Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

2019年7月31日 講演「古典のおもろみ」町田康 第56回日本近代文学館 夏の文学教室@有楽町よみうりホール

f:id:RocknBungaku:20190731182234j:plain

まめ閣下:いやぁ、今日も暑かったなぁ。

下僕:ほんっと、こういうときは日があるうちは家から出たくないんですが、今日も町田さんの講演があるってんで、日向のアイスキャンディーみたいに溶けそうになりながら有楽町まで出かけてきましたよ。

まめ閣下:えっ、出かけておったのか。まったく知らんかった。

下僕:もう、閣下ってば。冷房の効いた室内で熟睡ですか。そりゃあ、よーござんしたね。

まめ閣下:諸君だって、たっぷりいい話を聞かせてもらったんだろうから文句はあるまい。ま、ちと予にも聞かせてくれ。

下僕:はいはい。では今回の文学教室のラインナップをば。見てください、この豪華な講師陣を。合格率100%を誇る大手進学ゼミナールみたいじゃあないですか。

 

f:id:RocknBungaku:20190731182310j:plain

まめ閣下:なぁ、そういう心にもない表層的な無駄話、やめないか。

下僕:ぐ、ぐさっ。そ、そうでございますね。じゃ、さっさと本題にはいりましょうか。あ、でもひとつだけ、前振りみたいなの語ってもいいですか?

まめ閣下:前振り? にゃんだ?

下僕:この「おもろみ」って言葉なんですけどね。わたくしの小説仲間がこの講座名を見たときに、「おもろみ」という言葉づかいが、最近流行りの「ねむみ」とか「バブみ」「わかりみ」みたいな系列ですかね、と言っていましてね。わたくしはそれほど違和感なかったんで、「いやぁ、おもろみってのはオーソドックスな関西弁なんじゃあないの? おもろいってのを短くしておもろっていうし」なんて知ったかぶったんですよ。たらね、京都出身者からがっつり否定されまして。「おもろい」に最近流行りの「~み」をつけたものでしょう、と。さらにこれはちょっとおまけ的な話になっちゃうんですけど、「おもろい」と「おもろ」は違うという指摘が。なんと、「おもろ」っていうのは、おもろいという形容詞の短縮形じゃなくて、「おもろい人のこと」だと言うんです。形容詞じゃなくて特定の性質を持つ人を指す名詞! まったく思いもよらなかったことで、大いに驚いたんですよ。
それでそのあたりの言葉づかいというのに興味をそそられ、それからはとくに意識して活字を読んでいたのですけど、わたくしが一番最初にのめりこんだ作家である筒井康隆さんの「夜を走る」には、大阪弁の主人公が、おもろいというべきところにやたらと「おもろ」と言うのが出てくる。個人的にはだから「おもろ」という言葉は「おもしろい」を言う大阪弁として、ずいぶん昔から馴染んでいたってことに気づいたんですよ。さらに町田さんの「壊色」という1993年に刊行された詩集のなかに、「おもろ」というタイトルの詩のような短文があるのを発見。ここでは「おもろ」はやはり「おもろい」という形容詞と同義のようなんですよね。また、同じ本に掲載されている「おぼろ昆布」という作品中には暗さを意味する「暗み」という言葉が使われています。おそらく町田さんは他にもかなり昔から「~み」という形の形容詞を作り出して使っているんじゃないでしょうか。だから今回のタイトルの「おもろみ」というのも、特段昨今の流行りにのっかっているわけではないのではないか、と思ったんでありますよ。むしろ時代が俺に追いついた的な。
いずれにしてもお話聞いたらそんなことにも言及があるかな、と考えつつ臨んだわけですが、結果的にはそのタイトルの一部である「おもろみ」という言葉づかいについて言及はありませんでした~。

まめ閣下:ふん、そういう細かいことにこだわるやつだな。大阪弁ネイティブで諸君同様に「康さん病」の人らと話してみたらどうだ。まぁ、どうでもいいっちゃどうでもいい話である。ささっと今日の講座の話に進みたまえ。

