Rock'n'文学

猫ときどき小説書き

【講座】2021年12月25日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第3回 於NHK文化センター青山

・エッセイって言うな! 随筆って言え!

・小説は歌謡曲、随筆はロック

・小説は「役」随筆は「素」

・本当におもろい文章を書くコツ、秘技とは。

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下僕:昨日の講座もおもしろかったなぁ。あぁー、なによりのクリスマスプレゼントだったなぁー。とくにラジオ放送9回目分の「エッセイの面白さ~随筆と小説のあいだ~」ってのがむちゃよかったぁ。でも話す相手がいなーい。

まめ閣下:・・・こほん。

下僕:ん? 今なにか聞こえたような。

まめ閣下:あー、こほん。

下僕:なんだろ、空耳かな。はぁー。

まめ閣下:って、白こいんじゃ、もう。

下僕:え、あら、閣下じゃございませんか。クリスマスでも出るんですね。

まめ閣下:出たんじゃなくて、貴君が呼んだんであろう、もう。それに猫にはクリスマスも正月も関係ないのじゃ。

下僕:え、閣下は猫じゃなくてイデアでしょ。

まめ閣下:ま、まあどっちでも同じだ。ところで無駄なことしゃべってないで昨日聞いてきた話ってのをさっさと聞かせたまえ。

下僕:そうざんすね、イデアの時間は限られてるし。じゃ、さっそく。昨日は連続講座の3回目、この表に記載されている予定表でいうと第7回から9回まで、きちーんと予定通りにお話されました。第7回放送分は影響を受けた(というのも本当なら一概に言えないものなのであるが)作家として井伏鱒二の「かけもち」という作品についてのお話で、第8回分は芸能の影響についてのお話でした。芸能についてはこれまでの講座でも何度か語られていましたよね。たとえば

2017年11月4日 町田康 講演会「読むことと書くことの関係」@中央大学多摩キャンパス - Rock'n'文学

なんかに昨日の講座で出てきた話題がいくつかありますね。昨日は、詩人町田町蔵を特集した現代詩手帳という雑誌に書かれたものを読み上げられたりして。実はこれ、前橋文学館で手に取って長時間読みふけりました。すごくいい特集なんですよ。欲しいなぁ。

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まめ閣下:井伏鱒二の作品は、町田さん大磯の読書会でもやっておったんじゃないか。

下僕:はいはい、こちらですね。作品は違いますけれども。
【講師のいる読書会】2019年11月30日 第6回町田康さんと本を読む@大磯 カフェ・マグネット - Rock'n'文学

まあそんなこんなで、その二つの回はちょっと割愛して、9回目の放送分のお話を。

まめ閣下:ま、貴君の場合語り始めたらきりがないからの。

下僕:はい、なにせ最近、閣下は突然消えてしまわれますからね。とくにお話したかったことをしゃべっておかないと。目次にはエッセイと書かれてますが、ご本人が「随筆」と呼べ!っとおっしゃったので以下随筆で。

町田さんが依頼されて文章を書くようになったきっかけは、小説ではなくて日記でした。しかし日記なんてものは他人が読んで面白いもんではなかろうと考え、なんにもない一日に自分が考えたことなどを書いた随筆のようなものになった。当時自分がゆくゆくは小説家になるなんてことは考えてもいなかったとおっしゃっていました。

日記ってのは政治家や有名人が最初から他の人に読まれる前提で書かれたものもありますが普通は誰にも読ませないつもりで書いている。ところが書き始めると不思議なもので、ちょっと自分を飾るというか、かっこつけたりしてしまう。人に読ませるつもりはないとか言いながら、つい誰かの目を意識してしまう。これが自意識というもので、文章を書くようになるとまず誰でも最初に突き当たる壁だと言います。プロの作家というのはこの自意識を完全に脱ぎ捨てた人のことだ、と。

小説と随筆の違いって何か、というのはよく聞かれることだと思いますが、これについてははっきりした結論というものはないけれど、途中はある。それはたとえば歌謡曲とロック。小説はプロが作った楽曲を歌手が歌う歌謡曲のようなもので、随筆は自分の魂の叫びであるところのロックである。歌謡曲は「役」であり、ロックは「素」。たとえていえば森進一の「おふくろさん」とジョン・レノン「Mother」(町田さん、このふたつをしっかり歌って演じてくださいました!)。小説は役を作りそれに演じさせるものであり、随筆はその人そのもの、事実を書くものである。しかし純文学といわれるもののなかには私小説なんてのがあり、これは役と素が一体化したようなものであるけれど、現実にはそれを人が読んで楽しめるものに作り上げる技術を要するからやはり「役」に寄っていると言える。

随筆っていうのは誰が書いても喜ばれるというものではなくて、有名人や特殊人であればどんなささやかな日常の話であってもみんな喜んで読む。特殊人っていうのは一芸や職能に秀でた人とかですね。しかし無名人や一般人が同じことを書いたところで誰も興味すら持たない。雑誌から日記(随筆)を依頼された当時の自分は無名であったがおそらく詩人という特殊人であったのだろう。でもたぶん普通に書いたら誰もおもしろくないだろう、というのは予想していた。じゃあどうしたらいいか。つきつめて考えて出した答えが「本当のことを書く」。自分がその日どこへ行って何をやったとかじゃなくてそのときの本当の気持ちや考えたことを書く。何もない日でも人間は必ず何か思っているし言葉でなく五感によっても何かを捉えている。人間というのはたいてい変なことを考えているものだから、それをそのまま書く。これがおもしろい文章を書くコツ、秘技である。

ただし「本当」というのが難しい。なぜなら文章に書こうとしたときに例の「自意識」というのが立ちはだかるからである。ええかっこしたり世間一般で言うところの「普通」という意識・呪縛にがんじがらめにされてしまって、本当のことなど書いてしまったら社会から批判拒絶糾弾されるのではという恐怖にかられてしまう。それを乗り越えて「本当」にたどりつく必要があるのである。そのためには

1.自意識を取り払う。

2.そうすると書くのが楽しくなる。

3.楽しくなってすいすい書いていくうちに、本当に考えていることにたどりつく。

4.それをきちんと書き続けることで技術が身につく。

5.そうこうしているうちにまた自意識が出てきて悩まされる。→1に戻る。

というようなことをとにかく延々と繰り返していくことしかない。文章という舟にのればやがては「本当」にたどり着く水路に入れるかも、運ばれていくことができるかも、と考える、ひょっとするとそれは呪術のようなものかもしれないって、最後の方はやや駆け足でおっしゃってて、わたくしのこんにゃく頭ではすっと理解するのが難しかったであります。

まめ閣下:まったく貴君は一番肝心なところを。しかしこんにゃく頭、ってのはもう自分でも認めたのか。ははは。

下僕:あ、それは閣下がいつもわたくしにそうおっしゃるからで。でもなんでこんにゃくなんです? スカスカであることを揶揄されるんであればスポンジとか多孔質とかそっちにいくんでは? こんにゃくなってすべすべでずっしり重いではありませんか。

まめ閣下:ははは、こんにゃくってのは表面がつるんとしておるだろ? 出汁だってなかなか染みこまないではないか。貴君のオツムの吸収力の低さを言っておる。

下僕:ぎゃ、ぎゃふん(死語)。でもでも、おもしろい随筆を書くためにはなにが必要か、ってところはおぼえてますよ。「他人がやってないことをやる」です。他にやっている人がいないことだから、他の人が読んでおもしろいのかわからないっていう疑問が湧きますよね。さらに他の人のやってることとは明らかに手触りが違ったり似てないわけですから不安にもなります。しかしこの疑問と不安がないところで面白い随筆は書けない。他の人が「はぁ?!」ってなるような、理解不能なもんに「ばまりこんで(嵌まりこんで)!」書きなさいってようなことおっしゃってましたね。

まあとにかく、自意識を捨てて書け。書き続けろ。文章によってしか「本当」にはたどり着くことはできない。ってぇことでございますかね。これがまあ簡単にはいかないんですけどねぇ・・・(ため息)

って、あれ? 閣下? かっかぁー!!! カムバーック(魂の叫び)!

