣下がいつもわたくしにそうおっしゃるからで。でもなんでこんにゃくなんです? スカスカであることを揶揄されるんであればスポンジとか多孔質とかそっちにいくんでは? こんにゃくなってすべすべでずっしり重いではありませんか。

まめ閣下:ははは、こんにゃくってのは表面がつるんとしておるだろ? 出汁だってなかなか染みこまないではないか。貴君のオツムの吸収力の低さを言っておる。

下僕:ぎゃ、ぎゃふん(死語)。でもでも、おもしろい随筆を書くためにはなにが必要か、ってところはおぼえてますよ。「他人がやってないことをやる」です。他にやっている人がいないことだから、他の人が読んでおもしろいのかわからないっていう疑問が湧きますよね。さらに他の人のやってることとは明らかに手触りが違ったり似てないわけですから不安にもなります。しかしこの疑問と不安がないところで面白い随筆は書けない。他の人が「はぁ?!」ってなるような、理解不能なもんに「ばまりこんで(嵌まりこんで)!」書きなさいってようなことおっしゃってましたね。

まあとにかく、自意識を捨てて書け。書き続けろ。文章によってしか「本当」にはたどり着くことはできない。ってぇことでございますかね。これがまあ簡単にはいかないんですけどねぇ・・・(ため息)

って、あれ? 閣下? かっかぁー!!! カムバーック(魂の叫び)!

 

 

【講師のいる読書会】2021年12月4日第9回町田康さんと本を読む「いかれころ」三国美千子 於:大磯 カフェ・マグネット

下僕:あー、閣下ー、おいでにならないかなー。ご報告したいことがあるんですけどねー(棒)。って呼んだって出てこないですよね、なんたって気ままなイデアであらっしゃりますからね。ま、こないものはしょうがない。一人で寂しくまとめ記事的な感じで

やっちゃおうかな。昨日の読書会、大磯にて町田康さんと本を読む、まさにこの世の極楽、愉悦の極み。会場の前に貼られていたポスターはこれまでとデザインを一新、なんか高級感でたわぁ。

 

まめ閣下:おい、あいかわらずひどい写真だにゃ。

下僕:あ、出た。

まめ閣下:おいでになった、と言ひたまい。まあ、いいや。無駄口叩かず本題に入ろうではないか。今回の課題図書はなんだったんだい?

下僕:あれま、さくさく進行されますな。イデアになるとなんか事務能力とか向上するんですか?

まめ閣下:そうだなぁ、完璧なイデアとなって昨日でまる二ヶ月・・・って、横道に話を逸らすんではない。課題本は、何であったか、と訊ねておる。

下僕:しゅん。せっかくおいでになったんだからちょっとくらいふざけたっていいじゃないですかぁ・・・ぶつぶつ・・・えっと、昨日の読書会の課題はこちらです。三国美千子著「いかれころ」。

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まめ閣下:あれ、この作品、まえに貴君から話きいたぞ。

下僕:ああ、そうですそうです。これですな。

 第32回三島由紀夫賞について町田さんの選評

まめ閣下:なんだ、今読み返してみるとたいしたこと書いてないな。

下僕:が、がーん。

まめ閣下:それに2年も前に未読っつって「ぜひ読まねば」みたいなことを言っておきながら、どうせ貴君のことだ、今回課題に取り上げられてようやく初読したってところだろ?

下僕:はぁ、まったくもってそのとおりで。いいわけのしようもありませぬ。まあでもね、今回ちゃんと読んだわけですから。さっさっさっと、お話を進めましょうねー。

まめ閣下:まったくしょーもないな。

下僕:今回の読書会も参加者10名というなんとも贅沢なものでした。会場のカフェ・マグネットさんも椅子がふかふかのソファに変わってくつろぎ感増したせいか、講座ではなく町田さんと参加者がいっしょになって本について語り合うという雰囲気がより強くなりました。今回は町田さんの前にアクリル板とかびらびらの塩ビシートとか興ざめするものもなくて。で、開始のあいさつでいきなり「では第183回大磯読書会を」などというくすぐり入れたり、突然大声で河内弁を披露されたりと、笑いで一気に空気を和ませてくださいました。マイクを通さない肉声ですよ。