下僕:あい、すみませんでした。まぁ、内容としてはこれまでも あちこちで読んできたことや聴いてきたことと重なる部分もあったんですが、町田さんがどのようにして古典を読むことに深い喜びを見出すにいたったかという歴史がまず語られました。それは


1)中学時代に授業で「平家物語」の平敦盛の死の場面を全員が朗読させられた体験。そのときは内容など心に残るものは皆無であったけれど、音声だけはその後の人生にもずっと残った。「泣く泣く首をぞかいてんげる」なんていう一説は、それからも時折口を突いて出てくる。

2)ロックをやるようになると、周りがやたらとバンド名とか自分の名前に横文字を使うようになったりして、それに対する反発から、自分のなかの「平家物語的なもの」、つまり音として入ってきてそれを聴くと心が沸き立つようなもの、たとえば上方落語、漫才などの語り芸や、河内音頭のような音楽を好んで聴くようになった。声としての古典にめざめた。

3)古典の現代語訳をすることになり、源氏物語の「末摘花」をやってみたら面白かった。それで、承久の乱浪曲の台本を書いてみようかと考えてやってみるも、浪曲というのは節があるものだから言葉だけ先に作るというのは難しいことに気づき、「義経記」を今自分が使っている言葉に置き換えるというのを趣味で始めた。それが編集者に面白いと言われて、現在も連載中の「ギケイキ」に。その後も「宇治拾遺物語」の現代語訳をやって楽しさを覚えた。

現代語訳というのは翻訳であって、翻訳というのは知らない言葉を知っている言葉に置き換えることであるけれど、この「知らない」というのは、「自分が使っていない」ということである。自分がつかっていない言葉を自分が使っている言葉に置き換えることが、翻訳である。辞書に載っているのとか世の中のたいていの人が知っているであろう言葉、ではないというのがポイントだ。たとえば「所従」という語。辞書に載っている言葉なら「下人」とか「従者」とかになるのだろうけれどいまいち感覚的にわからない。それを「スタッフ」って言ってみたらすとんと腑に落ちる。この置き換えていく過程に深い喜びがあり、この道を通ること自体が楽しいのである。「書く」ことも「読む」ことも、そういう意味では一種の「翻訳」という作業である。書くというのは、五感で取り込んだものを言葉に置き換える作業、読むというのも、文字で受け取ったものを自分の身体のなかに取り込んでいく作業。ただし「書く」ことにおいては、つるつると速く読めるようなものを書くことがいいとは限らない。わかりにくいところを時間をかけて通ることでより深い理解にたどりつくことができる。

また、古典を読む楽しみとして、フィクションの連鎖というのをあげた。歴史小説にしてもそれを基にした大河ドラマや芝居にしてもフィクションであって完全に事実と同じであるはずはない。これまで先人が語ってきたこと、作品の、一部を踏襲したりそうでなくても痕跡、データとしてベースにして、言ってみれば2次創作を永遠に続けていくことだ。そのつながりをたどるのが古典を読むおもしろさである。

とまあ、だいたいこんな感じでございましたよ。わたくし的には、翻訳という行為の解釈と、創作との関係がもっとも興味深かったです。言葉は人の外側にあるもので、人の中にあるのは感覚なんだ、人間の内側には思想というものはない、という言葉も深く心に響きましたね。

まめ閣下:そうかそうか。まあ諸君は、予の高邁なる猫語を日々翻訳しているわけだから、言葉の置き換えの話についてはいろいろ納得したのであろう。

下僕:閣下の場合、言語は感覚とほとんど違わないって感じがしますけどねぇ。毎晩毎晩、心の叫び、っての聴かされてますんで。閣下、つねづね不思議に思っているんですが、閣下はなんであんなに叫ぶんですか?

まめ閣下:そりゃあ気持ちがいいからだよ。「人間の幸福ってのは大声出すことだ」って町田さんも言っていたではないか。

下僕:あれ? そうでしたっけ? えーっ、まさか閣下まで康さん病ですか?