 

 

【講師のいる読書会】2021年12月4日第9回町田康さんと本を読む「いかれころ」三国美千子 於:大磯 カフェ・マグネット

下僕:あー、閣下ー、おいでにならないかなー。ご報告したいことがあるんですけどねー(棒)。って呼んだって出てこないですよね、なんたって気ままなイデアであらっしゃりますからね。ま、こないものはしょうがない。一人で寂しくまとめ記事的な感じで

やっちゃおうかな。昨日の読書会、大磯にて町田康さんと本を読む、まさにこの世の極楽、愉悦の極み。会場の前に貼られていたポスターはこれまでとデザインを一新、なんか高級感でたわぁ。

 

まめ閣下:おい、あいかわらずひどい写真だにゃ。

下僕:あ、出た。

まめ閣下:おいでになった、と言ひたまい。まあ、いいや。無駄口叩かず本題に入ろうではないか。今回の課題図書はなんだったんだい?

下僕:あれま、さくさく進行されますな。イデアになるとなんか事務能力とか向上するんですか?

まめ閣下:そうだなぁ、完璧なイデアとなって昨日でまる二ヶ月・・・って、横道に話を逸らすんではない。課題本は、何であったか、と訊ねておる。

下僕:しゅん。せっかくおいでになったんだからちょっとくらいふざけたっていいじゃないですかぁ・・・ぶつぶつ・・・えっと、昨日の読書会の課題はこちらです。三国美千子著「いかれころ」。

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まめ閣下:あれ、この作品、まえに貴君から話きいたぞ。

下僕:ああ、そうですそうです。これですな。

 第32回三島由紀夫賞について町田さんの選評

まめ閣下:なんだ、今読み返してみるとたいしたこと書いてないな。

下僕:が、がーん。

まめ閣下:それに2年も前に未読っつって「ぜひ読まねば」みたいなことを言っておきながら、どうせ貴君のことだ、今回課題に取り上げられてようやく初読したってところだろ?

下僕:はぁ、まったくもってそのとおりで。いいわけのしようもありませぬ。まあでもね、今回ちゃんと読んだわけですから。さっさっさっと、お話を進めましょうねー。

まめ閣下:まったくしょーもないな。

下僕:今回の読書会も参加者10名というなんとも贅沢なものでした。会場のカフェ・マグネットさんも椅子がふかふかのソファに変わってくつろぎ感増したせいか、講座ではなく町田さんと参加者がいっしょになって本について語り合うという雰囲気がより強くなりました。今回は町田さんの前にアクリル板とかびらびらの塩ビシートとか興ざめするものもなくて。で、開始のあいさつでいきなり「では第183回大磯読書会を」などというくすぐり入れたり、突然大声で河内弁を披露されたりと、笑いで一気に空気を和ませてくださいました。マイクを通さない肉声ですよ。

まめ閣下:あー「康さん病」はそのへんにしておけ。本題に入れ、本題に。

下僕:はいはい。前回「津軽」のときは、用意してきた感想を順番に発表してそれに対してみんな考えたことを述べる、というやり方だったんですが、今回は、開始前にみなさんの原稿に目を通した町田さんがとくに興味深いと感じられた方の読みと疑問点をとりあげて、それについて他の方の意見を聞いていくというような形になりました。

まめ閣下:じゃあ、貴君のいつもの長々しい感想を皆の前で披露するってことはなかったわけだ。よかった、よかった。

下僕:ふんっ、なんですかそれは。たしかに今回は用意していった原稿をまるっと読んだりはしませんでしたが、でも質問されたところに関連する感想があったんで、そこについては原稿読みましたよ。用意していった原稿はせっかくだからまた最後に貼っておきましょう。

まめ閣下:じゃあ、その町田さんがとくに興味深いって感じられた人の話とかさ、作品について昨日の場で交わされた話をさらっと聞かせてくれんかな。わかっておるだろうけれど、イデアには現(うつつ)に留まれる時間は限られておるからな。

下僕:はい、すべては無理なんで、とくに印象深く思ったところを。この作品は、四歳の奈々子の4月から9月くらいの間に体験(&見聞き)したことを、大人になった(たぶん四十年後くらい)奈々子が語るという構造で、四歳と大人になった奈々子の二つの視点があるのはすぐにわかるんですけれど、もっとたくさんの視点があって、それが切れ目なくごっちゃに多層的に書かれていると指摘された方がいました。もっとたくさんの視点というのは、河内の自然、墓のなかにいる今は亡き人々、土地に根ざすもの、などの視点があるのではないか。どろどろした一族の話を描きながら感情に寄りすぎずドライに述べている部分はそういう視点なのではないか、と。客観的視点というのは、奈々子が語っている話なのに親も祖父母も呼び捨てで語られるところにも出てる、と町田さんも指摘されてました。一族・家族の間の混沌を書いているので読みにくかったり感情移入してつらかったりした方も何人かいらっしゃったのですが、淡々と客観的に書かれているおかげでわたしはむしろ非常におもしろく読めました。

「(母)久美子は常に最初から最後までいらつきまくってる。いったい何に抗っているのか」「(叔母)志保子が結婚を断ったのはなぜか」「志保子もまた抗っている。では何に抗っているのか」「留守中に志保子が雛人形を勝手に片付けたことに久美子が激怒するのはなぜか」「志保子の結納の日だというのに、奈々子にピアノを厳しく稽古させる久美子の心情は」など、いくつかの疑問をとりあげて、みなさんの意見を聞きました。正解というのは当然ないわけですが、他の人がどう思ったかを聞いて自分の考えと摺り合わせることでより深く作品を理解できますよね。

町田さんは、「この作品は家の中の権力闘争の話でもある」とおっしゃってました。曾祖母シズヲを頂点とした一族のなかで、分家させられた久美子が徐々に力を失っていく。一方精神を病んだ志保子は最下層である犬のマーヤに自分を重ね合わせているところがある、と指摘。マーヤはシズヲに怪我をさせたことがきっかけで檻に閉じ込められて死にかけているんですが、この状態を「はっきり言って虐待ですよね(怒)」と結構感情発露させてましたね。また「抗う」という点では、親や親族というのは(遺伝子的に)自分と切り離せないもので、どんなに親に抗ってもそれは自分に抗うことになる面がある、と指摘。あれは嫌だ、あれはよくない、と批判したところで理屈ではのりこえられない血の流れというものがある、というのがこの作品なのでは、ともおっしゃっていました。

またこの作品を読んで町田さんは「たしかに四つぐらいのとき自分が見たり感じたりしたことってこうだったな、と思い出した。言語以外の五感で感じ取っていたこととか子どもだから感じる不条理とか。けれどこんなふうに見事に言語化できるかというと、難しい」と感じたそうです。非常に耳のいい作家、なのではないか、とも。家族のなかで交わされる河内弁は耳から入ってきたものをそのまま音で表現している。だから人によっては全然わからないかもしれない。大阪出身の自分(地域的にはちょっと違う)でもわからないところがあるくらいだから、とおっしゃってました。でもこの作品の河内弁は他のものに置き換えることは不可能。雰囲気とか地域性を出すためとか、何かのための道具ではない。河内弁でなくては書けない作品である、という話で、方言や猫というものを小説に用いる際にこの点は注意しないといけないっておっしゃいました。

まめ閣下:ね、猫?

下僕:はい。猫。わたくしも、なんで猫? って思いました。猫でなければいけない必然性ってことでしょうかね?