まめ閣下:あー「康さん病」はそのへんにしておけ。本題に入れ、本題に。

下僕:はいはい。前回「津軽」のときは、用意してきた感想を順番に発表してそれに対してみんな考えたことを述べる、というやり方だったんですが、今回は、開始前にみなさんの原稿に目を通した町田さんがとくに興味深いと感じられた方の読みと疑問点をとりあげて、それについて他の方の意見を聞いていくというような形になりました。

まめ閣下:じゃあ、貴君のいつもの長々しい感想を皆の前で披露するってことはなかったわけだ。よかった、よかった。

下僕:ふんっ、なんですかそれは。たしかに今回は用意していった原稿をまるっと読んだりはしませんでしたが、でも質問されたところに関連する感想があったんで、そこについては原稿読みましたよ。用意していった原稿はせっかくだからまた最後に貼っておきましょう。

まめ閣下:じゃあ、その町田さんがとくに興味深いって感じられた人の話とかさ、作品について昨日の場で交わされた話をさらっと聞かせてくれんかな。わかっておるだろうけれど、イデアには現(うつつ)に留まれる時間は限られておるからな。

下僕:はい、すべては無理なんで、とくに印象深く思ったところを。この作品は、四歳の奈々子の4月から9月くらいの間に体験(&見聞き)したことを、大人になった(たぶん四十年後くらい)奈々子が語るという構造で、四歳と大人になった奈々子の二つの視点があるのはすぐにわかるんですけれど、もっとたくさんの視点があって、それが切れ目なくごっちゃに多層的に書かれていると指摘された方がいました。もっとたくさんの視点というのは、河内の自然、墓のなかにいる今は亡き人々、土地に根ざすもの、などの視点があるのではないか。どろどろした一族の話を描きながら感情に寄りすぎずドライに述べている部分はそういう視点なのではないか、と。客観的視点というのは、奈々子が語っている話なのに親も祖父母も呼び捨てで語られるところにも出てる、と町田さんも指摘されてました。一族・家族の間の混沌を書いているので読みにくかったり感情移入してつらかったりした方も何人かいらっしゃったのですが、淡々と客観的に書かれているおかげでわたしはむしろ非常におもしろく読めました。

「(母)久美子は常に最初から最後までいらつきまくってる。いったい何に抗っているのか」「(叔母)志保子が結婚を断ったのはなぜか」「志保子もまた抗っている。では何に抗っているのか」「留守中に志保子が雛人形を勝手に片付けたことに久美子が激怒するのはなぜか」「志保子の結納の日だというのに、奈々子にピアノを厳しく稽古させる久美子の心情は」など、いくつかの疑問をとりあげて、みなさんの意見を聞きました。正解というのは当然ないわけですが、他の人がどう思ったかを聞いて自分の考えと摺り合わせることでより深く作品を理解できますよね。

町田さんは、「この作品は家の中の権力闘争の話でもある」とおっしゃってました。曾祖母シズヲを頂点とした一族のなかで、分家させられた久美子が徐々に力を失っていく。一方精神を病んだ志保子は最下層である犬のマーヤに自分を重ね合わせているところがある、と指摘。マーヤはシズヲに怪我をさせたことがきっかけで檻に閉じ込められて死にかけているんですが、この状態を「はっきり言って虐待ですよね(怒)」と結構感情発露させてましたね。また「抗う」という点では、親や親族というのは(遺伝子的に)自分と切り離せないもので、どんなに親に抗ってもそれは自分に抗うことになる面がある、と指摘。あれは嫌だ、あれはよくない、と批判したところで理屈ではのりこえられない血の流れというものがある、というのがこの作品なのでは、ともおっしゃっていました。