まめ閣下:よ、余は猫でなくイデアである。

下僕:いや、べつに閣下のことじゃないと思いますよ。

まめ閣下:しかし、なんか気になるなー。

下僕:まあまあ。最初町田さんは「この作品は人によってはちょっと難しいと感じるかもしれない」とおっしゃっていて、実際に課題図書でなければ読まなかったし読んでもよくわからなかった、面白さは感じなかった、という参加者もいました。「この作品をを、自分の読書経験のどこに位置づけしたらいいのかわからない」とおっしゃる方がいて、それに対して町田さんは「自分も1回目読んだときと2回目読んだときでは違うものが見えてきた。何年かして読み直すとまた違った感想を抱くかもしれないし、他の本を読んだとき、この本を読んだことで何か違う読み方ができるかもしれない」とおっしゃって、読書に対する愛の深さを感じましたよ。

わたしはこの作品の続編「骨を撫でる」が叔父の幸明がメインに描かれていると聞いて、がぜん読みたくなりました。ちょっといいかげんで小ずるくて、男のくせにアクセサリーとかつけてて、なんか他人とは思えないんですよね、ひどく身近にそういう・・・あ、あれ? 閣下? うーん、消えた。

で、でも、また来てくださいねー。

 

 

三国美千子著「いかれころ」について (下僕考)

 

一般に一族ものは登場人物が多く難しいので家系図を作りつつ、また作品舞台に土地勘もないのでGoogleマップを参照にしながら読みました。四歳の奈々子の感性で捉えられた世界の描写がとてもいいと思いました。

 

一 登場人物たちの人となりの描写はすごいと思います。通り一遍の書き割りみたいな人はまったく出てこない。精神を病んだ叔母の志保子やおそらく今なら精神性の不調の名前が付けられそうな母の久美子、鬱屈を抱えた父隆志のほか、祖父、祖母、曾祖母など、たしかに身近にいたらしんどいなあと思われるような人たちですが、どの時代でもどんな家族にも似たような人はいるし、同じような問題はあるよなと思いました。実際、わたしの家も農家ではないですが親戚が多いので、誰かしら登場人物と同じような特徴を備えた人の顔が浮かびました。

 

二 二つの視点

物語は四歳の奈々子が一族のなかで見聞きし体験した世界を、大人になった(おそらく四〇年くらい後の)奈々子が語っています。それが、よくある「回想」という形でなく四歳の奈々子の世界に留まったまま終わっていて、読み終えたとき「え、ここで終わるのか」と驚きました。最初のほうから、地の文のところどころに大人になった奈々子の視点が入ってきていて、その時点では知り得ない未来(曾祖母シズヲがまもなく亡くなることなど)がちらちらと姿を現していて、終盤近くには、志保子が六〇歳間近で亡くなることや、三十年以上たっても桜は残っていたことや、大人になった奈々子に釣書が全く来なかったことなどが簡潔にまとめられているところがあって、ラストは四十年後の奈々子の世界で終わるのかなと思っていたので唐突な感じを受けました。四歳の奈々子の物語としてはここで完結しているとは思うのですが、回想でなくあくまで四歳の奈々子の見ている世界の話にするのであれば、あえて将来に起こることについての情報を入れ込んだのは、どういう意図があったのかちょっと気になりました。

 

三 五感で捉えた世界

主たる視点人物が四歳で、まだ読み書きを覚える前の奈々子ですから、その世界は、視覚、味覚、嗅覚、触覚など主に五感によって捉えられていて、その豊かな描写に何度もはっとさせられました。牛乳の膜とか卵の白身の食感が嫌いというのなどは、子どもらしいと思ったし、自分は今でもそうだなと共感したり。なかでも耳から入ってくるものが大きな働きをしていると感じました。ピアノの練習をさせられているときの久美子のファルセットとか。河内弁で交わされる生き生きとした会話も、文字ではなく「音」として耳から入ってきたものだからなのでしょう。

 

四、志保子のかご

志保子が常に持ち運んでいる黒いかごが最初から謎の存在として出てきます。いったい何が入っているのかと思っていると、終盤で癇癪をおこした久美子が蹴飛ばして、中身が明らかになります。写真や筆箱などこまごました雑多なもので他の人から見たら価値のないがらくたばかりでした。しかしどうしてそのかごを常に肌身離さず持ち歩いているのか、なぜそれらの物でなければならないのか、理由や由来については最後まで明かされません。これは語り手があえて語らなかったことなのかもしれないと思いました。大人になってからの語り手が「私は何もかも知っていた」と書くように、子どもは大人たちの話をそばで聞いていて大人が思うよりもずっと正確にいろんなことを知っているものです。写真立てに入っていたのが、子犬だったころのマーヤを抱いた久美子の写真(つまりずっと若いころ、たぶん結婚前の久美子)と、隆志と久美子の婚礼の写真というのが何かを暗示しているように思いました。(たとえば、志保子は姉の久美子が幼いころからずっと好きだった、ひょっとすると隆志に対しても特別な感情を抱いていたのかな、とか)

 

五、「黒いかげ」「うす黒いもの」

「うす黒いものはどこにでも、家庭の中にも学校の中にも靴の底の砂みたいにまんべんなく入り込んでいた」(三〇ページ)

子どもの奈々子は、大人たちの会話に出てくる「養子」「セイシン」「カイホー」「恋愛結婚」などの言葉に黒いかげ、うす黒いものを感じています。授業で教わる「差別」というのとは交わらないものだとも感じています。やがて同じうす黒いものが、「女」にも、幼稚園に入ってからいじめを受けるようになった奈々子自身にも、そして「分家」をさせられた久美子にも、あると気づく。

タイトルである「いかれころ」は、久美子が自分自身に対して使った造語ですが、「奇妙で、うす黒さをまとい、後ろ指さされるような、私たち」にこれ以上ないほどぴったりする言葉だ、と感じて奈々子は恐ろしくなるのです。「いかれころ」が意味するものは、志保子や隆志、幸明、死にゆく犬のマーヤも含めて、強い者たち・社会から排除されていく存在のことなのかなと思いました。

 

六.歩道橋から見た景色、「山のむこ」

物語のなかで大事な役割を果たしているのではと思いました。

最初、志保子に連れられて奈々子が歩道橋から彼方の山並みを見る場面(四八ページ)、このときまで奈々子は「山のむこ」には無の世界があると考えています。志保子から大和や富士山やとーきょーがあると聞いてもピンときません。

この歩道橋は、本家と分家の境目の外環状線にかかっています。その後六〇ページで、本家へ行く途中歩道橋を渡るときに同じ風景を目にして「桜ヶ丘のある種の気取りとまがい物っぽさ、村内の秩序と合理性。それらのぐるりを取り囲む山並みの、今にも向こうへ倒れそうな頼りなさ。歩道橋の下には目に見えない水気のものがひたひたして私を高ぶらせた。もし端が割れてパイの窪みの底に落ちてしまったら、三人ともそこで溺れ死んで魚に食べられてしまう」と空想しています。分家と本家の境界線のような歩道橋と、その下にある不穏なものを示してるのかなと思いました。

最後、久美子の運転する車のなかから同じ遠い山並みを見る場面で作品は終わります。山のむこなどないみたいに、うっとりと景色を見て、「この道から見える景色が一番好きやわ」という久美子は、おそらくこの村のなかの世界、本家を頂点とする一統のなかの自分に満足していてその外になにがあるのか知ろうともしない。それに対して、奈々子は返事をせず遠くを見据えて別のことを考えている、という描写は、外の世界に目を向け始めた奈々子の成長を示すものであり、母と娘の決別の瞬間なのかなと思いました。

 

 

【講座】2021年11月27日「作家・町田康が語る『私の文学史』」第2回 於NHK文化センター青山

・詩人として~詩の言葉とは何か~

・小説家として~文体と笑い~

・「わかる」の四種類

・「文体は意志である」

・笑いの本質「おもしろいことはこの世の真実」

・「壺」 ー ある単語によって書き手と読み手がともに照らされる使い方

 

まめ閣下:呼ばれてないけどジャジャジャジャーン!