またこの作品を読んで町田さんは「たしかに四つぐらいのとき自分が見たり感じたりしたことってこうだったな、と思い出した。言語以外の五感で感じ取っていたこととか子どもだから感じる不条理とか。けれどこんなふうに見事に言語化できるかというと、難しい」と感じたそうです。非常に耳のいい作家、なのではないか、とも。家族のなかで交わされる河内弁は耳から入ってきたものをそのまま音で表現している。だから人によっては全然わからないかもしれない。大阪出身の自分(地域的にはちょっと違う)でもわからないところがあるくらいだから、とおっしゃってました。でもこの作品の河内弁は他のものに置き換えることは不可能。雰囲気とか地域性を出すためとか、何かのための道具ではない。河内弁でなくては書けない作品である、という話で、方言や猫というものを小説に用いる際にこの点は注意しないといけないっておっしゃいました。

まめ閣下:ね、猫?

下僕:はい。猫。わたくしも、なんで猫? って思いました。猫でなければいけない必然性ってことでしょうかね?

まめ閣下:よ、余は猫でなくイデアである。

下僕:いや、べつに閣下のことじゃないと思いますよ。

まめ閣下:しかし、なんか気になるなー。

下僕:まあまあ。最初町田さんは「この作品は人によってはちょっと難しいと感じるかもしれない」とおっしゃっていて、実際に課題図書でなければ読まなかったし読んでもよくわからなかった、面白さは感じなかった、という参加者もいました。「この作品をを、自分の読書経験のどこに位置づけしたらいいのかわからない」とおっしゃる方がいて、それに対して町田さんは「自分も1回目読んだときと2回目読んだときでは違うものが見えてきた。何年かして読み直すとまた違った感想を抱くかもしれないし、他の本を読んだとき、この本を読んだことで何か違う読み方ができるかもしれない」とおっしゃって、読書に対する愛の深さを感じましたよ。

わたしはこの作品の続編「骨を撫でる」が叔父の幸明がメインに描かれていると聞いて、がぜん読みたくなりました。ちょっといいかげんで小ずるくて、男のくせにアクセサリーとかつけてて、なんか他人とは思えないんですよね、ひどく身近にそういう・・・あ、あれ? 閣下? うーん、消えた。

で、でも、また来てくださいねー。

 

 

三国美千子著「いかれころ」について (下僕考)

 

一般に一族ものは登場人物が多く難しいので家系図を作りつつ、また作品舞台に土地勘もないのでGoogleマップを参照にしながら読みました。四歳の奈々子の感性で捉えられた世界の描写がとてもいいと思いました。

 

一 登場人物たちの人となりの描写はすごいと思います。通り一遍の書き割りみたいな人はまったく出てこない。精神を病んだ叔母の志保子やおそらく今なら精神性の不調の名前が付けられそうな母の久美子、鬱屈を抱えた父隆志のほか、祖父、祖母、曾祖母など、たしかに身近にいたらしんどいなあと思われるような人たちですが、どの時代でもどんな家族にも似たような人はいるし、同じような問題はあるよなと思いました。実際、わたしの家も農家ではないですが親戚が多いので、誰かしら登場人物と同じような特徴を備えた人の顔が浮かびました。

 

二 二つの視点

物語は四歳の奈々子が一族のなかで見聞きし体験した世界を、大人になった(おそらく四〇年くらい後の)奈々子が語っています。それが、よくある「回想」という形でなく四歳の奈々子の世界に留まったまま終わっていて、読み終えたとき「え、ここで終わるのか」と驚きました。最初のほうから、地の文のところどころに大人になった奈々子の視点が入ってきていて、その時点では知り得ない未来(曾祖母シズヲがまもなく亡くなることなど)がちらちらと姿を現していて、終盤近くには、志保子が六〇歳間近で亡くなることや、三十年以上たっても桜は残っていたことや、大人になった奈々子に釣書が全く来なかったことなどが簡潔にまとめられているところがあって、ラストは四十年後の奈々子の世界で終わるのかなと思っていたので唐突な感じを受けました。四歳の奈々子の物語としてはここで完結しているとは思うのですが、回想でなくあくまで四歳の奈々子の見ている世界の話にするのであれば、あえて将来に起こることについての情報を入れ込んだのは、どういう意図があったのかちょっと気になりました。