下僕:あ! 出た! ちょうどお呼びしようと思っていたところなんですよ、っていうか、「ハクション大魔王」でしょ、それ。前回の「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン」のとき何かと思ってましたけど。ちょうどね、昨日の講座でそのアニメも話題に上がってましたよ~。閣下がそんなアニメをご存じだとは、いやはや。

まめ閣下:そう、その昨日の講座ってやつな、その話がしたいんじゃないかと思ってにゃ。呼ばれなくても出るときは勝手に出るのがイデアというものだ、ははは。

下僕:まあいつおいでになっても、っていうか、わたくしとしてはずっといていただいたほうがうれしいんですが。

まめ閣下:まぁ、イデアである以上そうはいかんのだ。現(うつつ)にいられる時間には限りがある。君、早く話を進めたまへ。

下僕:そうですね、今回はいろいろお話ししたいことがたくさんあって。メモ書きがノート6ページ。この講座は全4回で、昨日が二回目でした。1回の講座を三分割してラジオ放送があるのでこんなふうにきっかりお話の内容が決められております。昨日は4~6回放送分。

下僕:通常の講座だとついつい枕が長くなって後半時間が足りなくなりがちなんですが、前回もきっちりお話を時間内にまとめていらっしゃって、なんだやればできるんじゃないの、って感心しました。

まめ閣下:おい、なんだその言い様は、失敬だな。

下僕:あ、いえいえ、町田さんのお話はいつも楽しいしかなうことならずっとお聞きしていたいんですけどね。なにせ「ちょうど時間となりました~」ってちょん切られちゃうのはねぇ、準備をしてきた話者としても残念でしょうしこちらも最後までお聞きしたいし。でも昨日もみごとに三回分お話をまとめて、さらにちょっと延長して質疑応答の時間まで。ありがたき幸せでございました。

まめ閣下:ふん、貴君もみならって、その長ったらしいメモを、さっさと上手にまとめてくれんかな。

下僕:はい、そうでございました。昨日のお話は大きく「詩人として」と「作家として」に分けられました。まず「詩とはなにか」。人間のなかには理屈と感情があるとすると、詩というのは「感情の働きを言葉にしたもの」である。それが他者によってわかる、共感されるということがある。ではこの「わかる」とはどういうことなのか。町田さんは「わかる」には次の四種類があると言います。

1.わかるからわかる ー これは「理屈でわかる」ということ。理屈ではあるが、ときには感情の動きが伴うこともある。例として俳句を挙げられていました。「五月雨をあつめて早し最上川」など、言われてみたらほんまやわ、というような。腑に落ちる、というんですかね。

2.わからんけどわかる ー なんでそうなるのか理屈はわからないけど感情で同調するもの。これが詩である。洋楽とかも言葉がわからなくても心が動くものがそう。

3.わかるけどわからん ー 理屈はわかるけど感情的には同調できないこと。例として、小説や映画などであまりにご都合主義的に造形された人物「こんな女いねぇよ」みたいな。

4.わからんからわからん ー 何をいうてるのかわからんからわからんもの。例としては、前衛的な表現、前提やルール知らないとわからないもの。

では詩は「2」であればいいか、というとそれだけではいい詩にはならない。詩は大きく「おもろい詩」と「おもろない詩」に分けられるけれど、大半は「おもろない詩」であって、「おもろい詩」のほうは例を挙げるのが難しいくらい。(といいながらおもろい詩として中原中也を挙げてました。)で、そのおもろい詩の条件として、

・感情の出し方がうまい

・調子でもっていく(例.歌詞はたいしたことなくても聞いてみたらえらくいい楽曲)

・そいつ自身(書いてる人)がおもろい(キャラクター、人生など)

・内容や意味が、役に立つ・正しいもの(例.人生訓)←これは町田さん的には本当の意味で「おもろい」という分類には入らないけれど、と注あり。

町田さん自身は「詩」というものに対して一貫して批判的で、自分が詩人であろうと志したこともない。詩を書こうと思い立った人が陥る落とし穴というのがあって、それは「重大なことをかかんとあかん」と考えてしまうことで人間にとって何が重大かと考え始めるとたいていは「自分の生と死」に行き着く。そして自分が存在してることというのがとてつもないことではないか、と考え、とてつもないこと=「私」と錯覚することによって「私」に拘泥してしまう。じつはこの「私」「自分の生と死」のようなものは他人からみたらどうでもいい、ありふれたことである。もともと「生と死」ということ自体が思考つまり理屈である。それを感情に置き換えようとするためにテクニックに走って大仰になり、それらしくみせるためにコスプレみたいなものになっていってしまう。自分は詩を書くときに、技術的に巧くなって上の4つの条件をみたそうとも考えていないし、「私」に拘泥もしないように心がけている、というお話でした。

まめ閣下:ふむふむ。以前も詩について「我がが、我がが」だ、と批判的に語っていたにゃ。

下僕:ええ。でもそれって小説でも言えますよね。小説は詩よりは理(ことわり)や思考に寄る部分も大きいですが、重々しいテーマを書こうとしてコスプレみたいになっちゃうってありがちだなぁ、とわたくしも反省いたしましたよ。

まめ閣下:おい、ちょっといいかにゃ。

下僕:はい、なんでございましょう。

まめ閣下:ここまでで3分の1なんだよな? 人の話の枕が長いとかなんとか貴君いっておったけど、この先どんだけ長くなるんだ?

下僕:ぎ、ぎくっ。では残り2回分はやや駆け足で参りましょう。詳細は目次を見ていただくとして、あとの二回は小説家としての「文体」と「笑い」についてでした。町田さんといえばやはりあの独特の「文体」。しかし最近の文学の傾向としては、文体の時代ではないのかも、とおっしゃっていました。むしろニュートラルな(平易な)語りでストーリーとか内容で読ませる作品が主流になってる。でも自分の作品は「文体」そのものを読んで欲しい。時々自分の文体について「癖がある」と言われることがあるが、それは正しくない。「癖」というのは無意識で出るものでやろうと思ってやってるんじゃないこと。自分の場合、文体というのは、より「かっこええ」くなるように、より「伝わる」ように意識してコントロールしている。だから決して「癖」ではない。というところ、「あっ! そうだよ!」って思いましたね。文体を声にたとえることがあるけれど、声は生まれ持ったもの・コントロールしきれないものが大きい。文体は声よりももっといろいろ自分でできる。つまり「文体は意志である」。ほほ、名言がここで登場。ただこの「かっこええ」と自分が思うものというのを批判的にみる必要というのもあって、自分にとっての「かっこいい」だけで塗りつぶされた作品ほど、恥(はず)い、かっこ悪いものになってしまうことも多々ある。どこかに破調というものが必要ではないか。しばしば、どの人称で語るか(おれ、僕、わたし)や漢字にするか開くかなど統一性を持たせないと信頼性が揺らぐみたいに言われるけれど、そんなことはない。ぐちゃまぜでもいい、いろんな要素たとえば方言、時代的にありえないものなど、たくさんの要素もそれが必要であれば入れ込む。ただなんでも入れて散らかってればいいというわけではなく、配合が必要。要素のミキシングに際して、町田さんの場合は常に頭のなかで言語的「ドンカマ」(ガイド音)が鳴っている状態だそうで、これはちょっと簡単にまねできないかもしれないですけど。何を「かっこええ」と考えるかはそれまで自分が読んできたもので培われる。だからそれを疑ってかかることも大事。高級ワインもいろいろ飲んでいる人が1000円のワインを「これいいやん」というのと500円のワインしか飲んだことのない人が1000円のワインを「これいいやん」というのは明らかに違う。経験値を増やさないと何が本当にいいかを判断できるようにならない。

そのうえで、書くときに気をつけるべきこととして、

1)自動的な言葉遣いになっていないか(よく目にする、使い古された表現など)

2)どこまで理解してその言葉を使っているか、自分に問う。背景や経緯をしらずに使っていないか。

3)「オリジナリティ」に拘泥しない。真似や憑依を恐れない。というのは、言葉そのものにオリジナリティというものはないから。それをいかに配合していくか。

まめ閣下:はぁ。いい話をありがとう。では、ここらで消えるよ。

下僕:ちょ、ちょっと待って閣下。まだ終わってないです。もう一つで終わりですから。最後はもちっと短くなります。「笑い」について、です。これも町田作品を語る上では外せないですよね。「おまえ、何やってんねん?」と誰かに訊かれたら「笑いです」と答えると。子どものころから圧倒的にギャグが好きだった。ギャグ漫画VSストーリー漫画ならギャグ漫画、ウェットな人形劇よりドライな笑いの新喜劇。じゃ笑いとは何であるか。「ギャグ」というのはいわゆる「くすぐり」で、なにかしかけて笑わせるもの。「笑いとは緊張の緩和」と桂枝雀さんが言っているけれど、安心と緊張が合わさっておきるものであり、常識や建前からの解放によってももたらされる。例として自著「浄土」のなかから「本音街」をとりあげて、本当に面白いことというのは「本当のこと」である、と説明。普通は口にしないけれど実はみんなわかってたり感じてたりすることを口に出すと常識や建前から解放される。よく「笑えないギャグ」というのがあるけれど、あれは「いまからおもろいこと言いますよ、やりますよ」というのが見えてしまって笑えないものが多い。それはつまり、やる側が、おもしろいことを「変なこと」「頭がおかしいこと」と見下して蔑んでいる。自分は普通の安全な領域にいて、「おもろいこと」ということを一段下に見てるのである。本当の笑いというのは、それを言う人やる人にしてみたら「本当のこと」である。この説明だけでわかっていただくのは難しいかもですが、これは「本音街」読むとよくわかります。読んだときも笑いましたが昨日は町田さんの朗読でまた笑ってしまいました。でも笑いに対する町田さんの考えには、覚悟というか揺るがぬものを感じましたね。しかし笑いもやっぱり経験値が大事なのかなとも思います。人を笑わせるってやろうとすると本当に難しいですからね。