 

三 五感で捉えた世界

主たる視点人物が四歳で、まだ読み書きを覚える前の奈々子ですから、その世界は、視覚、味覚、嗅覚、触覚など主に五感によって捉えられていて、その豊かな描写に何度もはっとさせられました。牛乳の膜とか卵の白身の食感が嫌いというのなどは、子どもらしいと思ったし、自分は今でもそうだなと共感したり。なかでも耳から入ってくるものが大きな働きをしていると感じました。ピアノの練習をさせられているときの久美子のファルセットとか。河内弁で交わされる生き生きとした会話も、文字ではなく「音」として耳から入ってきたものだからなのでしょう。

 

四、志保子のかご

志保子が常に持ち運んでいる黒いかごが最初から謎の存在として出てきます。いったい何が入っているのかと思っていると、終盤で癇癪をおこした久美子が蹴飛ばして、中身が明らかになります。写真や筆箱などこまごました雑多なもので他の人から見たら価値のないがらくたばかりでした。しかしどうしてそのかごを常に肌身離さず持ち歩いているのか、なぜそれらの物でなければならないのか、理由や由来については最後まで明かされません。これは語り手があえて語らなかったことなのかもしれないと思いました。大人になってからの語り手が「私は何もかも知っていた」と書くように、子どもは大人たちの話をそばで聞いていて大人が思うよりもずっと正確にいろんなことを知っているものです。写真立てに入っていたのが、子犬だったころのマーヤを抱いた久美子の写真(つまりずっと若いころ、たぶん結婚前の久美子)と、隆志と久美子の婚礼の写真というのが何かを暗示しているように思いました。(たとえば、志保子は姉の久美子が幼いころからずっと好きだった、ひょっとすると隆志に対しても特別な感情を抱いていたのかな、とか)

 

五、「黒いかげ」「うす黒いもの」

「うす黒いものはどこにでも、家庭の中にも学校の中にも靴の底の砂みたいにまんべんなく入り込んでいた」(三〇ページ)

子どもの奈々子は、大人たちの会話に出てくる「養子」「セイシン」「カイホー」「恋愛結婚」などの言葉に黒いかげ、うす黒いものを感じています。授業で教わる「差別」というのとは交わらないものだとも感じています。やがて同じうす黒いものが、「女」にも、幼稚園に入ってからいじめを受けるようになった奈々子自身にも、そして「分家」をさせられた久美子にも、あると気づく。

タイトルである「いかれころ」は、久美子が自分自身に対して使った造語ですが、「奇妙で、うす黒さをまとい、後ろ指さされるような、私たち」にこれ以上ないほどぴったりする言葉だ、と感じて奈々子は恐ろしくなるのです。「いかれころ」が意味するものは、志保子や隆志、幸明、死にゆく犬のマーヤも含めて、強い者たち・社会から排除されていく存在のことなのかなと思いました。

 

六.歩道橋から見た景色、「山のむこ」

物語のなかで大事な役割を果たしているのではと思いました。

最初、志保子に連れられて奈々子が歩道橋から彼方の山並みを見る場面(四八ページ)、このときまで奈々子は「山のむこ」には無の世界があると考えています。志保子から大和や富士山やとーきょーがあると聞いてもピンときません。

この歩道橋は、本家と分家の境目の外環状線にかかっています。その後六〇ページで、本家へ行く途中歩道橋を渡るときに同じ風景を目にして「桜ヶ丘のある種の気取りとまがい物っぽさ、村内の秩序と合理性。それらのぐるりを取り囲む山並みの、今にも向こうへ倒れそうな頼りなさ。歩道橋の下には目に見えない水気のものがひたひたして私を高ぶらせた。もし端が割れてパイの窪みの底に落ちてしまったら、三人ともそこで溺れ死んで魚に食べられてしまう」と空想しています。分家と本家の境界線のような歩道橋と、その下にある不穏なものを示してるのかなと思いました。

最後、久美子の運転する車のなかから同じ遠い山並みを見る場面で作品は終わります。山のむこなどないみたいに、うっとりと景色を見て、「この道から見える景色が一番好きやわ」という久美子は、おそらくこの村のなかの世界、本家を頂点とする一統のなかの自分に満足していてその外になにがあるのか知ろうともしない。それに対して、奈々子は返事をせず遠くを見据えて別のことを考えている、という描写は、外の世界に目を向け始めた奈々子の成長を示すものであり、母と娘の決別の瞬間なのかなと思いました。

 

 

【講座】2021年11月27日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第2回 於NHK文化センター青山

・詩人として~詩の言葉とは何か~

・小説家として~文体と笑い~

・「わかる」の四種類

・「文体は意志である」

・笑いの本質「おもしろいことはこの世の真実」

・「壺」 ー ある単語によって書き手と読み手がともに照らされる使い方

 

まめ閣下:呼ばれてないけどジャジャジャジャーン!

下僕:あ! 出た! ちょうどお呼びしようと思っていたところなんですよ、っていうか、「ハクション大魔王」でしょ、それ。前回の「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン」のとき何かと思ってましたけど。ちょうどね、昨日の講座でそのアニメも話題に上がってましたよ~。閣下がそんなアニメをご存じだとは、いやはや。

まめ閣下:そう、その昨日の講座ってやつな、その話がしたいんじゃないかと思ってにゃ。呼ばれなくても出るときは勝手に出るのがイデアというものだ、ははは。

下僕:まあいつおいでになっても、っていうか、わたくしとしてはずっといていただいたほうがうれしいんですが。

まめ閣下:まぁ、イデアである以上そうはいかんのだ。現(うつつ)にいられる時間には限りがある。君、早く話を進めたまへ。

下僕:そうですね、今回はいろいろお話ししたいことがたくさんあって。メモ書きがノート6ページ。この講座は全4回で、昨日が二回目でした。1回の講座を三分割してラジオ放送があるのでこんなふうにきっかりお話の内容が決められております。昨日は4~6回放送分。

下僕:通常の講座だとついつい枕が長くなって後半時間が足りなくなりがちなんですが、前回もきっちりお話を時間内にまとめていらっしゃって、なんだやればできるんじゃないの、って感心しました。

まめ閣下:おい、なんだその言い様は、失敬だな。

下僕:あ、いえいえ、町田さんのお話はいつも楽しいしかなうことならずっとお聞きしていたいんですけどね。なにせ「ちょうど時間となりました~」ってちょん切られちゃうのはねぇ、準備をしてきた話者としても残念でしょうしこちらも最後までお聞きしたいし。でも昨日もみごとに三回分お話をまとめて、さらにちょっと延長して質疑応答の時間まで。ありがたき幸せでございました。

まめ閣下:ふん、貴君もみならって、その長ったらしいメモを、さっさと上手にまとめてくれんかな。

下僕:はい、そうでございました。昨日のお話は大きく「詩人として」と「作家として」に分けられました。まず「詩とはなにか」。人間のなかには理屈と感情があるとすると、詩というのは「感情の働きを言葉にしたもの」である。それが他者によってわかる、共感されるということがある。ではこの「わかる」とはどういうことなのか。町田さんは「わかる」には次の四種類があると言います。

1.わかるからわかる ー これは「理屈でわかる」ということ。理屈ではあるが、ときには感情の動きが伴うこともある。例として俳句を挙げられていました。「五月雨をあつめて早し最上川」など、言われてみたらほんまやわ、というような。腑に落ちる、というんですかね。

2.わからんけどわかる ー なんでそうなるのか理屈はわからないけど感情で同調するもの。これが詩である。洋楽とかも言葉がわからなくても心が動くものがそう。

3.わかるけどわからん ー 理屈はわかるけど感情的には同調できないこと。例として、小説や映画などであまりにご都合主義的に造形された人物「こんな女いねぇよ」みたいな。