まめ閣下:ふむふむ。よし、ではそろそろ・・・

下僕:ああ、最後にもうひとつだけ。質疑応答で「壺」という語について質問された方があって。子どものころから壺が好きで欲しかった、というエピソードはあちこちで耳にしていて個人的にはよく知ってる話だったんですけれど、最後に「壺に限らず、なにか一つの言葉によって想起するものがそれぞれある。その語によって書き手と読み手がともに照らされる、そういう言葉の使い方をしたい」とおっしゃっていて、こ、これは・・・と胸を打たれましたよ。

って、あれ? 閣下? 閣下ぁ? 消えちゃった。まったくもう、イデアってやつぁ。で、でも、また来てくださいねぇ~!!

 

 

【読書会】2021年11月13日「大きな鳥にさらわれないよう」川上弘美

・生物学的に予見された未来はディストピアであるのか?
・SFと幻想ファンタジー、あるいは神話

・変わっていくもの、変わらないもの

・「書く人なら一度は嵌まる川上弘美

 

 

下僕:閣下、閣下、かっっかー!! 出てきてくださいよぉ。

まめ閣下:呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。

下僕:あれ、ほんとに出た。

まめ閣下:出たってなんじゃ。貴君が呼んだんであろう。

下僕:だって閣下、余はイデアであるからいつでもおるし呼んだって出てこないとか、この前言ってませんでした?

まめ閣下:まあ今日は出たかったんだ、たまたま。

下僕:ふうん、どうせだったらいつでも出ずっぱりでいていただきたいもんですが。

まめ閣下:まあそういうわけにもいかぬ。イデアだからな。

下僕:じゃ、またすぐ消えちゃうんですね。

まめ閣下:うむ。だからほら、さっさと用件を言え。

下僕:はい、昨日は例の読書会ってやつでね。この本を取り上げました~。メンバーのなかに川上弘美さんのファンがわたくしを含めて何人かおりまして。そのうちのおひとりSさんなどは「書く人なら一度は嵌まる作家」などとおっしゃって。またある方はその文体を「はらわたを撫でるようなぬるりとした文体、くせになる」と。本当に、独特の文体とまたそこに描かれる現と異界を自由に行き来するような世界が魅力的です。

まめ閣下:人気の作家さんだよにゃ。

下僕:はい。この本は、短編の連作でひとつの物語になっておるのですが、課題図書になったときわたくしはそれを知らずに5番目の物語である表題作から読み始めてしまったんですよ。

まめ閣下:あぁ、またしても愚・・・

下僕:でもね、案外それも悪くなかった。っていうのは、最後まで読んで最初にもどって読み飛ばした4作を読んでいったらね、作品世界はどうもそれで時系列があってるっぽいってわかったんです。

まめ閣下:それってオノレの間違いをただ正当化してるだけなんじゃね?

下僕:う、そうかもしれませんが。でも順番に読んでいった人たちは、最後まで読んでやっぱり最初からもう一度読み直したくなったって言ってましたから、わたくし偶然ながらじつは最短の効率の良い読み方をしたんじゃないか、やりぃって思っちゃいましたよ。

まめ閣下:だーかーら、貴君は愚だというんじゃ。そういう最短距離、効率とかいう考え方が文学においては一番いかんって話をもうずっとずっとしているような気がするぞ。もう。

下僕:あい、そうでございました。でもその間違いのおかげで、最初の4つの物語が、最後の作品で滅びゆく最後の人間の一人エリが作り出した「人間もどき」が新しく作り出した世界で起きてることなんだなってすっと理解できたんですよ。なもんでわたくしは、書かれた順番もまず表題作があって、最初の4作は後から書かれたもので、一冊にまとめる際に構成的に最初にもってきたのかななんて推測しておったのですが、実は書かれた順番に収録されてるというのを知っておどろきました。

まめ閣下:ほう。

下僕:最初の「形見」という作品は、「変愛小説集日本作家編」というアンソロジーのために書かれたものだったようです。「形見」は今回参加者のみなさまからも非常に評価が高かった作品で、それだけでひとつの世界を作り上げているんですけれど、じつは大きな物語の始まりにすぎなかった。14作品、語り手も違うしトータルで数千年に及ぶ話なんでその世界の様相も違う。だけど読めばそれは続いている話だとすぐにわかる。それぞれの時期とか因果関係はほとんど明示されていないのですが、ミニマムに書いて想像させる、それで正確に伝わる、という。そこから語られていく物語の広大さ、それは「形見」を書いた時点でばっちり設計されていたというから本当に驚きです。「みずうみ」→「漂白」、「愛」→「変化」というふうに明らかな繋がりがわかる作品もなかにはありますが、でもそれは決して説明ではなく、別の視点から語られる物語として提示されてます。わたくしは表題作を読んだとき、これは今の世界よりちょっと先の未来を描いたSFだと感じたので、カズオイシグロの「わたしを離さないで」を連想したりしたんですが、その先を読んでいくとあれ、SFじゃないのかな。幻想ファンタジー的なもの? それとも新しい神話なのかな、という感じでちょっと印象が揺らいでいく。でも最後から2番目の「運命」という作品で、ああこれはSFなんだな、というのが決定的になる。そこでは「どうしてこういう世界ができたのか」ということがAIによって語られているんです。これについてはわたしはちょっとここまで説明しないほうがいいんじゃないのかな、という印象を受けました。説明がないほうが文学的に楽しめる気がして。でもこれがないとSFにはならないのかな。表題作の次の「Remember」という作品で物語設定のさわりが出てくるんですが、そういう感じで最後まであんまりはっきりさせなくてよかったんじゃないのかなぁ、という感じがあります。

まめ閣下:ふうん。そりゃ好みの問題という気もするにゃ。だいたい諸君の集まりっていうのは頭がブンガクに偏りすぎておるのではないのか。

下僕:はは、たしかに。理系じゃないですな。そして川上さんは生物学を学ばれた方らしいです。まあそういう視点で言うなら、この物語で書かれていることは生物学的にはとくに新しい話というわけじゃなく、ある方によればIPCCレポート第4次でほぼ警告されていたようで。人類が滅亡していくという、ある意味ではディストピア小説でもあるんですが、その筆には悲壮感はなくむしろドライな感じがあります。起こるべくして起こってしまうことというか、なんていうんだろう、科学者の、事実を事実として見るみたいな、そういう感じがあるんです。でもそういうフラットな視線からはどうしてもはみ出る存在として人間が描かれている。どんなに環境が変化しても人間というのは愛することも憎むことも争うこともやめられない変な生き物で、そのために自分たちを滅ぼしてしまう。この物語のなかではAIは人間と対立する存在ではなく人類を支えるものとして作り出されて人類の滅亡をなるべく遅くしよう、なんとかして存続させようとするある意味「愛に似たもの」をもって人類の最後までよりそう存在として描かれてるですよね。「AIがんばったじゃん!」と褒めている方がいて、ほんとにそうだなと思いました。

まめ閣下:ほほう。

下僕:ああ、そうだ。その方が「ひょっとしてこれは人工知能のための神話なんじゃないかと思った」と言うのを聞いて、あ、そうかも、って思いました。人類が滅びた後に残ったAIたちのための神話。しかしAIたちも人類がいなくなればやがて滅んでいくので、ひょっとすると冒頭の「人間もどき」たちの新しい世界のなかで語られていく神話なのかもしれないって、後になって思いました。「むかしむかし、この世界には人間というものがいて・・・」みたいな。それが表題作以降。

まめ閣下:たしかに、それはおもしろいな。

下僕:それと、物語のなかで人類を救うものとして「突然変異個体」が出てくるわけですが、これも生物学的には、多様性を失った社会は滅びるし、その多様性とは突然変異によってしか生まれないということが言われているらしいです。異なる遺伝子、より遠い遺伝子を取り込むために旅人と生殖するとか、物語で書かれていることもまあそんなに突飛な発想ではなくて、常識なのかな。現実にもそうやって生命を繋いできた種族もいるようですし。

まめ閣下:そりゃ猫だって同じだにゃ。

下僕:あと長いスパンで見れば人類滅亡っていうのはもう必然って話ですね。生物学的にみたら、どんな生物もいずれは絶滅する。しかし日本なんかはもはや子どもが少なくなりすぎて、あと30年くらいで日本人は絶滅するんじゃないかって数になってるらしいですよ。こりゃもうすぐ近くにある未来の話ですよね、ってあれ? 閣下? 閣下?