4.わからんからわからん ー 何をいうてるのかわからんからわからんもの。例としては、前衛的な表現、前提やルール知らないとわからないもの。

では詩は「2」であればいいか、というとそれだけではいい詩にはならない。詩は大きく「おもろい詩」と「おもろない詩」に分けられるけれど、大半は「おもろない詩」であって、「おもろい詩」のほうは例を挙げるのが難しいくらい。(といいながらおもろい詩として中原中也を挙げてました。)で、そのおもろい詩の条件として、

・感情の出し方がうまい

・調子でもっていく(例.歌詞はたいしたことなくても聞いてみたらえらくいい楽曲)

・そいつ自身(書いてる人)がおもろい(キャラクター、人生など)

・内容や意味が、役に立つ・正しいもの(例.人生訓)←これは町田さん的には本当の意味で「おもろい」という分類には入らないけれど、と注あり。

町田さん自身は「詩」というものに対して一貫して批判的で、自分が詩人であろうと志したこともない。詩を書こうと思い立った人が陥る落とし穴というのがあって、それは「重大なことをかかんとあかん」と考えてしまうことで人間にとって何が重大かと考え始めるとたいていは「自分の生と死」に行き着く。そして自分が存在してることというのがとてつもないことではないか、と考え、とてつもないこと=「私」と錯覚することによって「私」に拘泥してしまう。じつはこの「私」「自分の生と死」のようなものは他人からみたらどうでもいい、ありふれたことである。もともと「生と死」ということ自体が思考つまり理屈である。それを感情に置き換えようとするためにテクニックに走って大仰になり、それらしくみせるためにコスプレみたいなものになっていってしまう。自分は詩を書くときに、技術的に巧くなって上の4つの条件をみたそうとも考えていないし、「私」に拘泥もしないように心がけている、というお話でした。

まめ閣下:ふむふむ。以前も詩について「我がが、我がが」だ、と批判的に語っていたにゃ。

下僕:ええ。でもそれって小説でも言えますよね。小説は詩よりは理(ことわり)や思考に寄る部分も大きいですが、重々しいテーマを書こうとしてコスプレみたいになっちゃうってありがちだなぁ、とわたくしも反省いたしましたよ。

まめ閣下:おい、ちょっといいかにゃ。

下僕:はい、なんでございましょう。

まめ閣下:ここまでで3分の1なんだよな? 人の話の枕が長いとかなんとか貴君いっておったけど、この先どんだけ長くなるんだ?

下僕:ぎ、ぎくっ。では残り2回分はやや駆け足で参りましょう。詳細は目次を見ていただくとして、あとの二回は小説家としての「文体」と「笑い」についてでした。町田さんといえばやはりあの独特の「文体」。しかし最近の文学の傾向としては、文体の時代ではないのかも、とおっしゃっていました。むしろニュートラルな(平易な)語りでストーリーとか内容で読ませる作品が主流になってる。でも自分の作品は「文体」そのものを読んで欲しい。時々自分の文体について「癖がある」と言われることがあるが、それは正しくない。「癖」というのは無意識で出るものでやろうと思ってやってるんじゃないこと。自分の場合、文体というのは、より「かっこええ」くなるように、より「伝わる」ように意識してコントロールしている。だから決して「癖」ではない。というところ、「あっ! そうだよ!」って思いましたね。文体を声にたとえることがあるけれど、声は生まれ持ったもの・コントロールしきれないものが大きい。文体は声よりももっといろいろ自分でできる。つまり「文体は意志である」。ほほ、名言がここで登場。ただこの「かっこええ」と自分が思うものというのを批判的にみる必要というのもあって、自分にとっての「かっこいい」だけで塗りつぶされた作品ほど、恥(はず)い、かっこ悪いものになってしまうことも多々ある。どこかに破調というものが必要ではないか。しばしば、どの人称で語るか(おれ、僕、わたし)や漢字にするか開くかなど統一性を持たせないと信頼性が揺らぐみたいに言われるけれど、そんなことはない。ぐちゃまぜでもいい、いろんな要素たとえば方言、時代的にありえないものなど、たくさんの要素もそれが必要であれば入れ込む。ただなんでも入れて散らかってればいいというわけではなく、配合が必要。要素のミキシングに際して、町田さんの場合は常に頭のなかで言語的「ドンカマ」(ガイド音)が鳴っている状態だそうで、これはちょっと簡単にまねできないかもしれないですけど。何を「かっこええ」と考えるかはそれまで自分が読んできたもので培われる。だからそれを疑ってかかることも大事。高級ワインもいろいろ飲んでいる人が1000円のワインを「これいいやん」というのと500円のワインしか飲んだことのない人が1000円のワインを「これいいやん」というのは明らかに違う。経験値を増やさないと何が本当にいいかを判断できるようにならない。

そのうえで、書くときに気をつけるべきこととして、

1)自動的な言葉遣いになっていないか(よく目にする、使い古された表現など)

2)どこまで理解してその言葉を使っているか、自分に問う。背景や経緯をしらずに使っていないか。

3)「オリジナリティ」に拘泥しない。真似や憑依を恐れない。というのは、言葉そのものにオリジナリティというものはないから。それをいかに配合していくか。

まめ閣下:はぁ。いい話をありがとう。では、ここらで消えるよ。

下僕:ちょ、ちょっと待って閣下。まだ終わってないです。もう一つで終わりですから。最後はもちっと短くなります。「笑い」について、です。これも町田作品を語る上では外せないですよね。「おまえ、何やってんねん?」と誰かに訊かれたら「笑いです」と答えると。子どものころから圧倒的にギャグが好きだった。ギャグ漫画VSストーリー漫画ならギャグ漫画、ウェットな人形劇よりドライな笑いの新喜劇。じゃ笑いとは何であるか。「ギャグ」というのはいわゆる「くすぐり」で、なにかしかけて笑わせるもの。「笑いとは緊張の緩和」と桂枝雀さんが言っているけれど、安心と緊張が合わさっておきるものであり、常識や建前からの解放によってももたらされる。例として自著「浄土」のなかから「本音街」をとりあげて、本当に面白いことというのは「本当のこと」である、と説明。普通は口にしないけれど実はみんなわかってたり感じてたりすることを口に出すと常識や建前から解放される。よく「笑えないギャグ」というのがあるけれど、あれは「いまからおもろいこと言いますよ、やりますよ」というのが見えてしまって笑えないものが多い。それはつまり、やる側が、おもしろいことを「変なこと」「頭がおかしいこと」と見下して蔑んでいる。自分は普通の安全な領域にいて、「おもろいこと」ということを一段下に見てるのである。本当の笑いというのは、それを言う人やる人にしてみたら「本当のこと」である。この説明だけでわかっていただくのは難しいかもですが、これは「本音街」読むとよくわかります。読んだときも笑いましたが昨日は町田さんの朗読でまた笑ってしまいました。でも笑いに対する町田さんの考えには、覚悟というか揺るがぬものを感じましたね。しかし笑いもやっぱり経験値が大事なのかなとも思います。人を笑わせるってやろうとすると本当に難しいですからね。

まめ閣下:ふむふむ。よし、ではそろそろ・・・

下僕:ああ、最後にもうひとつだけ。質疑応答で「壺」という語について質問された方があって。子どものころから壺が好きで欲しかった、というエピソードはあちこちで耳にしていて個人的にはよく知ってる話だったんですけれど、最後に「壺に限らず、なにか一つの言葉によって想起するものがそれぞれある。その語によって書き手と読み手がともに照らされる、そういう言葉の使い方をしたい」とおっしゃっていて、こ、これは・・・と胸を打たれましたよ。

って、あれ? 閣下? 閣下ぁ? 消えちゃった。まったくもう、イデアってやつぁ。で、でも、また来てくださいねぇ~!!