あー、もういってしまったのかぁ。くすん。また来てくださいねぇ。

 

 

 

 

【イベント】2021年10月17日「かくのごとき物語ありや否や」熱海未来音楽祭@起雲閣

・音楽と文学、芸能によって伝えられる「祈りと物語」とは

・祈りとはなにか。祈りと願いの違い。

・なぜ人は物語を必要とするのか

 

 

まめ閣下:おい、貴君。余になにか報告があるのではないか。

下僕:わっ。閣下、ふいに現れたらびっくりするじゃないですか。かれこれ二週間ぶりですね。

まめ閣下:あのな、何度も言っておるように余はイデアである。時間や空間を超越した存在。いつでもおるといえばおるし、呼ばれたって出てこないときゃあ出てこない。

下僕:なんだ、それじゃ今までと変わりないじゃないですか。猫らしいといえば猫らしい。

まめ閣下:しかし今は完全なるイデアと化したために現に姿をみせておられる時間は短い。さっさと報告せんと霧消してしまうのだよ。

下僕:さすが、ホンモノのイデアになられてから騎士団長ぶりがあがりましたね。いや、報告ねぇ、ちょっと悩ましいんですよ。最近、有料アーカイブでしばらく観れるイベントが増えたもんでね。どのくらい内容に踏み込んだらいいものか、と。アーカイブ終わってからにしたほうがいいかなとか。熱海音楽祭のアーカイブ観られるようになるのってちょっと先なんですよね。

まめ閣下:しかしそれを待っていたら、貴君のニワトリ頭では記憶はすぐに霧消してしまうではないか。それにだね、どうせ貴君の述懐能力ではイベントの魅力をあますところなく伝えるなんてこたぁ最初から無理で、誰も「あー、これ読んだから別にアーカイブとか観なくていいわぁ」なんてこたぁ思わんのじゃないか。むしろだれかひとりでも「ん? こいつなんか言ってるからちょっと実物観てみるかな」って思ってもらえたらいいってくらいに思ったらよかろう。

下僕:はぁ、そうですかね。

まめ閣下:もともとこれって貴君の残念な記憶力をあとで補うためのものだったんじゃね? 自分のためのメモっちゅうか。あんまり大勢の人に読んでもらうつもりもなかろうよ。

下僕:そっすよねー。じゃ、自分の胸や頭に響いたこと、おぼえておきたいって思ったところだけご報告するといたしましょうか。

まめ閣下:うむ。

 

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下僕:第三回熱海未来音楽祭、今年のテーマは「祈りと物語」でした。伊豆山の災害もあったし、必然というような部分もあり、これまでの回よりも明確に焦点が絞られた感じがありました。10月2日にプレイベント、いや宵宮ってのがあって、能楽師の安田登さん、町田康さん、巻上公一さんの鼎談とパフォーマンスが行われてたんです。こちらはアーカイブで観たんですけど、鼎談のなかで祈りと願いは違うというお話がありました。もともと「いのり」とは「い」という接頭語と「のり」の合わさった言葉で「のり」には祝詞という意味も呪いという意味もある。最近では祈りと願いの区別がされなくなっていて、みんな「みなさまのご健康をお祈りします」などという使い方をしているけれど、これは祈りじゃなくて願望である。神社にお参りして「なになにしてください」なんて祈っているのは実は違ってて、それはたんに願い事である。祈りというのは、そういう言語化以前のものであり、手を合わせた瞬間に心にあるものが祈りである、というようなお話をされていたように、えっと例によってはなはだ記憶があやしくてもうしわけありませんが、思うんです。メモとかとってなくて、すんません。

まめ閣下:もっかいアーカイブ観たらどうだ。

下僕:いや、その二回観たんですけどね。もうこっちは終了しちゃって。とにかく素晴らしいお話とパフォーマンスでいっぺんに受け止めるの難しいほどで。で、たしか、祝詞とか真言とか、外国のものでも、言葉自体に意味がないものも多いっていう話になって、ただ声に出すと響くものがある、と。これは能とか音楽にも通じるものであると。

じゃあ、言葉で書かれる物語っていうものは何なのか。つい先日の汝、我が民に非ズの実演の際にも町田さんがおっしゃっていたんですが、「ギケイキ」を書いているとき、まさにそれが祈りだったって。この作品は義経の一人語りという形式で義経に心を沿わせて書いているわけですから、時にともに苦しみ激しい痛みに耐えながらひたすらその声を聞き取り手を動かすこと、それが祈りだと感じたと。その点についてはわたくしめも少しばかりわかるんですよね。誰かのことを書いているときってとにかくずっとその人に寄り添って心の声を聞いてるんです。普段やっているところではない深いところで思い出してる。

この日のイベントでは、町田さんは、佐藤正治さんのパーカッションと北陽一郎さんのトランペットと合わせて義経記を原文で朗読されました(弁慶が牛若丸から刀を奪おうとする場面)。第二部では、琵琶奏者の久保田晶子さんが平家語りを、こちらはやや現代語に寄せてされたんです。巻上さんのテルミンや藤原清登さんのダブルベースと共演する琵琶と語りの声がとにかく素晴らしかった。第三部で久保田さん、町田さん、巻上さんのトークがあったんですけど、このなかで町田さんが、もともとは常磐物語のスピンオフ的なものだった義経記がなぜ人気を集めたのか、平家物語にしても、人々はなぜ物語を聞きたがるのかというと、物語には人々の「こうあってほしい」という願望が根底にあるからではないか、とおっしゃいました。そして町田さんは小説を書くときに、話を作るという感覚はなくて、頭の中に響いてくる「語り」がまずあってそれを現しているのだと言いました。それは人々の魂のなかにあるもので、それを現す音楽であり芸能であり文学ではないか、という話をされました。そして久保田さんに、「平家語りをしているときには源平のどっちに心が寄るものなのか」と訊ねました。この日語られたのが那須与一が扇の的を射る場面だったので。それに対して久保田さんは、もちろん場面、場面で、その中心人物の気持ちに感情移入してしまうところはあるけれど、語るときには(俯瞰でみて)「ああやってるな」という感じでやる、とおっしゃいました。「ああ、人間だな」という感じだと。平家物語は、苦しみや悲しみ、自分ではどうしようもないことに翻弄される姿にみなが共感するから好まれるのでしょう、という話もされてました。それを聞いて、作家の視点みたいだなと思いました。町田さんが言った聞こえてきた声を現すことと、久保田さんが語る姿勢、その両方がないとやはり優れた文学にはなり得ないんじゃないかなぁ、なんてわたくしは感じましたよ。

まめ閣下:にゃるほど。物語は祈りであり願望を映すものでもある、と。

下僕:あ、物語とは何か、というのでね、イベントとは関係ないんですが、たまたまみつけたこのお話が、がつんときたので貼っときます。

第5回 すべての場面に関われる人。 | 特集 編集とは何か。10 「新潮」編集長 矢野優さん | 矢野優 | ほぼ日刊イトイ新聞

このなかの矢野さんの言葉、

大切な人が突然いなくなってしまって、
魂のちぎられるような痛みを
感じている人たちが、
心を壊さないために、
死者が帰って来たという「物語」を、
心の底から求めるんです。」

ってとこで、なんかドバッって涙が出ちゃったんです。

小説という営みでは、
死んだ人を思い出す」ということが
きわめて重要なんですね。
追悼するでも、
パッと思い出すだけでもいいんですよ。
死者のことを書く、
死者について話す、
死者にたいして、思いを馳せる‥‥。
それこそが、
物語の起源じゃないかなと思っていて。」

死者を思い出して書く、話す。
「物語」って、そういうことで、
原始時代から続く人間の営みなんです。」

ね、なんかみごとに共振してますよね。まさにこれって祈りじゃないですか。

まめ閣下:にゃるほど。うん、話はわかった。んで、そろそろ時間がきた。では、失敬。またにゃ~。

下僕:あ~、閣下、行っちゃうんですかぁ。また来てくださいね。

・・・・・・って、ほんとのこと言うと、こんなブログもまた祈りの行為のような気がしてるんですよ、閣下。

 

熱海未来音楽祭についてはこちらを:

第3回熱海未来音楽祭2021

 

 

【読書会】2021年9月11日 「驟雨」「娼婦の部屋」吉行淳之介

・今あえて吉行淳之介を読んでみた

・文学と時代性についての考察

・優れた文学作品は時代を超えるか

 

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下僕:閣下、昨夜の読書会はちゃんとお聞きくださってましたか?

まめ閣下:またあの薄っぺらい板に向かって何やらしゃべっておったのか。まあ聞いてなかったわけではないが、せっかくだからちゃちゃっと要点をまとめて報告したらどうだ。貴君のその残念な記憶力のためにも。

下僕:あのね、その「ちゃちゃっと要点をまとめて」っていう態度、いかんと思いますよ。なんに対しても最短距離で必要な情報を手に入れる、みたいなの、最近の風潮ですがね・・・

まめ閣下:あー、その話長くなるのかね。そこは飛ばして、内容にいこう、内容に。

下僕:はぁ。やっぱあれですかね、猫も年取ると人間と同じようにせっかちになるもんですかね。ま、いいや。はい、昨夜の読書会の課題は吉行淳之介の「驟雨」と「娼婦の部屋」の二作でありました。また、サブテキストとしてエッセイ集もあげられておりました。

 

まめ閣下:また古いところからもってきたな。

下僕:そんなに古くもないですよ。亡くなられたのが1994年ですから。わたくしくらいの世代なら誰でも知っている有名作家で。わたくしは、がんがんにませてイキがってた中学時代に結構読みましたね。

まめ閣下:貴君の中学時代って、恐竜とかいたころのことかい?

下僕:もう、そういうお決まりの冗談やめましょうよ。恐竜はいなかったけど、そうだなー、電話はダイヤル回してた時代です。そのころやたらと安岡章太郎とか山口瞳とか遠藤周作とか読みあさってたんですよね。「第三の新人」とか呼ばれていた人たち。なんか酒と煙草の匂いがするような、大人の不良っぽさみたいなのに憧れてたんですかね。といっても小説はやはりちょっと中学生には難しくて、好んで読んだのは主にエッセイでしたが。

まめ閣下:はは、だめではないか。

下僕:で、でも「驟雨」とか「夕暮れまで」とかは読みましたよ。中身はすーっかり忘れておりましたけどね。

まめ閣下:ほらほら、その残念な記憶力。

下僕:ですので、もう何十年ぶりかで読み返したわけです。まるで初読のごときまっさらな、新鮮な気持ちで。

まめ閣下:お得なやつよの。

下僕:文章のうまさ、描写の巧みさ、感性のみずみずしさというのはやはりさすがでみなさんもあらためて感心されていたようです。「水のような文章を書きたい」とエッセイにご本人が書かれていたのですが、まさに無色透明ではあるけれど味があるそういう文体ではないかとわたくしも思いました。あと読書会の大いなる喜びとして自分が知らないことを教えてもらえるというのがありますが、昨日は「驟雨」と「いきの構造」(九鬼周造著)との重なり具合を指摘されていた方がいて、吉行さんはこの本をかなり読み込んで「驟雨」を書いたんではないか、という意見に大いに興奮いたしました。

まめ閣下:で、貴君はその「いきの構造」ってやつを読んでおるのか?

下僕:あ、いや、それは未読でして・・・

まめ閣下:それでなんで驚いてるのだ、もう愚じゃな。

下僕:はい、すんません。でも他の著書からも吉行さんが「粋」ということにこだわっていたのは読み取れるよね、という話になりました。生粋の東京人というわけでもないから、屈折した憧れのようなものとして強くこだわりがあったのかも。などなどみなさん、それぞれの読み方で作品を楽しまれていたようです。ただ、わたくしはちょっと苦しく思うところも正直ありました。大いに考えさせられる、というか。

まめ閣下:ふむ。言ってみろ。

下僕:はい。少し前に「プリティウーマン」という映画を再見したときに「あ、これはキツい」と感じたのとおんなじ感じを受けたんですよね。初見のときはおとぎ話として面白く観てたのに。つまりあれですよ、今問題の「マチズモ(男性優位主義)」。小説のほうはあちこちでちょっとひっかかるなってくらいなんですが、エッセイのほうはかなり厳しい。創作や戦争について書かれたところは、ああさすが、なるほどと思うことも多く、いくつか線を入れたりしたんですけど、男女観の話になると、これ今の時代だったら大炎上してるよね、って感じで。時代が違うという方もいるでしょうが、今でもこういう人いっぱいいますよね。とくに政治界隈には。辞任に追い込まれたオリンピック関連のお偉いさんとか、失言繰り返してる政治家とか。たぶんああいう人って、そういう価値観が体に染みついてるっていうかそれが当然と思って生きてきてるから周りから批判を受けてびっくりして「叱られた」と思っちゃう。何がいけないのかちっともわからないけど、なんかうるさいから謝っとけ、みたいなことになってますね。吉行さんもエッセイを読むと徹底してこれが感じられます。「社会は男が支配するもの。女は添え物であり男を都合良く支えるものであるべき」という価値観。だから娼婦という「商売女」には性を「妻」という「素人」には家事労働や育児を担って男の社会的立場を支えることを求めて当然と考えている。そういうところが今読むと「キツい」って感じてしまうわけです。

まめ閣下:じゃあ、貴君は作品に対しても否定的な意見なのかい?

下僕:それがそうとも言い切れないんですよね。作品が書かれた時代と切り離して考えることはできないよなって思うんです。どちらの作品も、今よりももっとマチズモが強烈であたりまえだった時代に、女性のなかでさらに最も蔑まれる存在としての娼婦に対して純粋な恋愛感情に似たものを抱き、恋愛感情の苦しみと社会通念的自己との狭間で苦悩する姿を書いていて、これは非常に文学的ではないか、と思うんです。小説というのは決してポリティカルコレクトネスを謳う手段ではないし、その時代を生きる人間の苦悩を書いているのだから。

まめ閣下:にゃるほど。「驟雨」は芥川賞もとってる。

下僕:しかし小説はやっぱり時代性と切り離せないのかな、とも思います。これらの作品はあの時代の背景をわかってこそ価値がわかるというか。たとえばこのような視点で書かれた小説が今、文学賞の候補になるだろうか。なったとしても、かなりポリコレ的に叩かれるだろうって気がします。文学の話とポリコレは相性が悪いって言うか、あんまりそういう切り口で批評しない方がいいんじゃないかってわたくしは思ってるんですけどね。でも実際に今読むとキツいとも感じてしまうわけで。

中学生のわたくしは「不良っぽさ」がいいと思って吉行さんの作品を読んでいたんですが、今読み取れるのは失言を繰り返す政治家と同じ価値観で、あれれってなっちゃったんですよね。不良ってなにかなって考えたときに、反体制というか、権威に対して反発するという姿勢だろって思って。それが今は権威の側の人たちと同じように見えてしまうのはなんでだろうって考えました。ひょっとすると体制・権威というもの自体が、あの時代とはまったく変わってしまったのかななんてことも思いました。

まめ閣下:愚は愚なりに、なかなか難しいことを考えておるではないか。

下僕:はぁ、さいですな。あとちょっと昔の作家の書いたものでも、女性作家のものはこういう「今読むとキツい」って感じはあんまり受けたことがないなってのも思いました。それはもともと女性というのが蔑まれる存在であってそこで書いているということからくるのかな。優位な立場に生まれた人たちはそれがあたりまえでそのことに疑いとか持ったことないでしょう。あたりまえと見なしていることを疑ってかかることが作家の基本であると、いろんな方がいってますよね。

まめ閣下:あー、ひとつ大事なことを言ってもいいかにゃ。

下僕:はい?

まめ閣下:この世の平和のためにはマチズモではなくキャティズモである。

下僕:キャティズモ? ってなんですか?

まめ閣下:キャット、つまり猫優位主義である。

下僕:はいはい、もうそれは十分実践されておりますよ、我が家では。

 

 

【講座】2021年8月28日 町田康の「文学の読み方」~中原中也「山羊の歌」を読む@池袋コミュニティ・カレッジ

・若き天才詩人にも「幾時代かがありまして」。

・「神を見た男」としてメチャイケな時代もあったのに。失ってから知る悔しさよ。

・詩というのは、ただかっこいい言葉だけを連ねたものではない。あきらめずに何度も読んで、言葉の背後にある大きなものをつかみとるべし。

 

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下僕:閣下、閣下、ねぇ、酸素カップ抱えて寝てないで起きてくださいよ。

まめ閣下:ふわぁあああ、にゃ、にゃんだい。予がせっかく高濃度酸素キメていい気分でおるというのに。

下僕:だって久しぶりに対面の催事に行って参りましたので、ご報告をと。

まめ閣下:ん? そういえばこの前は6月の上旬だったかな。ま、疫病がますます蔓延しておるようだからしかたあるまい。で、今日は何の話だったんだい? またどうせ「康さん詣で」であろう。

下僕:さすが、わかってらっしゃいますな。それにようやく「こうさん病」じゃなくて「詣で」とおっしゃってくださいましたね。はい、本日のお話はこちらでございますよ。

 

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まめ閣下:ふむ、中原中也か。

下僕:あ、ご存じでいらっしゃいましたか。

まめ閣下:あたりまえだ。「汚れつちまった悲しみは」ってやつだろ。

下僕:ぶ、ぶー。「悲しみに」でございますよ。

まめ閣下:ん? 「汚れつちまった悲しみは たとへば猫の玉袋、小雪のかかってちぢこまる」ってんじゃなかったか?

下僕:はぁ? そんなん言ってたら熱烈な中也ファンにしばき倒されますよ、もう。

まめ閣下:わかった、わかった。これも貴君の中身の薄い話を少しでも膨らませてやろうという親心ではないか。

下僕:そういうの、いりませんから。

まめ閣下:いやしかし。だいたい貴君に詩がわかるのかい? って、前にもそんな話したような気がするが。

下僕:はいはい、こちらですね。たしかに年を取るにつれて詩が難しく感じるようになったかもしれませんね。なんというか、つい文脈を求めるというか、ロジックでとらえようとするというか。今日はちょっとそういう話もありましたよ。

まめ閣下:そうか、じゃあ話を聞かせて貰おうか。手短にな。

下僕:はい、はい。最初の部分は中也の生い立ちをかいつまんで解説。家族の血の繋がりとか宗教的な違いとか複雑さを抱えていたようで。中学も地元の山口中学に入ったものの、おそらく成績不振のために、途中で京都の立命館中学編入。そのころから短歌に凝り始めたらしく、初期の詩にも短歌の影響があったようです。その後、人生におけるいくつかの大きな出来事が起こります。ひとつは高橋新吉の「ダダイスト新吉の詩」との出会い。これによって中也はダダイズムの詩に目覚めたとして、初期の「名詞の扱いに」という詩を町田さんが朗読。その冒頭に「ロジックを忘れた象徴さ 俺の詩は」というのがありまして。中也はやたらそういうことを言っていたらしい。要は名前や「愛してる」「悲しい」など言語化された感情は白こい演劇みたいだからやめろっていう話みたいです。言葉によって規定されてしまっている世界。詩はそこから離れたところにあるべき、という。それを聞いて、なるほど、と思ったんですよね。今わたくしがどんどん詩がわからなくなってるのは、ひょっとしてロジックのせいかと。

まめ閣下:ふんふん、貴君がさほどロジカルとも思えんがね。で、ほかの大きな出来事ってのは。

下僕:ひとつは長谷川泰子と出会いですね。二人は同棲するんですがその後、友人の小林秀雄に取られてしまう。もともと女性のほうが熱を上げていたのか中也のほうはかなりぞんざいに扱っていたようなですが、いざ去って行かれたら急に惜しくなってしまった。悔しい、という感情に初めて突き動かされたそうです。それ以前の中也は若くして才能に溢れ、自信に満ちあふれていた。「オレって神だよね」とまでは言わないまでも「オレは神を見た男だ」「すべての物事を把握している」「オレにとってみればこの世はすべて必然」などと嘯いてブイブイ言わせていたわけです。ところが友人に女を取られて突然その「自己統一」が失われてしまった。そのとき感じた悔しさは「まるで赤ん坊の疳の虫のようなもの」だったと書いているそうです。

まめ閣下:突然やってきた世界の変容、パラダイムシフトみたいなもんだな。

下僕:はあ、で、まあそういう彼の魂の変遷を頭に入れて詩を読んでいきましょう、ということで、詩集「山羊の歌」から、まずは「春の日の夕暮れ」を朗読して、さらに内容を深く読み込んでいきました。詩の解釈は人それぞれでいいので、町田さんの読みということでしたが、たとえば「案山子」「馬嘶く」「伽藍」という語の解釈などつめていくと、急に詩の世界が明確に見えてきました。最初の段落は外的世界の描写、次の段落は少し内面が入ってきている、ひとつ置いて、最後の段落はなんとこれまで外側の自然だったはずの春の日の夕暮れが「主体」つまり「自分」に重ねられ、最終的には「自分はこれから詩を書いていくよ」という宣言になっている、というのですね。三つ目の段落は自分に対する自然からの批判ともとれるけれどあえて愚を口にする行為への励ましともとれる、と解釈されていました。あと、「トタンがセンベイ食べて」「灰が蒼ざめて」というような「~て」というのは短歌的表現だと言われて、へぇ、そうか、と。

 もうひとつ「サーカス」という詩もやりました。「幾時代かがありまして」で始まり同じフレーズが繰り返される辺りは、やはり出し物的口上の調子を出している。自分の人生のいろいろな時代を思い出し、つらい時代もあった、と言っている。それが「今夜此処での一と殷盛り(ひとさかり)」の繰り返しの部分は、今夜限り、つかの間の回復をしようじゃないか、ということ。その後はサーカスの様子をそのまま描写しているわけですが、ぶらんこのゆったり動く感じを「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」と表現することで倦怠感が出ている。それからサーカスを楽しむ観衆の様子が描かれ、最後には外の暗闇と「落下傘奴のノスタルヂア」という言葉が出てくる。外の暗闇というのは「今は戦争がない世の中である」ことを表していて、「落下傘」という本来は戦争において屋外で使われるものが今サーカスのテントのなかにあるということのやるせなさであろう。本当であれば「神を見た男」は芸人になって俗人を楽しませたりはしないものであるが、それを見て喜んでいるあるいは癒やされている人がいるのも事実である。そういうの、根源的にはオレのやりたいことではないけれど、そういうこともやるんだよね、という宣言ともとれるのでは、というお話で、深く感じ入りました。

まめ閣下:なるほどー。他にはどんな詩を読んだんだ?

下僕:いや、それが。資料にはあと5篇あったんですけど、例によって時間切れ~、でございました。

まめ閣下:そうだ、詩の読み方ってのは?

下僕:ああ、そうでした。とにかくあきらめずに何度でも読めってことですかね。詩というのは、ただかっこいい言葉だけを連ねたものではない。あきらめずに何度も読んで、言葉の背後にある大きなものをつかみとるべしって話だったと思います。とにかく町田さんのお話はやたらめったら面白く、あははげらげらさせられながらも、非常に深く鋭い切り込みが随所にあるので、一時間半などあっという間でありました。本日は、延長なしで。

まめ閣下:そうか。じゃ、貴君の話も、延長なしで。

下僕:〽ちょうど時間となりました~